We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2019年05月



政治とは基本的に欠乏や不平等、不公平(比較)、への是正などを動機に、
多数決の原理で動く。

芸術性はそれとは全く別の動機で動く。
欠乏では無く充足、満足感、至福感を原動力にして動く。

一般的に考えればハングリーな、状況が切迫した方が必死なので強い。
至福感で満ち足りたものが、
どうして何かと対立して、そして相手を組み伏せることなど出来るだろうか?
愛を原動力とした者が、何かを圧倒して、勝つことなど出来るだろうか?
そもそも〝誰かに勝つ〟という動機を持つのだろうか?

瞑想的な視点はA地点とB地点との比較を超えた垂直の視点を意味する。
それはピラミッドの上の「ものみの目」だ。

宗教や哲学の分野では、
「精神の高度化」といった場合、それでもなおそれは三次元的な発想では無く
まだまだ平面的な自動車レースのような視点だった。

そこに「鳥のような垂直的な飛躍」はなかった。
わずかに土着のシャーマニズムなどに細々とあったに過ぎない。

だから努力や根性やヒエラルキーといったマインドの発想を脱しなかったのだ。

「勝つ」「相手を圧倒する」という発想そのものからの脱出の中に
「圧倒的な何か」があったのだ。

水平的動機が終わったところに垂直的動機が起きる。
欠乏感からでは無く、祝祭から・・・






私達が暮らす「他人が存在する」「人と分離した」日常の世界とは、
何一つとして確信を持つことが許されない世界だ。

自分とは違う、けったいな顔、面白い連中が並んでいる・・・
99.9%の確信としては「俺はあいつ等とは・・・」違う!
しかし僅かに0.1%の部分で「ひょっとしたら同じなのではないか?」
っと感じもしている。

「違い」にこそ実在感がある。
「他人は自分の鏡である」とも言う。
でもそれは「他人は自分のコピーである」というのとは全面的に違う。

自分が右を向いたら地球上の全ての人も右を向く、
自分が左を向くと同時に全ての人も一斉に左を向くとしたら?
          ・・・シミラリティーとはまさしく地獄だ

その気味の悪い状況で、
自分はただ冷たい合わせ鏡のミラールームに迷い込んだだけなのだと思うだろう。
それは「他人は自分の鏡である」のとは違う。
それは「全く他人が存在しない世界だ」とあなたはすぐに気が付くだろう。
だからあなたはたとえ飢えや渇きやその他の不自由が無かったとしても、
気の狂わんばかりの孤独を感じるだろう。

だから、〝少なくとも見かけ上は〟
他人が分離して見える多様性に満ちたこの物質世界に生まれてきた。
私達は皆、
誰かのコピーになる為に生まれてきたのでも無ければ
誰かの所有物になる為、誰かに従属する為に生まれてきたのでも無い。

そして誰かに自分の真似をさせることを強要させる為に
あなたの生き方セミナーを開催する為に生まれてきたのでも無い。
あなたが号令を発すれば、あなたの全ての国民、あるいは全ての信者が
一斉に一糸乱れずあなたの思い通りに振る舞う・・・・

   ・・・それはある意味、確かに理想的な王国だが、
      そんな世界の実現のために、地上に降りてきた者などいない。

わたしたちは「冷たい鏡の世界」がウンザリで逃げ出してきたはずなのに
この世界で、またしても
便利なだけの単一性が支配する世界を建設しようと躍起になっている。

自他の分離していない「無限の」世界は居心地が良くは無かった。
ところが自他の分離したこの「有限の分離と多様性に満ちた世界」も、
またやはり、居心地が良くは無かったのだ・・・・。

じゃあこの「無限世界」も「有限世界」も〝居心地良くは無い〟ならば、
一体わたしたちはどこにいけば〝居心地良い〟というのだろうか!!!

つまるところ、どちらの世界も本当は「自分自身の鏡」として
世界を自分の投影先として利用していたことが、世界を地獄にしていたのだ。
実は「無限世界」なのか?「有限世界」なのか?っといった選択が重要では無かった。

何度死のうが、何度生まれ直そうが、だから同じ事の繰り返しだったのだ。
「自分で作った」終わりの無い映画を見続けてきたことが無間地獄だったのだ。

わたしたちは「一体あと、何が自分の人生に足りないのだろう?」と
映画をずっと作り続けてきた、物語を紡ぎ続けてきた。・・・飽きること無く。

だから、この欠乏と競争の再生産に「飽きた」時に・・・
             再生産を「やめた」時に・・・

わたしたちは初めてこのエンドレスの映画を終わらせることが出来る。

「天とはどこのことか?」と尋ねるなら、誰もが一般的には頭の上を指さすだろう。

天とはハイヤーセルフの別称だともいえる。
そしてその天の意志を地上に降ろそうとするならば、
高々と上げた頭上を指さす腕を
そのまま90度回転させて地平線や水平線を指させばいい。

そこには私たちの見慣れた日常がある。
この90度の回転が「ピポット」だ。
これは「チャネリングだ」ともいえるかもしれない。

ではハイヤーセルフの意志とは何か?

本来、頭上の一点を指さしてもそこには何もない。
しかし無限のかなたの一点には、
今私たちが住む世界とは別の宇宙が丸々すっぽり在るだろう。

その「アナザーワールド」をイマジネーションしていけば
奥行だけしかない無限のかなたの一点が膨らんで見えてくる。
そしてその「ふくらみ」を90度ピポットさせて地上に投影すれば、
私たちの日常とぴったり重なるのだろう。

本来は私たちにはハイヤーセルフからの具体的な指令だの使命だの
命令だの理想や目的などないのかもしれない。
だって天頂の無限のかなたの一点が私たちに何を期待するというのだ?

しかし私たちはそれではツマラナイ
何か使命が欲しい。何か目的が、生きがいが欲しい。

だから天を仰ぎ、無限のかなたの天空をピポットして星座を展開する。
そして空には星座が広がり、占星術が発生する。

天のごとく地にも物語が展開する。
でもそれは本当はハイヤーセルフという分離意識が生み出した
あなたの欲望のファンタジーなのだ。

自己実現法則とか潜在意識の活用というのも
「上手なピポットのやり方」のことだと言い換えられるかもしれない。

しかし真相は・・・、
だれもあなたに求めてはいない、期待してはいない。
本当は、あなたはこの宇宙でただひとりだけだ。他には誰もいない。
スタートレックに出てくるホログラフの様に、
やじ馬たちはあなたの前に現れているだけだ。

たしかに多くの人があなたに期待したり称賛したり、
あるいはそれらの期待通りではないあなたを非難したりするだろう。
しかし彼ら、彼女らもまた、
みな「ハイヤーセルフ、あるいは神からの命令」という責任転嫁をのドラマを
あなたに擦り付けているからに過ぎない。
それらの期待に応えるか答えないかはあなた次第であって、
あなた自身と相手との「需要と供給」が一致するかしないかだけの問題だ。
そこに無理やり絶対性を見出すことに地上の人々の不幸がある。

あなたはどこかに行かなければいけない使命も義務もないし、
他人の期待に応えられなかったことに罪悪感を抱く必要もない。




人の欲望だけが「距離と到達時間」を問題視する。

もしそうでないならば
そこで「ピポット」という転換作業、
あらゆる投影現象は止まる。

もう一度最初の質問に戻ろう。
「天とはどこか?」

その問いに答えて頭上を指さす理由は、
私たちが地球の重力を基準にしているところにある。

でも実際には大地とは絶対的な基準ではなく、
地動説が教えている様に目まぐるしく回転している。

しかし実際には、
天が動いているのでもない。
地が動いているのでもない。
私たちの欲望が動いているのだ。
そして無意識のピポットによって「天のごとく地を動かしている」張本人は
神でもハイヤーセルフでもなく、ほかでもない「いまここ」の私たちだ。

そういう意味でピポットに対して意識的である時、
私たちはすでに無意識に多くのものを「引き寄せている」ことに気が付く。

わたしたちは「天とはどこか?」と尋ねられても、
もはや無限の天頂について考えないだろう。
それはもはや「ピポットする必要がない」ということでもある。

天とは本当は「いまここ」のことであり、「いまここ」にある。
あなたの頭上の一点が「天」なのではなく、
全球が「天」であり、もはや指さすことなど不可能であることを私たちは自覚する。

ならばなぜピポットする必要があるだろうか?
いったいどうしてピポット(革命、投影)が可能であろか?

・・・その自覚そのものが、
    有限的アイデンティティーが無限へとシフトする
             存在のピポット~革命である。

その時私たちは全世界に対して責任を持つ。
「全面的な責任を持つ」とは、
「何かをする」ことではなく
「何かを世話する」ことでもない。
全面的な責任の自覚とは
「何もしない~無為」が目覚めることだ。

それは「天と地との混同」を切り裂くことでもある。
わたしたちは孤独感や分離間に対してなぜ強い確信を抱くのかと言えば
性欲や支配欲、他人との比較という世事と
実存的な問題とを混同~ピポットしているからだ。

それが自己否定と自己肯定(承認)欲求との自己分裂に
私たちを突き落としてしまう。

肉体的には私たちはあらゆるものとの相互依存の中で生きているが、
天命においてこの世に存在するということは「孤高」ということでもある。
このパラドックスの中で私たちは混同=ピポットし、混乱する。
それが「孤独感」という心理現象だ。



愛は比較できないし、独占も出来ない。
そして平等化も出来ない。

「愛は比較できない」といって同意してくれる人は多いだろうが
でもその結果として「だから愛とは平等や公平である」と言う
反対方向に走ってしまう例も多いと思う。

平等というのは比較や競争の対立概念だが、同じコインの裏表だ。

聖書に「迷った子羊をこそ神は心配する」というのがあるが、
これの日本仏教バージョンが親鸞の、
「善人なおもて成仏する、いわんや悪人をや」であろう。

ひとりひとりの状況に応じて、立場や関係性によって
愛し方とは千差万別であり、なにひとつ同じ愛などはない。
しかし、パラドキシカルなことに、
その時初めて「愛とはひとつである」と言えるのだ。

「千差万別の愛の顕れ方」があるのだから、
その中にもちろん結婚制度を活用した昔ながらの夫婦の愛もあるだろう。

しかし、「永遠の愛の誓い」という制度とは影に過ぎない
それが単純に「性的独占制度」となった時、
それは嫉妬の正当化の為の温床になってしまう。

全ての関係性は需要と供給との一致によって成り立つ。
しかし、本来愛とはそういった「関係性」を超えた存在性そのものであると思う。
つまり「それがそこにある」という存在性そのものが愛なのだ。
だから愛とは動詞ではなく、行為でもない。

でも、実質的には「需要と供給」という行為(好意)の中に
人々は愛をキャッチしやすい。・・・つまり需要と供給だ。

そこで人は愛の光という実体を見るのでは無く
愛の〝行為〟という影を見てしまって、
「これぞ愛だ!」と自己投影してしまうのだ。

誰もが「愛が欲しい」いう見当違いな渇望、欠落感、飢餓感、焦燥感・・・
・・・こういった錯覚に囚われてしまう。

占星術で太陽を表すマークがこれだ。



中心の点は局所性を意味して周辺の円は普遍性を表す。

ではこの〝周辺〟に点は何個あるのか?
・・・もちろんそれは〝無限〟だ。

体積も質量も無いことを一般的に「無(ム)」の状態だというが
では無とはあらゆる不在なのか?といえばそうではない。
わたしたちは「無の状態とはなにか?」と説明する為に、
「円」あるいは「球」を描かざるを得ない。
そしてその中心の点を指さしてこれを「無の状態だよ」と説明する訳であるが、
つまり「体積も質量も無い見えない点」を説明する為に
多くの無限の線や面を描かざるを得ないのだ。

つまり「無」を説明する為に「無限」を必要とする。
そして〝説明を試みない〟ならばこの両者は生じない。
説明や照明を試みた瞬間に、「無と無限」とは同時に姿を現す。
しかしそれは純粋に抽象的なイデア上の概念に過ぎない。
体積も質量も無い「点」を説明する為に、
これまた体積も質量も無い「円」や「球」が私たちのメンタルの上に
同時に存在することになる。

つまり「有と無」とは対立する概念でも、二者択一的な状況でも無く
相互依存的な概念だ。
「有る」という背後には「無い」状態が想定できなければいけないし、
「無い」という背後には「有る」状態が想定できなければいけない。

そして「無」と「無限」とも相補的な概念だ。

ひとつの「無の点」という局所から世界を見渡せば
距離が確定出来ない無限の空間が広がるが、そのどの方向に向かっても
「無」が「在る」

そしてその新たな「無の点」を中心にして周囲を見回しても、
またしても「無限の広がり」がある。

メビウスの輪の正体とは単純に「無限のマーク」として捉えただけでは、
曖昧な理解に留まる。
つまり正確には「無と無限とは相補的である」という象徴が
メビウスの輪の示すところなのだろう。



「いまここ:局所性」とは
「いつかどこか:普遍性」の小さな一部として属していながら、
しかしすべての「いつかどこか」はたったひとつの「いまここ」の中に
スッポリ収まっている。

親子の関係というのも局所的に見れば揺るがない絶対的なタテ関係に見えるが、
普遍的な視点から見ればヨコの関係、つまり相対的な関係に過ぎない。

つまり子供という存在が親を産みだしたとも言える。
子供が存在しない親を、はたして「親」と呼べるだろうか?

ここに「死者」というものも見かけ上の消滅に過ぎないという証明がある。

親が死んでも、あるいは子供が早死にしたとしても、
あくまでも親は親であり続け、子供は子供であり続ける。
でもその「役割の名称」はヨコの相互関係に過ぎない。

「肉体が死んでもその存在は消えない」とは、
むしろ具象の姿こそが仮初めの姿であり
抽象の無限性に消えた時こそ、絶対的存在へ帰還したと言える。

「無と無限」とが相補的であると理解出来た時、
「無限と有限」とも相補的であり、同時に存在していることが連鎖的に理解出来る。

その結果として私たちは不生不滅であることが理解出来る。

わたしたちは
何ひとつも失うことはないし、
何ひとつ得ることもないのだ。

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