We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2018年03月

「あなたの解釈が
 あなたに害を与えます。」



解釈、意味付け、概念、定義・・・・
そういったものを判断材料として
ありのままの現実に対して下すことによって
私たちは〝自分の置かれた立場〟を確認しようとする・・・

「カレは私のことをどう思っているの?」

これが一昔前の恋の占い師達が
もっとも聞かされてきた質問だ
私もウンザリする程聞かされて
そして占い師をやめた

「当たるも八卦当たらぬも八卦」というのは
「八卦をどう解釈するか次第で占いの結果は変わる」
事を意味する

確かにセンスの良い解釈は
恐ろしい程、現実を上手く言い当てるが、
同一の事実は多様な面を持っていて
その光の当て方、つまり解釈次第でどの様にも見える

その沢山の解釈の
「どれ」が正しく
「どれ」が間違っているのか?

,,,その正誤の判断ですら、これまた解釈次第だ

それら無数の解釈の
すべてが「正しい」ともいえるし
すべてが「単なる思い込み」だともいえる

だから弁明なんて無限に続けることが出来る
議論なんて永遠に終わらない

「~イズム」つまりなんちゃら主義とは
こういった様々な現実に対する解釈のしかたや議論の、
〝どれか、どこかの正しさ〟に固執することを意味する

そこに人生を何十年も費やす人もいるし
その為に切腹する人さえいる

わたしは彼らが「間違っている」と批判したいのじゃない
また彼らの間違いを完全に証明(論破)することは出来ないだろう

論理や法則には必ず例外があり、言い逃れは出来る
ドロボウにも三分の利が必ずある

あなたは正しい!
あなたの信念はきっと紛れもない事実に裏打ちされているのだろう・・・

でもまさにその正しさが・・・、
その正しさの〝確かさ〟が・・・・!
   あなたや私をメクラにしているのだ

重要なのは「水も漏らさない完璧な理論の構築」なのじゃない
私たち自身が「水の様に生きる」ことだと思う


広がり(二次元平面)を垂直視点で見れば
膨らみ(三次元立体)を仮想的に表現出来る
※ 例えばVRゴーグル

そして
隔たり(一次元直線)を垂直視点で見れば
広がり(二次元平面)を仮想的に表現出来る
※ 例えばテレビの走査線

もし、視覚、聴覚のみならず嗅覚、味覚、触覚(皮膚感覚)、平衡感覚
といったそれらの感覚情報をを
パーフェクトにコンピューターでシュミレートして
精密にシンクロさせ、脳に情報として送り込んだならば
その没入感は現在のVRを遙かに凌駕する現実感覚を与えるだろう

この空間上で体験していることは、
つまるところすべて、〝情報である〟という一言で集約出来る



もし
私たちの生活する現実世界が
本当に仮想データ空間の中なのだとしたら
     ここで二つの疑問がわき起こる

そのひとつは
「では、そこまで手を込んだカラクリで
 私たちを超絶なVRシステムの中に〝飼育〟しているのは
 一体〝誰?〟であり、どんな動機(目的)でなのか??」

この疑問に対して最近の科学者達は
「きっと(今の私たちの尺度で見て)未来の超テクノロジーが実現させて
 未来の知的生命が知的好奇心で実験しているのじゃないか?」
     っという仮説を立てているのを最近よく聞く



しかしこの「科学者が語る新しい神のイメージ」は
もうひとつの疑問に対する私の仮説によって、いささか違ったものになる

つまりもうひとつの疑問とは
「そもそも、全宇宙の時空の世界と歴史を瞬間瞬間、更新して描く様な
 凄まじい高速演算が、幾ら未来の高度なテクノロジーであっても
 本当に〝可能〟なのか?」である

  たとえば1+2=3、の様なド単純な演算であるにせよ
  左辺の〝問い〟が右辺の〝答え〟へと移行するためには
  時間とエネルギーを要する

   なのにこの宇宙に満ちあふれるシンクロニスティー
   壮大なオーケストラのハーモニーには、全くの遅延もない

時間の経過と共に・・・
因果律が連鎖反応:チェーンリアクションしているのも確かだ
だから物事を原因と結果とに結びつけていくのが、
基本的に私たちの科学的なアプローチなのだけれど
もし、
この宇宙空間の中においてでさえ、隔たった空間において
まったく移行や伝達時間ゼロで物事が同時多発的に起こる・・・
つまり、シンクロニスティーが因果律に縛られていないのだとしたら
実際の処、それは、
私たちの科学的なアプローチの限界を超えていることを意味する・・・

恋人同士の以心伝心、虫が知らせるという肉親の死、いわゆるテレパシー・・・

これらが事実あったとしても、
科学者は諦めずに目に見えない搬送波の様なものを探しあぐねるのだろう
そして未来にはきっとその正体は科学的に解明出来る!っと・・・

科学者達の発想は、
「何かが」「質量を持つ何であれ」
光速度に近づくにつれ、(まるで空間に対する抵抗値の様に)
その質量は無限大になってしまうために、あらゆる移動は光速を越えられない
・・・っというところで止まっている

あらゆる存在が光速度を超えられないこの空間の中で、
つまるところ因果律の探求もそこで限界を迎える、つまり科学の限界点だ

しかし、「小さいもの程、早く移動することが可能」というヒントが残る

なぜパソコンの技術において
同時並行的に沢山のバスを使ったパラレル転送方式よりも
シンプルなシリアル転送方式の方が「早い」という結論に達したのか?

三次元、二次元、一次元・・・
  そして質量なし、体積無しがつまりゼロ次元

膨らみも、広がりも、隔たりさえもない世界こそが、
当然ながら搬送波も移動も伝達媒体も存在しない世界だ
この世界においては
原因と結果もない
我と汝との分離もない
以心伝心という非科学的現象がない、というよりも
「伝えるべきもの」も「伝えるべき理由」も存在しない
「ただある」、それがすべての世界だ

じゃあ「何も無い」のか?

いや、でも小さくなる程、情報量はどんどん指数対数的に〝増えて〟いくのだから
ゼロ次元とは「情報量、無限大」であることが当然推測出来る

つまり、ゼロ、無とは
「物理的には不在」でありながら
「情報量無限大」なのだ

地球上でも、
なぜ小さな生き物が素早いのか?大きな生き物がのっそりしているのか?
それが説明付く・・・つまり「情報密度、濃縮性が違う」のだ

いままでの生物学で私たちは
大脳の大きさ、容積で知能の高さを推測していた
そしてそれをそのまま
生物のグレード(下等生物、高等生物)としてランク付けの基準にしてきた

しかしそれはとんでもない間違い、勘違いを
私たち人間自身に犯させてきたのじゃないだろうか?

しかしそんな可能性を疑うことさえ
私たちにとっては恐ろしい、そして不都合なことだ
ネズミの様な小さな哺乳類・・・
あるいは昆虫、あるいは植物を、
わたしたちは「下等生命」として踏んづけてきた

もし、
「下等」と思っていたものが、
私たちよりある意味で「高等」だったら??

草花や石ころでさえ、あるいは細菌やソマチットの様なものさえもが
英知の結晶であったのなら???

その時には私たちの今までの文明が積み上げてきた価値観は根底から覆される

すべてのひとに石がひつよう from Katal Maneel on Vimeo.

「お菓子を買ってくれ」という
こどもの駄々に直面する父親・・・



「コンドームを活用しましょう」

・・・このビデオを見て
   子供のいない私はつくづく胸をなで下ろした

最近は禁句になりつつある日本語の言い回しで
「女子供は・・・」というのがある

つまり女性には本質的に
子供と同じ「非社会性」「幼児性」があるという事を示唆している

私に言わせればこれは往々にして事実であり、女性蔑視ではないと思う
良い意味でも女性は本質的に野性的であり、決して文明になじめない
猫の様なところがあり、それこそが女性特有のチャーミングさでもある

しかし最近、
ウカツにこれを言うと「女性を馬鹿にしている」と言われて
総スカンを喰らってしまう雰囲気を感じてしまう、
・・・それは私だけだろうか?

私たち男性にとって、女性とは永遠の謎だ

女性の持つ猫科の動物の様なワイルドさとしなやかさは
私たち男性に抗しがたい誘惑を仕掛けてくる
そしてそれに一旦捕まってしまうと、その先には

「あ~コンドームを使っておけば良かった」という
状況にまで超特急だ(笑)

痴漢対策の女性専用(優先?)車両に関する議論など
「社会の中でのフェミニンな要素を如何に社会の中で守っていくか?」
ということが、良く話題になっている様だけれど
女性達が声を荒げてフェミニズムを叫べば叫ぶ程、
なぜか社会の中の女性らしさは自縄自縛に陥っていないだろうか?

お菓子を買って欲しくて子供は泣き叫ぶが、
フェミニズムの狼煙はその姿にオーヴァーラップしてくるのだ

父親が折れて、しかたなく子供の言いなりに菓子を買ってあげれば
果たしてそれが子供の未来に繋がるのだろうか?

・・・実際その様な〝妥協〟に妥協が重なって
   それがモンスターを生む温床になっては居ないだろうか?

確かに痴漢をする男は一杯居るだろう、
でも現代、実際の処〝父親〟は社会から絶滅し掛かっている
女性達は「イイ男が居ないわよね~」と溜息をつくが
女性達が自ら滅ぼしているのではないだろうか?

女性達は「すべては男性優先の世界だ」と嘆くのをよく聞くのだが
むしろ順番は逆で、男性が社会的な主導権を失うこと、
つまり「父性が弱体化した(去勢された)社会」こそが
社会を貧困にし、経済(欲望追求システム)だけの頭でっかちの社会にし
そして離婚、女性達が母子家庭になって路頭を彷徨いかねない、
社会の貧困化を招いているのじゃないだろうか?

ちょっと周囲を見渡して欲しい
女性の美、母性の素晴らしさ、賛歌はいくらでも見つかるだろう
でもどこに父性の価値、寡黙な愛情の価値を見つけられるだろう?
せいぜい高倉健さんのポスターぐらいではないだろうか?

わたしは男女がフェアな社会になっていくのには賛成だ
しかし、特に政治的な舞台は父性原理の指導力、統率力が必要だ
「さあさあみんなで仲良く決めましょう」という談合社会で
いったいどんな舵取りをできるというのだろう?

今の安倍政治とアンチ安倍とのつばぜり合いもこういった
父性原理の「窮地」と「反発」とに見えてしかたがない

フェミニズムとはしょせんロックフェラーが仕掛けた罠に過ぎないが
日本人は敗戦によるGHQの日本人弱体化計画の、
この罠に見事に嵌まって、今も、もがき苦しんでいる

この「単なるワナ」は実際的には「宇宙的な問いかけ」なのかも知れない

「愛とは何か?」と問いかけた時、女性達は得意げに愛について語る
そして
「男どもには愛とは何か解っていないから好戦的な社会なのだ」
と言いたいのだろう

しかし男性原理的、父性原理的な愛もある、
いや、むしろ父性原理的な愛こそが宇宙の中心ではないか?
っと、何度かこのブログで書かせてもらった

本当に成熟した男性原理こそが、
自然と女性原理をも充足してくれるのではないか?

いま、全ての物事の
「中心がどこか?」「核とは何か?」見失われている様に思える・・・

女性原理的な、「柔らかい、包み込む様な・・・」愛だけが
愛の原理だと、常識化してはいないだろうか?

はたしてそれで、お菓子売り場でひっくり返る子供を
躾けることが出来るのだろうか?



「バシャールは信じられない」という言葉を時々ネットなどで見つける
わたし自身このブログでバシャールへの疑問を書いたことが何度かある
またOSHOの言葉も様々な解釈が可能で
そういった解釈をこねくり回してこのブログで皆さんに読んでいただいてる

そもそも何かを「信じる」必要などあるのだろうか?
「そうである」ものごとは、単に「そうである」だけだ
そこに信念など介在する余地など無い

「信念を持つ」ことが
人の歴史においてずっと美徳であるという通念が支配してきた。

何かを成し遂げる、作り上げる、貫き通す為には確かに信念は重要だ
それは
★人類全体の思春期、反抗期★までは必要な事だったと思う
人間は魚類や爬虫類ではないのだから
生きている以上身体が巨大化し続けるわけはなく
思春期を過ぎ、成人したあたりでボディーの巨大化は頭打ちになり
   そこから先、人間の成長は精神的、内面的へと方向転換する

WHOの統計によると
人の財政的な向上と幸福度とはある程度比例するそうだが
ところがその比例関係は年収200万円ぐらいを境に無くなってくるそうだ
つまり「何とか食べられる」あたりでもう「お金があることが幸福」という
公式は成り立たなくなってくるということだ
(今話題のベーシックインカムの必然性にも繋がる話)

それと同様に
  人間の「信念で何かを成し遂げる」という公式も
  また成り立たなくなってきているのではないだろうか?

バシャールは上記で
【人生の基本的な目的は、100%自分になること】
と言っているが、これはOSHOの
「エンライトメントとは達成すべき事ではなく、あなたの本性だ」
               という言葉と同義なのだと思う

しかし彼等のこういった言葉を
 果たして〝信じる〟必要などあるだろうか???

私たちが自分自身以外の・・・、
「生まれてから死ぬまで一瞬たりとも〝別の何か〟」に・・・
             成りようがないのだとしたら??

【100%自分に〝なる〟こと】など
 そもそも初めから必要ないことになる

その量子飛躍的な了解と同時に
【生まれてきた意味】もジョークとして溶解する

人はその瞬間、人ではなくなり、不老不死、不生不滅、となる

「失っていないもの」を「見つけ出すこと」ほど不可能なことはない
自分の額の上にあるメガネを見つけ出すのは至難の業だ

でもその困難さは、
努力の不足とか信念の不足と言ったことが原因ではない

・・・むしろその逆で
   「努力しちゃっていたこと」「信じ込んでいたこと」が
    まさしくメガネの再発見を至難にしてしまっているのだ

なのにもかかわらず私たちはますます
「努力しなければ」
「信念、信条、信仰が自分には足りないのではないか?」と
自分自身を責め立てている

私たちはまさに、ターニングポイントを向かえているのだと思う
「成ろうとする」「成し遂げようとする」ことはもう主題ではない
ここから先の成長段階とは
「食べ物の不足」でも「年収不足」でもなければ
「努力不足」でも「信念の不足」でもない・・・

いやむしろそれらの追求が〝過剰であった〟ことが
現段階から先の成長を阻んでいるのに違いない

ここから先のどこか、何かへと
「成長しようとする必要などない」ということが新たなる成長なのだ

その時「神は存在するか?」
あるいは「神の如き進化した宇宙人は存在するか?」などという問いは
                   どうでも良くなることだろう

人の痛みが分かってあげられる・・・
っというのは尊いことなのかも知れない

他者の痛みを察してあげて、その人のために泣く、
それは慈悲深いことなのかも知れない

誰かが自分のために泣いてくれる
自分も叉、誰かのために涙を流す

  ・・・その時、私たちは皆、ひとりじゃない

でも、自分が誰かを「理解してあげられた」っと確信するのは
その独善性を考えれば、恐ろしいことかも知れない

痛みであれ、人生の悲しみであれ、悦びであれ・・・
他者に対する絶対的な理解や共感を宣言することは
その他者に対する絶対的な支配を可能にすることだ

一時的であれ完全な理解とは把握であり掌握だ、
それは素晴らしい慈悲の特質に見えて
実際には独善であり、圧倒的な影響力を暗示する

そんな人は安易に
「絶対的な善」や「完全な愛」というアイディアを持ち出すだろう

それは「言ったモン勝ち」であって
「絶対善~完全なる愛」という言葉に
   平然と逆らえる人は多くはないだろう
   それは現代の「錦の御旗」だといえる

「絶対的な善」とは即ち「絶対的な悪」という発想を産み出す
そして「絶対的な裁き」を可能にする

そんな「絶対的な裁き」の法廷に逆らうもの、抗弁する者はいない
なぜならそれこそが〝絶対性〟という言葉の定義そのものだからだ

「誰も逆らう者はいない」っということ・・・sれが絶対性だ

 ・・・話はそこまで行くだろう

    「私はあなたを知っている」

    その思い込みとは、絶対性の許での絶対的な他者の支配だ

だからたとえ、
「私にはあなたの痛み、悲しみが分かってあげたい」・・・っと思っていも
        わたしはあなたに決して言ってあげることは出来ないのだ

「うん、わかるよ」っと

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