We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2018年03月

何かに間に合うか?間に合わないか?
得たいものを得られるか?得られないのか?

・・・その結果に〝違い〟があると思うからこそ
   人は焦って発車のベルが鳴り響くプラットホームを駆けてゆく
   人を押しのけてバーゲンセールのワゴンに殺到する

でもだんだん疑わしく感じ始める
  「結果は同じなのではないか?」・・・っと

もちろん、ギリギリスレスレ、間に合うか?間に合わないか?と言う時
急ぐことで間一髪間に合うと言うこともあるだろう
でもそれでも、本質的な運命は変化していない様に思える

慌てなくても、得られるべきものは得られる
どれ程努力しても、縁のないものは手が届かないもの・・・・
   ・・・トシを喰えば喰う程そう感じ始めている

そもそも何かを得る為にどれ程頑張れるか?集中できるのか?
その欲求のヴォルテージ自体が数学的に決まっているとしたなら
それに応じて結果も叉、計算できるのではないだろうか?

努力、頑張り、根性、執念・・・

そういった情緒的なものは「数値化できないもの」というのが通念だが
・・・果たして本当にそうなのだろうか?
   この世に人間の情緒的なものを含め
   数値化できないものなどあるのだろうか?

人間の深層意識的な働きでさえ、数学的、物理的、力学的に表現できる様に思う
単に私たちがそこまで科学的に進化していないだけなのじゃないだろうか?
だからそういった複雑な心の働きを数値化できないだけ・・・

だとしたら?
人の深層意識の働きも含め森羅万象の全てが数学的に計量化できるのだとしたら?
だとしたら全ての結果は決定してる
たんにその結果を左右するファクターの正確な数値化と、その方程式化を
私たちがまだ知らないだけで・・・?

でももしその因果律の裏舞台を知ってしまったなら
私たちの人生は何と味気ないことだろうか?
「やってみる」前から「結果が計算できてしまう」だなんて??

・・・かくして私たちは「知らされていない」・・・
一寸先の未来でさえ
ホンの些細なことでさえ・・・

・・・その未来を私たちは知らずに
   そのお陰でスリリングに生きられる

私たちは「一寸先さえも闇」という祝福の中を生きていけるのだ

「剣をとる者は剣で滅びる」と
   ナザレのイエスは言った

「Penは剣よりも強し」と
   いうことわざがある

では「Pen(文章)をとって敵を滅ぼそうとする者」は
   「Penによって滅ぶ」と言えるのではないだろうか?

確かに剣に比べればPenはより平和的な道具ではある
そしてPenには剣と違って〝武器〟というイメージは薄い

・・・しかし、Penは剣よりも遙かに強力な武器にもなり得る

   Penとは単に文章の象徴ではなく
       文明全体の象徴でもある

 たとえば「核のボタン」もPenによって作られた強力な剣だ

 日本が明治維新の始まりに、アメリカによって強制された
 日米の不平等条約は、桜田門外の変へと繋がった

三橋貴明:帝国主義の本質とは不平等条約にある

〝国家間条約〟という恐るべきPenの破壊力が
その後の私たち日本の先祖達を如何に苦しめたのかを考えれば
桜田門外の変という血なまぐさい事件も
一体どれ程その〝暴力性〟を糾弾しえるだろうか?

もちろん状況は井伊直弼の生首だけで解決はしなかったのだが・・・

確かに剣とは規格にならない莫大な破壊力をPenは持つ
では、その「Penによって滅びる人々」は如何ばかりだろうか??

私の様な(社会的影響力は微々たる)ブロガーであっても
多少は知らずに人を傷つけているかも知れない

「一見平和的に見える・・・」が故に
Penはインターネットの時代を迎えた現代
どれ程、「人が人を傷つける道具~武器」として使われたことだろう?

そう考えると、
むしろ現代で「Penによってもたらされる災い」と
全く無関係な人を探す方が、むしろ難しいぐらいかも知れない

それは
〝相対的自由〟と〝絶対的自由〟だ

〝選択する自由〟と〝無選択な自由〟
〝知る事で得られる自由〟と〝知らないことの自由〟
     っと、言う風にも言い換えられるだろう

「他人に騙されない、損をしない、効率が良く合理的な」
       選択が出来る人は〝賢い人〟だと言える

一方
「目の前にした運命が与えたものは
 何であれ感謝をもって
 嬉々として拝領する・・・」
   無選択、無分別な自由に生きる人もいる
    そんな人は〝狂人〟にしか見えないだろう

しかし、
私たちの人生には、
この正反対のどちらの自由も必要だ

トーシンさん流にいえば「どちらが先手か?」ということかもしれない
つまりそれは「人事を尽くして天命を知る」ということだ

食べ物だろうが毒だろうが何でも無分別に食べていたら、
そりゃあそんな人はすぐに死ぬ ・・・それは愚かな生き方だ

しかし、
人生は、そのスタートライン(出生)から〝終わり〟が・・・
つまり「死」という絶対的な運命付けがなされている

マトリックス「始まりが在るものには終わりがある」

私たちは「賢い選択」「正しい選択」をし続けることによって
この絶対的な運命を回避しているが、そこにはおのずと限界がある

私たちは日々・・・
健康に気遣い、不老長寿を求めるが
手塚治虫の「火の鳥」でも見られる様に
その「賢者への道」の背後には常に愚かな悲喜劇が繰り返される

その賢さの追求は私たちに無意識レベルでの強い緊張の原因となっている
「賢い選択、正しい選択を常にしよう」
「愚かな選択、損な選択は極力回避したい」

・・・それは知らない間に私たちに
   「生き(延び)る為の身構え」という
     無意識の緊張、硬直性を強いる

そこには人事を尽くした「賢い選択の自由」はあるだろうが
その緊張感そのものは、本質的には「不自由」なのだ

モーフィアスとアンダーソン

リラックスの中にしか、自由の本質は存在しない
無選択、無分別・・・、
「どちらでもいい」という「聖なる狂気」の中にしか
本質的な自由は無い

本質的な自由、絶対的な自由とは
「不老長寿の探求」ではなく
「不老不死であることの自覚」のことだ
そこには「選択」も「探求の努力」も「善と悪との闘い」もない



J.Krishnamultiがいう
「(知る事ではなく) 知らないことが自由」というのは
そういう意味ではないだろうか?

それが「いまここにあるものがすべて天命だ」という達観なのだと思う
そこでは生と死さえも分別しない視座なのだと思う



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真実は
 自他の否定にも肯定にも無い、
 批判にも弁明にもない
 右にも左にもない、
しかし
 その中間点にもない

それらの地平から垂直に上昇した
無限遠点の視座にのみある

意識物理学研究所より
観察と次元 observation and dimension

ただ、手つかずの、
作意なき「いまここ」にのみ
    真我、自己受容があり

純粋な「自己受容」とは
 「自己肯定」でも「自己否定」でも
 「中立」や「無関心」「冷淡さ」でもない



癌というのは遺伝子のコピーミスによる突然変異のことだ

だから癌の発生原因にはいろんな種類がある
例えば環境汚染や放射能の影響によってもコピーミスは起きるし
例えば自己否定感やその他のかたくなな信念に凝り固まることで
「いまここの自分を偽る」ことによっても自己複製メカニズムは狂う

そして
人間に近い生物の遺伝子を体内に取り込むことによっても発生する
つまり温血動物、哺乳類を食べる、ということだ

〝食べる〟というのは、ある意味で結婚であり愛の行為でもある
命を引き継ぐというのは荘厳な行為であり
その点では食事もセックスも同じだ

相手の遺伝子と自分の遺伝子をブレンドする
荘厳で神聖な行為だからこそ、リスクも大きい・・・
人間にとって、もっとも癌になりやすい食べ物は「人間」だ
カニバリズムは他人の死んだ肉体を食べること・・・
他人の細胞を経口摂取すれば、近いもの同士がブレンドされるわけだから
当然遺伝子のコピーミスが起きやすい

たとえば旅客機の遭難事故で死んだスチュアーデスの
「脳を食べて生き残った」みたいな実話が映画化されたりしているが
むろんそれは非常時にはやむを得ない措置ではある
だからといって即、癌になるわけではない

しかし
毎日のディナーに人間の脳みそというのは
あまりあなたの健康にはお薦め出来ない

たぶん栄養学的には、
人間は、人間を食べるのがパーフェクトなのだろうが・・・・

ヴィーガンであれ、
その他様々な哲学であれ、宗教、科学であれ・・・、
何であれ
理屈としては美しく、整合性があると、人はついつい盲信してしまう
誰のこころの中にも「永遠不変の真理」への憧れはあるし
さらにはその法則に万能性を期待してしまうものだ

しかし宇宙とはそれ程単純なものではなく
実に多角的な視点を要求してくるし
流転万化しているものだ・・・
「これこそ真理だ」と立ち止まった瞬間に
私たちは足元をさらわれてしまうだろう

・・・でもそれは祝福だ

私たちは決して「真理の所有者」になる事は出来ない
一つの真理を見いだして、それを得意満面に振り回しても
それは決して長くは続かない  ・・・でもそれは呪いではなく祝福だ

なぜなら、もし私たちが真理の所有者になったのならば
全宇宙の重み(責任)が私たちにのしかかってくるだろう
「知る」ということにはそれなりの責任がつきまとう

私たちはいつも「地の漂流者」へと突き落とされる
そして大地を彷徨い、流離う、あるいは見知らぬ異郷の地で死ぬだろう

何かを宣言したならば、
宣言したカッチリ同じ分だけ
私たちは恥をかいて死ぬことになる・・・
後の世の人々は、私たちの墓に唾を吐きかけ
さらに後の世には、現在の私たちの誰ひとり、思い出すこともないだろう

    ・・・でもそれでこそ人生は帳尻が合うものなのだとわたしは思う

真に沈黙の価値を知るものとは、
そのバランスを知っているもののことなのだと、私は思う

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