We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年09月



私たちの悲惨さ、
世界残酷物語」はそのシンプルさから一歩を踏み出した時から始まった
「モア:もっと」を考えはじめ、
 過去から未来への時間的な継続を考えはじめた時から
             わたしたちの人生は始まった
つまり
「自分の人生は限られている・・・」
「・・・だけど、もっと!」と意識し始めた時から心理的な時間が始まったのだ



だから、パラドックスなのだけれど
 この心理的な時間、「モア=明日」が終わった時が
 わたしたちの「限られた人生」の完全な終わりの瞬間でもある

アンディーウィリアムスの名曲内の歌詞では
「僕ほど誰も君を愛せやしない」というラブソングになっているが
実際には「比較級:more」や「最上級:most」といった言葉の中に、愛はない

  ・・・「ああ、この菓子は実にウマい!」
      そのONE&ONLYの至福の中にしか愛はないのだ



それがきっと
OSHOが言うところの「究極の死」でありカルマの終焉だ

  それは必ずしも「肉体の死」を意味するわけでは無い・・・ 
    ・・・ただ、「肉体への執着~わたし」が死んだだけのことだ

そのとき
 私たちのあれこれは終わる
 わたしたちはその時、再会する
再び「あなたがいてわたしがいる」だけのシンプルな世界に還れるのだろう

落ち葉をブロワーで集めていると、
まるで落ち葉が生き物のように見えることがある

 わたしたちは動いているものに反応する
 わたしたち自身が動物だからだ・・・

 植物は知識としては生物だと知ってはいるが
 一見まるで静止しているから気にも留めない
 その色彩や造形を見て、生き生きとした感じは受けるが
 我々と同じタイムスケールで変化する〝動物〟ではないからだ・・・

 だから植物に代わって蝶々や、その他昆虫が
 まるで「動く植物の分身」であるかの様に感じることが私はある

ブロアーが起こす風は複雑な干渉波である程、
地面にへばりついた落ち葉を揺すぶり起こし、
まるで生き物のように踊り出す・・・・

その「落ち葉のダンス」を見ていると
ふと「生命現象とは波である」という言葉を思い出す

2017-09-22 (1)

私たちはいろいろ考える・・・
「考える」と言う自分達の〝脳内の動き〟を自分たち自身で自覚するから
私たちはそれをもって「自分は生きている」と確認している。

 思考の波に目を奪われ続けているから
「生きている」という確証を持ち続ける・・・

でもそれは「ブロアー(吹くもの)に突き動かされた」物理現象に過ぎない
その「目を奪われた」その目… 意識それ自体が私たちであるはずなのに・・・

OSHO 祈るように愛を交わし、それを目撃し続けなさい from Katal Maneel on Vimeo.


(タイトルは「五井野正著「七次元の使者」序文から拝借)

だれでも落ち葉掃き掃除をしたことはあると思う・・・

落ち葉掃きはとても難しい・・・
そしてとても学ぶべき点が多い作業だ

わたしはマキタの充電式ブロアーでやっているが・・・



基本、たとえ竹箒であっても「風の谷のナウシカ」のように
〝風向きの流れを読む〟事が肝心だ

動画の通りブロアーは竹箒よりも効率よく落ち葉を集められるが
それでも〝自然な風の流れ〟に逆らうとバッテリーはすぐに干上がってしまう

しょせん
人工的に作り出した風の流れは自然な風の流れに逆らうことは出来ない
〝逆らう〟のではなく、その流れを上手く読んで、それに準じたガイドをすれば
落ち葉達は面白いように集まってゆく・・・ そこにこの作業の醍醐味がある

落ち葉と戯れる
キュートなライオンの赤ちゃんの撮影に成功。・゚・(ノ∀`)・゚・。

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そして、「自然の風の流れに沿った落ち葉掃き」をする上で次に重要なのが
「最終的にどこに落とし込むか?」だ

回収のために箒やちりとりが上手く使えるところ、
せっかく集めた落ち葉が一陣の風でまた散らかったりしにくい場所、
ブロアーが起こす風が無駄なく無理なく集めやすい〝吹きだまり〟になる処・・・

・・・まるで羊飼いになった気分だ

せっかく集めても、エントロピーの法則で、また落ち葉は四散してしまう
それは落ち葉でも羊たちの群れでも同じだ
そうならないように上手に「羊たち」を追い詰められる場所・・・
そこをよく考えて、キチンと設定しなければ作業は埒が明かない・・・

ブロアーを使いながら、「落ち葉の群れ」をリードしていく作業は
さながら「羊たちの群れ」を吠えながらリードしていく牧羊犬の様だ

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落ち葉掃きという、ごくありふれた日常的な所作の中に

   「流れを意のままに操る ~人事を尽くして・・・」という要素と
        「流れに任せる ~天命を知る」という要素とが
              渾然一体となっている・・・

55.Sex


夢を見た


そのポイントカードは、有名なカードで
誰でも名前は知っているはずだった・・・

そのポイントカードは誰でも持っていて
人生の様々な経験をポイントに還元し、
例えば良いこと、嬉しいことがあるとプラス
悪いことをしたり、苦しいこと、悲しいことはポイントはマイナスされるのだ

わたしはその長い長い夢の中で実に様々な体験をして
そして夢の終わりにそのポイントカードに
ポイントが幾ら溜まったのか?照合してみた

するとそれは「ポイント残高、ゼロ」だった・・・

夢の終わりに呆気にとられながら、わたしは夢から覚めていった・・・

そのポイントカードの名前は誰でも知っている!
たしかカタカナ四文字だったような・・・ でもどうしても思い出せない!!


目が醒め、その長い長い夢を反芻し、
その単純なカタカナ四文字を思い出そうとするがやっぱり思い出せなかった
                  ・・・誰でも知っているはずなのに!

私たちは皆、ゴースト・・・霊だ・・・ゼロであると言うことが本性だ
だから途中のプロセスがプラス幾つだろうがマイナス幾つだろうが
最終的にはその本性、ゼロに戻る、 ・・・と言うことなのだろう



でも、私たちは肉体というシェル:貝殻の中にいる
だからその本性が無限のゼロであっても、「守るべきもの」が発生する
あるいは「守るべきもの」「攻めるべきもの」があるから
鎧をまとったのだろうか?


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いわゆる〝危険ドラッグ〟を試したことはあるだろうか?
種類は無数にあり、もちろん所持するだけで非合法なものもあるが
その個性は様々だが、いわゆるサイケデリック・ドラッグとは一様に
〝意識の拡張剤〟である

アルコールだって広い意味では
「気がデカくなって笑い転げたり、ケンカをふっかけたりする」という点では
サイケデリクスという程ではないが、紛れもなくドラッグの一種だ

なので、普段は矮小化されたり無意識のうちに抑圧された、いわゆる
潜在意識~サブコンシャスの部分が表に出て来る・・・

・・・そういう意味では、「自己発見」の為の一助ではある
わたしも数年前はずいぶんのめり込み、溺れきって命も危うかったが
結局のところは、〝飽きた〟ことによって無事に生還できた

・・・もちろん、どんどんエスカレートして廃人に成り、命を落とす人が
   世界中で山程いるだろう

   なのでわたしは自分が「なぜ生還できたのか?」ずっと疑問だった

  ひとつには「自分自身と向き合うコツを掴めたから」不要になったとも
  自己分析していた

  今日新たにひとつの仮説をここに書き残してみようと思う

ドラッグにせよ、あるいは宗教的な修行にせよ、
それは〝追求だ〟という点では実は共通点がある

快楽や脳内の幻想を追い求めるにせよ、神の御心を追いかけるにせよ
「追い求めている」ことにおいては同じなのだ

しかし、
「求める」のはいずれにせよ男性原理のなせる技であり
女性原理は「与える」ところにそのポイントがある
そしてドラッグで得られる快感の〝限界〟も、この男性原理の中にある・・・
・・・と言うのがわたしの仮説だ

快感の原点は「女性原理」にあるのだと思う
だからドラッグで陶酔、至福感を得ようとすると、
その「得ようとする」のは男性原理だが、その目的は女性原理への到達にある

快楽というものを極限まで究められるのがドラッグ体験の凄まじいところだ・・・
その行き着く先は「エゴの崩壊」であり、「人格破綻」「廃人」だ

強烈な快感に至る上でもっとも邪魔なのが、自我という境界線で
「行こう」とする意思そのものが「行かせない」という障壁になる・・・
この境界線を突破した先にはもう「守るべきものがない」状態になり
「すべてが解放された」「アンコントロール」な状態になる

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だからドラッグにせよ宗教的な求道者にせよ、
何かの「志し」に生きる者達にせよ
彼らは皆、広い意味では〝自殺志願者だ〟といえるかもしれない

・・・その先には間違いなく「破滅」が待っているのだが
   そもそもそれが「望み」である人達にとって
   その「炎に飛び込む夏の虫のような狂気を
   世間から「愚かだ」と揶揄されて
   かれらが思いとどまるはずはないのだ・・・

阿羅漢(ストレートに悟りを求める人)とはそういうことなのかも知れない
彼らが飛び去ったあとには、痕跡は残らない、道は残っていない
飛び去ることだけが目的だった彼らは、そんな事には頓着しないのだ

しかしOSHOは、
「出来るならば私の人達には菩薩道を歩んでもらいたい」と言い残している

阿羅漢が男性原理の究極として「無への帰還」を成し遂げようとするのに対し
菩薩道は「この世との接点」を残す、・・・後から続く人達に慈悲を残す

菩薩道とは阿羅漢と正反対の、実に女性的なコースだと思う
それは「与える」原理に則った、一見「損」で「遠回り」な選択なのだけれど
でも、あながちそうではないかも知れない

「快感を求める」のではなく
「快感を与える、・・・ことが悦び」という姿が菩薩道だ

ある意味では〝慈悲〟とは「美しい嘘」と表現できるかも知れない
確かに阿羅漢のような「真実一路!一直線!」のプロセスには
           「嘘偽りは全くない」のかもしれない

 ・・・そこには「徹底した〝独り在ること〟~アローンネス」がある

「弟子とマスター」といった慈悲で繋がった関係とは、その点「甘い」・・・
          そこには「甘い方便」「スウィートな関係性」がある

しかし、
本当には「得る」ことではなく「与える」ことにこそ至福の本質があり、
本当には菩薩道とは「人(弟子)のため」ではないのかも知れないのだ

つまり阿羅漢よりも菩薩の方が、
本当のところ〝欲張りな選択〟なのかも知れない ・・・っと

それはまるで、
直球ど真ん中を語るクリシュナムルティーと
様々な変化球が得意なOSHOとの違い、そのもののようだ

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