We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年03月

自分とは何か?それはどんな土台、いかなる素材(マテリアル)なのか?
そしてそれは(他人から見て)如何なる価値を持っているのか?

・・・実に厄介な問いで、またもっとも根本的な問いで、
  しかし見方によっては最もバカバカしい問いかも知れない

  ジョセッペ爺さんが、まだ人間になっていない木偶人形のピノキオに
  上記の様な問いを必死に問うていたなら
  ジョセッペ爺さんは精神病院行きだろう

クリシュナムルティーはこう答えた
「私は何者でもない、でもそれを問うているあなたたちは誰かのコピーじゃないですか?」

そしてカルキ・バガヴァンはこう答えている
「その問い、そのものがあなたです!」

クリシュナムルティーは
私達が「正解ではないものの反芻している」ことを示唆することで回答している

でもバガヴァンの回答は
「それそのもの」をズバリ示唆していると思う


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「死にたい」と相談された時にしてはいけないこと


「死にたい」という気持ちを他人に表現している間は、まだ助かる見込みはあると思う
まだ、外に希望の光や慰めを期待しているからだ (※ 馬韓にして言っているのではない)

ただし、自殺願望の奥底にはこの「根源的な問い~私とは何?」が渦巻いている以上
〝他人〟の中に根本的な回答は無い ・・・それゆえに「根源的な問い」なのだ

〝他人〟は
それなりの慰めや考え方、哲学、気分転換、発想の転換を提案はしてくれるだろう
でもそれらはすべて「問いに対する答え」であって、これらは堂々巡りをする

〝他人〟に尋ねてもいい、すがって泣いてもいい
でも、根本的に問うならば、妥協することなく自分自身を問い詰めるべきなのだ
そうでないと以下の様な、過去からずっと続いた回答にねじ伏せられてしまうだろう

地球少女アルジュナ  第11章 「かえらざる日」の中にこんなセリフがある

 「この料理が今日の形になるまでに、
  何十、何百という名も無く消えていった料理人達の
  努力が込められている、人の営みとはそういうものだ・・・
  言ってしまえば、この味ひとつの方が人の死よりも〝重い〟のかも知れない」

! 名作・(Anime) 地球少女アルジュナ 第11章 「かえらざる日... door maneel-katal

 「死にたい」と人にこぼしている人にこんなセリフを聞かせてしまったら
  一体どうなることやら?

人類は今まで「次の世代に〝改良し〟〝発展させ〟〝伝える〟」ことに命を捧げてきた
しかしだとしたら一体全体、
人が自分自身の人生を慈しみ、味わえるのはいつのことなのだろう?

だから「神風特攻隊」の歴史を経た後、私達の世代は叫んだのだ!

   「私の人生の価値とは?意味とは?」

もはや安倍政権が言う様な「お国の為に死ぬことだ」と言われて誰が肯くというのだ?
  ・・・肯く者だけ、そうしたければすれば良い、誰も止めはしない、
         皆が自分の信じる事のために死ぬ権利がある

   「私とは何か?」

その質問、それ自体がこの宇宙を始めたのではないだろうか?

その質問が問われる、今日この日、この瞬間のわたしやあなたの為に、
                137億年の宇宙の歴史があったのではないか?
    そして多種多様な生命体系が、
         70億のヴァリエーションの人々が(〝わたし〟が)満ちあふれた

       つまり、「宇宙そのものの問い」と「私の叫び」とは同じだったのだ

    すべての「根源的な問い」とは、「問いそのものが回答」なのかもしれない
                       それが〝自明〟ということだ

    宇宙が「問うた」からこそ「いまここ」がある、あなたが居て、私がいる
                  この無限に広がる宇宙の永遠の営みがある

    この〝自明〟のみが〝無明〟を照らす

     この〝自明〟とは、読んで字の如く、
      他人が幾ら説明しても
       自分自身で腑に落ちなければ何の意味も無いのだ

  「誰」があなたを重宝してくれたら、「あなたの価値が証明される」のだ?
あなたの恋しい人か? その人を「恋しい」と思っているのは「あなた」ではないのか?
ではなぜ、あなたは自分自身を「全ての価値観の根源だ」と喝破できないのだろう?
  なぜ他人を介しての証明、科学の説明、論理の構築が必要なのだろう?

あなたは自ら作ったピノキオに、
必死に自分の価値を問うジョセッペ爺さんでは無いのか?

自己受容とは、
それでも(条件を問わず)自分を受け入れる」
すべての(価値や意味の)根源としての自分を受け入れる」ことだ

全ての価値も意味も、自分自身をその根源として、中心として成立している
だからボトル一杯の水と全帝国との交換も成立するのだ


でも、だからこそ最終的には
私達は「自分自身」とは「究極的な牢獄だ」ということを突き止めるだろう
ところがそれは拒否、つまり自殺や殉教によって投げ捨てることは出来ない
なぜならば、正確に言えば肉体もマインドも「何も悪くは無い」からだ
私達が「質問そのものが自明の回答」であることに気が付いていないからだ
「問題にしていること自体が「問題だった!」のだ

自己受容という「愛の根幹」によって、それを「生かし切る」ことによってのみ
はじめて「自分自身からの自由(Anatta)」は可能になるのだ

今朝見た夢

夢の中で、
わたしは家一軒を丸ごと会場にしたスピ系の座談会に出席していた

そこには、いま世間の注目を浴びているアッキーナ、
つまり安倍昭恵首相夫人も参加していた
たぶん昨日この記事を見かけたことが夢にも影響したのだろう・・・

安倍晋三の様な夫の妻として、彼女はスピ的、エコ的な方向性を持ちながらも
最終的には「日本スゴイ(国家神道)」という結論が落ち着きどころだったのだろう

良かれ悪しかれ有名人であり、日本の最高権力者の妻である彼女の在席によって
その「スピ系の座談会」は大きく空気が固められているのを、私は苦々しく見ていた・・・

昭恵首相夫人の出席という現実性の乏しいシチュエーションでありながら
夢から覚めた私は、夢の中の私と日常の自分とがあまりにも
〝相変わらず同じ〟であることが、ちょっと可笑しかったのだが、それにせよ改めて
「私は何故いつもああいう席で〝苦々しい気持ち〟を抱くのか?」真剣に考え込んだ

そして浮かび上がってきた思いというのは
「個人がどこまでこの予定調和的な雰囲気をぶち壊してひっくり返せるか?」に
自分自身が非常に関心を持っていると言うことだった

もし、ダイナミックな逆転劇が見ることが出来ないなら、そんな会合はツマラナイ
シャンシャンとみんなで手拍子してさっさと解散してしまった方が時間に無駄がない

 わたしはそこでまた映画「12人の怒れる男」を回顧せざるを得なかった

あのカッコイイ建築家役のヘンリーフォンダに必ずしもわたしがなれるとは思っていない
そしてまた、
実際に彼の様に「粘り強くひっくり返してゆく」ことは決して〝楽しい〟作業ではない
しかし・・・、私は今までも
いわゆる〝座談会〟〝討論会〟と呼ばれる席で何を観たかったのか?やっと自覚出来た

  「あの映画の中のヘンリーフォンダの〝実物〟を目撃出来ないか?」

そこにすべての関心があった様に思うのだ
だから私は人々が、あるいは飲んだり喰ったりしながら和気藹々と談笑している中に、
虎視眈々と「ヘンリーフォンダの突然の登場」を待ち望んでいたのかも知れない

・・・場合によってはもちろん、自分自身がその役をやってもいい

しかしでは? 今の自分は「議論好きか?」っと言われれば、それもまた「ノー」だ
なぜなら、今の私には「論理の積み重ね」には大した価値があると思えないからだ

もちろん映画「12人の怒れる男」の様な状況は別だ
もし、否が応でも自分がひとりの人間の死刑を決める立場なら、
やはり映画の様に真剣に議論したいと思う

しかし、こと〝スピリチュアルな〟事柄に関しては、〝体験談などの分かち合い〟には
意義はあると思うが、それらのシェアリングはすべてあくまでも「主観的な体験」であって
他者が真偽を審査するとか、その体験の意義をどうのこうの批判したりゴテゴテとした
意味づけ、解釈を施すのではなく、単にそのシェアーされた人達が銘々自分の心に響いた
ものを大切に持ち帰っていけば良いのではないだろうか?

真正な反逆の中核には映画の中のヘンリーフォンダの様な「静かさ」があると思う、
そこには最終的には議論不要な沈黙の合意が「起きる」

でもそれは「予定調和的な沈黙」とは全く違う、
そんな沈黙とは「羊たちの沈黙」に過ぎない

要点は「議論すること」ではない
問題点は「予定調和の欺瞞性」なのだ 
あのアッキーナの最高権力者の妻の座という安全地帯から振りまく笑顔、
「ぬくぬくとした空気」こそ、
今のふわふわスピリチュアルの暗部の象徴の様に思う
その闇の核心に対する鮮やかな反逆に、是非リアルで立ち会いたいと私は切望するのだ

バシャールはこう言っている
愛の真の対義語は『憎しみ』ではありません
 愛の真の対義語は『罪悪感』です

それは『自分には存在する価値がないのではないか?』という
疑問、恐れです

この猛毒は、ほんの僅かでも全人格を抹殺する程強力なものです


バシャール「究極の、無限の自己信頼」 投稿者 maneel-katal

この恐怖、この罪悪感を手放すのは、自分自身への究極的な信頼です

ところが昨日の夕刻の帰宅途中、
散歩に連れられてテケテケ歩いていたパグのお尻を見かけて、ふと思ったのだ
「動物たちって自分の存在することに、疑問を抱くことが一切ないのではないか?」っと

動物たちの純粋な眼、愛くるしさはそれゆえなのではないかと思ったのだ
「単純に自意識がないのか?」・・・
いやいや、まったく自意識がないのなら、完全に死の恐怖もないはずだ、
いくら動物が純真とは言え「自分という存在に全く無自覚」ということではないはずだ
自然界の厳しい競争の中で自分に全く無自覚、無頓着ならば、すぐに命を落としてしまう

彼らにも「死の恐怖」はある
しかしそれが人間と大きく異なる点は、まさしくこのバシャールが言う
「罪悪感」「存在する事への疑問」のことではないだろうか?

私は今まで一度も動物たちの眼の透明さが、「自分自身の存在価値、存在意味」への
疑問で曇っているのを見たことが無かった、

   「自分は在る」・・・それがあまりにも当たり前すぎて疑問に思えないのだ

これもやはり
バシャールが言う「自分自身への絶対的信頼、究極的信頼」のことなのではないか?

「自分という存在への疑問」
  それが、人間の死への恐怖を無限に増幅しているのではないだろうか?

「人生とはなんだ?」「自分という存在とは?生まれてきたことの意味とはなんだ?」
そんな疑問を抱いたまま、果たして安らかに死ねるだろうか?・・・到底無理だ

ひとたび、そんな疑問を抱いてしまったなら、
それは死の間際まで答えを求めて私たちの胸をかきむしり続けるだろう・・・
       それが人間の死の恐怖が、動物の死の恐怖とは比較にならないところだ
 
わたしは無垢な者が苦しんでいるのを見たことが無い By OSHO

人は自分という存在に対してすら、意味やら意義やら価値を求める・・・

しかし実はそれこそが、「愛の真の対極」なのかも知れない
つまりそれが「自分という存在に『説明を渇望する』という恐怖」である

 この時、生まれてから死ぬまで裸で天衣無縫に生き続ける動物たちが、
決して味わうことがない体験に私たち人間は踏み込んでしまったのかも知れない

つまり、「愛から離れる」「自己への無限の信頼感から切り離される」という奇跡体験だ

 これは、他の動物たちには「不可能」な究極の地獄の体験だ

 人間以外の生物は、自分自身の存在意義を客観的に問うことなど不可能なのだ
「自分自身の存在が、疑問の余地なく絶対」であることが「生命の本質」なのだ

その「絶対性」「疑いの無さ」「無限の信頼」こそがまさしく 「愛」なのかも知れない

 人間はそこ(愛)から〝離れて考える〟という「宇宙的に信じがたい」事が可能なのだ

つまり
自分の生命を「客体化して考える」能力だ
自分の生命を「その他の存在と並列して見なす」能力だ

自分が死んだ後も、「世界が残り続ける」ことを考えられると言うことは
 「世界から切り離されて自分だけが消滅するのかも知れない」という
   とてつもない無限の闇の孤立感、分離感をも同時に意味する

「自分という存在が疑いもなく絶対的」である時、そんなことが想像できるだろうか? 
  つまり動物たちはそういう心理状態の中で生活している・・・
 ・・・「何はともあれ、議論の余地なく、自分が世界の中心」という心理の中だ 


でもバシャールも指摘している・・・、
「皆さん地球の人達も、私たちエササニ人から観れば
  一度たりとも、一瞬たりとも
 自分自身への究極の信頼感から離れたことなどないのですよ?」

     それは本当か?

言われてみれば、確かにそうなのだ、
確かに私たちは「自分が中心の世界」から、一瞬たりとも離れたことはないじゃないか?

単に私たちは(自分自身の視点から離れた)いわゆる〝客観的な〟〝科学的な〟
ものの見方に表面的に気を取られ、「自分はそういう立場でものを見ている」と
錯覚してきただけなのだ

人間だけが「愛」という言葉をもてあそび、
そこから分離して「自分は見ている」、「自分はそう考えている」、
と〝思考実験〟でき、遊離できるのだ

私たちは絶対的な自己信頼の元で、「あれを信じ」「これを信じない」と宣言している
本当の愛とは、自分という存在を背後から突き動かし、生かしているものなのに、
「自分誰かや何かを〝愛して〟いる」あるいは「自分は愛していない」と錯覚している

動物たち、獣たちの美しさとは、そういった〝愛〟と〝自分〟との分裂がない故なのだ
それゆえに愛という言葉を全く知らず、その概念さえ持たず、愛そのものと一体化して
生きているのだ・・・一体化、っという前に、そもそも「分かたれた」ことがないのだ!

「ひとりの人が光明に達したとしたら
  さあ、それは何を意味するのか・・・?」

 「それは、その人が
   いままで学んできたこと
   いままで受けてきた条件付けのすべて
   〝無効〟になったことを意味するのだ」 By OSHO

だから私の信念とは唯ひとつ
「何も信じない」ということだ・・・

 「信じる」という動機も、前提も、すべて、
  過去に学んできたこと
  過去から引きずってきた認識や条件付けの結果だからだ

でも過去の記憶したことを前提にすれば・・・
たとえば、「物理学や幾何学」を前提にすれば、様々な設計が可能だろう
たとえば、「数学が真実だ」という前提なら、数学の問題に解答可能だ
たとえば、「貨幣社会が正しい」という前提ならば、商売も出来るだろう

「信じる事」「信念」とは、かように〝便利〟だ、〝実用的〟だ

しかし、カテゴリー無き絶対性について、人生の意味について考えるなら
一体どんな「信念」を前提に考えられるのだろう?
あらゆる経験、教育、条件付け、信念は、「生まれた後」の〝後付け〟ではないか?
それを私達は「自分の生まれる前からの権威」を根拠に信じ込んでいるだけだ

あらゆる〝前提〟は無効になる
あらゆる〝信念〟は無効になる

最後には、私の唯一の〝信念〟さえも手放さざるを得なくなる

   「何も信じない」ということさえ「私は信じない」

でもそれはあらゆる信念の絶対的な否定でもあるが、絶対的な肯定でもある
絶対的肯定と絶対的否定とは繋がる

わたしはある時は、
 何かを前提にし、何かを信じて行動するだろう

またある時は、
 なにひとつ前提にすること無く、
  何の信念にもしがみつくことも無く
    虚空の中を彷徨い続けるだろう

    それさえも前もって決める事は無い
   その時初めて、「私は何も信じていない」(信念無し)と言えるだろう
   つまり「あらゆる矛盾さえ厭わない」という意味を内包する

    Catch Me If You Can(できるもんなら捕まえてみろ)

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今朝見た夢
ボロボロの廃校跡の様なところから生徒数十人と教師の私以下
何人かの大人達とで校舎を建て直す夢を見た


スコップや鍬や一輪車の人力で、
地盤整理するところからはじめるキツイ作業だった

最初は私は軍隊調で子供達に仕事を指示するが、
子供達は当然面白そうじゃなかった
奴隷の様に作業の意味も、そのやり方の合理性も理解出来ず
それが自分達の為であることも自覚できず、
したがって自主的に工夫する事もなしに、
ダラダラと私の言われた様にやっていた

なので私は自分と数人の大人達とで楽しそうに役割分担しながら
子供達に手本を見せた ・・・事実その作業は楽しかった

すると子供達も手伝う様になってきた、一言も指示しなくても
大人も子供も一糸乱れず自主的に役割を考えながら作業は
みるみる進んでいった・・・

目が醒めて思ったのは、
「作ることの楽しさ」というのは土台をどこからか乗っ取ってきたのでは
得られないだろう・・・ と言うことだ
 
泥まみれになりながら、
「教えると言うことは言葉ではない、頭ではない・・・」
「黙々とやってみせることなのだ・・・そして何よりまず自分が楽しむことだ」

そんな気持ちを思い出させてくれた夢だった
知識を詰め込むだけの今までの教育が行き詰まるのは当然の結果なのだ
そこに一体どんな創造性があるだろう?
そんな教育を受けた次の世代に、一体「創造性とは何か?」わかるだろうか?

いろいろのモノが作り込まれてしまっている現代では
きっとこう言う汗を流す楽しさを若い人達はなかなか見つけにくいだろうなあと思った

「地球とは魂達がどろんこ遊びをしに来た惑星だ」っと、
マ・プレム・アニマが言っていたのを思い出す

「先生の時代はマンガは黎明期だったから、やることが一杯あって羨ましい」
っと、あるマンガ家のタマゴが手塚治虫に言ったら、氏はカンカンに怒鳴ったそうである
「何を甘ったれたことを言ってるんだ!」っと

わたしは手塚氏の怒りがよく判るつもりだ

奴隷になるな、追随者になるな、囚人になるな・・・
途中から思いつきで「クリエイターやりまぁ~す!」って言っても無理なのだ
ニートが乗っ取った家を土台に、そこを神社と呼んで居城にしようというのは
典型的な在日朝鮮人の発想だ
挑戦する気があるなら土台から考え直せば、
「やること」、「やり方」はきっとまだまだ一杯あるのだ!


分かっててやっている 投稿者 maneel-katal

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