We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年03月

なかなか難解な映画なので、何度も挫折していた映画だったが
昨夜やっと見終わった

しかし「 昨夜やっと見終わった」事にもシンクロニスティーが働いていた
なぜなら昨夜は「マインドの破壊」がテーマになっていたからだ

この映画の中心となっているミッションは深層心理に
微妙な「考え」の植え込みをする事で現実の状況を大きく変化させる
というものだった

ディカプリオや彼を雇った渡辺謙は、ライバルの巨大企業による
「エネルギー世界市場の一局独占を阻止する」という、いわば〝正義の味方〟として
活躍している事ぐらいは、まあネタバレして置いた方が私の様に中途挫折せずに
この映画について行きやすいだろう

三重構造の夢の奥底でぽつりと置き替えたシンプルなアイディアが
ウイルスよりも強力に個人の世界の中で感染爆発して、本人は
「自分が自発的に選んだ運命だ」と思わせる・・・  

いくら〝正義の為〟とはいえこのインセプションが
恐ろしい行為であることがこの映画で感じられるのは、
最初に成功した〝実例〟が主人公コブ(ディカプリオ)の妻であり、
それがこの夫婦を破滅させてしまったという過程が、
映画のストーリー進行と共に明かされることで雄弁に語られている

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「全ては夢なのではないか?」という強烈な懐疑論が人生を破壊してゆく
っというテーマは、事実そう考えている私にとってはフィクションでは
済まされないテーマだ 

ただ私の自身の仮説は、ちょっと違っていて
「夢と現実とは私たちの日常で信じられている程、 明確な線引きは出来ない」
というものだ

私たちの「起床してから就寝するまでの」明晰に体験している日常を
私たちは〝現実〟と思って疑わないが、私はそこに常に疑問を差し挟んでいる
時々話題になる〝明晰夢〟はあくまでも就寝中のことなのだけれど
それは「肉体はあくまでベッドに横たわっているのだから、キホンは〝夢〟」
と一般的に思われているが、それは正しいのだろうか?

本当に「この肉体を伴った日常の体験こそが〝リアル〟」・・・なのだろうか?

〝リアリティー〟がタップリあることは認める
そしていくつもの厳しい条件付けがある、拘束がある、明晰さがある
      ・・・だから〝リアル〟なのだと断言できるのだろうか?

私たちの起床時の日常は、あまりにも多くの「良いこと、悪いこと」の基本同意
つまり〝常識〟〝共通認識〟〝法律〟 などが折り重なった上での生活だ

これら「良いこと、悪いこと」は遠く幼かった頃からの根深い学習の結果だ

もしこれらの学習がある水準に達していなければ、
  私たちは誰もが社会的な不適格者として、・・・
  学習障害者とか、異常者、犯罪者として扱われていただろう

それゆえにこの「厳しい現実」こそを「現実なのだ」と
私たちはあまりにもガンジガラメなのじゃないだろうか?

「こんなガチガチのリアリティーが、本当のリアルじゃないんだ」
という発想は、もちろん私だけではなく〝夢想家〟と呼ばれる多くの人が持っている
それはたとえば「現代まで続いている金融システムはインチキだ」といった
いわゆる陰謀論者達に、かなりのリアリティーを持って受け入れられている
わたし自身もそういうアイディアを広めてきたひとりだ

しかしわたしは〝彼ら陰謀論者〟と、今は一定の距離を置いている
わたしも広めてきたロスチャイルドによる金融支配論は、多分事実だろうと今も思う
しかし、単純にこういった「悪い奴らのせいで・・・」という被害者意識には
私は大いに疑問を抱いているのだ ・・・これは私たち自身が潜在的に求めていた
〝ルール〟だったのではないだろうか?だとしたら私たちは被害者では無い

新大統領、トランプ氏も
「フリーエネルギーやアンチエイジング技術を公開する」
というニュース
も取りざたされている、UFOの公認も近いと言われている
まさしく「人類の〝夢の様な〟夜明けが間近」な期待感が、今高まっている

でもだからこそ、この「目の前のニンジン」に目がくらんで、
わたしたちは大事な歴史的な一歩を踏み誤るかも知れないと私は危惧している
現在は「大チャンス」と「大ピンチ」がせめぎ合っている歴史的瞬間なのだ

わたしたちが固く信じている「良いこと」「悪いこと」は
すべてインセプションされたこと」ではないだろうか?

それはどれ程、「微妙な」「些細な」事であったにせよ、大きく運命を左右する
わたしの現時点の結論を言えば、いかなる微妙なインセプションをも
見抜かなければいけない、いままさに最後のタイムリミットが来ているのではないか?

如何に、どんな角度から見ても「良い」と信じ込んでいることも
わたしからいえば、それは「インセプションされたこと」なのだ
それは、本来の私たちの真正な姿から大きなズレを生じさせている
そしてそれを「自分自身の本性」と信じ込んで走り出した時
それは大きなしっぺ返しを生むだろうと思う

それがわたしが映画「インセプション」から得たメッセージだ

BLUE - 決して死なないもの from Katal Maneel on Vimeo.


死を恐れるな
死はいつもそばにいる
それは恐れを見せた途端、
光よりも早く飛びかかってくるだろう
恐れなければ、それは優しく微笑んでいるだけだ

〝死への恐れ〟とは、具体的には、「社会への保証」
「世の中の矛盾や不備、理不尽さへの憎しみ、改善への渇望」という形を取る

命とは肉体の維持状態のことではない
生命とは「フォームレス」だ・・・、
でもそれを認めてしまうことは
ホームレスになってしまうのではないか?という恐れ」を生む

本当は社会的な地位を失うことや、肉体の終わりが〝死〟なのではない
「恐れていること」「保証制度や社会形式、への期待、改善」こそが、
もうすでに、その恐れ自体が〝死〟なのだ
インディアンのブルー爺さんが言っている
「光よりも早く飛びかかってくる」というのは比喩ではなく、事実なのだ

しかし「正当な訴え」という権利意識が、そのところを見えなくさせてしまうのだ
そして殆どの人々は、自らが支えているはずの〝スカイネット〟によって
盲目にさせられている、深く呼吸することをやめてしまっている
お金や地位を追いかけたり、社会システムの改善という夢遊病の中に
埋没し、死んでしまっている
生きるのを、生まれる前から止めてしまっているのだ

シエル・チャネリング・メッセージ
OSHOネオタロット「30:死・決して死なないもの」に寄せて

ひとつのブッダ
ひとつのキリスト
ひとつのマスター
ひとつの神になる必要はない
私は私 という悟りに在るということだ
この地で私たちは目覚め
いますべて在ることを知ることです

私が在るということは すべてが在るということです
すべてが具(そな)わっていることを感じれば
すべては共に在るという中に私たちはいて
すべての魂の鼓動を感じるでしょう

たとえば身体をもつモノ
もたぬモノ
現すモノは様々で 共に向き合うエネルギーを持っている

その音(声)は遠くまでとどろき
その音(声)は内へと届く

時の物語は瞬間の儚さであり、命は消えぬものだ
ひとつの命が消えるように見えるのは
その命があなたの側(そば)から
遠くまで遊びに行くことが出来るようになっただけだ
その命があなたの傍(そば)から
奥の庭まで見ることが出来ると気づいただけだ
あなたの庭を広く眺めることで
消えたものが消えていないと気づくだろう
命の鼓動は続いていることに気づくことだ
それが目覚めるということだ

最近はあまり意識していなかったのに、唐突に彼の夢を見た
それは彼を慕ってくる信者達の集まりだった
ステージの上の彼は人間の姿ではなく、
メビウスの輪の様な姿でめまぐるしくうねうねと変化していた

しかし、それ自体が彼なのではなく
その「輪」を激しく照らし出す「光」が彼の本体であった

その「激しく変化するメビウスの輪」とは、
実は彼を見る人々それぞれのDNAの変化した姿らしかった
つまり、あのステージ上の不可思議に変化する「輪」とは
人によってたぶん違って見えるだろう

通常、光とは、
外側の宇宙空間に向かって放射され拡散してゆくものだが、
「バガヴァンの光」とはその逆方向で
見ている私達ひとりひとりの内面を鋭く照らし出す無限の光なのだ

だから彼という存在は、私達がそれぞれ自分自身をどう見ているのか?
それを赤裸々に暴いてしまうのだ・・・

ディクシャも然り
ディクシャという行為を「受け入れるか?」「受け入れないか?」

「他人に訳も分からず『光明を施す』様なジェスチャー」を
「とんでもない不遜なこと」と受け取る人の気持ちもわたしは痛感する

でも、もし「内なる光」というものは「授けたり」「授かったり」するのは
「本質的に不可能」と十分ふまえた上で、
その真理に対する〝こだわり〟に固執しないならば
  ディクシャという〝エネルギーのキャッチボール〟も
        あるいは「アリ」なのではないだろうか?

そんな風に、今朝の夢見でわたしは思い始めた

・・・そうでなければ
「内面を照射する光」が肉体を持って生まれてくるだなんて言うことも、
 単なる「たわごと」で一笑に付されるのだろうが・・・




夢から覚めて、朝のフトンの中で思った

そうか!・・・人という存在は、
みなひとつの「そのひとだけの」キーワードとして生まれてくるのか!?

だから覚者というのは、
みな全くユニークなインディビデュアルな表現方法を発揮するのだ

バガヴァンの場合、「個々人の内面を照らし出す無限の光」だ

じゃあ、OSHOとは?
私が思うに「〝無〟の化身(人格化)」ではないだろうか?

宇宙は長い間、 〝無〟という言葉をどの様に表現したら良いのか?
考えあぐねていたのだ、それは万巻の書をもってしても表現するのが難しかった
そして到達したのが、彼という「肉体を持った〝無〟」なのだ
だからこれは、宇宙の一大事件だったのではないだろうか?

・・・もちろんこんなことは私が今朝見た夢の個人的な感想と連想に過ぎない
    何一つ信じる必要は無い、反論がある人も多いだろう

   これは「今朝、ふと私はそう感じた」という手記に過ぎないのだから

ニュースフィード

ロシアの偉大な神秘家、
ゲオルギー・グルジェフは、
霊性探検の記憶を綴った
注目すべき人々との出会いという本を
書いています。
その中で、
彼はスーフィーの托鉢僧と
ヨーギの実践している
呼吸と姿勢のことでの
ディスカッションが
非常に印象深かったと言っています。
そのスーフィーの托鉢僧は、
あらゆる人工的な呼吸に対して
反対だと
グルジェフに警告したそうです。
というのも、
自然な呼吸のシステムを変える
ということは、
それがどういう変化であっても
生にひどい不調和な状態を
もたらすことになると。
あなたは
そのことについてどうお考えですか?  


OSHO

グルジェフが
調息と呼吸法について
いっていることには
ある真実が含まれている。
実際、
真実の一つぶを含まない嘘
というものは存在しない。
それ以外にはありえない。
あらゆる嘘の中に
少しの真実が含まれている。
そして、
人に印象づけるのは、
その嘘の中にある
わずかばかりの真実のなのだ。
だが、
それとともに、
嘘が進んでゆき、
信頼性を見いだす。
そういうことが分からなければ、
真実の中に嘘が混じっている
ということなど
分からなかっただろう。
ということで、
我々は
自分たちの自然な生のあり方
というものに干渉し、
邪魔すべきではないということは
真実だ。
さもなければ、
トラブルに
巻き込まれることになる。
我々は、
自分たちの身体の自然な働きを
邪魔しないほうがいい。
我々が無意識に
日常行っている呼吸、
歩き方、立ち方、座り方に
干渉するべきではない。
というのも、
その無意識に行っている
日常の行為に
それを妨げるものをそこに置くと、
直ぐに変化というものが
起こり始めるからだ。
そして、
覚えておくこと。
何かを失うということも
変化を意味し、
また何かを得ることも
変化を意味するということを。

もしあなたが
今のままの自分に満足し、
これでいいと思っているなら、
呼吸を変える必要はない。
が、
もしあなたが
今のままの自分では
十分ではないと
感じているのなら、
呼吸のパターンを
変えなければならない。
そこで、
呼吸のパターンを
変えるということが
重要になってくるのだ。
それは最も重要なことだ。

あなたが
自分の呼吸の仕方を変えると
直ぐに、
今まであなたの中で
自然であった多くのものが
崩れ始め、
また
あなたの中の
多くのものが調和し始める。
今では、
呼吸に関する
何千という実験がなされ、
呼吸を変えることで
人間の中のどういうものが
落ちてゆくのか、
どういうものが調和し、
つけ加えられるのかということが
発見されている。
今では、
それは完成された、 
根拠のある科学になっている。
マインドと呼吸は相関関係にある。
マインドが
性的に興奮してくれば、
呼吸のパターンは直ぐに変化する。
もしあなたが
性的に興奮する状況にあって、
呼吸が変わるのを許さなければ、
その性欲は
即時に消え去ってしまう。
性的欲望が止まってしまう。
それはもう続かない。
というように、
強力な怒りの波が
あなたを駆り立てていても、
あなたが
ゆっくりとした
呼吸をし始めれば、
その怒りは蒸発してしまう。
というのも、
ゆっくりとした呼吸の中では、
怒りのいる場所がないからだ。
故に、
呼吸の訓練ということが
とても重要になってくる。

呼吸を変えることで、
マインドが変わる。
呼吸とマインドの関係というのは、
研究され尽くしている。
呼吸を変えることによって
どうマインドが機能するか・・
そういうことが
科学的に研究され確立している。
だから、
そこに危険はまったくない。
もちろん、
呼吸とマインドの関係に関する
実験において、
初期のころには、
危険というものがあった。
実際、
危険というあものは、
生の新しい冒険的な探究の
あらゆるステージにおいてつきものだ。
が、
その実験が成功するにつれ、
それが
科学的な法則になってゆく。

プラナヤーム(調息)、
呼吸法は、
マインドを変容させる
数多くの方法を発見した。
そこで、
我々が自然な呼吸と呼ぶものと、
人為的な呼吸と呼ぶものの違いを
理解することがいいだろう。

我々が
自然な呼吸と思っているものは、
自然なものではない。
もしあなたが
正しく理解するなら、
あなたが今まで
自然な呼吸と思っていたのは、
すべて
いつのまにか慣れてしまった
人為的な呼吸であるということが
分かるだろう。
というのも、
あなたは非常に長い間
そのやり方で呼吸し続けてきた。
子供のころからずっと
あなたはそういう呼吸をしてきた。
だから、
今あなたが
呼吸しているやり方が
習慣になってしまった・・
第二の自然に。
実際のところ、
あなたは
自然な呼吸というものを知らない。

日中、
あなたはある呼吸の仕方をし、
夜寝ている間は、
全く違う呼吸の仕方をしている。
起きている時、
あなたがしている呼吸は
人為的な呼吸で、
夜眠っている間は、
自然な呼吸が
あなたの身体を引き継ぐ。
その間の呼吸は
あなたの習慣の外のものだ。
夜眠っている間の呼吸プロセスは、
あなたが起きているときの
呼吸プロセスよりもより自然だ。

子供達の呼吸は
大人の呼吸の仕方とは
全く違っている。
子供が呼吸するとき、
お腹が大きくなったり
小さくなくったりする。
だが、
大人達は胸で呼吸する。
だから、
呼吸するときに
胸が大きくなりったり、
小さくなったりする。
子供の呼吸というのは、
自然だ。
もしあなたが
子供がやっているように呼吸すれば、
あなたのマインドは、
だんだんと
子供と同じような
マインドの状態になる。
子供のように純真なマインドになる。

またその逆で、
もしあなたが
子供と同じように純真になれば、
あなたは
お腹で呼吸し始めるだろう。
だから、
日本や中国で造られた仏像は
インドで造られた仏像とは
全く違っているのだ。
インドでは、
ブッダのイメージは、
小さなお腹に大きな胸だ。
日本や中国といった国では、
ブッダに関するイメージは、
すべて小さな胸、
大きなお腹だ。
が、
我々インド人や
西洋の人間からすれば、
それはちょっと風変わりに見える。
我々は、
それらの像を醜いもの、
間違いのように感じる。
しかし、
実際は、
それらが正しいのだ。
というのも、
ブッダのような静寂なる人間が
呼吸するときは、
腹で呼吸する。
それが、
彼の自然な呼吸なのだ。
ブッダのような純粋な人間が
胸で呼吸するということは
ありえない。
胸で呼吸するというのは、
人為的で不自然なのだ。
人が腹で呼吸すれば、
その人の腹は大きく、
飛び出していて当然だ。
そこで、
大きなお腹の
ブッダの像というのは、
象徴的だ。
実際は
そうでなかったかも知れない。
が、
そういう風に
表現しなければならなかった。
その理由は、
ブッダのような人間は腹で呼吸し、
また、
それは彼が子供のように
純真無垢であったことを表している。

そういうことを踏まえた上で、
我々は自然な呼吸というものに
踏み進んでゆくことができる。
我々が普通にしている呼吸は
不自然で、
人為的なものだ。
だから、 
グルジェフに
「人為的な呼吸をしてはいけない」
といった
スーフィーの托鉢僧は間違いだ。
実際は、
我々の呼吸はすでに人為的に、
十分不自然なのだ。
が、
我々がそのことを深く理解するにつれ、
呼吸はどんどん自然になってゆく。
そして、
我々の呼吸が
完全に自然になったとき、
生の大いなる可能性が
現実のものになり始め、
内側から
その可能性そのものが開き始める。
また、
突然呼吸の仕方を変えることは
我々に役立つということを
知ることはいいことだ。
その托鉢僧が
「人間の自然な呼吸に
 干渉することは危険だ」
という言葉は正しい。
が、
それは半分本当で、
人間には、
呼吸を変えることによって、
無限なる可能性が
開かれていることも真実なのだ。

- Osho 
     

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コメント



昨夜、わたしはフェイスブックで、ある人に言われた

 「あなたは自分自身が究極の唯一なる神であり、
  完全な自由意思の行使者であると信じていないのですか?」

っと詰め寄られた
わたしの答えはもちろん「ノー」であった
「わたしは神秘論者達の共通の認識、共通の常識をすべて懐疑する」と返答した

相手は
「そんな全ての懐疑論では議論になりませんね」「もう寝ます」と去ってしまった

なぜわたしは?
そんな大それた大前提に付き合わなければいけないのだろうか?
それによってしか議論のテーブルに付く権利がないのだというならば
わたしはその様なテーブルの席には大した興味は無い

ここで書き残しておきたいのは、
わたしは「懐疑論者」というよりも「不可知論者」であると言うことだ

「懐疑論」には
まだ「議論に参加し、議論を尽くし、そして真実を見出そう」という野心があるが
私にはそんな野心はない

私の様な不可知論者にとって、「語り合う価値」とは以下の一点だけだ

  「私は何も解らない」
  「あなたには何が分かるというのだ?」  ・・・ということだけだ

「問い」そして「答える」 ・・・それは大いにやっても良いとは思うが
「問い」に対しての「うん、それはね・・・」という解答は、常にロジカルなものだ

それは観客達を納得させるかも知れないが、そのことに価値があるのは
民主主義的な多数からの支持、理解、称賛が必要な時だけだ
それは政治的な要望に過ぎない

わたしは「(多数の)他者を説き伏せること」に、基本的に興味はどんどん薄くなっている

それでわたしがスターになれるとも、団体の代表者になれるとも、大統領になれるとも
思っても居ないし、信じても居ないし、ましてや望んでも居ないからだ

わたしがもし他者に興味を持つことがあるとしたら、議論のテーブルでの勝敗ではなく
瞬間瞬間における目の前の人物が抱いているリアリティーぐらいだ

だから「朝まで生テレビ」みたいなことは、単純な娯楽としてしか興味は無い
タマにはポップコーンをつまみながらプロレス観戦もいいかな?と言う程度だ

ロジックやファクトを組み合わせて、組み上げて、何か結論に達することに
今の私には何も興味も無い

「不可知論者」には、ロジックからの脱線、矛盾、詩的な表現が許されている
なぜなら「議論の勝敗」に関心が無いからだ
そこに「懐疑論者」との違いがある

あらゆる「~論者」には無限の受容、永遠の忍耐は不可能だろう
なぜなら彼らは、結論を求め、理想を待望し、目的を達成したいからだ

しかしその唯一の例外となる「論者」とは「不可知論者」だ
彼は「結果主義者」でも、「理想主義者」でもなく、向かうべき目的地もない
なぜなら「すべての根底は知り得ない」という結論が出てしまっているからだ

だから彼は常に「いまここ」にポツリと居る
56億7千万年が目の前で何度繰り返されようとも・・・・

彼は
誰も待っては居ない、誰も引き留めはしない、誰も咎めはしないで、
走り寄ってくる人達も、走り去っていく人達のことも静かに笑って見ているだろう

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