We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年02月

その人のやっていることは否定せずに、

自分には不要だからお断りしただけで、

相手が勝手に全否定された気分になってるのは

何故なんだ。

自分の絶対は相手の絶対ではないんだよ?


シンプルに「信じる」と言った場合、通常は「信念」を意味する
「信用」「信頼」「信仰」など、実際には様々な「信」があって、それぞれは微妙に違う

大概「信念を持つ」とは、過去に学んだことを絶対に間違いが無いこととして
絶対に疑わないことだ・・・ [疑わないこと]と[信じる事]とは一般的に同一視される

それが上記引用した鬼頭氏の様な問題提起を生む

多くの場合、
そういった信念体系の共通項を持った者同士が組織化して社会を形成している 
わたしたち人間はそうやって厳しい大自然の中で社会を形成して生き抜いてきた
そのもっとも代表的なのが宗教団体であり、しかし、宗教に限らず、
多くの〝所属〟は何かの信念体系を拠り所にしている

たとえば
ネットワークビジネス(ざっくりいえばネズミ講)みたいなのも似た様なモノだ

「人を騙すにはまず自分自身から・・・」

孤独で不安で、孤立を恐れる人達はまずは自分自身を催眠術に掛けてくれそうな
信念体系を無意識の内に探し出す・・・ 「この製品は間違いなく最高だ」とか・・・

 「何かを信じたい」人がそれを見つけ出さないと言うことはまず有り得ない
  まず初めに「何かを信じたいという願望、飢餓感ありき」なのだ

ここでナザレのイエスの「求めよ、されば与えられん」という言葉が悪用されずに
取り残されることはない・・・ 人は願望すれば、その願望を充たす神と必ず出会う
そしてそのあまりの飢餓感故に、その怪しげな構造に疑問を差し挟むことはまずない

  「あなたの神」を疑えば「あなた」は怒る
  「あなたの信念体系」を疑えば「あなた」は怒る
でも実際には、多くの「疑い」とは単純で素朴な質問だったりする
ところがその「単純で素朴な」質問であればあるほど、それは
信念体系と一体化している「あなた」の信仰を脅かす

「信じ込んで」いるのでなければ、「あなた」は質問者と一緒に熟慮し
様々な角度から検討するだろう、その「単純で素朴な」質問について・・・

「信念」ではなく「信頼」があれば、率直な質問に対し、率直に考慮出来る
子供が父親にする様な素直な疑問に、父親が腹を立てるだろうか?

でも、「信じるとは疑わないことだ」と思い込んでいる「あなた」にとっては
それは「信仰の危機」なのだ、「神への冒涜」なのだ・・・だから怒る

もしそこに「過去から信じ込んでいること」があれば、それは疑いも修正も拒絶する
もしあくまでも過去は過去であって、いまは全てが変化してしまったのかも知れない、
っという可能性を考慮する柔軟性があるなら、「疑い」とは「信念への敵対」ではない
真の信仰心は「過去の聖典」を信じ込むのではなく
「いまここの刻々の変化」に素直について行けるはずだと私は思う

常に初めの動機が大切なのだ
「すがりたい神」を求めていたならば、この話はチンプンカンプンで複雑に聞こえる
でも単純に真実を探索しているだけならば、この話は実にシンプルでベーシカルだ

男性原理とは「いまここ」の点(天)と、その点の運動ベクトル「直線」
これはゼロ次元と1次元のことで、ペニスの象徴でもある
実質的に「ゼロとイチ」だけでは、まだ次元界は始まらない
「ある」と「ない」との点滅、往復「往生」だけが存在する




「観点」から「観球」へとシフト(位置の交換)した時、はじめて〝次元〟がうまれる

ただただ、「ない」「ある」の状態から、
広がり(二次元)が生まれ、そして膨らみ(三次元)が可能になる

ある意味ではこの段階が「宇宙のビッグバン」が起きる段階だとも言える




だから二次元世界を象徴する「女教皇」こそが
「処女(知識で汚されないもの)の英知」・・・つまり「妙法」だ

食べる、という欲求、つまり食欲は、同じく生存の継続である性欲と連携している
食べるという欲求は「体積」への欲求であり、これは三次元を象徴する「女帝」だ
子宮や、乳房とは子供を三次元世界の住人へと成長させてゆく

愚者は単純に「知らない」しその自覚が無い
まだ十牛図における「牛(大自然)」と分離していない・・・
魔術師は知的好奇心と工夫に富んでいて、何でも知ろうとする
女性の膣(奥の細道)を何度も往復するペニスである

女教皇は「無知の知」をマスターしている
無限遠点に広がる理解力のネットワークだ

どおやら、この処女(巫女)の賢者こそが妙法の象徴の様だ

彼女は決して全知全能なのでは無い
ただひたすら女性的なビビットさ~感受性によって物事を理解する、察する

彼女は魔術師(探求者)の知的好奇心の興奮を優しく向かい入れ、包み込むヴァギナだ
彼女はどこまでもソフトであり、敏感に感応するが故に、限界無く彼を向かい入れる
彼女は愛の化身だ

彼女は何の身構えも準備もしないが故に、探求者のすべてに応答できる
彼女がもし、知識や信念から対応したなら、
それは生きていない、それは感応とは言えない、そこに官能性エロティズムはない 
彼女はその場その場の違った求めに感応するからこそ、探求者の全てに応じられる

やがて探求者が「果てる」瞬間が必ず来る、彼は射精し、爆発する
その時、彼の「死の歓び」を受け止める子宮が女帝であり、女教皇が変容した姿だ

そしてマジシャンは死に、皇帝(スワミ~座った身)へと変容する

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なんてこった!
何かに「参加しよう」
どこかに「所属しよう」と努力する程
そして人々に称賛される程
自己の無価値さを証明することになるだなんて!

人間も哺乳類の一種として、群れを形成して生存権を獲得してきた生き物だ
どこかに参加して、そこの誰にも認められ、そして可能なら称賛を受けたいという
強い願望・・・いや、むしろ本能と言っても良いぐらい、そういう強い欲求を持つ

この「絆と連帯、相互承認を求める本能」はこの世紀までずっと機能し続けてきた
だからそういう願望を持つことに誰も疑問を持つことは無かった

・・・それは事実、有効で強力な手段だった

友情、愛情、家族の絆、同志の連帯、チームワーク、三人寄れば文殊の知恵・・・・

ところが、コト私という厄介な人間に関しては、これは有効な生存手段では無い
どこかに所属し、そこでの身分、ステータスを承認されることは
ある種の「安心」を確保するはずのことだ・・・

しかし、そこでは常に「協調しなければいけない」「和を乱してはいけない」という
代償を払わなければいけない ・・・その代償は私にはあまりにも大きすぎるのだ

仲間達と楽しくおしゃべりし、飲んで喰わなければいけない
多くの人々にとってそれ自体が「ご褒美」であって、「仲間を形成すること」の意味だが
私にとっては、それは「購い」であり、地獄の様な「努力、忍耐、社交辞令」の連続だ

・・・わたしにはそれは出来る ・・・なるべく、 ・・・そつなく、 
  人々に嫌みを感じさせない様に ・・・わたしは可能な限り、〝上手に〟やるだろう

でもそれらは、あくまでも〝努力〟だ ・・・人工的に身につけた〝スタイル〟に過ぎない

わたしにとってそれらすべてが、醜悪な〝政治的取り引き〟であり、ポーカーだ
だからちっともそれらは楽しくはないし、安心でも無い

わたしがそれらのポーカーゲームを投げ出してしまえば全ては一瞬に終わるだろう
・・・いったいそなゲームの何が〝安心〟だというのか?

そのことは、わたしは子供の頃から肌身でひしひしと感じてきた
それは、苦しく、孤独を感じさせた
 ・・・ひとりで居る時の方がよっぽど孤独を感じないのはその為だったのだ!

多分私は、特異体質なのか?精神的な疾患をもっているのだろう
でもその為の適切な病名がないだけだ、それがわたしの悲劇だった

じゃあなぜそんな〝個人的な〟ことをここに書くのかと言えば、
「私にとっては不思議」だからだ、「みんな大丈夫なの?」と問いたいからだ

所属の承認を維持し続けることも、称賛も、得れば得る程
まあ、その時は一瞬ウレシイかも知れないが、そんなのは一瞬の気休め、麻薬だ、
自分が承認されたという快感を得れば得る程、それの麻薬に、より依存し続ける

瞬間の安心感や爽快感。そして継続的な不安感、孤独感・・・・
他者からの期待は、集まれば集まる程、
そこに答えていく為のハードルは、どんどん上がり続ける

今日披露したオオウケのネタを明日もやったなら
そのコメディアンもマジシャンも、観客から石をぶつけられる

会議のテーブルの端っこで、可も無く不可も無く沈黙していれば
最後まで生き残れるかも知れないが、はたしてそこに自分の人生があるのだろうか?

自分の価値や、自分への理解を求めることに、なぜ人は疲れないのだろう?
その疲労感は、私にとっては大きな苦痛だったのに、・・・ずっと

今や完全に自覚してしまった

そういう自分の疲労感は、わたし自身にとっては自然なことなのだ
たとえ病名が有ろうが無かろうが、私と同じように感じている人達が
世間に何人いるのかは関係ない・・・・

多分そういう人達の多くは自殺を選んできたのでは無いだろうか?


ありのまま・・・であることの究極は自殺という選択しか無いのかも知れない
私の場合は幸か不幸か?そこまで「ありのまま」を徹底させなかったがゆえに
自殺という選択よりも、「上手に表面を合わせる」というサバイバル・テクニックを
習得した

わたしが生き延びることが出来たのはDカーネギーの本によるところが大きい

しかし、そうはいっても「努力して維持し続ける」コトにはいつか限界が来るだろう
そして誰しもが、大なり小なり私の様な維持努力をしているのだと思う
そういう「誰もがしている維持努力」を嫌悪することは「我が儘なのかな?」と自省し
私も今日までその努力や挑戦をしてきたのだ・・・

しかし、
今朝はこの54年間煩わされてきた単純なパラドックス、賽の河原、蟻地獄の構造に
遂に気が付いてしまった

・・・そういった努力、そのものこそが、
まさしく「努力をし続けなければ終わる世界」であることを
自分自身にすり込んできていたのだ


人々が称賛する、喝采する、慰める・・・

  そんなことを渇望ること自体が
  そんなものを欲している自分の愚かさの蓄積なのだ

    求めれば求める程、   余計渇き、 そしてさらに餓えるのだ

だから残る選択は一つ

 手放して崩れ去るものは崩れれば良い、 ・・・それ以外、どうしようもないのだ

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ワイの一番苦手なやつや!

エゴは常に千とひとつの方法で「孤立を求める」ということだ。
非常な金持ちになると、人は孤立する。
政治的に非常な権力を持つと、人は孤立する。

アドルフ・ヒトラーのような人間は孤独だ。

ヒマラヤにいるヨーガ行者よりも孤独だ。

彼には友人はいない。

彼に匹敵する者は誰もいない。

彼には関係というものはない。

非常な金持ちは、ヒマラヤの頂上に達してそこで独りになる。

このゆえに人は富を追い求め、このゆえに人は政治的権力を求める。

エゴは常に孤立を追求している。

独りになれば、残るのはエゴだけだからだ。

エゴが全世界になる。

そうなれば自分のエゴと闘う者はいない。

自分に屈辱を味わわせる者はいない。

自分と比較出来るような相手はいない。

自分の目には自分が最高になる。

自分のエゴを絶対に信じることが出来る。

それをかき乱すようなものは何もなくなる。

私は孤立には反対だ。

実は、人はエゴを孤立させるのではなく、

解体しなければならない。

人は全体から独立した、分離した島になるべきなのではない。

人は大陸の一部に、それとひとつにならなければならないのだ。

孤立していて、どうして実在とひとつになることが出来るかね?

実在は孤立することではなく、参加することを必要としている。

最大のサマーディが孤立の中ではなく、

愛の中で起こるのはその為だ。

そしてヨーガの究極が愛であるのは、愛の中では、

人は自分を解体しなければならず、

愛の中では人は死ななければならず、

愛の中では人は解体し、混ざり合わなければならないからだ。

私は孤立ではなく、愛を教える。

孤立は世間の道だ。

宗教の道ではない。

だがそれは起こる。

あなたは富を、政治権力を、独占を求めて来ていた。

そして失望する。

それからヒマラヤに向かう・・この世を捨てる。

あなたはエゴを捨てるのではなく、この世を放棄する。

私はあなたに、この世を放棄するのではなく、

エゴを放棄することを教える。

エゴとは極めて微妙なものだ。

政治的権力を達成することが出来なければ、

宗教的パワーを達成しようとする。

あなた達は、それをクンダリーニと呼ぶが、

それでもそれはパワーであり、

やはり人を分離した、ユニークな、独立した島にするものだ。

もしあなたの宗教が権力の追求でもあるなら、

孤立が必要になる。

だが宗教とは、権力の追求ではない。

それは沈黙を求める探求だ。

それは平安を求める探求だ。

それは内なる貧困・・イエスが

「霊において貧しい」と呼んだものを求めての探究だ。

それは「在る」ことの探究、存在することと存在しないことに

何の違いもないような、そのような在り方での存在の探究だ。

非在が自分の唯一の実存になる。

これは独立を通して可能になるものではない。

これは、人が相互依存を理解して初めて可能になるものだ。

次の3つの言葉を覚えておかなくてはならない。

すなわち依存、独立、そして相互依存だ。

依存が、あなたの実状だ。

独立は、あなたが追求するものだ。

相互依存が、私の教えるものだ。

あなたが依存しているのは、いたるところであなたは自分が

依存しているのを感じ、

いたるところから制限がやって来るからだ。

誰かを愛していたら、あなたは彼、

あるいは彼女に依存することになる。

いたるところで、生は依存をもたらす。

するとこの世では決して独立することは出来ない、

という考えが起こって来る。

この世から逃げ出すのだ、と。

人は逃げ出すことは出来るが、決して独立することは出来ない。

ただ自分で騙されることがあるだけだ。

たとえヒマラヤに行っても、あなたは独立してはいない。

太陽にはやっぱり依存しているのだから。

太陽が昇らなかったら、人はたちまち死んでしまう。

あなたは酸素と空気に依存していることだろう。

酸素が消えたら、人は死ぬのだから。

あなたは水にも依存しているだろう。

千とひとつのことに依存しているだろう。

依存とは、理解しなければならないことで、

避けるべきことではない。

もしあなたが依存を理解したら、たちまちその背後に、

相互依存が隠れていることを理解することだろう。

依存とは、単なる誤解に過ぎない。

あなたは間違った解釈をしているのだ。

あなたは相互依存を、依存として解釈している。

それは間違った観念であり、その間違った観念の為に、

間違った欲望、どうやって依存するかという欲望が起こる。

生は一体(ひとつ)だ。

神とは、この一体性、、相互依存を表す為のもうひとつの名前だ。

愛はさらにもうひとつの名前、しかも神よりももっといい名前だ。

神は、神学者達が破壊してしまったからだ。

愛はまだ純粋で、処女だ。

だからまず理解すべきことは、私は孤立を教えないということだ。

私はエゴを教えないからだ。

あなた達のいわゆるヨーガのマスターは、

みんな大なり小なりエゴイストだ・・

エゴは、強化される為の様々の方法を追求し続ける。

ヨーガの名において、たくさんのエゴトリップが続いている。

その一部になってはいけない。

私が孤立を教えないのは、あなた達にエゴを離れて、

世間を離れないで欲しいからだ。

この世が問題なのではない。

この世は途方もなく素晴らしい。

それは純粋な喜びだ・・それには何も悪いところはない。

あなたの中の何かが間違っている、この世の何かではない。

自分の中の間違っているものを捨てなさい。

この世を放棄してはいけない。

私はこの世を放棄することではなく、それを祝うことを教える。

私は生を肯定する。

しかも無条件に肯定する。

そしてあなたに言おう。

あなた達に放棄を説く者は害をなす者であり、

最初の最初から、彼らは全く間違ったことを教えているのだと。

彼らは、この世の何かが間違っていると言う。

彼らはそれをマーヤと呼ぶ。

私はあなたをマーヤと呼ぶ・・この世ではない。

だから、もし何かを離れたいなら、自分自身を離れなさい。

何かを放棄したいのなら、自分を放棄しなさい。

そしてその為の唯一の方法、

自分自身を放棄する為の唯一の方法は、祝うことだ。

なぜなら、あなたが幸せである時にはいつでも、

あなたは存在しないからだ。

いつであれ、あなたが塞いでいる時に、あなたはいる。

あなたが喜んでいる時にはいつでも、あなたはいない。

至福の中では、歓喜の中では、人は消える。

踊りなさい!

真実のパートナーは虚。
論理とイメージで遊ぶのって楽しい。

もう少しあーそぼ♪


「リアル~実相」のパートナーは「ヴァーチャル~仮想」・・・・
これは敵対関係では無く、「探求」という遊びの表裏な相補的概念

リアルが
厳密な科学実験とか観測の「直面した結果」であるなら

ヴァーチャルは
その結果を理論付けたり、つぎの実験結果を予測する理論仮説

これは歩行の両足の様に私たちを前進させてくれるだろう

ぼくに自由な環境をくれた
全ての存在と意志に感謝を。


私たちはきっとまだまだ
「自由(妄想)」と「不自由(物理的共有現実)」とのはざまで
悪夢にうなされている状況だと思う

その代表的なコンセプトの一つが「知的財産権」だとおもう

「これは私のアイディアだ」ということが貨幣的な価値を持つが故に
「わたし」というカテゴリーが重要視されているのがいままでの歴史だったが
「カネになる」という発想からジャンプできた時、
「誰」のアイディアなのか?などは、どうでも良くなる

たとえば、ネットで流行った「ニチャンネル用語」の知的財産権を主張することなど
もうとっくに陳腐化している・・・「だせえぇ」行為なのだ

おもしろおかしい新しい表現が、
たぶん今日も生まれていて、これからも生み出されるだろうが
それが最初に出てきた時は匿名であったり、また、そういった表現を
「面白えぇ!」っともてはやす〝発見者〟〝発掘者〟もまた、誰なのか分からない

PPAPという言葉を商標登録した人が、最近話題になったが、
そういう人間は「ダサイ」「意地汚い」のそしりを免れない・・・・

古今和歌集の時代から「詠み人知らず」という世界に
私たち日本人は奥ゆかしさや情緒を感じてきた

「誰でも無い人」こそは「誰でもある人」なのだ

ネットの仮想現実世界での、情報の日々の拡大化はこの「奥ゆかしい情緒性」や、
江戸っ子的な「粋な」感覚を、さらに加速拡大化していくだろう
・・・つまり、「地球的な知のネットワーク」という意識は、もう止められないのだ

まさしくバガヴァンが言明している様に
「人類的な一つのマインドに所有権がある」わけだ

事実そうなってきた・・・、
「自由」が「個の独占的利権」を上回ってくるというのは、もうすでに進行中だ
それがもうまもなく、完全に「個人の知的特権」を圧倒するのかもしれない

その時、どんな世界が現出するのだろうか?

たしかにこれからも「最初の発案」は「個」であり続けるだろう・・・・
なぜなら、新しい発想というものは「最初」というものがある以上は、
それは巨大な個性の集合球体のどこか一箇所に「ファーストコンタクト」するからだが
でもそれが「面白い」となってパンデミックを起こすのは、
そこに何か普遍的な要素があるからだ

で、そのあとは
「電気を何度も発見し直す必要は無い(By OSHO)」のだ

自由と、個の歓びとは不可分だ
でもそこで「利権」というのは、あくまでも現実化のための方法論的な・・・、
たとえば、
「クラウド・ファンディングの為に言い出しっぺの名前が必要」的な意味に過ぎない

だから、そこでの「個の歓び」「個の名誉」というのは世界中に共有されてこそ、である

自由の概念は、「個と全体」との相補性においてこれから成長拡散してゆく
この相互性がいままで見いだせなかったのは、第二次産業(工業)までのはなしだ

新型の自動車、新型の冷蔵庫を生産するためには資金が必要だったからだ
しかしこういった「第二次産業を主軸とした資本主義」は大きく変質して来ている
それは、「寄らば大樹」という発想や、「まずは資本」という発想を、
もう歴史的な遺物にしつつあるのだ

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