We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年05月


54・Single-Pointedness
   一点に集中すること
 学識のある人は、生命力にあふれている人のところに行かなければな
りません。プラスチック製のものは、〈真実なるもの〉 のところに行か
なければなりません。

サラハは仏陀より
およそ2世紀後に生まれた。
彼は枝分かれした一方の枝の直系だった。
ひとつの枝は、
マハーカーシャッパから
ボーディダルマへと伝わり、
禅が誕生した。
その枝はいまも花に満ちている。

もうひとつの枝は、
仏陀から
彼の息子であるラーフラバドラ、
ラーフラパドラからシュリーキールティ、
シュリーキールティからサラハ、
そしてサラハから
ナーガルジュナへと伝わっていった。
これがタントラの技だ。
それはいまも
チベットで実を結んでいる。

タントラはチベットを改宗させた。
そして、
ボーディダルマが
禅の祖師であるのと同じように、
サラハはタントラの祖師となった。
ボーディダルマは
中国、韓国、日本を征服した。
サラハはチベットは征服した。

サラハは
タントラ・ヴィジョンの祖師だ。
それはとほうもなく重要だ。
人類の歴史の上でも、
とりわけ現在という時点においては---。
なぜなら、
新しい人間が
生まれ出ようとして奮闘し、
新たな意識が
扉をたたいているからだ。
そして来るべき世界は
タントラのものになるだろう。
というのも、
もはや二元的な姿勢が
人の心をとらえることはできないからだ。

サラハの元の名前はラーフルという、
それは彼の父がつけた名だ。

彼がシュリ・キルティの許にいった時
シュリ・キルティが
サラハに伝えた最初のことは、
すべてヴェーダを、
自分の学識すべてを
落とすことだった。

それはサラハにとって
困難なことだった。

知識を放棄するのは
この世で一番難しいことなのだ。
まず、その一等初め
どうやってそれを放棄する?
それはあなたの内にある。

あなたはあなたの王国から
逃亡することもできる。
あなたはヒマラヤに行くこともできる。
あなたはあなたの富を
分配することもできる。

でもどうやって
あなたの知識を放棄する?
そして
そこから再び無知になることは
あまりに苦痛に満ちている。
それはありえる最上の堪え忍び

再び無知になること
再び子供のようにあどけなくなること

しかし
彼には準備ができていた。

幾年かが過ぎていき
少しづつ彼は
知ったすべてのことを
ぬぐい去っていった。
彼は偉大な瞑想者になった。

ちょうど偉大な学者として
たいそう有名になりはじめた時のように
今や偉大な瞑想者としての
彼の名声が拡がりはじめたのだった。

新芽のように
朝露のように
あどけなくなったこの青年を
ただひとめ見ようと
人々ははるばる遠方からやって来始めた。

ある日、
サラハが瞑想していると、
突然彼はヴィジョンを見た。

それは女性が市場にいて、
彼女が彼の本当の師になるという
ヴィジョンだった。

シュリ・キルティは
彼を道の上に押しやっただけなのだ。
ほんとうの教えが
ひとりの女性からやって来る。

彼はシュリ・キルティに伝えた。
「あなたは私に
 路を示してくださいました。
 あなたは私が習得したものを
 取り去ってくださいました。
 あなたは半分の仕事を
 やってくださいました。
 いま私は、
 自分のワークの
 残りの半分をやる用意が
 できています」。
笑うキルティの祝福を受けながら
彼は去って行った。

彼は市場にやってきた。
彼は驚いてしまった。
彼はヴィジョンの中で見たのと同じ女性を
本当に見つけだしたのだ。

彼女は矢を作っていた。
彼女は矢細工師だった。

矢作りの女は低いカーストの女だ。
そしてサラハは教養あるブラーミン、
王の宮廷に属していたブラーミンが、
矢細工師の女のところにいくというのは
象徴的だ。

教養のあるものが
活力ににあふれたものの許に
行かなければならない。
整形されたものが、
本物のところに
行かなければならないのだ。

彼は、
活き活きと生に輝き、
矢の柄を切りながら、
矢を作ることに
完全に飲み込まれているこの女性を、
この若い女性を見た。

彼はすぐさま彼女の現存に
尋常ならざるものを感じ取った。
彼が未だかつて出会ったことのない
何かを感じ取った。

彼女は自分の動きに
まったく飲み込まれていた。
サラハは注意して見守った。
矢が出来上がり、
その女性は片方の目を閉じ、
片方の目を開けながら、
目には見えない的を狙う仕草をした。

そしてなにかが、
コミュニオンのようななにかが起こった。
彼はそれまで一度も
そういったものを感じたことはなかった。
その瞬間に、
彼女がやっていたことの
スピリチュアルな意義が、
サラハにわかりかけてきた。
左も右も見ることなく、
彼は彼女を見た……。

彼はそのことが言われるのを
何度も聞いていた。
そのことを読んだことがあった。
彼はそのことを熟考していた。
そのことをほかの人びとと
議論したことがあった。
真ん中に在ることが正しい、と。

彼女はあまりにも
完全に飲み込まれていた、
あまりにも全面的に
動きのなかにあった
それもまた仏教徒のメッセージだ。

動きに全面的に入っていることは、
動きから自由であることだ。
トータルでありなさい。そうすれば、
あなたは自由になる。

その女性の美、輝きは、
全面的に飲み込まれることから来ていた。
初めて彼は、
瞑想とはなにかを理解した。

特別な時間だけ坐って
マントラを繰り返すのではなく、
教会や寺院やモスクに行くのではなく、
生のなかにあることを.......。

些細なことをやりつづける.......
だが、
そのように飲み込まれることで、
あらゆる動きのなかに
深遠さが開示される。

彼は瞑想がなんであるかを
はじめて理解した。

彼は瞑想をし続けてきた。
彼はハードに戦い続けてきた。
しかしはじめて
瞑想がそこにあった。
彼はそれを感じることができた。
彼はそれに触れることができた。
それはほとんど
手に触れんばかりのものだった。

と 
その時彼は
片目をつぶり、
もう一方の目を開けるのは
シンボルであること
仏教徒のシンボルであることを
思い出した。

仏陀は言っている.......。

頭の半分は理性であり
頭の半分は直感だと言っている。

左側の半球は、
理性、論理、
とりとめもない思考、分析.....。

右側の半球は直感的で詩的だ。
インスピレーション、ヴィジョン、
先験的意識、先験的目覚め
議論するのではなく
あなたはただただ知る。

推理するのではなく
あなたはただただ了解する。
これが先験的目覚めの意味だ。
それは単純にそこにある。

真実は頭の右側で知られる。
真実は頭の左側で推理される。
推理はただの推理であって
経験じゃない。

突然
彼は女性が
片目をつぶったことを了解した。
彼女は理性の目を閉じる
シンボルとして
目をつぶっていたのだ。
彼女は愛、直感、目覚めの
シンボルとして
もう一方の目を開けていたのだ。

女性の行為を覗き
その真実を認知したので、
女性は彼を「サラハ」と呼んだ。

「サラハ」とは美しい言葉だ。
それは「矢を射し者」という意味だ。
「サラ」とは「矢」のことで、
「ハ(ン)」とは「射た」という意味だ。
「サラハ」とは
「矢を射し者」という意味になる。

彼がその女性の行為、
その象徴的なしぐさの意味を悟り、
その女性が与えようとしたもの、
示そうとしたものを
読み取って解き明かしたとき、
彼女はうれしそうだった。

彼女は踊りあがって
彼を「サラハ」と呼び、
そしてこう言った。
「さあ、
 今日からあなたは
 サラハと呼ばれることに
 なることでしょう。
 あなたは矢を射たわ。
 私の行為の意味を理解して、
 あなたは射ぬいたのよ」
「サラハ」は美しい言葉だ。
それは矢を射たものという意味だ。

 
サラハはまず、
すべてのヴェーダ、教典、知識を
置き去りにしなければならなかった。

いま、
彼は瞑想すらも置き去りにした。

いまでは歌うことが彼の瞑想であった。
いまでは踊ることが彼の瞑想であった。
いまでは祝祭が
彼のライフスタイルのすべてだった。
 
サラハと矢細工師の女は
火葬場に移っていっしょに住んだ。
火葬場に住みながら、祝っていた! 

死しか起こらないところに住みながら、
楽しく生きていた! 
もしそこで楽しむことができたら、
喜びがほんとうにあなたに起こったのだ。
いまではそれは無条件だ。
 
Osho - The Tantra Vision
              THE TANTRA VISION,Vol.1,Dp.5-20
     邦訳「タントラヴィジョン」 ユニオ・コーボレーション刊

グーはボディー、物質の凝縮、肉体、堅い観念
チョキはマインド、明晰な識別思考力
パーはハート、全てを包み込み、全てに浸透している

ハートはボディーを包み込むから
パーはグーに対して支配的

しかしハートは識別心によって分断されるから
チョキはパーに優先する

だが、識別や分析も結晶化させ、
物体化させなければ机上の空論なので
グーはチョキに勝る

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ヘビはマクロ世界、巨大な時空の連続を象徴する、大千世界
カエルはいまここ、大きさや時間が意味を成さない、中千世界
ナメクジはミクロ世界、不定形で不確定性の象徴、小千世界

ナメクジの素粒子の世界が全宇宙を飲み込んでしまうので
ナメクジはヘビを溶かしてしまう

しかし量子力学の世界は瞑想の完全な主観的没入に飲み込まれる
(観察が素粒子の振る舞いを確定する)ので
カエルがナメクジを喰う

だが、いまここ(純粋意識)とは宇宙の巨大な営みの中で息づくので
ヘビはカエルを飲み込む
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三すくみの図
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存在には
圧倒的な勝者は居ない、敗者も居ない
絶対的な強者や弱者も存在しなければ
加害者と被害者も大きな循環の中ではひとつ


カエル~瞑想の究極とは、「ヘビに飲み込まれて消え去る」ことだ

「そんなことは在りもしない全くの幻想だ、妄想だ!」
「そしてこれこそが世の中を席巻する現実なのだ!」

・・・そういって私たちは仮想(バーチャル)と現実(リアル)とを分類し、
                         日々識別して生きている

でもそんな「識別者」がこの地上から消滅したら、
この地上にはいったい何が残るだろうか?

 この地上は何も変わりはしないだろう、  何一つ!!

  ・・・しかし、
  ・・・ところが

    ・・・そうだ、

  観念を持った〝識別者〟が地上から消えた時・・・

  「あれは仮想、これは現実・・・」と識別している、---
   ---「私」や「あなた」が消えれば、分離は消滅するだろう
          仮想と現実との境界線もまた、即時に消滅してしまうのだ

そしてやがて、
地上からは全ての人間が消えるだろう
観念を振り回す人間が残り続けている地上に、
           決して争いは終わらないから、
           決して平和は来ないから・・・、だ

それは必ずしも、
 「人類という生物種」の〝絶滅〟を意味しているのでは無い

「人間」という、
 「道具を使う危険なサル」と「ブッダ」との
  過渡的な中間生物が消えていなくなる時に、
     地上には、永遠の平和が訪れるだろう

津留晃一
「現実」という言葉の概念に向けて
意識の焦点をあわせていくと、
私の意識は空間をさまよい、
やがて私の心の中に
戻ってきます。
現実と呼べるものは
私の想念の中にあるという
当たり前の事に気付かされます。
目の前に展開されている
「現実」を眺めながら、
それを心の中にたどっていくと、
そこに私の想念が発見されます。
「私にとって
この想念は必要なのだろうか」
とチェックしてみると、
必要というわけではない
ということがわかります。
ですが
「では、その考えを手放そう」
と思ってみたときに
心の中には葛藤が生じます。
何がこの葛藤を
誘発しているのかと
探してみると、
私がこれまで
永い間慣れ親しんできた、
固定的観念が上がってきます。
この古い価値観と
対面させられる事になります。
そんな時には
この葛藤の元となっている
習慣的考え方に、
しっかりと
意識の照準を合わせます。
そうしていると、
それに関する様々な恐れや、
雑念が上がってきます。
その一つ一つに
丹念に意識を合わせて下さい。
恐れがあるなら
そこにじっと意識を合わせ、
自分の中心を外さないで下さい。
あなたの心が
ハートの中心にいて、
何かに意識を合わせていると、
その対象に、
あなたの内面の光が
照射されます。
そしてやがて数分の内に、
不思議なことにそれが
どうでもいいことのように
思えてきます。
そしてそんな時には、
その対象に
意識を向け続けるだけの
集中力が無くなっています。
すなわち集中力が
途切れた時には、
既にその固定的考え方が、
もはやあなたを動かす力を
なくしてしまっている
わけです。
そしてあなたは
一つの習慣的考え方から
自由になります。
あなたの内面から上がってくる
葛藤のエネルギーが、
古い価値観を破る
破壊のエネルギーとして
働いてくれるわけです。
こうして
あなたの眼前に展開される
一つひとつの出来事が、
あなたを無心へと
導いてくれる
原動力となるわけです。
どうぞ自分のために
静かな時間を
とってあげて下さい。
あなたの古い価値観を
はずすためには、
どうしてもこうした
エネルギーワークが
必要となるからです。

映画「マトリックス」において、
私が最も重要だと思っている、そして大好きなシーンは、
モーフィアスがネオに覚醒を望むか?否かを選択させるシーンだ

2017-05-23 (1)

私はこのシーンを、このブログで何度も引用してきた



わたしたちはたぶん、生きている間、四六時中・・・、
「赤いカプセルを飲むか?青いカプセルを飲むか?」
                      選択肢続けているのだ

・・・わたしたちはずっと青いカプセル(気休め、安定剤)を選び続けている
              だからいつものベッドの上で目が醒めるのだ

そして今日も一日、「私は覚醒している」という「白昼夢」を見続けている


っと、OSHOは語っているが、
ここでOSHOがいう〝信〟とは
    「信念体系」のことではなく、「信頼」のことだろう
ここでOSHOがいう〝信〟とは、
    「特定の何かを信じ込むこと」を言っているのではない

むしろ
「特定の信念体系の中に埋没する(しがみつく)」ことこそが〝恐怖感ゆえ〟だろう

〝信〟が「あれや」「これや」といった
特定の何か限定された信念体系でないならば「信と不信」とは対立しない
ここでOSHOが肯定的な意味で語っている〝信〟という言葉は
モーフィアスがネオを評して言っているセリフと同列のことだと私は思う
「君の目が語っている・・・」
「キミは見たままを受け入れる顔をしている・・・」
「目覚めたいと思っているからだ・・・」

 ・・・私にとって、本当の「信念」とはまさしくこの〝覚醒への憧れ〟のことだ

本当の真実、ありのままの真実に目覚めたいと願うことだ
          その為の純粋なまなざしを失っていない人のこと・・・

私にとって、本当の「信念」の人とはまさしくそんな人のことなのだ・・・

だから
ここでいう「信念」とは岩の様な〝堅さ〟ではなく〝柔らかさ〟〝繊細さ〟
ここでいう「信念」とは、〝頑なさ〟ではなく〝素直さ〟〝機敏さ〟のことだ

  であるなら、そんな純粋なまなざしを濁らせるものとは何か?
                ・・・それが恐怖というわけだ

恐怖とはまさしく、「純粋なまなざしの濁り」を意味するのだと思う

恐怖感は、わたしたちを「開きメクラ」にしてきた
恐怖感は、「夜風にそよぐ柳」を幽霊に見せるのだ、しかもハッキリと・・・
恐怖に取り憑かれた者にとっては、「見るもの」「聞くもの」・・・・
五感で感じるものすべてが
「自らの恐れが正当なモノである証拠」になってしまうのだろう

OSHOが言う様に「信の反対が恐れ」であるならば
きっとそれは「覚醒の反対が眠り」であるのと同じだ

「恐れ」とは、まさしく「目を見開いた眠り」のことなのだろう

「恐れ」たまま、ものごとの「ありのまま」を見ることは決して出来ないのだ
そこにはいろいろな脚色、解釈、投影が為されているが故に
バーチャルリアリティーさながらの迫真のリアリティーで
「夜風にそよぐ柳」が幽霊に見えるのだ・・・・

そうしてわたしは、目を開けたまま、眠り続けていた・・・
恐怖やら怒りやら欲望にのめり込んで、目を開けたまま悪夢を見続けていた
夜見る夢は、朝と共に夢だと分かる
ところが厄介なのは、「目を開けたまま見る白昼夢」だったのだ・・・
 ・・・それはなかなか「今自分は夢を見ている」という自覚に至らないからだ
 
  「マトリックスはすべてだ・・・」
    「今この目の前にもある・・・」

自分が目を開けたまま、自分が「夢を見ている」だなんて
いったい誰が自覚できるだろうか?

それゆえに
恐怖感が見せる「目を開けたまま見る夢」・・・
・・・・その正体を、誰もがなかなか見抜けないのだ

これは今朝、
腱鞘炎になってしまった自分自身の右肘を
ジベリッシュ(宇宙語)とラティハン(自発動)によって
自己治療していた時に感じたことだ

以前にも書いておいたことだけれど
〝Right (正しさ)〟 に偏重してしまった文明とは、
左脳偏重文明であり、これは確実に滅びの方向に行く・・・

理論で説明でき、実験室で何度でも再現できる現象のみが、
〝正し〟く、〝客観性がある〟という
実用一点張りの現代の科学文明は多くの見落としがある・・・
     それは現在の自然環境の破壊と大いに関連している

〝Left (残されたもの~左)〟とは、一見多くの無駄があるが
その無意味で無駄に見えることにこそ人生の豊かさがある
    ・・・・それは非常にプリミティブなものだ




そして〝Right (合理性)〟 と〝Left (非論理的なもの)〟との
融合地点に〝Light (光)〟 があるのだ・・・

 それが・・・  〝Life (生命)〟 の輝きでもある

To everyone full of light. I hope this page will help you feel light languages and help you share various opportunities and information. In the light!
光溢れるみんなへ。このページがライトランゲージを感じ合う、
様々な機会や情報を共有するのに役立つことを願っています。
光の中で!




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