We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年06月

エックハルトは自伝の中で
「もうこんな自分とは一緒にやってられない!」と叫んだ瞬間
奇妙な感覚に囚われたと言っている

〝こんな自分〟と、その自分に対して
〝やっていられない〟と叫ぶ自分・・・
「いったいどちらが本当の自分なのだろう?」

そしてその夜、
どこまでもどこまでも深淵に落下していく啓示を体験したと言っている
この体験談はまさしくOSHOがエンライトメントした瞬間とソックリだ

OSHOにせよエックハルトにせよ、
「絶望〝的〟な自分」と、その自分に
「絶望した自分」との、「2人の自分」が明瞭に分かれた瞬間に
「底なし沼のような完全な絶望」の中へと落下していったのだ

この「底なし沼」とは何か?
それをエゴが・・・、
「ロジカルな自分」「期待と失望とを往復している自分」が
            理解することなど、到底不可能だ

この「深淵」こそが本当の「アイアムである」という言い方も出来るが
この「深淵」の虚無において「自分」と「自分以外のもの」はありえない
   「何かを指さす私」「指さされる何か」など存在しようがないからだ

しかし、
「自分や他人に〝期待と失望とを往復している〟分裂した自分」なら
その正体は明瞭だ・・・
 〝彼〟は碇ゲンドウのような支配者であり司令官だ

eva光る目

失望VS絶望 from Katal Maneel on Vimeo.


「世界(自我)を救う」という偉大な使命、大義をバックグラウンドに
常にあらゆるもの、あらゆることを掌握し、コントロールしようとしている

ところが、ゲンドウに刃向かう、息子のシンジもまたゲンドウの分身に過ぎず
どちらもが「分裂した自己」に過ぎない

どちらかが絶対に正しく、どちらかが絶対に間違っているのでもない
だから延々と決着が着かない それは無限につづく苦しみだ

ゲンドウは
「全て判っている男」として絶対的に命令する
シンジは
「何も知らされていないEVAのパイロットという〝部品〟」として
ずっと怯えて生きている・・・明瞭な意思も持たず、周囲に逆らうこともなく
一見素直だ

でもこの親子はどちらも同じ穴のムジナだ
ゴクリ、「それは確かなの?」

「命令するもの」と「命令されるもの」、「教えるものと学ぶもの」
時として歩み寄って和解しようとしたり、決別したりするが、結局変わらない

全ての関係性は表面的にはすったもんだのドラマがあるが
その関係性の本質は変化しない・・・
でもその〝本質〟とは、愛などではない、
互いに〝必要とし合っている〟だけだ・・・片方が死ねばもう片方も死ぬ
それは、強力な相互依存であるために「愛のように見える」だけに過ぎない

「私は実は愛とは何か?全く分かっていなかった」という気付きは
まさしくこのポイントにある

その虚構
「インチキドラマを延々と繰り返している分裂した私」への気付きこそが
目覚めなのだろう

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「衣食住」よりも上位(メタ)の生活の定義は
「福禄寿」である

最も重要なのが「寿」、つまり健康で
「衣食住」とは健全な物理的生活要素のこと

次に重要なのが「禄を得ること」で
定期的な安定した収入(社会システムとの繋がり)
「衣食住」は経済循環の円滑さの中で維持管理される

最も重要度が低いのが「幸福感」「満足感」
「重要度が低い」というのは
「もっとも贅沢品の最終結果だ」と言う意味でもある
この具体的なかたちは人間関係の充実

つまり健康や収入を無視して
人間関係(付き合い)、
その他の幸福感追求に走ると
人生は土台を失い破滅する仕組み

植物に例えるなら
「寿」が根っこ、「禄」が幹や枝、「福」は葉っぱや花、実なのかもしれない

「進化」という発想をゴイム共に信じ込ませれば、私達の勝利だ
人は「進化」なぞしない、(人は結局、「どこにも行けやしない」のだ)

シオンの議定書

善悪とか正誤と言った直線的な論理から
〝パラドックス:逆説〟的なものごとの理解に向かう時とは
人生における大きなターニングポイントだ

それはまるで
ウロボヌスのヘビが、自らを飲み込んでいって、その円環が極小化していく様だ

人生は単純化し同時に複雑化してゆく、人生上の様々な葛藤は
エントロピーが逆転したかの様に小さくなっていく

「大きいこと」「小さいこと」が単純に比較できず
森羅万象のユニークさを認めはじめると、誰もがそうなってゆく

しかし
その「飲み込む頭」と「飲み込まれていく胴体」とが消滅する日は決して来ない

「黄金律はない、と言うことが唯一の黄金律だ」ロバート・ショウ

ところがこの「唯一の黄金律」が「黄金律」として最後まで残り続ける・・・
なぜなら人は最後に
この「唯一の黄金律」「パラドックス」の信者になってしまうからだ

これが最後にして最大の、最終的なワナとして、私達の脳内に残り続ける
パラドックスでさえロジックの一種であり
そしてロジックは決して「無」を理解は出来ない

それがロジックであり続ける以上は、「問い」と「答え」が残り続ける

OSHOやクリシュナムルティーは、「私は何も信じない」と言明しているが
それはあくまでもインタビュアーに「問われた」から「答えた」に過ぎないのだ

彼らの本当にピュアーな回答を求めるなら、
きっと覚者達は皆、沈黙を持って回答とするだろう・・・

・・・でもそれでは誰もがかれらが解答自体を拒否したのだと誤解してしまうだろう
   だから質問者と、神秘主義者達との最後の折り合いが付くポイントが

   「私は何も信じない」だ

   それは「何も信じない」ことそれ自体がひとつの信念体系の様に見えてしまう
   人は何かをみたらそれを既知のカテゴリーのどこかに放り込みたいのだ
   だれもが「あれか?」「これか?」という粗雑な選択の自由しか知らない
   だれもが自らのこころの奴隷だからだ

   彼ら「質問の奴隷達」は「未知のままでいることが居心地が悪い」という
   自己都合で勝手な意味づけ、価値付け、解釈に逃げ込んでしまうが
   それらに対してさえ妥協できなくなった時、もはや沈黙だけが唯一の解答になる

でもそれは同時に「他者から理解されることの放棄」でもあるのだが・・・

しかしそれによって「ウロボノスのヘビ」は消滅する
「ウロボノスのヘビ」それ自体が、他者に向かって
「無とはなにか」をロジカルに順を追って説明する「方便:うんこ」に過ぎず、
そんなヘビは、はじめからこの世には居ないからだ

人は最後まで「進化」という概念をなかなか手放したくないものだ
「高次元への霊的進化」であるとか、天使や宇宙人の存在にすがりつきたいモノなのだ

そういったモノが全部「戯言だ」と馬鹿にしているのではない
それらが喩え実在していたにせよ、それらもあくまで「方便だ」ということなのだ
でもひとは「分かりやすいイメージ」にしがみつき、
そして「信念体系のよりしろ」に祭り上げてしまう
人間の脳は「何かに属している」ものしか認識できない様になっている
「これこれに関して、あなたは否定か?肯定か?」

でもそれらの問いかけは全て、
「究極の向上心」
「究極の進化、アセンション」という大義名分から発している・・・

この「信仰」からすべての動機が発している以上、
高度なパラドックスも叉、言葉遊びの堂々巡りで終始する
だから詰まるところは「進化の否定」「沈黙」しか残されていないのだ

だから
「12」という数字の意味する「カルマ的堂々巡り」と、
「13」という数字の意味する「死と再生」の間には深淵のジャンプがある

それは「進化」からの脱皮だ

女性の性欲、というのは男性の私にとっては今だ神秘の領域だ

セックスの体験も全く浅かった20代の頃、
女性がペニスを口に含みたいと感じる衝動が全く分からなかった
ペニスを手でピストンする感触に女性が何故興奮するのかがサッパリ分からなかった

男性器と女性器とのこすり合わせが、「女性も気持ちいいんだろうな」というのは
納得出来た、女性器は男性器と同じく多くの神経組織が集中しているのだから・・・

しかし、日常生活でも活躍している「手のひら」や「口腔内」は、
それなりに繊細な神経はあるが、別に生殖器の様な機能とは無関係に思えた

だから、手のひらや口でペニスを欲する女性の気持ちとは
単純に「男性へのサービス精神」なのじゃないか?というイメージしか持てなかった

ペニスは持ち主である男性にとっては、小便の排泄器でもあり
「汚らしい」ところでもある、愛らしい女性の顔がその自分の排泄器を
ほおばるのを見て、わたしも「何だか申し訳ない」感覚で一杯だった

ところがこれは女性もよく似た事情であることに驚いた
女性にとってもヴァギナは小便の排泄器だが、男性にとっては
「汚らしい」場所ではなく、「神聖な場所」である
またとても美しい人体の器官でもある
男性器の不格好な突起であるペニスよりも、
女性器は美しく愛らしい、だからよく花弁にも例えられる

だからこそ女性は自分のヴァギナを隠したがり、愛する人にだけ
こっそり見せているのだろうと思っていた

でも、「汚らしい場所だから」という理由でヴァギナへのキスを恥じらい、
躊躇った女性もいた・・・まるで、二十代の頃のペニスを愛撫された私の様だった

男性の身体と女性の身体は、あまりにも見かけが違うために
その性的な快感にも大きな違いはあるだろうが、
基本的な快感には意外に大きな違いはないのかも知れないなと
わたしはかなりトシを喰ってから感じる様になった

男性のセックスの構造はシンプルで、精液が放出される際の
脊髄の中心を駆け抜ける様な快感は、女性には全く異質だろうと思っていた
それは全く瞬間的で、突発的で、短いオーガスムスであるために
女性のそれと比べると遙かに惨めで貧しい体験だと多くの科学者が証言している

だからこそ、
男性の性的な欲求とは「女性に喜んで頂き、満足して頂いてナンボ」という
「憐れな奉仕者」なのだろうとしか思っては居なかった ・・・ずっと

でも、女性が男性器に奉仕したがる衝動も、ひょっとしたら同じ理由かも知れない
女性とは本当に優しい存在である
私達男性の「貧しい」オーガスムスを見届けることが、それでも彼女たち自身の
歓びへと繋がっているのかも知れない

男性が「イク」瞬間を嬉しそうに見守る女性達の顔は、まるで母親の様だ
男性はその時、母親に大小便さえも面倒を見てもらっていた時の
「完全に委ねた」赤ん坊の様な感覚がオーバーラップする
・・・それがもし錯覚でないならば、女性は男性が果てる瞬間を
  「愛おしい我が子」「赤ん坊」の様に感じるのかも知れない

  男性にとって
  女性よりも先に「射精して果ててしまう」感覚とは
  「とほほ~~」である 
  まるで、「ママごめん、お漏らししちゃった」ってな感じだ

  だから男性はセックスで、「奉仕する」という感覚を持つ人も多いと思う
  男性から見れば、女性とは遙かに複雑なシステムを備えた存在であり
  女性とは「生命の宮殿」だ

 それは、女性よりも男性の方がかなり年上でも変わらない感覚だ
 男性は女性の月経や妊娠の苦痛を決して生涯体験しない、免除されているが故の
 「負い目」を、女性達にずっと持っている

そのかわり、性的な快感も(学説としては)10分の一、20分の一だと言われている
「女性のオーガスムス」こそが、男性にとっても「目的地である」といえる

だからこそ男性が「お先に失礼」では「トホホ」なのだ、「ミッション失敗」である

でもこの性的な構図にもあまり拘りすぎない方が良いのかな?っと言うのが
私のこの記事で書きたかった「今現在の私の結論」だ

男性もあまり頑張りすぎず、
「女性をイカせる」使命感に囚われすぎず、
女性に甘えてもいいのかも知れない

わたしの中で、セックスに嫌悪感や罪悪感が、
いままだ強く残っている原因はそれかも知れない・・・

女性は男性のペニスに奉仕することで、
ちゃんと彼女たち自身の「悦び」にもなっているの「かも」しれない

女性達が自らの奉仕で、男性がグッタリと
果てている姿を満足げに見守っている瞬間、
それも大事な「女性の満足感」なの「かも」しれない

男性の射精したあとの「死」の感覚、「果てた」感覚とは
自分の生命情報を絞り出して、無事女性に伝達し終えた様な達成感だ

生物学的には、それは女性の妊娠によっての成就なのだけれど
人間のセックスというのは必ずしも「肉体的な結果」だけには
制約されていないだろう・・・

男性の「射精という死」を促し、看取るという行為は
女性にとっても快感なのかも知れない 「男性の死を看取る」っということが・・・

でもここまで読んでくれたあなたが女性ならば、最後に強調したいのは
わたしがしつこく「かもしれない」と、括っていることだ

男性にとって、女性の愛情とは「信じがたい」ものなのだ
それはきっといつまでも
「永遠の謎、未知、神秘」のままであって、「確信」にはならない

だから男の私には「かもしれない」としか、表現できないのだ

でもこういうと多くの女性も叉、信じないだろうが
私達男性は、いつも心の奥底で「女性達全ての幸福」を願っている
いかに独りよがりで、単純で、あるいは暴力的に見える男性も、そうなのだ
男性にとって、全ての女性は「母」なのだ

だから男性とは、
「永遠に確信が持てない、流離(さすら)う宿命を背負った生き物」だ
 男性は全て、死ぬまで探求者なのだ、答えは女性がいつも握っている


今、人びとは催眠術にかかっていて、深く眠っているんだ。
 もし、人生やその瞬間が美しいと感じ始めたとしたら、
その人は目覚め始めているんだ。

 目覚めている人は、 人生は、すばらしい天国であることを知っていて、
 瞬間、瞬間を満喫することができる・・・・・・。    (アミ 小さな宇宙人)

宇宙からの呼びかけ
宇宙からの呼びかけ
より

埼玉県蕨市に倉庫を持っている古い兄貴分だったMさんから、
その倉庫に何年も居候させてもらった時も、
私は一週間程断食して自分自身を見つめ直した事があった

自分の顔に張り付いたら、顔をまるまる被われそうな
まるでエイリアンの幼体のような程、巨大なアシタカ蜘蛛が
実はゴキブリを駆除してくれ、人間を襲わない気の小さな益虫であることを
当時の私はつゆ知らずに、
その巨大な同居者に怯えながら
わたしは汗まみれ、垢だらけのせんべい布団にくるまって断食を続けた

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ひたすら何もしたくなかった
だから「働くもの喰うべからず」という言葉の追求から逃げるように
わたしは何もしないまま、そして自分を責めるように何も食べなかった
薄暗い倉庫の一室で、自分自身の餓死した姿をイメージしていた

こんなところで「内観」だか「瞑想」だかを試みて、
いったい何を「達成」出来るのか?

いや、「達成したい」ことなど、何も思いつかなかった・・・

そこで餓死するとしても、それは誰のせいでもなかった
八王子での断食で、そのことは解っていた
「何が起きても、全ては自分の責任・・・」そう納得していた

しかし、じゃあ私自身の望みで、ここで死ぬとして
私の「望み」とは「ここで餓死する」ことなのだろうか?
だからここに「引き籠もって」いるのだろうか?

わたしは自分自身が
  「何を〝望んで〟いるのか?」
  「その〝望みの達成〟とは、『ここでの餓死』なのか?」

 自分自身に問いかけ続けた

やはり一週間もしてくると、太ももの肉がかなり落ちてきて
歩くのがかなり難しくなってきた

なまじ家賃も払わないで住む場所であったがゆえに
歩けなくなっても助けを呼ぶことさえ不可能だった
その倉庫には滅多に人も訪れなかったからだ

・・・結論を出すためのタイムリミットが近づいてきたのを感じた

「私の望みは何か?」「何か?」「何が望みか?」
仰向けに寝て、部屋の天井の焦げ茶色の木目とにらめっこを続けた

そしてその無表情で空虚な木目が、突如私自身の目のように見えた
・・・その天井から見下ろす私の「節穴の様な目」は私自身にこう返答してきた

「無い」 「何も無いよ」 「私には何の望みもない・・・」

そうだ、そうだったのだ
わたしは「望んでいまここにいる」というのが究極の回答に思えたが
それは単に私を被害者と加害者の連鎖から「連れ出してくれた」だけだった
でもそれが「無意識の望みだった」のは確かなことだった・・・・

でもまだ、そこには「望み」が残っていた
だからその正体を私は天井の木目に問い続けていたのだ・・・

でも回答は「無い」だった
しかしそれは「回答など無い」のとは少し違った
「回答が無い」のではなく・・・わたしの望みとは「無い」という事だったのだ

私の望みは「餓死」なのではなかった
私の望みとは「望みなど何も無い」ことこそ、「最後の望み」だったのだ

・・・「すべての望みがないことが、わたしの最後の望み」

 「達成したいことなど、何も無いと言うことを自分自身に容認する
  それこそが、食欲よりも優先した、わたしの「最後の希望」だった

   そうかわかった・・・

    そう自分自身に静かに肯いた時、自分の尿意に気が付いた
    ヨロヨロとせんべい布団から立ち上がり、便所に向かった
    そしてせんべい布団に何とか帰還して、また横になった時
    「いま自分は何もしていない」ことに驚いた

    私は確かに「小便」を無事成し遂げた、そして万年床に帰って来た

                でもそれは自然なことだったのだ

    つまり、「自然に生きること」
    それこそが、「何もしないこと」だった

    私はそれに気が付いた時、とても嬉しかった
    「するべき事をする」とき、それは「何もしていない」のだ

それは決して誰も褒めてはくれないだろう、気が付いてさえくれないだろう
「何もしなかった」ことでいったい誰が「褒めてくれる」だろうか?

人は、社会は、
  「何かした」ことに対して称賛する
  「何もしない」ことで称賛されることなど決して無い

人はみんな夢を見ている
「自分は何かをした」という夢を見ている
「何かを成し遂げることが価値のあること」という悪夢にうなされている

   しかし「自然であること」が如何に「偉業」であるのか?
    「何も達成しないこと」が、如何に「偉大な達成」であるのか?

     わたしはいつまでもその証人のひとりであり続けたいとおもう

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