We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2019年10月

前投稿で書き切れなかったことを続けて追記。

岡田斗司夫氏は言う。
「笑いの本質は〝いじめ〟にある・・・」
「いじめる側が笑い、いじめられる側が(強制的に)笑わされる」

彼の指摘にはハッとした。
なるほど、ドリフのいかりや長介は「意地悪な上司」役が多いし、
そのシゴキをどうボケてかわすかがドリフの笑いそのものだ。

タモリやたけしも、ブラックなアイロニーの毒があってこその笑いだ。

確かに笑いの中核には嗜虐的な「毒」がある。
この毒の分量を間違えると、笑いは一転、人々の怒りを買うことがある。

でも
必ずしも〝いじめ〟が笑いの本質なのだいう言い方に素直に全面同意は出来ない。

OSHOは、サニヤシンからひとつの質問を受けた。
「あなたがエンライトメントした時、最初にしたことは何ですか?」

OSHOはこう答えている・・・「笑ったよ!」



なぜ?笑ったのか?その笑いはどこから来たのか?

・・・それは、絶対に失い様がない永遠の真実を、
   自分が必死に探していたが故に見つけられなかったことだ。

そのコメディー劇は、
「自分自身への〝いじめ〟だった」という言い方も出来るかも知れない。

しかし、
「ジョーカー」の物語はシリアスすぎる。
そしてシリアスのまま終わる。

チャンドラ・モハン(OSHOの幼名)は
決して自分自身を〝いじめ〟る目的で探求していた訳では無い。
彼は人一倍真剣で徹底していただろう。
その探求心の背後は「自己虐待」ではなく「自分自身への愛」だったはずだ。

それゆえの「大いなる遠回り」は、
必ずしも「遠回り」なのではなく、
やはり「最短コース」だったのでは無いだろうか?

でも同時に「決して自分自身を急かさない」という大事な要素も見える。
「エンライトメント」というゴールに一直線に猛ダッシュすることが、
必ずしも「最短、最速コース」なのではない。

ここにはイソップ童話の「ウサギとカメの競争」のような逆説が効いている。
つまり「急がば回れ」だ。

笑いには常に「逆説」的な要素、「意外性」が含まれている。
それが私たちをちょこちょこっ、とくすぐる。

一方向に対しての強いプレッシャー。
それが弾けて逆噴射した時、笑いが飛び出すのだ。

この「圧力」と「爆発」とが笑いという現象の要素なのじゃないだろうか?
〝いじめ〟というのは様々な「圧力」のなかの1種類に過ぎない。

でもいずれにしてもとても深刻な「闇」の要素が眩い「光」へと転じた時、
それこそが笑いの本質なのだとおもう。

   その時、私たちは清々しい。

    鬱々とした「闇」が「光」へと転じた時・・・

     そしてそれこそが「JOKER」→「浄化(じょうか)」となる。



わたしは岡田斗司夫の「ジョーカー評論」を見終わって、
安倍晋三とジョーカーとがだんだん重なってきた・・・





それは「母性への復讐」だ。

戦後教育が「父性の不在」な社会を作り上げてきたと言われて久しい。
それはカルト宗教による日本社会の乗っ取りと
日本社会の完全な破壊への衝動になっている様に思える。

現代の日本会議や統一教会だけでは無く、
幸福の科学やオウムも「人工的な父性原理」である。
それは故・野坂昭如氏も幸福の科学批判の際に指摘していた。

それらカルトの背後は皆、韓国、北朝鮮だ。
「母子関係の癒着による甘えの構造」が、
失われた「父性~自らの本音を貫く男性原理」を過度に刺激しているのだ。

これは日韓の関係だけにとどまらず、世界的な傾向だ。
「母性に骨抜きにされた冬彦さん」は、
世界を破滅させなければ復讐を遂げたとは言えない。

その代表選手が、「内閣総理大臣:安倍晋三」というマザコン男だ。

この母性原理と父性原理との極端な応酬合戦が、
デジタル情報技術による人々の画一化と分断化のファシズムを形成している
それはいま、全人類の削減計画へと向かっている。

「自分らしさ」を虐待された人間は自殺に向かうか?あるいは復讐に向かう。
(ある意味では自殺というのも復讐の一部なのだが・・・)

「自分らしく」生きられなくなったなら、
人はどうして生きている価値を見つけられるだろうか?
    ・・・・・それはまさしく、最大の生き地獄だ。

・・・そういう人間達は社会の破壊、全人類、全世界の破滅を希う。

そしてそれと同時に、自然現象も、そのような「破滅を願う人々」の
想いに叶った方向に動きやすくなる。

「自分らしさ」とは「内面的な自然」と同義語だからこそ、
それは外界の自然現象や社会現象ともシンクロしてくるのだ。

そういう意味でまさしく「ジョーカー」=安倍晋三政治とは、
この時代を正確に体現しているのだと想う。

本気で国民を殺しに来ている 〜 市民を守る義務を放棄する行政、
そして今この状況で社会保障費の削減を検討する安倍政権




ありきたりのものならば分かち合える、・・・誰とでも
でも本質的なことであればある程、それは誰とも共有し難い。

全く、誰とも共有し得ぬもの、それが私自身だ。
全く、何一つ妥協し得ぬ時、はじめてそれは私のエッセンスだと言える。
逆に言えば、誰とでも共有しやすければし易い程、
それは自分の本質から離れてしまっているのだろう。

もっとも分かち合う相手が誰も居ない時、
ゆいいつ分かち合う価値が、いまここにある。

     なんという皮肉なのか? なんというパラドックスなのか?。


「私たちは〝未来のカタストロフ〟を警告する為に
人々の脳に直接『破滅のビジョン』を送り込んだ・・・」

「そしたら人々はそれをエクレアみたいに夢中で貪り食ったのだ」



映画「トゥモローランド」より

これはまるで、ヨハネの黙示録のSFバージョンに見える。

意思のない物体は勝手に放物線軌道を脱線することはない。
弾道計算のとおり弾丸は命中するだろう。
しかし自由意思を持った生命体はエントロピーの軌道が命じるままには動かない。

でも巨大な物理現象は自由意思によって、
その軌道を必ずしも自由自在に変更出来るものではない。
たとえば巨大な隕石の落下によって地球が破滅すると分かっていても、
人間の意思や科学技術が必ずしもそのカタストロフを止められるとは限らない。

意思ではなく意識の自由性は、
「人の意思や巨大な隕石落下などの対象を変える」という男性原理的自由ではなく、
カタストロフによってでさえ失うものは無い」という永遠性の自由なのだ。

「どうするか?」
「どうしたらいいのか?」ではなく
「どのように捉えるか?」
「どの様に見なすか?、意識するか?」に本質的なレボリューションがある。

なぜなら起きていることを「どの様に意識するか?」次第によって、
はじめて「どうするべきか?」が決定できるからだ。

私たちは常に過去の蓄積から情緒的な反応をしがちだ。
それが「いまここ」にある自由を見失う原因だ。



ビジョンとは常に瞬間的に飛び込んでくるものだけれど、
それが永遠に過去と未来を変更してしまう、・・・良かれ悪しかれ。

リモートヴューイング的なものが常に絶対的な真理なのだとは思わない。
私たちがインスピレーションだと思い込んだものの99%は「ノイズ」だからだ。

「真理とは永遠のものであるはずだし、そうでなければ真理ではない」
というヤバイ思い込みはかなり多くの人の共通した観念ではないだろうか?

だからこそ私たちは結婚式では(真理の別名としての)「永遠の愛」を誓う。
しかし、その誓いを終えた次の瞬間から、刻一刻と夫婦の意識は変化し続ける。

過去は変わらない、
だから過去に書かれた「聖書」もまた変わらない。
変わり続けていくのは、「わたし」や「あなた」だ。
だから「愛」もまた刻々と変化し、成長したり死んだりしていく。

その時「真理とは永遠不変のもの」という思い込みが私たちにある時、
間違っているのは
過去に書かれた聖書ではなく、わたしたちの「聖なる誓い」でもなく、
その過去の誓いに従えなくなってしまった、
現在の「わたし」や「あなた」だと言うことになってしまう。
「間違い」は、「罪」は、私やあなたなのだと言うことになってしまう。

「真理とは永遠不変のものに違いない・・・」
その大前提があってこそ教典が生まれ、宗教が生まれ、信念が生じる。

その時、基本的に世界は破滅に向かう様に進路を取る。
なぜならば、人間の思考が信じ込みやすいのは基本的に
ポジティブなものよりもネガティブなものだからだ。

私たちは終末論、破滅のヴィジョンをエクレアの様に貪り食う。
それはそのように私たちの脳が設計されているからだ。
「危機、危険に備えよ」という生存プログラムゆえだ。

この世のカタチアルモノ全てが有限だが、また同時に無限でもある。

すべては「生じ、滅する」のであるが、
同時に「生じず、滅することもない」のだ。

しかし、わたしたちの文明は
その自然な復元力の限度を超えて消費し、
その自然な寿命を遙かに加速させて破壊してしまう。

未来のカタストロフへの不安、
陰謀論による邪悪な意図への恐怖や無力感それ自体が
私たちの生存プログラムの暴走を許している。
それが、悲劇であり、喜劇でもある。

この発端は
「真理とは永遠不変(普遍)のものである(はずだ)」という期待から始まっている。
この〝期待〟それ自体が永遠不変の神や、法則や、愛、への盲信となった。



何かに対する〝期待〟がなく、果たして宗教が発生するだろうか?
日曜日に礼拝に行くだろうか?神社仏閣に参拝に行くだろうか?

マドモアゼル愛さんが言う様に、
「種をまくのは常に〝いまここ〟だけ」なのだ。
「永遠」とは、原因ではなくその種まきの結果に過ぎない。

私たちの日常の、瞬間瞬間の選択は永遠に取り返しが付かない。
わたしたちは僅か一秒すら前には戻れないという意味で
すでに「永遠の瞬間」の中を生きている。
でもそんな「巨大な運命の責任」をすでに負っていることを意識するよりも
「カタストロフへの甘美な期待」に身を委ねている方が遙かに気が楽なのだ。

それが
人々の覚醒が近づき、至福の千年が近づいているのだというイメージと
ハルマゲドン、環境破壊、決定的なカタストロフが近づいているという、
ちぐはぐなイメージが混在した現代の世相に投影されている。



どれ程・・・、
どれ程、ちっぽけな権力でも、
爪の垢ほどの権力でも全人格、全人生を奪うほどの中毒性がある。
何故そう言えるのかと言えば、私自身が自らの強いコンプレックス故に
なんどもこの愚かさにハマってしまったからだ・・・

だから
爪の垢ほどのコンプレックス、自己否定感が残っていれば
ハナクソほどの権力や権威にでも飲み込まれるものなのだ。

エデンの園の番人であった神でさえ、
アダムとイブに対して無慈悲な暴君だったのだから・・・

だからあらゆる権力闘争に救いはない。

確かに一時的に、表面的には不公平だったり不平等な状況が
改善されたように見えることはあるだろう。

しかし、この世の中には、
「絶対的な善」も「絶対的な正義」も「絶対的な善人」もいない。

特定のTPOにおいて、「より良い」と思えるものがあるだけだ。
もし、「絶対的な善」や「絶対的な正義」が人々に意識されたなら
それこそが宗教となって腐敗し始め、「邪悪」へと変わってしまうだろう。

わたしたち人間とは骨の髄までそういう救済に憧れる生き物なのだ。
そうして醜悪で残酷な「(神の)正義の名の下での闘い」に明け暮れてきた。

「悪VS悪」「利害VS利害」は有り得ても、
「絶対善VS絶対悪」という戦いなど存在しないのだ。



わたしたち人間は「絶対正義VS悪」の闘いに強く憧れてきた。
それはこの巨大な世界の中で、
だれもが自分のちっぽけさ、心細さを感じているからだ。

だからこそ他人を少しでもコントロールできる権力や権威が得られると、
それはあたかも小型のブラックホールであるかのように、
わたしたちは瞬間に飲み込まれてしまうのだ。

単に「権力闘争の先に、救いはない。」というなら、
同意してくれる人も多いかも知れない。

しかし、〝あらゆる〟権力闘争と言った場合、
多くの人は当惑するだろう。
なぜなら、この〝あらゆる〟と言う意味は、
現在の標準的な民主主義的な政治運動も含まれるからだ。

わたしたちにはまだ、
「良い政治家」「正しい立候補者」が「いる!」という期待が若干残っている。
その選択さえ間違わなければ、「世の中は良くなる」と言う期待が・・・

 ・・・その様な期待が「無意味だ」とはどうしても思えない。

しかし今の日本の投票率の低さと、安倍晋三、ムサシによる不正選挙疑惑は、
もはやそんな期待さえ、もう殆ど皆無に近いことを示唆しているように見える。

ところが、この「皆無にかぎりなく近い期待」を完全に失ったとしても、
「その先に何がある?」というのだろうか、
「じゃあどうしたらいい?」というのか・・・

だから私たちは、「完全な政治に対する絶望」をかろうじて回避してきた。
「目を背けてきた」と言うべきかも知れない。

でもあえて私は、
「私たちの完全な絶望にこそ希望が見えてくるのではないか?」
という恐ろしい提案をしたい。

政治も、インターネットでのコミュニティーや多数派の意見にも、
「改善への提案」は満ち溢れていても、その先には救いはない。
なぜなら、
そこには「他者への期待」はあっても「独立個人がいない」からだ。

ひとりの個人が生まれ立つ為には、
「改善への完全な絶望」「他人や社会集団、社会組織への完全な絶望」という、
「泥の池」が必要なのだ。

蓮の華のように深く大地に根差した個人の誕生だけが、新しい希望になる。
その様な人は、正義や善やモラル、制度の改善や権力、権威を破壊する訳ではない。
ただ単にその虚構性、相対性を見抜いている。

そのような洞察力を持った人が、ひとりでも誕生した時、
世界はその分だけ〝確実に〟変化するのだと思う。

占星術においての天体、月は、「エゴの投影」を意味する。
誰でも自分自身に欠落しているものを得てして自動的に他者に求めるもので、
その欠落感の投影:プロジェクションが乱反射した時、
それが集団幻想、集団同意を形成し、権力ピラミッドのヒエラルキーを形成する。

ところがそこにもし、
「他者に何も投影しない人」が現れた時、
その周囲の人々は、
「他者に投影したり、同意や理解を期待すること」の
     自らの幼児性に直面させられることになる。

    それでもなおかつ、人々が「政治的であり続ける」事が可能だろうか?




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