We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年04月

どんな事をしても取り消されないモノは?

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この世で見るもの(対象物)
聞くもの、嗅ぐ香り、味わい、感触・・・

・・・すべてのものは疑い得る、取り消し可能だ



しかしそれを感じている主体は・・・
・・・それだけは取り消し得ない

誰も、あなたの感じたことを証言できない、
あなたが法廷に立たされても、証言者は誰も居ない
そういう意味で、誰もがたったひとりだ、この世界でたったひとり・・・

しかし、あなた自身が
  その「たったひとり」ではあるが、
   その「絶対的な証言者」なのだ

「肉体の死とは何なのか?」
この質問の答えをあなたは必要としないのでは無いか?
                  ・・・少なくとも自分自身に関しては

ゴクリ、「それは確かなの?」

それはデカルトが言う様な
「吾思う、故に吾在り」なのか?
・・・否、「考え、思いつき、アイディア」は検索、コピーが可能だ

「きれいな花だなあ」と脳内で言語化する・・・
ところがそうマインドで呟いている時は、私達は花なんて見ては居ない

「こんな時はどう反応し、どんな形容詞を使うのか?」
ターミネーター殺人ロボットのように
状況を観察し、識別し、過去の日本語の〝用例〟から検索し、
適当な形容詞を反復して自分自身に言い聞かせているだけだ

用例「失せやがれ」を選択 from Katal Maneel on Vimeo.


本当に花を見て(体感して)いるなら、頭の中のおしゃべりは止まり、沈黙が広がる

わたしたちは花の実感が、自分自身を「刺し貫く」前に
言語化して、ありふれた体験として、さっさとアーカイブ化しているだけだ

【長文引用】

人が絶対に確信できる現実は
たったひとつしかない。
それは内面の真実だ。
人は内側に動いて行ける。
人が確信できるのは、
自分自身しかない。
他には何もない。
だが、
ひとたび自分が存在するという、
この確かさを射抜けば…。
いいかね、
夢の中にさえ、
自分はいる。
蝶にはなっているかも知れないが、
自分はいる。 


夢が存在するためにすら、
少なくとも自分が必要だ。
すべては夢かも知れないが、
自分はそうではない。
なぜなら、
自分がいなくては
夢もあり得ないからだ。
夢のためにすら、
意識が必要だ。


あらゆるものが夢だと
証明することはできる。
だが、
夢を見いる人を
夢だと
証明することはできない。
夢を見る者は、
実在でなければならないからだ。
さもなければ、
夢も存在できない。

確かなことはひとつしかない。
そして、
それは、
自分だ。


たったひとつの事だけは絶対に確かだ。
それは、
自分の内面という真実だ。
改心とは、
不確かな世界、
見かけの世界から、
その真実の世界に
向きを変えることだ。

ひとたび人が、
その内なる確かさを、
自分には根拠があることを知ったら、
ひとたび自分がいることを知ったら、
その確かさによって、
視界が変わる。
その質が変化する。
そうすれば外の世界を見ても、
別な世界が開示される。
その世界が神だ。

人がある確かな、
絶対に確かな実在に
根を下ろした時、
その人の眼差しは
それまでとは異なった質を持つ。
その時、
そこには信頼がある。
今や、
見ることができる。
すると、
全世界が変わる。

その時そこにあるのは、
そう見えるものではなく、
実在だ。
本当に真実であるものだ。
本当に真実であるものとは何か。
それは、
この目に見える形ではない。


形態は変わるが、
その形態を通して動くものは変わらない。


あなたは子供だった。
それからあなたは若者だった。
今やあなたは老人になった。
形態は絶えず変化している。
あらゆる瞬間に、
肉体は変化している。
だが、
その内面を覗けば、
あなたは同じままだ。

あなたは、
母親の子宮の中での
小さな細胞だった。
肉眼では見ることもできなかった。
それから小さな子供になった。
それから、
夢多き青年になった。
そうして、
心破れ、
落胆した一人の 失敗者、
一人の老人になった。
だが、
もし 内側を見たら、
なにもかも同じままだ。

意識は決して変わらない。
内側を覗き込めば人は驚く。
自分の年令が感じられない。
意識には年令がないからだ。
目を閉じれば、
自分が二十歳なのか、
四十歳なのか、
六十歳なのか分からない。
年齢は肉体に、
殻に属するものだからだ。
本質は年齢を持たない。

生まれたこともなければ、
死ぬこともない。
ひとたび、
この永遠不変の、
不動の絶対に中心が決まったら、
あなたの質は変わる。
そうすれば、
人は見ることができる。
人は鏡になっている。
そして、
その鏡に、
実在が映る。
だが、
まず自分が鏡に
ならなければならない。
今はあまりにも波立ち、
揺れ動き、
何ひとつ映し出すことができない。
あなたが歪んでいるのだ。
マインドは実在を歪める。
意識がそれを顕わす。

‘根源に帰れば、
意味を見出す。
 だが見かけを追えば、
 源を失う。’

見かけを追い続ければ、
源を見失うことになる。
見かけとは外側だからだ。


ある時は富を追い、
ある時は女を、
あるいは男を追い求める。
ある時は地位や権力を追い求める。
そうやって
見かけの世界を追い続ける。
そして、
その間ずっと、
自分自身を見逃している。
そのあいだはずっと、
夢の中に生きているのだ。

もし源を見失なったら、
人はすべてを見失なう。
外側の世界で多くのものを
手にするかも知れないが、
結局、
最後には、
自分が何ひとつ
達成していなかった事が
分かるだろう。
すべての意味を
担っているものを
見逃してしまったのだ。

臨終の床で、
あなたは大金持ちとして
死んでいくかも知れないが、
内面は、
貧しい 一人の乞食として
死ぬことになる。

死に際して、
あなたは
非常な権力者かも知れない、
一国の偉大な大統領、
あるいは首相かも知れない。
しかし内側深では、
自分が無力だということを
知っている。


死は、
その権力が
単なる見せかけに
過ぎなかったことを
証明する。


その権力は、
死を前にして
無力で、
役に立たない。
死を越えて行くものだけが力だ。
他のすべては無力だ。
人は束の間
それを信じたかも知れないが、
死が真実をもたらすことになる。
死がやって来ていることを、
いつも思い出しなさい。

そして、
死こそが判断基準だ。
何であれ、
死が無効にするものは、
無効にされる。
何であれ、
死が承認するものが
承認されるのだ。

何であれ
死を越えて行けるものこそが、
何であれ
死より強力なものこそが
実在なのだ。
実在は死なない。
非実在は千とひとつの死を死ぬ。

‘内なる光明の時、
見かけと、空を、
ともに越えて行くものがある。’

内なる光明が起こって初めて、
自分が内なる光に満たされて初めて…。
光はそこにある。
あなたが
それを外に投げ出しているのだ。
それは、
あなたの欲望とともに動く。
欲望こそが焦点だ。
光は動き続ける。
あまりにも
富に取り憑かれていたら、
全存在が
富に焦点をあわせる。
すると
金以外には何も見えなくなる。
たとえ人に会っても、
その相手は見えず、
金が見える。

相手が貧しければ、
あなたの思考には
どんな痕跡も残さない。
相手が金持ちだったら、
その時には跡が残る。
大金持ちだったら、
その人を覚え、
記憶が形成される。

あなたが権力を追求していて、
ヒットラーやスターリンや
毛沢東に会ったとしたら、
その時は、
人に会ってはいても、
それは二の次、
あなたはまず権力に出会っている。
ニクソンが大統領でなくなれば、
もうその相手が見分けられない。
ニクソンが自分の側を通り過ぎても、
それはもう人ではない。


人には何でも
自分の望むものが見える。
自分の欲望が、
自分に見えるのだ。


そしてあなたの光は
常にあなたの欲望に
焦点を合わせる。

この光が向きを変える時、
転向する時、
内側を向く時、
そこに明知がある。
その時、
人は光に満たされている。
明りのともった家になる、
その内側はもう暗くない。

‘内なる光明の時、
見かけと、
空を、
ともに越えて行くものがある。’
突如として、
人は見かけと空虚を越えて行く。
そうなれば、
何ひとつただの見かけではないし、
何ひとつ空虚ではない。
すべてが〈神性なるもの〉で
満たされている。
あらゆるものが
〈神性なるもの〉でいっぱいになり、
溢れている。
あらゆる木、
あらゆる川、
あらゆる海が、
〈神性〉で 溢れる。
その時、
神は至る所にいる。

それを真理と呼んでもいいし、
あるいは自分の好きな
どんな呼び方で呼んでもいい。
ただその実在は至る所にある。
自分が真実であれば、
世界は真実になる。

自分が
非真実の欲望の中に住んでいれば、
人は、
見せかけの世界を創り出す。
どんなものにせよ
自分がそれであるもの、
それが、
その人の世界だ。
だから、
人と同じだけの世界があるのだ。

なぜなら、
誰もが自分だけの世界に住んでおり、
自分だけの世界を
まわりに創り出しているからだ。
それはその人の投影、
その人の創作だ。

‘この空なる世界に現れる
見かけの変化を、
ただ無知なるが故に現実と呼ぶ。’

誰かを年寄りだと言う。
老いを現実と呼ぶのは、
実在の何たるかを知らないからだ。

それを知れば、
誰ひとり若くもなければ、
誰ひとり年老いてもいない。
誰ひとり子供でもない。
内側には年齢がない。
外側の形が変化するだけだ。


私の服が古いとする。
服が古いからと言って、
私を老人と言うだろうか。

私の服が新しいとする。
ニューブランドだ、
仕立て屋から
出来上がってきたばかりだ。
服ができたてだからと言って、
私を若いと言うだろうか。

肉体とは衣服に他ならない。
誰かを老人と呼び、
誰かを若者と呼び、
誰かを子供と呼ぶのは肉体のゆえ、
絶えず変化し続けるその形態のゆえだ。

知るに到った人は皆、
真実は不動のもの、
動くことのないもの、
動き得ないものだと言う。
衣服が変化し続けるのだ。

Osho - Nither This Nor That


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首斬り朝_第01巻「鬼包丁哭くとき」

014

諸行無常 しょぎょうむじょう 是生滅法 ぜしょうめっぽう
生滅滅已しょうめつめつい  寂滅為楽じゃくめついらく
- アットランダム - Yahoo!ブログ
より引用

諸行無常

「現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、
 一瞬といえども存在は同一性を保持することができない」ことをいう。

この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。三法印、四法印のひとつ。
涅槃経 に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、
これを諸行無常偈(「げ」って読むようですね。^^)と呼ぶ。

雪山童子はこの中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。
これより雪山偈とも言われる。
「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。
             寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」

「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。
有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。

後半偈は還滅門。
生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。

   生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものである
                 と観るから苦が生じるのである。

この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。
しばしば弘法大師空海に帰せられてきた「いろは歌」は、
この偈を詠んだものであると言われている。

  いろはにほへどちりぬるを  諸行無常
  わがよたれぞつねならむ   是生滅法
  うゐのおくやまけふこえて  生滅滅己
  あさきゆめみじゑひもせず  寂滅為楽

「諸行無常偈(雪山偈)」
釈尊がこの世で悟りを開くにいたった過去世の因縁としての物語の中で、
一人の修行者が雪山(ヒマラヤ)でひたむきに修行していた。
その真摯な態度に感動した帝釈天(仏法の守護神)は、
悪鬼(羅刹)のすがたに身をかえて修行者の前にあらわれた。

そして「諸行無常なり、是れ生滅の法なり」と雪山偈の半分を唱えたのでした。
修行者はこの真理の二句を聞いて大いに驚き歓喜し、
あたりを見回すがそれらしい人影はない。

そこに立っているのはおそろしい姿の羅刹であった。
修行者はおそるおそる鬼に話しかけた。
「今の言葉はお前がとなえたのか」というと「そうだ」という。
修行者は「今の二句は真理を説いてはいるが、
それではどう生きたらいいかという後の二句が説かれていない。
知っているなら是非とも続きを聞かせて欲しい」。
鬼は答えた。
「もちろん続きも知っているが、腹がへって続きを唱えることができん」
というのであった。

修行者は
「それではお前の食べ物を私が探してこよう。一体何が食べたいのだ」と聞くと、
「人間の血と肉を食べたい」と言う。
そこで修行者は、真理を求めるために命を捨てる覚悟をして言った。

「それでは、私の身体をあげるから続きを聞かせてもらいたい」ということになり、
鬼は「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽となす」の言葉があたりにこだましました。
修行者はこれを聞いて驚喜し、後世の人の為に四句を岩に刻み約束通り谷底に身を投じた。
その瞬間たちまち鬼は帝釈天の姿になって、
やさしく修行者のからだを受けとめ礼拝した--。

この修行者というのが前世で修行している時の釈尊であった、というのです。
 
この四句を諸行無常偈といい、
葬儀幡として当寺で行う葬儀には葬儀会館にても必ずかかげていますが、
都会の葬儀ではほとんど見られないと言う現状はまことに残念に思うのです。

         葬儀幡は四本幡(四幡)ともいい、旗ではなく幡です。
         幡は仏菩薩を称え、教えを表示する役目を持っています。

この無常偈は、修行中の釈尊を雪山童子(せっさんどうじ)といいましたので、
雪山偈ともいわれます。

  諸行無常(しょぎょうむじょう)---すべての存在は移り変わる
  是生滅法(ぜしょうめっぽう)--- 是がこの生滅する世界の法である
  生滅滅已(しょうめつめつい)--- 生滅へのとらわれを滅し尽くして
  寂滅為楽(じゃくめついらく)--- 寂滅をもって楽と為す 

これを和訳したものが「いろは歌」だといわれています。 
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐの・・・ という、
ひらがなを、重ね字なく並べて読みこんだ四十七字の歌を「いろは歌」といいます。
昔は手習いの手本やカルタ遊びの読み札として用いられました。
しかし、戦後の国語教育では、「ゐ」や「ゑ」という字が使われなくなり
教えることもありませんから、この歌を知る人も少なくなりました。 

ところで、このいろは歌を「仮名手本忠臣蔵」とも言うのです。
なぜ忠臣蔵なのかというと、最初の紙に「いろはにほへと」と書く。
次に「ちりぬるをわか」三枚目に「よたれぞつねな」となっている。
この仮名手本の一番下の字をつないでいくと、「とかなくてしす」。
つまり、「咎なくて死す」であって、
赤穂四十七士は〝主君の仇討ちをした忠義の士となる〟というのです。

主君の仇討ちという忠義の士を幕府は切腹の刑に処したという
権力者への痛烈な批判が込められていますが、
どこで切るか?によって意味がまったく違ってしまう見本のようなものです。

このいろは歌は『諸行無常偈』和訳したもので、
弘法大師の作とも伝えられますが、はっきりしたことはわかっていません。
その真偽はともかく、甚深なる意味が含まれています。・・・

・「色は匂えど散りぬるを」
  花は爛漫と咲き乱れていてもやがて散ってしまうように、
  人にも寿命があり、すべての存在はうつりかわる。
  我が世と青春と肉体を謳歌していても、
  月日のたつのは実に早いものであるという「諸行無常」を示します。
 
・「我が世誰ぞ常ならむ」
  この世に存在するものは生滅する法(真理)です。
  釈尊は
  「一切のものは無常である。諸法は無我である。」
  「故にすべての存在しているものには永遠不滅なるものなどは内在しない」
  と示されています。
 
・「有為の奥山今日越えて」-- 有為とはインド語でサンスクリタ(作られたもの)
                          英語で言うと the created 

  しかし、キリスト教のように神によって創られたものということではなく、
  仏教では縁起思想ですから、原因と条件が合するところに万物は存在する。
  因縁は常に加わりますから、それに応じて常に相(すがた)を変えています。
  すなわち「無常」です。
  この「無常」なるものへのとらわれを滅して
  因縁の道理を知る、真実の道理に目覚めることです。

  有為とは為す有りとも読めます。
  人間のはからいとは「人生とはどうしたって有為なんだ」というのでしょうが、
  無為というのは為す無しということです。
    そのことに一所懸命には勤めるが、
    こうやったらこうなるだろうというアテを作らない ・・こと。
  アテを作るとみんな、必ず手前みそになってしまうのです。
 
・「浅き夢見じ酔いもせず」 寂滅をもって楽と為す-- 
  有為の奥山を越えて見たならば
  「浅い夢のようなもの」であり
  「酔っぱらっていた」ようなものである。
  「寂滅」とはやすらぎということです。

  我が滅しられ、煩悩の火が吹き消えた状態で、
  やすらぎ、悟りの境地をいいます。
  一切のものごとへのこだわりや、とらわれの心がなくなった状態です。

こころ自体は無限であると思っていた
有限なのはこの物質の世界、肉体の能力なのだと思っていた

だから塵の様に積もり続ける耐えがたい「過去の重み」「疲労感」は
「肉体を持って生まれてきたからなのだ」という懲罰的に、
この肉体の生活を見なしていた・・・ずっと

そしてその観念こそが、私を「悟り」への関心へとずっと急き立ててきた

しかし「人生への疲労感」というものは、
物理的、肉体的な要因で蓄積し続けているのではない 

なぜならこの物質世界は回転運動が主軸になっていて
様々な複雑な種類の〝周期=サイクル〟が支配しているからだ
 誰だって「疲れてヘトヘト」な時もあれば「ハツラツとしている」時もあり
   人生に「疲労が蓄積する一方」などと言うことはない
・・・・苦労もあるが、「くつろぎのひととき」が必ずある

昼があれば、夜もある、

ナルホド確かに身体を使えば、身体は疲れるだろう
でもそもそも、そんな「肉体の疲労」が自分の限界を物語っていたのではなかった!

   「疲労感」とは「内的な問題」だったのだ!
    「疲労感」とは「義務感」から生じていた!

物理的、肉体的なサイクルそのものは、
決して「牢獄」なのでも「カルマ」なのでもなく
「生命の躍動原理」「回復」「リバランシング」の原理だったのだ・・・

その、「知っているはずのこと」に気が付かなかったが故に
        わたしはずいぶんと遠回りしてしまった様だ

夜眠り、朝が来れば、肉体はリフレッシュされ、そして世界も新鮮だ
にもかかわらず、私達は寝床で目覚めると「またか」と呟いてしまう

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・・・ことは「疲労感」だけに限らない
   あらゆる「こころのリミット~〝限界〟」「心因的なハードル」を
   私は物理的、肉体的な根拠に求めすぎていたのだ・・・

   確かにジュースは飲めば減る、体力は使えば疲れる
   金を払わなければ買い物は出来ない・・・
   そんなことは小学生にとってもありきたりの事実であるが故
   なるほど誰もが納得する説明だった、そうして自分自身も納得してきた
   
   暴力を振るう夫、父親・・・あなたの体中がアザだらけ
   であればドメスティック・バイオレンスを受けている証拠は充分だ
   物理的な根拠の在るものは、容易く立証できる
   そしてその責任を凶暴な性格の夫や父親に対して追求できるだろう

   しかし本当にそれだけが「事案の全貌」なのだろうか? ・・・いや違う!

「疲労感」だけにかぎらず、
自分の中のありとあらゆる限界性、恐怖、恐れ・・・
それらの原因を説明する為の
ありとあらゆる外部的要因を見つけるのは決して難しくは無いだろうし、
それは他人に対し、社会に対しては実に説得力のあるリアリティーがある

 生涯、その「やむを得ない」現実、限界性に支配され続けても
       誰も同情こそしても、文句は言わないかも知れない

しかしそれらの現状に対して、
私たちは本当に「純粋に支配されているだけ」なのか?

 ひょっとしたら、
それらの惨状を引き寄せて、
自己弁明のタネにして自分に引きこもっているだけなのでは無いか?

だとしたら、第一の加害者は自分自身だと言うことになり
「加害者の〝役目〟をさせられている者達」というのも、
ある意味では、「実は被害者」なのではないだろうか?

自分自身を様々な種類の限界性に押しとどめるために
「いじめっこ」を自分自身が必要として、無意識に引き寄せているとしたら?

スピリチュアルではこころの無限のポテンシャルを証明するために
さまざまな超人的な現象を素晴らしい奇跡とあがめる風潮が、今だにあるが
むしろそれは「人間のこころの有限性、限界性」を表現しているのでは無いだろうか?

「人々に対してスプーン曲げやら透視やら、スペシャルな現象を披露する・・・」
それ自体がまさしく「人間の心理の幼稚さ、有限性、限界性」なのではないか?


わたしたちは日々、飲み、喰い、眠り、そしてクソをする・・・
肉体には確かに様々な制約があるが、それは「内的な制約」とは無関係だ

ところがそれらの肉体的な制約を超えて、空中浮遊したり、水中クンバカしたり・・・
・・・たとえそんな事が、人並み外れた芸当が出来たとして
   それが「心の制約」と何の関係があるのだろう?

 そんな奇術に心が奪われてしまった人は
 余計に「こころが縛られてしまう」のではないだろうか?

「こころ〝が〟・・・」制約を受けてきた、抑圧されてきた、・・・のでは無く
「こころ〝こそが〟・・・」制約そのものなのでは無いだろうか?

「人並みから離れた」超人であったり、天才であろうとすることが
「人間の限界性の突端なのだ」と思い込んでいる人々があまりに多い様に思う

「心の限界」を
「肉体的に突破したい」人達が多すぎる

 何も喰わない「不食」が、「食欲」の限界突破なのか?
逆に何でも食べ続ける「大食いチャンピオン」が 、「食欲」の限界突破なのか?
                   ・・・・わたしはそうは思えない

私達は、今日も食べ、今日も働き、今日も眠るだろう・・・
でもそこには何の問題も、限界性も無い

肉体の有限性の中にこそ、無限性がある
そして心の無限な欲望の中にこそ、有限性がある それが私達の牢獄だ

スピリチュアルな探究者とは

理想からではなく、

スピリチュアルな不満足感または体験から

求める人です。

バガヴァン

理想とか信念体系というのは
「~べき」「~ねば」「~の為」ということ・・・

  「べき」とは「壁(かべ)」の音読みでもあり
   壁とはすなわち「限定」「限界」のことだ

  「ねば」とは英語のNEVER「禁止」のこと

  そして「為」とは「溜め」だ
  「人の為」とかいて「偽(うそ)」となる

 「スピリチュアルな欲求不満」とは
  この
   「壁(かべ)、偽(うそ)への欲求不満」
   「NEVER~禁止への欲求不満」
   「溜め込むことへの欲求不満」 ・・・というわけだ

なぜ「マインドを否定も肯定もせず見つめなさい」とOSHOやバガヴァンはいうのか?

・・・つまりマインドとは「生存プログラム」のことであり
このプログラムへの盲従とは「ロボットの様に生きる」ことだからだ

たとえば私達はお金に執着しやすい
  「お金は命の次に大切なモノ」 ・・・と思いがちだ  

なぜなら以前も書いた様に、「お金」とは「生命の数値化」だからだ・・・・

お金はあくまでも手段、道具に過ぎないはずだけれど
実際の処、私も含め多くの人々が多くの場合、
お金のために何かの労働に従属しなければいけない、ロボットにならなければいけない
というのが現状だ

だから、「効率よく稼ぐ」マインドの機能に、自分自身が強く自己同一化せざるを得ない
・・・つまり、「率先してロボット化せざるを得ない」という社会人としての宿命を背負っている

これは「スピリチュアルな欲求不満」の一つの大きな要因にもなっている

そしてこれは
お金を求めつつも、「お金は汚い、お金が好きになれない」という心理にも直結する

だから、わたしたちがドップリとマインドとの自己同一化に浸りながらも
「マインドの束縛から逃げ出したい」という憧れを抱くのも自然なことだ

しかし「お金」にも「マインド」にも何の罪もない
私達はあるいは「無為」や「ノーマインド」「静寂」に憧れるが
私達が植物に生まれなかったことは幸福なことなのだ

「スピリチュアルな欲求不満」によって、お金にせよ、マインドにせよ、
それらを敵視したり邪魔者扱いにしたりするのはおかとちがいだ

それらは私達の生活に、ある程度の選択的自由を与えてくれているだけだ
でも逆にそれらに自己同一化してしまうのも愚かなことだ、・・・ロボットになりきってしまう
自分自身を「効率的な道具化」しきってしまえば、
それは「便利ではある」が、それは同時に「生命としての本性の喪失」でもある

続編予定中

以下、半田氏の投稿を理解しようと試みるための私なりのメモです

半田 広宣さんが写真2件を追加しました。

●外部に反転を見るとはどういうことか
 
観測者の周囲にはいわゆる時空が広がっています。

  ここで観測者の位置を観点a、

  対象化される時空上の位置を
    「見られる点」という意味で「視点n」と呼ぶことにしましょう。

このとき一つの観点の周囲に無数の視点が散在していることになります。
これがわたしたちの外部世界に対する通常の捉え方です。

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反転認識とはこの構図が下図下のように変わることをいいます。
僕がいつも「観点の球面化」と呼んでいるものですね。

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反転認識が形作られることによって、
視点nの位置はすべて視点Sで統一されることが分かります。
※ブログ編集者挿入
猫=視点S
 猫が振り回されて撮影されているようにも見えれば
 猫の前足を捕まえて録画者が猫の周りを
 ぐるぐる回って撮影しているようにも見える

 
ほんとうは、こうした認識が「健全な空間認識」というものなんですが、
今の世界ではそれが忘れ去られている。
 
反転を単に延長空間の中でイメージしても意味を持ちません。
空間認識の反転とは、
延長的な空間認識から持続的な空間認識へと認識の形態を変えることなのです。
ですから、これは「時間の空間化」と言っていいでしょう。

そこでは、時間は流れを止めて、持続空間として空間化してきます。
下右図における点Sはそのときに感覚化されてくる持続中心を意味しています。

※編集者挿入

猫がずーっと「持続して」空間上に存在しているから
猫を色々な角度から観察出来る・・・

その「角度変化の動き」が、「時間の空間化」?

反転感覚が目覚めてくると、目の前に何らかの対象を見るとき、
そこには反転した持続空間が常に重なり合っていることが意識化されてきます。
 
このことは、
そこに抱かれている無数の記憶も同時に一緒に知覚化されてくることを
意味しています。このことは誰にも否定できませんよね。
 
 一人暮らしのワンルームマンションの中。
 彼女からプレゼントされたコーヒーカップがぽつんと食器棚の中に入ってる。
 そこから、追憶されていくあの幸せだった日々………
 くそっ!!こんなもの叩き割ったるわい!! うぅ、でもでけへん。。。
 なんてことになってくる(笑)
 
目の前のコーヒーカップですら、その人の人生の全記憶を伴ってそこにある、
ということ、なんですね。プルーストの世界です。
 
反転のカタチが理解できたら、まずは、そういう感覚を養っていくことが重要です。
そうすれば、局所=非局所のほんとうの意味が、明確な輪郭のもとに実感として
湧き上がってくることでしょう。
 
ちなみに、下図下で示した反転円(の回転)は物理学の言葉に直すと、
物質粒子ψの局所的U(1)変換(複素平面上の回転)という表現になります。
その反映として元の円を見た場合、その回転は電磁場のU(1)変換です。
 
実際に存在しているにもかかわらず、
未だカタチになりきれていないわたしたちの持続のカタチに明確な輪郭を与え、
永遠世界を確かな地図をもとに、見えるものへと彫塑していくこと。
それがヌーソロジーがいうトランスフォーマーの作業ということになります。
 
ヌーソロジーの言葉では
左の円の領域を次元観察子ψ5、
右の円の領域を次元観察子ψ6、と言います。

人間の自我の構造を少なくとも空間的に理解するためには、
           ψ13~14までの観察子が必要になります。

それが素粒子のシステムの全体性と一致するというのが、
                   目下のところの予想です。
 
ψ6は自己中心化した想像的自我の拠点です。
自我構造が見えてくることによって、
少なくともこの強固な拠点は脱中心化していき、
主体は対象世界の内部に新しい拠点を形作り始めます。
そこは作られたものと作るものが一致した世界、
つまり、存在者と存在の区別がない世界です。
 
こうした認識の創造作業に興味がある方は是非、
ヌーソロジーで遊んでください。面白いですよ。
 
ただし、社会的現実はしっかり押さえた上で、というのが絶対条件です。
それができていない人は立ち入り禁止区域です(笑)。

以上、半田氏の相変わらず難解な文章を何度か読み返していて
私は「全動説」を連想した

通常の空間認識では、
世界は不動であり、人間一人一人の肉体がその世界の中をチョロチョロと動き回っていて
その私達の身体の上に頭蓋骨がフレキシブルな首によってくっついていて、不動の世界を
頭あっちこっちにひねってキョロキョロと(゚Д゚≡゚Д゚)見回している・・・

でも、頭蓋骨が定点カメラであり、
それがフレキシブルな首によって振り回せる胴体が歩行することで
全世界がこの定点カメラからでも「色んな角度から見渡せる」  ・・・そんな見方もあるのだ

つまり頭蓋骨は常に「いまここ」の不動の視点だということ、それが全動説だ
これはVRゲームで仮想空間内をパソコンで歩き回ることを思い出してみれば分かりやすい
パソコンの画面上ではゲーム内の人物の頭蓋骨からみた不動の視点でゲーム世界が動く

そしてこれが、
「猫、あるいはその他あらゆる空間上の視点」でも対等に成り立つ、と考えるなら
「彼女からプレゼントされたコーヒーカップ」が全世界を体験している、という見方も出来る

禅で言う「石のことは石に訊け」というのもまさにそういう世界観ではないだろうか?
石ころであれ、コーヒーカップであれ、周り中の素粒子(空間座標)であれ、要は
「私という世界ゲーム・プレイヤーの証言者、定点カメラ」だということになる

これら、「私の意識の証言者たち、共存者たち」が・・・、
「私の意識を形作っている」とも言えるし、「私の意識がこれら世界を形作っている」とも言える

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