We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年10月

テクノロジーが人力、人手を省略化してきたのは
何も現代に始まったのではなく、人間の文明の始まりからだった・・・

だから企業が人間を必要としなくなる前に、
そもそも個々人が、生身のニンゲンと、
その関係性からの依存性をどんどんと失っていった

たとえば独身男性であるわたしは、
炊飯器、冷蔵庫、洗濯機、掃除機・・・

・・・どんどんと
   母親も、嫁さんも、
   家来も、奴隷も、家政婦も、従業員も・・・
     、 不要な生活を手に入れていった

「AIが人間の仕事を奪っていく・・・」と
   欧米社会では戦々恐々としているが
    つまりそれは「いまさら?」な心配だ

「人間を必要としない」
イコール「人間性の疎外だ!」という解釈も確かに出来る

しかし、
この様に「人間を雇うことが〝より贅沢なこと〟」になっていくと
それは「人間らしさの復興~ルネッサンスだ!」と解釈することも出来る

人間にとって人間への依存、人間関係、人間社会への依存は
もはやどんどん「贅沢品」になり、
それはつまり「必需品ではなくなった」と同義だ

個々人が、
より自らの独自性~インディビュアリティーを開花しやすくなる事は
喜ばしいことではある

   ・・・それは社会的な一体性、集団的な団結力を
         脅かすかのようにも見える、のだが・・・

その「脅かされている」最たるものが「結婚制度、家族制度」であり
ロボットに置き換えるのが最も困難な、
生身の人間同士だけでしか不可能に見える、
性的、血脈的な繋がり、情動、情緒的、心情的な関係性だ

全身が麻痺している人の介護は、生身の介護士にも困難を極めるが
それすらも〝賃金の安い外国人労働者〟(ハッキリ言って奴隷)ではなく
これからはどんどんとテクノロジーがカバーしていく時代になるが
介護される人が最後に残すかも知れない不満が「人の温もりと微笑み」だろう



家族制度の優秀さとは端的に言えば「介護」「終末医療~ホスピス」だ
人の欲望の終着点とは「ひとり寂しく死にたくはない」だろう

  だれだってこの世界を去る時、
  「自分は孤立していなかった」
  「自分は必要とされる存在だった」と実感しながら死にたい

   ・・・この「世界との絆の実感」こそが最終的な人の欲望、
                つまり「贅沢品」かもしれない

              哺乳類的な「モフモフした悦び」だ
             それを私たちはペットショップで探す

  でも逆を言えば、この〝最後の、究極の欲求〟からさえ卒業出来た時・・・
つまりそれは、この〝世〟からの卒業への準備が整ったと言えるのかも知れない

なぜ私たち日本人は食いしん坊なのだろう?
なぜ世界中の食文化が日本に集まっていて
なぜ世界中のシェフのトップに日本人が多いのだろう?

。。。つまり食文化の世界的な源流が日本だからなのではないだろうか?

物理的には子供とは親から産まれるのであって、その逆ではない

だから
子供が親の延長線上にあるといって肯く人は多いだろうが
親が子供の延長線上にあるといっても同意する人は少ないだろう

だから
私たちひとりひとりが「人の子」として
「親とは自分の延長線上の存在だった」と気が付くべきだ

「自分が親の延長線上(影響下)にあるコピーだ」という自覚は
物理的には正しく見えるが、それは私たちが子供であり続けることを
受け入れてしまっている証拠だ  

そしてそれは同時に自分が親の影響を受け入れ続けていると言うことでもある

 「受け入れる」というのは受動性を意味しているので、
  そこに自己責任を自覚するのは難しい

  しかし「親に限らず、〝何か〟の影響を受け入れる」というのは
   受動的、消極的にであろうが、
   能動的、積極的にであろうが関係なく、自己責任なのだ

  そのとき私たちは
  「親とは自分の延長線上にいる存在に過ぎなかった」
   っという自覚に至る・・・

・・・その瞬間から、私たちは
   「子供だった自分が親との連鎖を断ち切り、・・・」独立したヒトとなる

・・・その瞬間から
    物理法則としての因果の法則とは逆の「逆因果の法則」が成立し
    そして「因果律」と「逆因果律」は打ち消しあって、時間は止まる

若い時の私は焦っていた・・・

世界はこんなにも広く、人々はこんなにも多かった・・・
学ぶべき事は沢山あるはずなのに、わたしは遅々として学びが進まなかった

いろいろな経験をしたがっていつも焦っていた
そして日々が変わり映えがないことが、孤独で不安で、退屈だった

でもその反面、若い時から
「人が学べることは決して多くはない」とも感じていた
・・・当然ながら個人の認知には限界がある

もし、神というものがいて、
この限界だらけ、制限だらけのわたしたち人間の短い一生の間に
〝すべてをまなべ〟というのなら、それは何ともご無体な話だ

人が一生の間に学ぶべき事、特に重要なこととは決して多くはないはずだ
そしてたぶんシンプルなことなのだ

そしてわたしにとってそれは
  「知らない」ことを「知らない」と答え
  「解らない」ことを「解らない」と答える勇気だ
  ・・・究極的に考えるならそれだけが有ればいい

だから私は多くの無知を抱えたままだが、それでも心配しない様になった
「私は知っている」という人に敬意を払うことはあっても崇拝することはない

一つの世界でわたしより経験者であるならば・・・

 たとえば
  わたしが囲碁の世界の入門者であるならば
  相手が例え小学生であっても、わたしよりも上段者であるなら
  その小学生に経緯を払って、囲碁を教えてもらうだろう

  かといって、その小学生が増長して威張りだしたなら不愉快になって
  わたしは「囲碁の先生」を変えるかも知れない

私自身のこういった経緯から言って
年齢が上であるとか、その道の権威者であると言って威張り散らしている人間とは
愚か者以外ではあり得ない・・・たとえその知識や経験が如何に偉大であってもだ!

「知っている」ひとこそ、その世界の広がりを理解しているはずである
つまり「謙虚」であるはずなのだ ・・・わたしは「謙虚」なひとを尊敬する

単なるぶりっことしての「謙遜」ではない、ホンモノの謙虚さとは
「私は知らないと言うことを、より深く知っている」ものだと思う

  それがわたしの人物の基本的な評価法で、
   この評価法に確信を持ってさえいれば、「百戦危うからず」なのだ

しかしひとは往々にして権威や、その恫喝に弱い・・・
誰もが大なり小なり自分の「小ささ」を知っている、そして他人と「比較」している
人生に絶対的な確信を持って生きている人なんてそう多くはない

では「確信を持っている」ことが「エライ」のか?というと別にそうではない
単に「威張っている」人とは「井の中の蛙」なのだ
その同じ「井戸の中」に入っている人だけが、そのカエルを褒めそやす
     「ご立派ですね」「大層な知識とご経験ですね!」っっっと・・・

  他人を褒め讃える人間の動機なんて、
  「相手に良く思われたい」「そして取り入りたい」とか
  「メンドクサイからおだてておく」とか・・・
  あるいは「自分自身もいつか権威者になって褒められたい」からとか・・・

でも、その「井戸の世界」の大小さえも、実は相対的なことに過ぎない
 マクロな世界だろうが、ミクロの世界だろうが
 メジャーであろうが、マイナーであろうが
 バーチャルであろうがリアルであろうが・・・

ところが、なかなかその確信というのは人生で持ち得ないものなのだ
「偉大なもの」と「矮小なもの」、「聖なるもの」と「俗なるもの」・・・

・・・わたしたちは様々な「井戸の世界」には〝大小〟があると思っている
   だからいつまでも井戸の中にふんぞり返った親分ガエルの存在を認めてしまう

でも、本当に偉大な人は「謙虚」だと私は思う

 そしてその「謙虚さ」そのものこそが
  本当のその人の〝魂の年輪〟つまりは、〝偉大さ〟なのだと思う


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