We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年04月



私はこのブログで何度も「最初の動機がすべて」と書いてきた
つまり「出発点」そのものの中に「終点がどこか?」が語られているという意味だ

わたし自身がなぜ、「悟り」というものに興味を持ったのかと言えば
「人生への疲労感」と「孤独に死ぬ事への恐怖感」からだった

・・・いまこうして自分自身の〝動機〟を眺めてみれば
  この二つの動機は相矛盾している

気が遠くなるほど長く続く輪廻転生への疲労感から逃れたいならば
〝死〟というのは解放のハズである・・・なのになぜ私は死を恐れたのだろう?

しかしこの相矛盾する二つの〝動機〟には共通点もある

それは
「自分はまだ行くべきところに行ってない、辿り着くべき処に辿り着いていない」
という感覚だ・・・そうみれば、この二つの〝動機〟は矛盾していない

子供の頃から、私は酷く疲れやすい体質だった
それほどの肥満児でも無かったのに、小学生の時に糖尿病の検査を受けたほどだった

でも今思えば、その疲労感は肉体的な原因ではなかったのかも知れない
なぜなら楽しいスポーツやその他の理由で肉体的に疲労しても
そこにはある種の心地良い爽快感がある
・・・きっとそれは誰もが経験したことがあると思う

私が引きずり続けてきた「人生への疲労感」とは
奴隷のように強制労働を強いられたような感覚だ
だからこの「疲労感」は、「義務感」に大きく起因しているように思う

わたしは「やむを得ず生き続けてきた」という義務感がまだ払拭できていない
だから自分自身をいまだに追い立てながら、叱責しながら生きている・・・

後天的家系を示す天体は、わたしのホロスコープでは「義務を果たすラビ」という
天秤座の19度にテナントしている・・・なんと言い得て妙なのだろうか!?

この「義務感からの解放」こそがエンライトメントへの強烈な関心へと私を駆り立ててきた
なのでこれがわたしにとっての「悟った時の達成(ご褒美)」として私を縛り付けてきた
それは「死への恐怖」と「死への渇望」という矛盾する欲望に自分を追い立ててきた

しかし、本当に私の全欲求は「自分自身の完全消滅」なのだろうか?
単に「風呂に入るのが面倒くさい」だけなのではないだろうか?

思えば私は、超、ウルトラ、面倒くさがり屋である
それは自己受容が進行すると同時に、当然の如く悪化してきた
人間関係を構築することも、その「面倒臭い項目」の大きな要素である
では自分自身の破壊、人間関係の破壊が私の最終目的か?それが「悟り」か?
と自問自答してみると、それはどう考えても違う気がする

 ・・・ところが実際はわたしはいままでそういう人生を選択し、遮二無二歩んできていた

そんなことよりも、
本当に「疲れない人生」とは可能なのだろうか?・・・なぜ問わなかったのだろう?

私は今まで疲労感から死に物狂いで逃避していたあまり、
そんなシンプルな問いさえ思いつかなかったのだ!! ・・・なんと馬鹿なのだろうか?

過去の自分の愚かさを弁解するならば、
「疲れない人生」だなんて、絶対にあり得ない! っとどこかで麻痺して考えていたのだ

今の私にはハッキリ見える、
自分自身がまるで奴隷のように義務感で自らを引きずっていままで生きてきたのを・・・

「死にたくなるほど」疲労感に苛まされるのは、
   今、振り返ればあまりにも当然の事だった

 この自らのストーリーを目撃したことで、
  もう私は「風呂に入ったことを後悔」しなくなるだろう

私にとって今までは
「自分自身の完全破壊」がエンライトメントのイメージだった
なぜなら「光明」という言葉に誘われた私の動機、それ自体が
「自意識という存在の重みに死にたいほどウンザリ」していたからだった

 わたしは、「間違った動機」から「悟り」を求めていた・・・
  ・・・しかし、誰もが「間違った動機」から求道を開始するものなのだ

  「悟り」とはなにか?「瞑想」とは何か?
   その正確な全体像をはじめから持っていたならその人はすでに悟っている。
         と、クリシュナムルティーも言っていたように記憶している

私達は必ず何かに取り憑かれていて、追い立てられている
そして寺の山門を叩くのだ

そしてわたしたちは
自分勝手な、強迫観念に彩られた「悟り」のイメージを持って
間違った問いかけを続けている
たぶん正確な、的確な問いを発する様になった時、
もう回答を得るのは難しくは無いのだろう

私の場合
「なぜ疲れるのか?」「疲れない人生はあり得るのか?」
・・・「悟り」を求める前にまずはそれを問うべきだったのだ

そして自らユダヤのラビのように、自分自身を律法でガンジガラメにしていたのだ
その自ら科してきた〝義務感〟・・・それこそが疲労の原因だった

私はそれがあまりにも「肉体的、物理的な疲労なのだ」と思い込んでいたのだ!


人生の一日の中でも、わたしたちはその都度、ムードに支配される
もう死にたくなったり、全てを投げ出したいぐらい面倒臭かったり、腹が立ったり
あるいは憂鬱だったり、なぜかハッピーだったり、楽しかったり・・・

その時々はシリアスに一喜一憂するが、
それらは過ぎてしまえば笑ってしまうぐらいムードに囚われていただけだった
というオチだ

これが、
一日の短い周期の繰り返しならば、「笑い事」「いつものこと」なのだけれど
これがより長い周期だと、それが「馬鹿げた繰り返しだ」となかなか見抜けない
なぜなら
私達はどうしても「終始一貫したがる」「論理的に説明意味付けしたがる」からだ
一年だとか、十年だとか、より長い周期の谷底は、より深くもなる
・・・するとなかなか「壮大なストーリー」に囚われてしまって、笑い飛ばせない
・・・そのストーリーの中で盲目的な義務感も背負ってしまうのだ
・・・そしてヘトヘトに疲れ果ててしまう!

でも短い人生の周期と、基本構造は同じ

「風呂に入るのが面倒臭くて」自殺する人は早々いないだろう
でも「その時」は「それが全て」に見えてしまうものなのだ、誰でも・・・・

30代女性が「仕事が嫌。結婚して逃げたい」ってアリ?
「現実はそんなに甘くない」という声相次ぐ(キャリコネニュース)


35.Mastery of Moods
   ムードの習得
 幸せであろうと、不幸であろうと、
 「これもまた過ぎ去る」と覚えておきましょう。
 この鍵が、あなたをムードの犠牲者ではなく、
 自分のムードの支配者にしてくれます。


 多くの賢者たちを擁していた王が自分の富に不満を感じた。
しかも近くの国、彼の国よりも力の強い国が攻撃の準備をしていた。

王は死を、敗北、絶望、寄る年波を恐れていた。
そこで、彼は自分の賢者たちを呼んで言った。

「なぜだかはわからないが、
私はある指輪を捜さなければならない……

それは、不幸なときには私を楽しませてくれると同時に、
もし幸せなときに見たら、悲しませてくれるという指輪だ」


 彼は鍵を、ふたつの扉を開くことのできる鍵を求めていた
   幸福の扉と不幸の扉。
   
   彼はなにを求めていたのだろう? 
   
   彼は自分のムードの習得を求めていた。
   自分のムードの主人になりたいと言っていた
   彼はもはやそれらの犠牲者になるのを望んでいない。

 賢者たちは相談しあったが、どのような結論も見い出せなかった。
ついに彼らはスーフィー神秘家のところに言って助言を求めた。
スーフィーは自分の指から指輪を外し、それを彼らに与えて言った。

「ひとつ条件がある。
それを王に与えるがいい。だが、彼に伝えることだ。
すべてが失われ、混乱の極みに達して、苦悩の極みに達して、
まったく望みがなくなったときにしかその石の裏側を見てはならない。
さもなければ、彼はメッセージを逃す」

 王は従った。国は失われ、自分の命を救うただそれだけのために、
彼は王国から逃げ出した。
敵が迫っていた。彼は騎馬の音を聞くことができた…‥・。
しかも馬は死んでしまい、彼は自分の足で走った……
彼は窮地に陥った。底の知れない深淵しかなかった。

 最後の瞬間になって、彼は指輪を思い出した。
彼はそれを開けた。石の裏側を見ると、
そこにメッセージがあった。そこには

    --これもまた過ぎ去る--

               とあった。

王はその後、奇跡的に窮地を脱した。
そして味方の軍は脅威の逆転勝利を勝ち取り、王の手に国は戻った。

国中が沸き返る勝利の祝賀の中、王は再びあの指を思い出し、
ひとり席を立つと、そっとあの指輪を取り出し、あのメッセージを再び見た。

    --これもまた過ぎ去る-- 


そうして王は、浮き立つ心を静め、祝賀の席に戻っていった。



                  UNTIL YOUl DIE.pp.192-204

描き方を教えるのは簡単だ。
でも、大事なのは自分で気づくことだ。

教えられることに慣れた人間は、
自分だけの力で同じことができなくなっていく。
気づく目を持つには、対象物と徹底的に向き合う時間が必要なんだ

20160424_1666107

12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。
「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。


 「デッサンは完成させようと思うな。思った瞬間に、雑になる」

 「形は一カ所だけ直しても意味がないんです。
  何かがおかしいなと思うときは、たいてい全体が どこか違っています。
      違っている場所をすべて、少しづつ修正する。それが基本です」

なんか自分 いままでの人生、常に、答えだけを欲しがっていたのかも。

 教えてもらわなくちゃわかんないじゃん! とぶーたれた自分って、
まさにデッサンで 「やっちゃいけないこと」をしてたんだなーって思う。

一年前見かけたこの記事を、改めて読み直してみて感慨深かった
             これはまさしく瞑想の極意そのものに思える

私達は、ノウハウを知識としてコレクションするためにここにいるわけではない
それは、社会生活や他人のためにだけ必要なことであり
自分自身のために、ではない・・・

しかし、長年の「社会のために」生きる習慣によって
私達は、「そんなこと、知っているよ!」という
インスタントな知識の結論の中に、ついつい逃げ込んでしまう

手際の良い料理番組のように
「・・・それはすでにこちらにご用意してあります」

過去の出来合の結論によって
すべてにケリをつけてしまった瞬間、フタをしてしまった瞬間に、
わたしたちは目の前の現実に対して開きメクラになってしまっている・・・

見るならば、見る、・・・穴があく程、よく見てみる
訊くならば、聞く、・・・よく傾聴してみる

 ・・・そこで私達の意識は、知識を超え、純然たる鏡になる
              無我性、ノーマインドは、そこに現れる


OSHO_真実を目撃することは出来ても、それについて... 投稿者 maneel-katal

「鏡になろう」としても、人間は鏡にはなれない、なれるわけがない
人間とは、過去の集積の武装によって生き延びた種族だからだ・・・
しかし、
「制限時間内に完成させよう」という色めきたった気持ちを完全に忘れている時
わたしたちは過去の知識も、マインドも、観察者も、どこかに置き去りにして
純粋な行為の中に没入している、もう観察者と、被観測物と言った分離は、そこにない

その「忘我のひととき」が私達に何を示唆しているのか?
それは、「自意識とは、過去の知識の集積から類推された思い込み」だということだ
私達は「そんなこと、知っているよ」というカタマリとして、生きてきたと言うことだ

 その〝カタマリ〟としての思い込み~精神構造が、
     「孤独、焦り、退屈」という心理の発生原因なのだ

「もう10時間も、無為に過ごしている」と時計をチラチラ気にするごとに
わたしたちは耐えがたい程の「孤独、焦り、退屈」を感じてしまう
そしてその原因は「無為=無駄な時間だから」なのだと、ついつい考えてしまう・・・

ところが原因は「無為」ではなかったのだ!
       無為な時間から何とか逃げだし、
       「何か有意義な時間を過ごしたい」という先走り、逃避、弁明こそが
       「孤独、焦り、退屈」という心理的な恐怖の原因、そのものなのだ

この心理的な恐怖を見破った時、
わたしたちは無為の中に無理なく没入し、そして行為者、征服者の消えた・・・

           ・・・「無為という状態」、

つまり〝無我〟そのものを新しいアイデンティティーとして生き始める

「人に教わったこと」は、私達はノートに書き込んで腐らせてしまう
「自分自身で気付くこと」とは、「自分の人生を生き始める」ことだといえる


OSHO_ ハッピーに今を生きる人々を戦争に引きずっていくことは出来ない(日英字幕... door maneel-katal

もし、あなたが歓びで恍惚のなかにいたならば
あなたは何をして、どこに行くだろうか?

「いや、今オレ、実際そうじゃねぇ~し!」と
あなたは口をとがらせるかも知れない

では一体どんな感覚を前提で、
あなたは物事を始めようとしているのだろう? 

・・・不幸?、不満?、惨めさ?、失望?、欠落感?
・・・だからあなたは何かを画策し、反省したり、改善しようとしているのだろうか?

ではそういった「不幸、不満、惨めさ、失望、欠落感・・・」
そこを前提にスタートして、あなたは一体どこに行こうとしているのだろうか?
そこを前提にスタートして、あなたは一体どこに到着出来るのだろうか?

古今東西の誰もが
「不幸」「欠落」や「不自由」「不平等」「憎しみ」「間違い」を〝改善〟し
 「幸福」「充足」「自由」「平等 」「正しさ」に辿り着こうともがき苦しんできた

〝改善〟は確かに便利さを私達にもたらしてはくれた
          システムとは「改善可能」だからだ

で、本当にシステムが私達を「幸福にしてくれた」だろうか?

  「システムの改善が、わたしたちを幸福にしてくれる」
  ・・・そのコンセプトが現代の物質文明社会を築き上げた 

 だから私達はいまだにこのマトリックスを
 より緻密で細密で正確なものにしようといまでも努力している

 それゆえにシンギュラリティーを恐れつつも、その歩みを止められない
 なぜなら、いままでの歩みが「間違っている」とどうしても思えないからだ
 「欠陥はいずれ改善される・・・」と信じている、プログラムのバグを取る様に・・・

・・・こうして人間は、いつかは人間自身のバグもすべて除去できると信じている
   たとえば遺伝子操作による、デザイナーズ・チャイルドを実現するように・・・

そしてこの期待感そのものが、
「自分達は欠陥品だ」という再確認にも連動している
それは「自分達は決して幸福には届かない存在だ」という無意識を蓄積させている
それは「いつかどこかで」実現するのだ、と・・・「何世代か先の未来には!」っと

そしてその「何世代か後の」予測が、その時どうなっているのか?
私もあなたも、たぶん確認できないだろう

しかしそれが、「どうなっていれば」〝正しい〟のか?
          一体何が〝正しい〟未来なのか?

・・・いったいその判定を誰がどんな権威の元に下すというのだろうか?

ただしここで、ひとつだけ明確な事実がある
「いまここ」が不完全さからスタートしているならば
「いつかどこか」がどの様になっていようが、
「いまここ」のわたしたちは、「不完全なままだ」ということだ

たぶん、あなたは反論するだろう
 「いや、おまえは何を言っている?」
 「この〝いまここ〟が〝いつかどこか〟に改善され、入れ替わるのさ!」っと・・・

「それが〝改善〟というものじゃないか?」っとあなたは主張するだろう
「世の中も、わたしたちも、『不完全から完全に』向かっているのさ」というわけだ

その精度は、90%になり、99%になり、やがて、99.9%になり・・・
そしていつか「神の数式」が発見され、全てが改善され尽くし
いつしか100%の未来が来る ・・・「それがアセンションというものだ」、っと

・・・アセンションという言葉を信じている、
 いわゆる「スピリチュアルな人達」でさえも、そう信じている人達が大半だろう

だからかれらは、
  その瞬間を「今か?今か?」と待ち焦がれている
   「いつかどこか」が「いまここ」に到来する瞬間を・・・

確かに99度のお湯は、加熱し続ければやがて100度に達して沸騰し、気化し始める
確かにシステムには、「一応の完成」と呼べる地点がある

だからわたしたち人間はその水蒸気をみて、システムと同じように、
「人間自身もやがて〝沸点〟を向かえるのだ」と信じて疑わないのは無理もない
・・・わたしたちは、いろいろなシステムが完成するごとに歓喜してきたでは無いか?

    この世界とは「不完全から完全へと向かっている」
    それが、「現代客観科学」という名前の新しい神、新しい宗教だ

しかし、
たとえ人類が宇宙時代を迎えたとしても
たとえ宇宙という「桁違いの広大なフロンティア」に飛び立とうとしていても
それはむしろ「改善すべき点」が莫大に増加するだけのことだろう・・・
ひとつの完成、ひとつの達成は、桁違いに多くの「不完全さ」を生み出すのだ

もちろん、
もっともっと選択肢は増える、もっともっと便利にはなるだろう
もっともっとファンタスティックな体験が私達を待っているだろう

・・・しかし、改善は、決して終わらない

それは「素晴らしい」ことなのかもしれないが本質的なジレンマは残り続ける
それは、「不完全な自分自身」が取り残されると言うことだ

「改善」に延々とエキサイトメントし続けるのもいいだろう
でも本当にそれは「いつかどこか」が「いまここ」に到来したことにはならない
・・・それは「オレオレ詐欺」だった

「辿り着く」ことなど、実際には永遠にないという証明だけが延々とつづく
たとえどれだけ「偉大なシステム」が完成しても、「人々の欠落感」は取り残される

・・・「次こそは」「次こそは」とはぐらかされながら

こうしてスティーブジョブスは
アイフォンを世に生み出し、IT革命の帝王でありながらも失意の内に死んで行った

かれは遺言に、この〝次こそは〟というのが永遠に来ないことを告発した
それは世界中に公布されたが、その痛恨の真意は少数にしか届かなかっただろう
   なぜなら、世界はまだまだ「改善の熱狂」という夢に取り憑かれているからだ

実際にはこの「改善の熱狂」とは「人間性の不完全さの爆発的な拡大」なのだ
だから依然人類は存亡の危機に立たされたままだ

いわゆる「スピリチュアルな人々」でさえ、
 いまだこの「人類的な宗教」の信者が殆どなのだ
・・・自分自身の「いまここの幸福」を後回しにした「改善」の囚人たちなのだ

「幸福の科学」も、NRジャパンの「観術」もおなじだ
 「科学的な、合理的な、ある種の手法」が
  「私達を幸福に〝してくれる〟」と思い込んでいる点で、おなじだ

あらゆる「手法」、あらゆる「科学」「哲学」そのものが「何かを掴もうとする腕」で、
それは一時的には「略奪、獲得による瞬間的な満足感、達成感」は与えてくれるが
それが麻薬的、優越感的な、より多くの欠乏感、不満、飢餓感を発生させる

・・・これこそが、人間の本質的な「不幸」なのであって「幸福」ではない

      「もっともっと」が誘導し、もたらすのは最終的には破滅だ

最初の質問に戻ろう・・・
もし、あなたが歓びで恍惚のなかにいたならば
あなたは何をして、どこに行くだろうか?

その時から、あなたは「アートマン」として生きるだろう

「足りることを知る」というのは「震度ゼロの幸福」であり
これは最大の「科学ではなく芸術(アート)」だ

私なりに「アート」を定義させてもらうなら
絵を描いたりだとか、その手法だとか、その絵が幾らで売れただとかという
そういう行為や結果のことなのではない

「アート」とはいまここを見つけたエクスタシーのこと、恍惚感のことだ
そしてその満ち足りた充足感こそが、「平和」という言葉の本質をも表現している

アートとは永遠性であり、「それ独自で完結している」世界だ
だからアートとは「生」であり、「死」でもある
「いまここ」に生きており「いつかどこか」への腕の延長=野心に対して死んでいる

45.Postponement 延期


まぶたを閉じると、
その裏に凄まじい速度で色々な無数のヴィジョンが駆け抜けてゆく
              きっといままでもずっとそうだった

でも、これをなるべくハッキリと見届けるためには
こころがゆったりしていなければいけない

・・・「早い」ものを見極めるために「ゆっくり」しなければいけない 

それは一見矛盾している様だが、実際そうだ
 
自分自身への信頼感がないと、
「ゆっくり」見ることは到底出来ない
自分が見たヴィジョンを自分自身が信じられないからだ
自分自身への信頼感こそが
閃光の様に駆け抜けてゆくヴィジョンに
スローモーションの様な効果を与えて見やすくさせてくれる
 ・・・焦りや不安や退屈感に気を取られている人は「見る」事は出来ない

しかしこの「自分自身への信頼感」とは、
「ヴィジョンを捕まえる為」のものではない・・・
その逆に、
内視眼 (第三の目) を導き、
自分自身への信頼を培うためにこそ、
 これらのめくるめく駆け抜けてゆくヴィジョンは
    瞬時に現れては消えているのかも知れない 

たぶん、子供の頃からずっとたゆまなくずっと続いていたのだろう
このヴィジョンのジェットストリームは・・・

しかし、私がわたし自身を本当に大切にしよう、信頼しようとし始めたのは
まだまだ、つい最近のことだ・・・  だから「見え始めた」のも、まだ最近なのだ

「自己信頼」とは、まさしく「内側を見る動体視力の鋭さ」と直結している

Yes - It Can Happen from Katal Maneel on Vimeo.

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