We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2018年02月

ゼロ?かイチか?、存在するかしないか?は、
定義(の厳密さ)によって決まる

ひとつの部屋に何人かの人間が居て
「日本で生まれた人は何人か?」
「女性は何人か?」
「成人している人は何人か?」

あるいは
「上記の全ての条件を満たしているのは何人か?」
によって、その指し示す人数はハッキリと変わる

しかし
「日本国内で生まれた人は何人か?」ではなく
「日本人は何人か?」という曖昧な定義だと
その人数は特定できない

なぜなら何を持って「日本人か?」というのは抽象的な要素があるからだ

いわゆる
「頭の良い人~マインドのシャープな人」というのは
こういった定義が曖昧ではなく、厳密でシャープだからこそ
物事を整数的に割り切って考えられるのだ

逆に言えば何事もハキハキしない、明晰さがない人というのは
何事も定義が曖昧であるために明快な答えが出ないのだ

定義の明晰さとはデジタル的であり
定義の曖昧さとはアナログ的だ

でもそれはあくまでも一般論的な評価であり
何事もさっさと割り切れる事が本当の賢さなのかと言えば
それは疑問が残る・・・
しかし、
何事もスカッと明晰に返答できる人に
人は得てして爽快感を感じ、「頭の良い人」という印象を持つ

要は、
曖昧性がないデジタル的というのは小数点以下の存在しない人で
曖昧でアナログ的というのは
「えぇ~っと。うぅ~んと」と唸りながら
ダラダラと小数点以下が続いている人だ

むしろ量子力学的には「即断即決できない」曖昧な人の方が
物事のありのままの真実を表しているのかも知れない

定義が厳密であればある程、存在は明瞭さを持つ
何かが「存在する」にせよ「存在しない」にせよ
それは「定義の厳密さ次第」である

でもそういった明瞭さは、物事の相対的な「有用性」は左右するが
必ずしもそれが絶対的な善悪なのでも優劣なのでもない

・・・ただ、それはそうだ、と言うだけの話だ

子供の時、誰でも夜の闇は恐ろしいものだった
でも、誰もが闇を克服してゆく・・・
いや、むしろ夜は誰もが消灯しなければ眠れなくなる
誰もが闇を恐れの対象ではなく、友とし始める
夜のとばりの訪れは、「敵の訪れ」なのではなく
待ちに待った、安らかな、夢のひとときを運んでくる

闇の深さは、昼の光にはない味わいがある


どうしてそうなってゆくのだろうか?

 もし、世界が光一元だけならば
  どうして私たちは光を知る事が出来るだろうか?

光と影とのコントラストで、初めて私たちはものを見ることが出来る
もし世界が無限の光だけで覆われていたら、
それは「白い闇」となっただろう
・・・何のコントラストもない、光の闇に

光一元の世界とは、文字通り白痴の世界だ
絶対的な光、絶対的な善とは、白痴の世界だ
・・・そこには何の深みも味わいもない
・・・・そしてそこには何の理解もない

私たちが子供の頃から、むやみに闇を恐れなくなるのは
物事を理解し始めるからだ

昼が有り、夜が来る
でもまた陽は昇り、その時のために私たちは眠り、休息を取る

光と闇、表と裏、活動と休息・・・

そういったリズム的変化の必要性への理解こそが
途絶えることなく私たちのこころの中を照らし続ける
         ・・・「見えない理解の光」が

だから
もうそこに恐怖はない

しかし
「物理的な光」とは比喩に過ぎない

 「それはまるで永遠の光の様だ」

  と言った時、それはたとえ話に過ぎない

   実際の話、〝永遠の光〟とは、〝闇への理解〟のことだ


このふたつは同じ探求の言い換えだと言っても差し支えないかも知れない

「真の自分とは?」あるいは「真の愛とは?」
結局どれ程、
肉眼視出来る世界を探しても見つからない
もし「これだ!見つけた!」と鬼の首を取ってきた人がいたら
〝それ~鬼の首〟は間違いなく「見つけた人そのもの」ではない
「見つけた人」は〝それ〟に強い愛着を持っているかも知れないが
あくまでもそれは「愛した対象」であって「愛そのもの」ではない

それが、「あなたこそ愛そのものである」という言葉の意味だ

ひとはキャッチしたものに瞬間同時に、自動的にキャッチされる
ナルホド!、「求めよ!されば与えられる!」
でもそれは「あなたが求めたモノ」であって
その正体は「あなたの古くさい過去が蒸し返されたモノ」のリピートだ
それは一見、目新しいが「キャッチした人の古くさい欲望に汚染されたモノ」だ
そのカラクリの中に、あがいてもあがいても癒されない渇きの正体がある

世界の始まりと世界の終わりとの間に「距離」や「時間」を見るなら
それは気が遠くなる程離れているとも言えるし、あっという間だとも言える
それは私たちの欲望や願望によって一瞬に収縮、拡大するからだ

世界の終わりを
「ずっと未来だろう」と思う人もいれば
「次の満月が危ない」と言う人もいる

生と死との間を延長しようとするなら、
       人は不老長寿を求めるし

生と死との間に気が狂わんばかりの遠さを感じ、
      恐怖する人なら自殺を求めるだろう

生と死とを同じコインの裏表なのだと看破した人のみが
生と死とを手に取ったコインの様に眺める生死を超えた人(無限存在)だ

人生というオモテは、
死というウラがあってこそ存在出来る

無という「始まる前、終わった後」が存在しなければ
有という現象はあり得ない
有と無とは同時に成立している

はじめから一体のものならば、はじめからそこに距離も時間も無い
だから「縮める」ことも「伸ばす」努力もナンセンスだ

結局
「不老長寿に向かうのも自殺に向かうのも・・・」同じ様なもの
      ・・・・そんな視点に立つ人こそが不老不死の存在者だ

不死とは、スーパーマンの様な「不死身の存在」になることではなく
生とも死とも自己同一化していない意識のことだ

昨日夕刻、
渋谷駅のハチ公交番の前で人と待ち合わせしている時
その隣で男女がデカいマイクをぶら下げて
   国際金融資本の悪を指摘していた・・・

彼らが求めるのは
 道行く人々の〝覚醒〟なのだろうか?
     世界の変革なのだろうか?


彼らの訴えたいことは理解しているつもりだ
そして彼らの「やむにやまれぬ気持ち」も・・・

でも彼らに問いたい
「何故人々は素通りしていくのか?」
「何故人々がコトの重大さに無関心なのか?」

実際は人々は皆、誰もが悟性を宿している
世界で起きていることを肌でちゃんと感じている
人々は情報が不足しているのではなく
むしろ情報にウンザリしているが故に
デカいスピーカーでがなり立てられている内容に興味が無いのだ

そして誰もが自分の関心がある情報だけに
無意識のフィルターを通過させているのだ

誰もが無意識のレベルで「自分探し」をしている

「自分が最も活かせる場所」
「自分が最も尊重される状況」を見つけることが
すなわち「自分にとっても、最も価値がある情報」なのだ
・・・誰が好きこのんで「その他大勢」の一員になりたいだろうか?

誰にとっても
「自分らしく生きられる、自分だけの人生の場」こそが
人生のゴールであり、それが世界の果てだ
もし人が安らかに死ねる場所があるとしたなら
そんな世界の果てに辿り着いた時だろう

そしてそのことは同時に
「自分はまだ〝そこ〟には辿り着いていない」
という焦りが、誰にでもあることを意味している・・・・

だから人はいつもせわしなく探している
自分の居るべき場所を・・・

人々に必要な行動は
社会の改善でも人類の救済でもなく
自分の居るべき場所の探索なのだ

この探索が終わった人だけが、
土曜夕刻の渋谷の雑踏の中で立ち止まることが出来る

そして
「群衆に流されずに立ち止まることが出来る」人だけが世界を変革できる

それは個人に目覚めた人だけだ

人間が何人居ても自分という存在はひとりだけ・・・・
唯一無二のユニークな、
最大限に尊重されるべき存在であることを自覚した人だけが
「自分探し」が終わった人
「世界の果て」を見てきた人
そして「新世界創造の中心」の場に立ち止まった人だ

なぜならば
そういう人にとって生と死とは渾然一体だからだ
有限な存在であると同時に無限の存在・・・

・・・謎めいた神秘主義にしか聞こえないだろうけれど

   そんな人のみにしか
   全く過去と無関係な新しい何かを始めることは出来ない
           新しい世界は生まれ出てこないだろう

そんな人が語る「愛」以外は、
「愛」という言葉は
過去の腐った定義やイメージに縛られている
それは「永遠の誓い」という結婚制度を中心とした奴隷制度に基づく言葉だ

実際自立した創造的な個人は、もはや「愛」や「神」などという
陳腐で害悪でしかないロマンティズムを振り回すことも、頼る事も無いだろう


つくづく〝時給が保証された人種〟の発想なんだなあと思う

人権、民主主義を中心とした社会保障の充実は
平和な飽食の時代をもたらした

多くの人々が飢餓をさまよう様な時代ならば
「明日の生活の保障」が即、明日の生死を左右した
 結婚制度もそんな太古からの飢餓が産み出した制度であり
 男と女が親族や友人の前で「永遠の誓いを立てる」こと・・・
        ・・・それこそが「愛の定義」そのものだった

 つまり、「愛」イコール「誓約」であり「明日への保証」だった
 女性は愛という言葉が大好きである
 寝ても覚めても大まじめで「愛」「愛」と言い続ける

なぜならそれは、
この世知辛い世の中で男性から保証や保護の約束を得ることと同義だからだ
女性は男性に愛されることによって「所有される(寵愛される)存在」となる
男性から性的に<独占される>ことで男性からの生活保障を<独占する>

しかしコンビニのアルバイトと同じ〝雇用関係〟と見なすならば
「ガム1個のレジ打ちさえ面倒くさい」という発想に当然なっていく・・・

家事も子育てもなるべく楽をしたくなると言うのが人情だろう
「手抜き」と呼ばれないギリギリまで「手抜き」したい
それがアルバイト根性だ

でも、自分自身がそういう願望を持っていれば当然夫も疑う
「自分がそうなのだから相手もそうかも知れない」と当然考える
仕事はさぼれないにしても
自分以外の女に向かって羽根を伸ばしているのではないか???

愛とは即ち〝契約〟のことなのだから、
当然「抜け道」や「不履行」もありえるわけだ
そしてそれを疑う〝権利〟を彼女たちは持っていると当然考える
愛されている女性達は、相手の男性を〝試す〟権利がある・・・
独占する権利、嫉妬する権利・・・それが、愛という言葉が意味することだった

「愛とはそんな醜いものではない」と
当然私は叱られるだろう、
でもそれならば、
それに変わる新しい「愛の定義」を私に向かって提示して欲しい

男も女も、恋している時には、愛という言葉にロマンチックなイメージを抱く
しかしそのイメージはぞっとする程、男と女では食い違っているだろう
そしてその食い違いに気が付かぬまま結婚する
結果として結婚は地獄になる

「妻とはこうあるべきだ」
「夫とはこうあるべきだ」

しかし、ひとつ男女に共通していること
それは「愛とは契約である」という概念だ
要はその「契約内容」がロマンチックに流されて曖昧であるが故に
シビアに相互認証していないだけなのだ

それは
一夜のアバンチュールならば許されるすれ違いだ
男も女も無責任な甘い同意が成立すれば良いだけだから・・・
しかし
生涯に影響する結婚では絶対に譲れない致命的な食い違いだ

女性達は今までも「愛」という言葉を連呼してきた
何のことはない、「愛」という言葉は女性たちの権利の主張に過ぎない

  「そこのけそこのけ〝愛〟が通る」   というわけだ

もし男が「愛」を連呼するならば
それは「女性の願望をそそのかす悪魔」だからかもしれない
少なくとも私はそんな「愛」を連呼する男を信用しない

男は女に対して、いつも愛の証明を「要求される」立場だ
具体的には「稼いでこい」という意味だ
だから男性は愛を語らない
男性にとって愛とは「実践するもの」であり「連呼する言葉」ではないからだ

これからも女性達は目を潤ませて「愛」という言葉を連呼するだろう
しかしその言葉の正確な意味をあなたが女性達に問い正しても
彼女たちは決して明確に答えはしないだろう
だってそんな〝ホンネ〟を露骨に言語化したならば、
男性達は百年の恋だって冷めてしまい、一目散に逃げ出すからだ

そんな事ぐらい彼女たちは先刻承知だ
「契約書類」を突きつけられて興ざめしない男性とは
「パパ活」しているお金持ちのオジサンぐらいだろう

女性達の連呼してきた曖昧な「愛」という言葉は
もはや現代ではどんどん色あせてきてしまっている
あまりにも多くの人々がロマンチックに愛という言葉を使い
もう手垢にまみれてしまっているのだ
「神」という言葉と共に・・・


このページのトップヘ