We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2018年01月

「血液型Bの人以外は牛乳を飲んでは駄目だ」という話を先日聞いてきた
「なぜなら牛の血液型はBだからだ」そうである

オーケー、私が飛行機事故か何かで生き残った時は、
B型のわたしは、同じB型の人の遺体を食べることにしよう・・・

しかし、平穏な日常生活において
「自分と同じ血液型だから」ということで人肉を食べたいとは思わない

よくベジタリアンへの反論として
「牛にしか含まれない必須アミノ酸が・・・」ということを聞くが
その理論を極端に御進めるなら
人肉こそ最高の健康食だと言うことになる

「健康とは何か?」ということを議論するなら
それはもっともシンプルな話であると同時に
もっとも複雑な入り組んだ話にもなる

〝健康〟と言う前に、死んでしまったら話に成らない

私達の先祖がまだまだ大自然の気まぐれや外敵と戦っていた時代、
とにかく気候などの環境にすみやかに適応することが、生死をも分けた
その大原則は現代でも同じなのだけれど
私達の体を環境に適合させるというよりも
環境を〝自分達用〟に〝改造〟する文明の力に
私達は大きく依存している点が、先祖達と大きく違っている

マクロビオティックでは「遠くて近いものを食べろ」というが
「共食い」とは「近いモノ」のことであり
人間が人間を食べるよりは牛や豚を食べた方が“健康への害が少ない”
同じ哺乳類を食べるよりは爬虫類を食べた方が“健康への害が少ない”
動物を食べるよりも昆虫や植物を食べた方が“健康への害が少ない”というわけだ

そして同じ種の野菜や穀物を食べるにせよ
自分達が今住んでいる環境、風土に、より適合した地元のもの・・・
つまり「近いモノ」を食べた方が、
私達の身体にその植物たちの環境適応力を得られて「健康になれる」というわけだ

    自らの身近なモノを地産地消で食べる・・・実にシンプル!

そしてそれは大昔から単にサバイバルに有利なだけではなく、
自然に健康で暮らす選択でもあった

わたしたち人間は自らの快適さのために環境を破壊してしまったが故に
自分達の健康(環境適合能力~強さとしなやかさ)をも失ってしまった

「ハンバーガーなどの肉類の毒消しに、実はコーラが有効だ」とも聞いた
それをマクロビオティック的に言えば「極陽性に極陰性をぶつけて中性を保った」
に過ぎず、それは
「一応バランスは取れたから死にはしないが〝健康になった〟と言う意味ではない」
っとマクロビでは説明する


不自然な環境破壊ゆえに私達は「科学的な知識」で健康に戻ろうとあがく・・・
それはまるで「肉とコーラの関係」の様だ

それによってとりあえず「死にはしない」かも知れないが
それをもって果たして「健康になった」と喜んでイイものだろうか?

「牛肉にしかない必須アミノ酸を、牛の死骸を食べて補充する」
これはまさしく
欧米的植民地思想、略奪文化、足し算だけの栄養学、切った貼ったの医学の発想だ
その発想の中心には旧約聖書的「神に作られた人間」を中心に据えた思想がある
あらゆる自然環境、あらゆる生命体を
「人間の犠牲にしても良い」というエゴの発想だ

「しょうがないじゃないか?人間誰しも自分が一番大事なんだからサ!」と
だれもが肩をすくめている・・・だから今の社会がある

・・・ところが、この発想を延長させた行き着く先は
   「人間が人間を喰う」世界である

それがアメリカ人がインディアンを虐殺した歴史であり、
アフリカから黒人を拉致して奴隷にしていった歴史になっている

金融支配とは何か? もともとそれは人類奴隷化の歴史だ

お金の正体とは
「スマートに人間を奴隷化し、喰いものにする」システムの根幹を担っている
それは
銃でインディアンを虐殺し、土地を略奪し、
鞭で黒人達を服従させてきた・・・その銃や鞭の合理的な代用品だった

それはエゴに取り憑かれた人間の「飴と鞭」だった
それは「人が文化的で健康を維持するための〝必需品〟だ」と誰もが信じている
でもその背後に隠れているのは「人が人を喰う」発想だ

しかし、
「共食い」は、完全なる「純然たる悪魔の思想」なのか?
                 といえばそこにも異論はある

性欲も食欲と近い要素がある
セックスとは「男と女が相手を食べ合う」行為だとも言える
そしてそれは「愛」や「食事」についても延長可能かも知れない
「喰う者と喰われる者」との間には
深い所には霊的な同意、約束、愛の絆があるのかもしれない

私は冒頭に「死んでしまったら健康どころではない」と書いたが
ひょっとしたら「死」と「健康」とは深い所では重なり合っている

「なるべく遠くて近いものを食べるべき」、という
マクロビオティックのセオリーをわたしは上記で紹介したばかりではある・・・
しかしそれでも、「命は命から頂く」という大原則は変わらない

・・・そうみれば「共食い」である

わたしたちはサラダを食べていると同時に
「サラダに食べられている(肉体を提供している)」のかもしれない

毛虫はカエルに食べられることによって
カエルのボディーに「乗り込む」のかもしれない・・・



はたして「相手を喰う」こと、イコール「殺すこと」なのか?
むしろ「自分の中に〝生かす〟こと」なのかもしれない

もし、健康の定義が「生と死の両方をまたぐ」ものならば
わたしたちはそこに様々な統合を見出せるだろう
その〝統合〟こそが、まさしく「健康とは何か?」という問いへの解答かも知れない



 要は
 「差別的な意図が有ったか無かったか?」が
  ポイントでは無いと言うことだとおもう・・・

  不愉快にさせてしまった相手がいたら
 「ゴメン、差別的な意図は無かったんだよ!」 と
  弁明するまではいいだろう

  問題はその後だ
 「差別的な意図はなければ無罪だろ?」というのは
             いかがなものだろうか?

「笑い」・・・ユーモアというのは、
人間性の精神のもっとも高度な開花なのだと思う

だから「何にユーモアを感じるか?」ということが
そのひとの魂の洗練された度合を計るバロメーターだろう

わたしは創価学会員のダウンタウンに
一度たりとも、クスリとも笑いを感じたことはない
彼等の提供する愚劣なギャグには不快感しか感じたことがない

ユーモアの要素の中心には、一種の「意外性」や「毒」がある
その「とっさに毒の成分選定とその量を調合する〝混合比率〟」こそは
まさしく「知性、教養の高さ」「センスの良さ」に掛かっているだろう

そしてその笑いが含む「毒への耐性」は、個々人で違うだろう・・・
ある人は高笑いするし、ある人は怒り出す・・・
とりわけ人種差別などは、
移民の国アメリカにおいてはデリケートなところであり
全く同じ「お笑い」であってもTPOによっては地雷になってしまう
笑いの提供者のみならず、むしろその笑いに立ち会う観客こそは
そのひとりひとりの知性やセンスが問われる・・・

自らの死への直面という「猛毒」さえも笑いに転換出来る人とは
まさしく悟った人なのかも知れない

60.Laughter   笑い

※ 前記事の補足的な内容だけれど・・・

 「神は微細に宿る」という言葉がある
  通常は非常に細部まで行き届いた職人芸などの
  「神業」をたたえた言葉なのだが
   前記事を書き終えて別の意味が浮かんだので
    ここに書き留めておきたい

人は何かと「法則」にしたがる・・・・
過去の経験率を集めて未来を推測したいという
    飽くなき野心が人間に常にあるからだ

ひとたび「法則」を唱えはじめたら
それを出版したり、講演したり・・・
結局そんな法則の読者や、講演、セミナーの聴講者の誰よりも
出版した人、講演したセンセイ本人が一番その「法則」で
大儲けしたりするわけだ・・・・

しかし999回ニワトリにエサをあげた人間が
1000回目もエサを与えに来てくれるとは限らない

まさしく千回目に、人間はまるまると太ったニワトリを
絞めに来たのかも知れない・・・

だからOSHOは
「確率論など当てにするな!」
「過去のデーターの蓄積など何の保証もしてくれないぞ!」
「いつも醒めていなさい!、油断するな!」と警鐘を鳴らし続けた

法則を唱える研究者は999回の〝実績〟を指さす
99.9%の成功率、命中率、実験の再現性を言う

しかし千回目は全く別かもしれない
わたしたちが絞め殺されるニワトリである時、
わたしたちは「まさか!」と薄れゆく意識で思うかも知れない
しかし「絞め殺す側」にとっては千回目こそがまさしく本命、ホンバン。
           ・・・・・当然の計画を実行したに過ぎない

法則には必ず「破れ」がある
セオリーには必ず「例外」がある

それは確率論的には0.1%に過ぎないかも知れないが
実はそれこそが致命的な100%~ものごとの全てを支配しているのだ

神の真実は常にその「一厘」にある・・・
すべてを意識している者だけが知っている・・・
その「微細」のなかに全てが宿っているのだ・・・

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受け入れの法則
山川紘矢
リンダパブリッシャーズ
2016-09-13


〝受容性〟と言うことに関してOSHO程、言葉を費やした人はいないだろう
女性原理としての受容性の重要さは男性原理的な探求性を超えた価値がある

しかしOSHOはまた「リベリアス・フラワー(反逆の花)」でもある

生物の進化において生存競争、適者生存の厳しい自然のルールは
種族としての様々な多様性を産み出したが、
〝生き延びる〟創意工夫というのは、あくまでも
〝自然のルールが〟もたらした自動的な進化に過ぎず
それは生物形態や生活様式、集団意識としての進化しかもたらさない

とりあえず〝餓え〟〝外敵〟〝暑さ寒さ〟といった
生存を脅かす危険信号から解放されつつある私たち人間に
次に突きつけられた課題は、〝個〟としての意識的進化だ

「いつかどこか(種族の繁栄)」から「いまここ」へ・・・
この進化の垂直的な方向転換の、私たちは今真っ最中である
ここにはマニュアルテキストも地図もない、全く新しい荒野がある
ひとりひとりが前人未踏の危険な、莫大な自由が突然突きつけられる

以下の写真は、今朝代々木の三丁目で通りかかったお寺の前を撮影したものだ
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日本人評論として聴かれるひとつは血液型Aの農耕民族特有の
「同質社会」「無言の同調圧力の社会」であり
それは異質~変な人を村八分にする、いびり殺そうとする風潮だ

ここでは「リベリアス・フラワー」はけして開花しない
開花する前に大概いびり殺される

「受け入れの法則」というのはある意味でこうした同調圧力の社会の中では
「心地よい当然のマナー」の様に受け取られることだろう

「法則」と言った時点で私たちはそれを金科玉条の如く、錦の御旗の如く
得意満面に振り回す悪い癖がある

「法則」として祭り上げた時点で、真実は死ぬのだ
そして「変な人」「リベリアス・フラワー」も血祭りに上げられる

現在のニートと呼ばれる人種は必ずしも現代だけの現象では無いと思う
大昔から生産性や社会的動機付け、所属性に違和感を感じ、
夕暮れを眺め、夜空を見つめる存在はいたはずだ

必ずしも詩人的ではないにせよ
「変な人」「ハグレもの」はずっと昔からいた

しかし社会が飢餓や天候と闘っている様な時代、
彼等の存在は足手まといだっただろう

「ヘンな人達」は部落を作って(棄民されて)生き延びたり
あるいはそれがヤクザ社会の原型になったりしたはずだ

「フツーの人達だけがフツーに暮らす権利がある社会」だった
  でもその極端なまでに同質社会だった日本だからこそ、
            いま、その限界も来ている

いま誰もが社会の規格品として機能することに違和感を感じているはずだ
政治的発言権を得るためには、だれもがどこかに所属してマジョリティーになる
・・・「頭数を集める」ことが民主主義の基本的なルールだが、
    本当にそれがフェアな社会だろうか?

結局それは洗脳の上手なカルト宗教に社会が乗っ取られるという結果になっている
それらすべてに「受け入れの法則」で果たしていいのだろうか?

結局のところ〝法則集〟というのはロボットを、兵隊を、頭数を量産するだけだ
私たちは価格競争しか能が無い大量生産品はもうウンザリする程持っているし
ましてや自分たち自身がそんな規格部品に成り下がる生き方を望んではいない

OSHOは
「心からの自発的な受容で無い限り、そんなものは受容とは呼べない」
とクギを刺しているが、「法則」に盲目に飛びついてしまってはそれは見えない

勢いで何でも「イエス!」と叫ぶ時、同調圧力の中、みんなで叫ぶ時・・・
本当は誰もが自分自身に〝微妙なウソ〟を付いているはずだ
その〝微妙なウソ〟が折り重なっていった時、
もう本当の「心からの(内発的)受容性」を見つけるのは難しい

文明と文化とは日本語的字面としてはよく似て見えるので
私たちは普段あまりその違いを意識していない

しかし英語だと
「カルチャー(Culture)」と「セベライゼーション(civilization)」なので
まるで違う

五井野正氏によるとcivilizationの語源的な意味は「都市化」なのだそうだ

スタートレックのオープニングでは
to explore strange new worlds,
to seek out new life and new civilizations,

そこには人類の想像を絶する
新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない。
と語っているが
もし私たちが銀河を飛び回れる程の宇宙船で未知の知的な生命体との出会いを
探し回るなら、一番分かりやすいのは「ハイテクな都市が建設されているか?」であろう

「ぱっと見て判る」のが文明だが
ひとつの国の文化というのを理解するのは並大抵のことではない
未知の言語の習得が難しい理由もそこにある
たぶん「文明的な単語」ならば私たちはすぐに共通項を見つけられるだろう
なぜなら利便性を求めたテクノロジーならばある程度「考えつく結果は同じ」だからだ
ところが文化となると、そこには想像を絶する歴史や発想が込められている

もし「文明と文化との違い」を単純、端的にまとめるならば
文明とは知性の時空間的「広がり、膨らみ」であり
文化とは知性の意識的な「深み」「高み」なのだと思う

アメリカインディアンは、貪欲で邪悪な白人が侵略してきた時
彼らにあがなうだけの文明の利器は持っていなかったが故に
皆殺しにあってきたが
彼らの精神文明は極めて高かったのだろうと言われている

文化というものはOSHOがいうところの「花の強さ」を持っている
それはあっさりと手折られてしまい、文明によって焼き払われてしまうだろうが
 利便性、機能性を追いかけただけでは決して生み出せない、
  香りとみずみずしい美しさをスピリチュアルに表現出来る

文明の危険性と破壊性、自己増殖する暴走性を、
文明とは全く違った「強さ」によって牽制できるのが
文化を深め、守り抜いてきた民族がなせる技だと思う

そういう意味で
アメリカインディアンの丁度真逆なのが現代の中国人だといえる
「文化大革命」と銘打って
知性の深みを唯物主義的に根絶やしにしようとした結果が
現代のモラルも何もかなぐり捨てた銭ゲバの成金中国人達の成れの果てだ

文明の発展を追いかければ追いかける程
「文化とは何か?」人々は忘れ去っていき、考える人さえいなくなるだろう

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