We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2018年06月

引き寄せの法則に気をつけろ
「引き寄せたい」という思いは
  欠乏感~つまり欲望から来る
  だから欠乏状態を引き寄せてしまう

「類は友を呼ぶ」法則にフォーカスするべきだ
であれば、自分の身の周りで起きたことは全て
自分自身の鏡として起きていることにすぐ気がつけて
「全てが自己責任だ」とハッキリ理解出来る

結果として
「加害者と被害者」というカルマから脱出しやすくなる

一~二年程前、あるスピリチュアルなテーマの座談会に出席したとき
熱心にトイレ掃除の流儀と、その開運効果を説明している女性がいたのを
ふと思い出した

  拭き掃除の順番はこれこれ、
  まず縦に拭かなければいけない、
  次に横に拭かなければいけない・・・等々

  そしてこんなチャンスを得た、あんな開運が出来たと興奮気味に語っていた

その話を私は、肯定するでもなく否定するでもなく聞いていた

      これは日々のジンクスや、他愛のないおまじない、厄除け、
   あるいは厳かな宗教的な儀式にまで、すべて言えることだと思うのだが・・・

もし、
私たち人間の世界観、強固な観念が、
そのひとの周囲の現実の状況そのものに
何らかの大きな影響を与えるというのなら
そういったおまじないやら儀式やらの効用を厳密に証明出来ることが
はたして本当に可能なのだろうか?



たとえばトイレ掃除の際、壁は必ず縦から拭く?そしてもう一度横から拭く?
するとこれこれこういう現象や効能が得られる?
ではついうっかりそれをあべこべに拭いたらどうなる?

それは、この「トイレ掃除開運法」を強く信じていても、いなくても
誰がやっても同じような現象が百発百中で起きて、
科学的に検証出来るのだろうか?

 もし科学者が「結果はこうなるに違いない」という信念の元で
 科学実験していて、その信念が実験結果に影響を与えていたならば?

どんな原因~インプットに対して、どんな結果~アウトプットが得られたか?
ではその因果律には如何なる法則が働いていたのか?

・・・もし、人間の主観が、物理的客観状況をも変化させてしまうのなら
   原因と結果との因果律は、とりとめもなく無限に説明可能であるように思う

しかし、その「無限に、如何様にでも説明可能である」と言うこと自体が
もはや、「物事は何ひとつ、絶対的証明が出来ない」っという
              何よりの証明ではないだろうか?

  っとなると絶対的な客観性、客観的な科学性というもの自体が
  本当に存在するのか? 実に怪しげになってゆく

占い、まじない、開運法、・・・
こういった主観を扱う技術のバックボーンとして
「主観科学」なるものが成立するだろうか?

わたしは占星学に夢中になっていた20代前半、
そういった主観科学が陽の目を見る~市民権を得る時代が来るべきだと
熱望していた・・・
  いわゆる〝オカルト・サイエンス〟と呼べるかも知れない

しかし現在、「幸福の科学」という宗教団体の名前が象徴するように
「これは宗教なんて言う迷信じみたものじゃないんです・・・」
「これは科学なんです!!」っと高らかに主張するモノが花盛りだが
いわゆるスピリチュアル・ブームが、いわゆる主観科学的な装いを持ち始めている

それは都合良く
「信じるものだけが救われる」
「信者にだけ理解出来る科学」という名の神が主祭神だ

そこでは、どれほど脇が甘い、ガバガバの理論でも大手を振って通用する
・・・でもそれは、実に危ない世界のように思う

   それは霊感商法が、都合良く七変化して姿を変えて追求を免れる世界だ

  その怪しさ、胡散臭さを何よりも当事者こそが自覚しているからこそ
 なにか〝それっぽい〟現象が起きたら、鬼の首を取ったかのように
 自分達の〝教義〟に我田引水する・・・

・・・こういった状況はずいぶん前からおきてきているように思うし
   むしろますます悪化してきているように思う

なにしろ、物理的、客観的な科学の検証を免れつつ
「科学」の看板を掲げることが出来る、甘く、オイシイ分野だからだ・・・

こういった「宗教」と「科学」とのご都合主義的な二股の許された世界は
一体どういう結果を招くだろうか?

  誰も完全否定出来ない・・・、ところが、誰も完全肯定も出来ない・・・



  「思考停止」がむしろ神聖視される・・・
それは人間のずる賢さにとっては、
むしろ〝天敵が不在の絶好の開拓地〟なのだ

35382921_1951750944837580_492820155454193664_n

もし、体験して見知った世界だけが、「自分の世界」の全てだとすれば
私の世界において地球は丸くない
私の自宅を中心に触手が伸びるように蜘蛛の巣状の形をしているだろう

ごく近所にだって知らないところはイッパイある
隣の住民の室内だって、覗いたことがなければブラックボックスなのだから

単に学校で「地球は丸い」と習っただけのことだ
確かに飛行機に乗れば水平線が弧を描いているのを目撃しただろう
そして地球儀の通り、世界一周だって出来るだろう
それでも私たちは世界を断片的に体験しているに過ぎない



しかしわたしたちはその体験のかけらを体系化し、
「地球は丸い」といったような世界観を脳内で描いている

だから私たちには新鮮に世界を見ると言うことが出来なくなっている
確かに生活する上で、「丸い地球」を前提としなければ色々と不自由だ
きっと確かに、地球は丸いのだろう・・・
それは疑うことが馬鹿馬鹿しい程の事実なのだろう・・・
でもその結果、その〝当然の事実〟ともいえる世界観の中に
私たちは自分自身で閉じ込められている

私たちは〝学んだこと〟そして〝当然と思って知っていること〟から
なかなか逃れることが出来ない

・・・こうして沢山の沢山の〝当然の世界観〟が積み重ねられ、
   年々歳々、蓄積すればする程、人生には驚きも感謝も遠のいてゆく

私たちは腐った日常に埋没し、退屈してゆき、
そんななかで「人生とは何か?」日々考えている

「広く博学な世界観」の中で暮らす方が、「より大きな自由」を得た人生に見える
しかしそれは本当だろうか?

子供の様な純粋な目で、何の現実に対する枠組みを持つことなく世界を見る方が
私たちは本当の自由の中で、広々とした世界の中で
生きることになるのじゃないだろうか?

701






その触手のように延びた世界が
「あそこに行けばパスタの美味いあの店がある」だとか
「今頃はあの山の紅葉がきれいだろうな」とか
「地球は丸い」とか
記憶や論理から類推しているだけだ

そして本当に知り得ているのは今この瞬間のここだけだ

その蜘蛛の巣状の世界の中を「既知」だと言い
その蜘蛛の巣からはみ出て、たとえば例えいつも通る道であれ
初めて入ったお店の店内は「未知」の世界だという

わたしたちはいつも
世界が球状に広がっているとぼんやりと思っているが
本当はモグラが自分の巣とするトンネルを往復したり
拡張工事したりしているだけだ

他人の存在も、そのキャラクターもまたそのトンネルの一部だ
実際のところその蜘蛛の巣状に広がるトンネル空間こそが、
私たちの感覚的触手そのものであり、
その触手の交差する接点こそ
自分と他人との共通認識、共同現実感だ




本当は私たちは操り人形に過ぎないかも知れない
私たちの尻尾をイタズラして笑っている宇宙人が
どこかにいるのかも知れない



でも、それでも
「いまここで感じていることが全て」なのだ
 例え遠い星に「私たちの本体」があるにせよ
    いまここにおいては大した意味は無い

重要なのは「なぜ?」のルーツ探しなのでは無く
いまここにある感触を楽しむこと・・・
「楽しんだ方が勝ち(価値)」なのだ

【炎上】若干12歳の少女が野生動物をハンティング
SNSで世界中の動物愛好家から非難轟々→
海外「彼女を止めさせて!」 海外の反応


農業は今もある
牧畜、畜産は今もある

じゃあ白人を主とした狩猟民族達は
その先祖の血をどの様に満足させているか?

彼等は〝他民族〟を狩ってきた、奴隷にしてきたのだ

それは芸能などで観客を魅了するという〝狩りの仕方〟もあるだろう
それは商売などで顧客を獲得するという〝狩りの仕方〟もあるだろう

しかしもっとも狩猟民族の血を満足させるのは
「他者を狩って、その生き血をすする」ことなのだ

・・・だから「誰もが平和を望んでいるハズだ」というのは
   農耕民族A型が大半である日本人の、あくまで幻想に過ぎない

しかし、ポイントは血液型とか人種、肌の色では無い
日本人もまた大多数が百姓ではあっても、
あくまで武家社会としての時代が長く
「戦の民」としての側面が混在している

個人の中にだって狩猟民族、遊牧民族、農耕民族・・・
としての様々な要素が混在している

それは原初生命の段階にすでにあったと思う
だからそれは生き物としての営みの上で
 決して完全に消去することが出来ないであろう要素だ・・・他者の略奪

借金による通貨の発行や戦争というのが
「他者の略奪システム」としての最後の牙城だ
だからこの〝野蛮さ〟を人類全体が淘汰することはなかなか難しいのだろう


このページのトップヘ