We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年12月

最終的な闘いとは from Katal Maneel on Vimeo.


地球を守る闘いは
ただのミリタリーバランスじゃない
ただの知恵比べでもないし、根比べでもない
最終的には価値観と価値観との闘いになるんだ・・・・

わたしは誰が悟っているだの、まだ悟っていないだのの評論には興味は無くなったが
幸運にも「ああ、この人悟ってるな」と確信をもった人物と何人か出会ったことがある

そう感じられた人達の共通項に今朝ふと、気が付いた
彼等、彼女らは性別を問わず皆、一様に
「全身がカミソリの様な鋭い感性に満たされていながら、
 同時にとてつもなくスゥイートな優しさを持っていた」ということだった

OSHOは「悟った人の唯一の物理的共通点」として
「愛に満ちている」と言ったが、
私が感じた彼等の共通点とは、まさしくそれかもしれない

つらつらとそんな想い出を巡らせていたら、
(きっと彼等のエネルギーを呼んだのだろう)
とっさにこんな事に気が付いた・・・

人はなぜ思考するのか?人はなぜ語ろうとするのか?と言えば
その理由は
「誰かに聞いてもらいたいから」
「誰かに理解して欲しいから」だ

・・・じゃあ誰に?

答えは簡単だった、
究極的には
「自分自身に」である

わたしたちが生涯を通じて最も渇望し続けているもの・・・
 ・・・それはまぎれもなく自分自身からの愛と理解だ

でもそれは逆を言えば、私たちは
自分自身の心の声を
ちゃんと聴いてあげていない
からこそ
心のおしゃべりが停まらないのではないだろうか?

気が付けば私自身も自分自身の心のおしゃべりを「五月蠅いなあ」と
迷惑がってそっぽ向いているところがある・・・

もし瞬間瞬間の自分自身をわたしが受け入れていないとしたら
まさしくそのことなのではないだろうか?
なぜそのことに今まで気が付かなかったのだろう?

自分自身を受け入れる、自分自身に素直になるというのは
儀式的に一回すれば、ハイそれでオシマイというものではないのだ
     ・・・・・それは永遠に続くプロセスなのかも知れない

昨夜見たドラマ版「スーパーガール」の一幕では
「世界秩序の目的のためには手段を選ばなくなりつつある」主人公に
ジミーオルセンが苦言を呈する

「最終的には価値観と価値観の闘いなんだ!」

もしそのとき
「目的のためには鬼になる、手段を選ばない」ならば
そのとき人々は共感出来るだろうか?

まさしく「目的と手段との分離」が葛藤を発生させる
そこで目的や動機がたとえ正しくても、もうそこに正義はない

そのとき自分自身の中での
全身全霊で言える「イエス」などあり得ないのだ

cap_最後の闘いとは_00_01_02_03

私たちは日常の中で様々な場面に直面する

中には緊急を要する状況や悲劇的な状況もあるだろう
そしてその状況に対して何らかの対応を迫られるだろう

わたしは
いままで色んな状況を想定(シュミレーション)して
色んな質問や対応方法を、色んな人に質問してきてみた・・・

だれもが挑戦を受けるのが大好きで
その挑戦に勝利するのが大好きだからだ

人々は自分がひとつのゲームやドラマの場面の主人公になったつもりで
さまざまな、その人なりの回答をしてくれた

でもそれらの質問に
わたし自身が回答するならば、
その回答は常に
「わからない、その時に実際に直面して見なければ判らない」である

あらゆる状況は
ほんの僅かな違い
致命的に大きな判断の変更を余儀なくされるからだ

シュミレーション訓練とは実際の場面において
躊躇しないため、あたふたとしないためには確かに有効だ
例えば戦闘訓練、何かの操縦、操作など、
パターンにはまった訓練はある種のスコアー(点数)を上げるのには有効だ
・・・しかしこれは複雑怪奇な、新鮮な状況に対しては
         ある種の鈍感さを蓄積させる

過去にあらかじめ決めておいた覚悟、決心、反応パターンは
たしかに役には立つが、そこにいるのはロボット化された私たちだ
 ・・・これが〝訓練〟〝学習(パターン認識)〟というものの成果だ

わたしたちは
蓄積された過去のパターン認識の中で生きている
これは〝生きている〟というより、単に〝動いている〟に過ぎない
これが「退屈な繰り返しの日常」の正体だ、原因だ

わたしたちはいつも
何かを求めて動いているが、新鮮に生きている感覚はしていない

いままでの人間の歴史とは
バイオロボットが、
また次のバイオロボットを
生産し続けてきた歴史に他ならない
・・・そのプロセスを私たちは教育なのだと思ってきた

ただ闇雲に過去を蓄積し続けてきた
「過去を蓄積し続けること」そのものを生命の究極目的だと思い込んできた

いつも未来は過去の蓄積のために費やされてきた
それが欲望というものの正体だ

それゆえに私たちの目の前は常に腐って死んでいるとも言える
わたしたちは「分からない」「知らない」と素直に言えない
それは常に「分かる」「知っている」と胸を張っていなければならない
そうでないと不安だからだ
だから未知を未知と認められない、
「過去に観た何か」と比較分類してしまう

新鮮な直面を拒絶し続けているのは常に私たち自身だ
私たちはいつも「知ったかぶり」して生きている
私たちはいつも「訓練されたオトナだ」として生きている
私たちはいつも未来に対して緊張し、身構えて生きている
本当は一瞬一瞬が「どうしたら良いのか正解など知らないで」いるくせに・・・

だから私たちの人生は腐ったままの連続なのだ
わたしたちは過去に製造され、プログラムされたロボットなのだ

皆さんにとってハグとはなんでしょうか?

わたしにとって・・・
(あくまでも「わたしにとって」ですが)
それは握手と同じ西洋から渡ってきた政治的習慣です

握手とは必ず右手ですると言うことが今でも基本ですが
右手とは武器を持つ手、攻撃的な手です

これをお互い同時に封印すると言うことが
  握手と言うことの基本的な意味ですが

     ハグはその延長線上にあります

お互いの背中に両手を回すと言うことは
お互いが背中をノーガードにすると言うことです

これは平和外交的のジェスチャーです
ボクシングの試合での「クリンチ」です
これはあくまでも「見せかけ」「一時的休戦」「外交政治」です

仲の良い夫婦ならば、いちいち人前でこれ見よがしにキスしたり
ハグしたりするのは社会的に「目障りなエチケット違反」だと解っている
目配せし合うだけで互いが互いの持ち場でどうすべきか?
それが瞬時に解るのが真のパートナーシップでしょう

べたべたスキンシップしたければベットの中ですれば良い
親密さというのは他人や相手に〝見せる〟ショーではない
セックスも当然、昔ならストリップ小屋、
今ならエロビデオの中だけであって
つまり他人に見せつけることが利益になる場合だけです

だからわたしは他人のハグを邪魔したりケチをつけるつもりはないが
自分自身は違和感を持ってハグを見るわけです

 夫婦が握手したりハグしたりするのは
 離婚が成立した時ぐらいじゃないでしょうか?

 全くのアカの他人でさえ
 ホンモノの、心からのハグが成立するのは
 「明日世界が終わることを皆が知っている時だけ」ではないでしょうか?

誰もが昨日も無い、明日もない時・・・・
そんな強烈な自覚を持って瞬間瞬間を生きているなら・・・

 その時が来たならばわたしも街に出て
  誰彼構うことなく
   道行く人全てに万感の思いを込めてハグし合うだろうと思います
big_22331
img_1

映画「ノウイング」 ラストシーンより

 「思い通りになりすぎて、
   思い通りにならない世界を体験しようと、
    思い通りにならない世界を作る時点で、
      ・・・思い通りになっている。」

つまりこれが私たちの現実
人生は「ノー」も織り込み済みで
巨大な「イエス」がループしている

  そんな出口のないイエスの連鎖の中で
     祝福とは何か?

  つまりそれが〝ハプニング〟ということだ

この数ヶ月感で出会った人々には、ある共通の特徴が有った
それは「自分は絶対的な基準(神、最高の師)を見つけた!」と
得意満面になっている、っという点だった

いわゆる求道者とは、
みな「絶対的な基準探し」をしているといえるかも知れない
そしてそれらしきものが見つかると?・・・得意満面である

私自身も恥ずかしながら何度もそういう増長慢心に陥った・・・
・・・それはわたしが劣等感が強かったからだ
   誇れる〝何かsomething〟が欲しかったからだ
   不安で孤独だったからだ
   人生の手応えに餓えていたのだ・・・

    だからわたしは「求道者になった」と言えるかも知れない

   だから「絶対的な真実を見つけた!」と得意になっている人々を
   わたしはバカに出来る立場ではない

ひとは誰もが寄る辺なき存在だ
だから頼るべき絶対的基準が欲しいものなのだ・・・

  恋愛の黄金律・・・
  健康の黄金律・・・・
  ビジネスの黄金律・・・・・

そうすればそこから「絶対的な未来」が保証されるではないか?
そして「見つけた!」と自負した人は
今度は慈悲心として、人々の教師になろうと自負する
・・・人々を教え出す

  そして、より深く、より深くと永遠の探求の道が続く
  今度は弟子達と共に

 でも私から観れば、
「教師になってしまった時点でもう探求は死んでいる」と思う
「これぞ絶対的な宇宙の法だ!」と宣言した時点で、もう結論は出いている
ヒエラルキー、白い巨塔が見えてきた時点で、それはもうバベルの塔だ

私たちが本当に凝視するべきなのは
「なぜヒエラルキー(階層)、白い巨塔を私たちは築いてしまったのか?」
                     その最初の動機だと思う

  「何故?探求を始めたのか?」

 その「はじめの一点」を誤魔化し無く打ち抜いたなら
 すべてのバベルの塔は瓦解するだろう

major_16


「人生に究極の目標、完全な理想、絶対的な解答はあるのか?」
「あるとしたなら、わたしは生きてそこにたどり着けるか?」
「あるとしても、わたしは本当にそれを得るにふさわしい人間なのか?」

私たちはいくつもの仮定、いくつもの仮説、
無限大の期待と不安を潜在的に秘めて〝探求〟をはじめた・・・

そんなものありはしない、
そんなところにたどり着けるわけがない、としたら
じゃあ、
〝ありもしないそこ〟
〝辿り着けるはずがないそこ〟に向かって
    旅をはじめる意味があるだろうか?

本当は私たちは出発時点から、
すでに目的地のホテルに電話かネットで「ご予約」して旅立ったのだ
だからもし「私は辿り着いた!」と宣言するならば
それは「その人自身がはじめから抱いていた条件」と一致したに過ぎない

それで
ジャーニー(さすらい)と言えるか?
アドベンチャーと言えるか?
純粋なクエストだったと誇れるだろうか?
   ・・・宿泊先を予約して??

探して得た回答なんて
単にオーダーした商品が到着しただけだ
でもそんなAmazonのネットショッピングみたいな行為が
       本当に、純粋に〝探検〟といえるだろうか?

本人は「大冒険した結果だ」と主張するだろう
でもそれらは、
「自分で作り出したRPGの夢の中」での話じゃないだろうか?

それはどこまでもどこまでも自分自身の欲望を投影した
閉じた球体の内側での堂々巡りだ

このページのトップヘ