We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年02月

HAPPY END はっぴいえんど 岡林信康 私たちの望むものは from Katal Maneel on Vimeo.


霊界ってどんなところか?

それは「無」だ
「霊界なんか無い」「死後の世界なんか無い」という意味では無く 
「これはA」「あれはB」という見境、定義=Definitionが存在しないということだ
つまり、形あり、定義に満ちた、すべてが 有限に見えるこの私たちの世界も
形そのものが仮の姿、定義そのものが私たちが人工的に与えたものなのだから
ある意味、「いまここ」も「いつかどこか」も、これらすべてが
「すでに霊界だ」ともいえる

定義=Definitionが、次元=Dimensionという発想を生んだ
つまり次元界とは地球人類が生まれる前から存在したのでは無く
わたしたちの定義の産物なのだ

あるいはほかの惑星の より古く、高度な文明文化の宇宙人が、私たちよりも前に
次元界を形成していたかも知れないが、それにしたって私たちがサルのままであれば
きっと無関係な世界であっただろう

霊界が「高次の世界だ」というスピリチュアルな発想は
(たとえ実在していても)すべてタワゴトだ・・・
それらは単に
「もっと高度な宇宙人先輩たちへの憧れ、追随」として生まれたアイディアだ

私たち地球人であろうが、まだ見ぬ〝高度な〟宇宙人であろうが
ふる里は〝高次〟なのではなく、〝次元の存在しない〟・・・つまりゼロ次元だ

わたしたちの先祖の姿を留めている動物たちを見てみよう
かれらには言語も無く、従って定義も無く、次元なんて発想もなく
「いまここ」・・・つまりゼロ次元で何の問題も無く暮らしているではないか?

あらゆる定義も分裂も無く、全身全霊で自然と一体になったまま暮らしている姿とは
まさしく「ゼロ次元の住民達」の姿なのだ

だから「霊界」とは「ゼロ界」であり、わたしたちはすでにそこに暮らしている

わたしたちはすでに「ふるさと」にいるのだ
この世界に分断されているものは何一つ無い
世界を国境や州さかい、市町村さかい、隣の家と垣根で隔てているのは
人間の勝手な都合だ

「わたしたちの望むものは・・・」
この時空間の区分を超越した世界だ
わたしたち生命意識は、何の区分も無い、何の形も持たないゼロ次元からやってきた
そこは「すべてがひとつ」の世界で、「ふたつ」が存在しない世界だ

1+1=2、なのではない
唯一のモノと唯一のモノを隣り合わせても数字は発生しない
それをわたしたちはカテゴリー分けして「カテゴリーが同じモノを合わせて」
それを〝2〟とか〝3〟とか勝手に呼んでいるだけだ

ミスター五井野正が指摘した様に
「1+1=(いこーる)2」なのではなく
「1+1→(移行)2」が正しい
科学から芸術へ
五井野 正
創栄出版
1995-12


カバラの書「石榴の園」でイスラエル・リガルディーは指摘する
「Aとはなにか?」
「それを説明するために『それはB+Cです』と説明したとする」
「するとこんどは『Bとは何?』『Cとは何?』と質問が増えてゆく・・・」
世界魔法大全3 柘榴の園
イスラエル・リガルディー
国書刊行会
2002-02-20


定義がジャンジャカ増え、次元数を「三割、四割はあたりまえ~」と増やしてゆく・・・
・・・そういった
「分裂が大好きな」「高次化、高度化が聖なること」と思い込んでいる輩・・・
「それがスピリチュアリズムだ」と思い込んでいる連中が多すぎる

かれら「分割好き」な連中は、一見平和的なラッセンの絵をもてはやしているが
世界に「平和」ではなく、実際は「論争」、そして「戦争」をもたらしている
・・・しかしその自覚さえ無いだろう

量子もつれ~エンタングルメントの満ちた、何の〝境界線〟もない「無」の世界とは
「無限」でもある
私たちはそこから来て、今も尚そこにいる
そして「そこ」に帰り着こうと「部屋の中でアップアップとクロール泳ぎ」している
しかし、梯子をアップして天国に向かおうとしても分裂は増すばかりだ


Yes - Rhythm of Love door maneel-katal

天国とは「行く」のではなく「帰る」ところだ、それは「ふるさと」だ
わたしたちはすでに「ここ」にいるのに、
梯子を駆け上がってどうやって「ここに帰る」のだ?
わたしたちは梯子をゆっくり慎重に「下りて」こなければいけない

「西を、東を、南を、北を」かけずり回って「いまここ」を、「平安を」探している
「高次元に飛翔しようとして」天使の翼と光に目を輝かせている

これらの「馬鹿げたジョーク」のために「無限の光~アイン・ソフ・アウル」が生まれた
 何だって可能な無限世界~アイン・ソフに、唯一無かったもの、それは「限界」だった
それは「無限の光の中での分裂、明晰さ」だった
無限世界に唯一無かった「壁」「限界」「境界線」・・・「わたしとあなた」
これらがなくて、「牛を探す旅」がなくて一体「馬鹿げたジョーク」が可能であろうか?

私たちの望むもの・・・ 天国に無かったもの、それを私たちは探しに来たのだ
<それ>とは「 A bitter tragic joke」だった!

コルコヴァード(静かな夜)オリジナル和訳歌詞 from Katal Maneel on Vimeo.


トウシン氏が語る「ニセ主観、ニセ客観」という視点は
五井野正氏が言う「世間法の世界観」と平行している様に思う

世間法においては「自由度」、つまり「選択の幅」を拡げることが重視される
それはお金や権力を得ることであったり
世の中がよりバラエティーに富んだ商品、サービスを提案することだったりする

人々は「相対的な自由」のことを唯一の自由だと考え、酔いしれる
なぜなら「絶対的自由」を考えるとすぐに行き詰まってしまうからだ
全ての物事に「程度」がある以上、「限界」があり、それらはすべて「相対的」だ
だから選択の幅こそが自由なのだという発想の許では「絶対的な自由」など空想だ

人々が思いつくこと、考えつくことには全て限界がある
それは「自由とは相対的なものしか無い」という前提があるからだ

「人間は考える葦である」というパスカルの言葉が残っているが
これが、五井野氏が言うところの次の段階「真理法」の世界観だ

人は自らの肉体を限界だらけの物質世界に置きながらも、
「無限」や「永遠」について思惟思索することが出来る
これが様々な思考実験や論理的仮説を可能にし、科学万能(バンザイ)の文明を築いてきた
人間の思考力が生みだした文明の利器は、効率的に自然を探索し搾取してきた

肉体的にはか弱い「葦」の様でありながら、ライオンや象やクジラでさえも絶滅の危機に
追いやる程の威力を、文明の城壁(バーグ)を人間(マン)は築いてきた

ユダヤ人の名前に〝バーグ〟や〝マン〟が多いのは偶然ではない
彼らこそは科学文明による神へのチャレンジャーだったからだ

それを私達は〝客観科学〟と呼んで崇拝した
この「神以上の神~科学力」は私達の生活の自由度を今も高め続けている
「これこそ〝神が死んだ〟あとの新しい人類の神、庇護者だ」と誰もが思っている
私達は皆、知らない間にこの真理法が生みだした新しい神の信者なのだ

全てが有限のこの時空の物質自然界で、「無限」や「永遠」を思惟してきた思考力は
当然、自然界をメチャクチャに荒らし回り、他ならぬ私達自身の生存権すら脅かしはじめた
ここに至って初めて私達は「選択の自由とは本質的な自由ではない」ことに気が付き始めた
真理法とは最終的には「全生命の破壊」をもたらすということが見え始めてきたところで
科学的再現性、〝いわゆる〟客観性は「神と言うよりは、むしろ悪魔ではないか?」と
私達には見え始めた

そこで、〝主観科学〟ともいうべきオカルティズム、スピリチュアリズムが台頭してきた
人々は仏教的な〝悟り〟に興味を持ち始めた
欲望を解き放ち、選択の自由を無限に拡大し続けることは破滅の宿命を背負う
古代から営々と受け継がれながら、細々と引き継がれたシャーマニックな
メディスン、漢方の世界や、預言、占托、チャネリングを
ホーリスティックサイエンスと呼んで、現代を席巻する客観科学とは〝別の〟
カウンターサイエンスなのではないか?と手探りしはじめた

「非科学的だ」ということで閉じ込められてきた〝感じる〟という主観も、
実は大きな視野から見れば本当は立派に〝客観性を帯びているのではないか?〟・・・・
遅ればせながらそういった認知が人々の間でも20世紀後半から
ゆっくりゆっくり市民権を持ち始めた

内なる本能を「野蛮さ」「迷信」として封をしてきた私達だったが
カタストロフ的(冥王星的)不安やアイデンティティーの揺らぎが、私達に
「生命科学」「主観科学」なるものへの可能性を「考えざるを得なく」しはじめたのだ

ニセ主観~欲望が、ニセ客観という科学万能教を生みだした
そしてこのニセ主観は、
自らの生みだしたマトリックス、スカイネット(つまり社会システム)の奴隷になってきた

でも、ニセ主観というのも真主観の一部ではある、
単に「部分である」のにも関わらず、それが「全て」であるかの様に暴走していただけだ

現在のスピリチュアル・ブームは、いまだこの「ニセ主観」に振り回されて「ニセ客観」
つまり「科学っぽい宗教団体」に振り回されている ・・・科学と名乗れば盲信してしまう

現在は「科学っぽい宗教団体」の百家争鳴状態だ
それらのグループは、
「それなりにある程度の神秘体験やら御利益やら奇跡的現象」が起きて来るという
厄介な特徴がある・・・、
金粉が出たり、UFOだのオーブだのの写真を撮影出来たり、チャネッたり・・・

人間は思い込み、信念に基づいて、ある程度のその投影が現象化する・・・、
それは確かに科学的な法則なのだけれど、それは「物質的な客観科学」よりもヤバイ世界
なのだ・・・ 
バシャールの言動からすると、そのアタリがアトランティス文明の崩壊原因だった様だ

物質科学文明の限界に突き当たったからこそ主観科学に回帰したはずなのに
またしてもここで〝現象化主義〟に捕まってしまう・・・それは太古の、
「遙かに危険なパンドラの箱」なのかも知れないのに・・・・

つまり今はまだ「ニセ客観科学の代わりにニセ主観科学を持ってきた」危険な状態なのだ
〝現象化主義〟の罠から脱した時に初めて〝真主観〟の全貌が見えてくるだろう

どちらにせよ「非力で不安な〝考える葦〟」は、
欲望の奴隷であり欲望の乞食であり、自分で自分の首を絞めて自殺するのだ

・・・しょせんは〝考える葦〟には「相対的自由」「選択的自由」しか思いつかない、

「自由とは何か?」という真剣な問いは、人間の幼年期の終わりを告げる最後の質問だ
    「くそガキ」だけが、自由とは何かを問うこと無く、自分の欲望を振り回すのだ

法華経で預言されている「地湧の菩薩」とは、オカルト現象なのでも地下帝国でもない
たとえそういう世界があったにせよ、とりあえず私達がすがるべき対象ではない
それは実際に存在していても、メタファー的な存在なのだと思う

地底人はいるか?

お地蔵さんの様な種族が
もぞもぞと地下から地上に這い上がってくるのを待つべきではないのだ

・・・つまり「地湧の菩薩」とは「潜在(泥池)的な私達自身の可能性」のことだ!

沼地(物質文明)の〝葦〟は、
泥池(成熟文明)から咲く〝蓮の華〟へと変容しなければいけない (でなければ滅ぶ)
 それは「非力さ」から、力強い大地と一体化したブッダたちへの変容だ

泥~つまり物質的欲の中から生まれ、育ちながらも、
その〝欲〟が〝望 (無限や永遠) 〟と癒着して〝欲望〟となる愚かさを見抜き、
〝欲の根〟を深く広く泥池の中に拡げながらも〝欲望〟の虜にならない・・・

そこでは思考された「自由」とは全く別の「地湧」の歓びが得られるだろう
物質文明が提供する選択的豊かさが、束になっても得られない「唯一の自由」がある

ドストエフスキーが「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」で描いた
「大地への接吻」とは、人間が「地湧の菩薩」へと変容した瞬間なのだと思う

この時、ラスコールニコフとは真主観であり、接吻した大地は真客観~地球的意識だ 

それはいわゆる神秘主義者達が期待する神秘的な体験ではなく
相対的、断片的と思われてきた「この」物質世界の中にちゃんとあった
それらを「どう利用しようか?」という欲望から見れば物体とは限界だらけだが
その「ものそれ自体」を見つめていけば、ちゃんと「石は石自身のことを」語り出すのだ
有限そのものの中に、ちゃんと無限、永遠はあったのだ!

次元観察子~ケイブコンパスという発想の理解そのものが、
ある意味ではもう「悟りの世界」そのものかも知れない
それは「十牛図」で牛を探す少年、そのものだ

J・Krishnamultiは、
「花を見る時 、なぜ『花を見る自分』があると思うのですか?」
という凄まじい問いかけを残している

つまり、
〝体験〟に対して〝体験者〟を別々に想定してしまっているのであり
    これこそが人間という種族だけが持つ基本的な分裂症なのだ

花を見ている時、「花を見ている」ということが「わたしのすべて」なのだ
     〝その時、その瞬間〟〝それしかない〟のだ



「悲しい」ならば、ただ「悲しい」だけがある
「嬉しい」ならば、ただただ「嬉しい」だけがある

〝私が〟悲しい、〝私が〟嬉しい、だなんて何で言えるのだろうか?


でも人間は肉体という体験の中核〝らしき〟ものからの
            自己同一化から、なかなか離れられない
     「花を見ているのは〝私の〟眼球だ、〝私の〟脳だ」と
                  ついつい科学的に連想する

それゆえに人間は
自分の肉体の損傷や病気、老、死に対して絶対的な恐怖感を持ってしまう

   その<エゴという幻想の重み>から切り離すことが可能なヒントが
               ケイブコンパスという発想にあると思う・・・・

あらゆる次元の、あらゆる座標から、あらゆる方向を観察することが可能なのは
                   人間のみが達することが出来た特性だ・・・

    この時、宇宙は光よりも早い ( 量子もつれ ) 純粋意識によって満たされる

いわゆる「人の立場になって考える」という日常的な教訓もこの卑近な応用だ
   「花を見ているわたし」とは「ケイブコンパスのことだ!」とも言える・・・

「私とは何か?」と問うた時、「その質問自体があなたです」とバガヴァンは答える・・・ 

              私から言わせれば、「これら全部は同じ答え」だ

パパジは言う、「あらゆるものが意識じゃないですか?」



人はどこにいて、何をしていても、それが「いまここ」だ
           それは「花を見て」いても同じだ

わたしたちの「いまここ」は常にひとつしかない
わたしたちは二箇所に同時に存在することは出来ない
そう受け入れることが出来た時、
人間はある意味「植物」へと進化する
どど~んと「いまここ」に根を下ろし始めるのだ・・・

なぜならもう「分裂」出来ないからだ、
  「無限に自由な観察子」でありながら・・・
       ・・・否、「だからこそ」なのだ
    ・・・完全な自由、無限の瞬時性にはエゴは介入出来ない

スピリチュアルとは本来、その瞬時性に深く没入~スワミ(座身)していくべきなのに
逆にそこからの逃避になって「ライトワーカー」だの「セッション商売」だのと
     「欲張りな夢」の温床になってしまっている・・・
          それは唯一の〝ここ〟からの徹底的逃避、直面の回避

いわゆる「多次元」とかいう言葉をもてあそんでいる人達だって
同時多発的に二箇所にはいられない、ただ、ケイブコンパスは光よりも早く瞬時に
鍋焼きうどんを喰っている今の日本のおれ」から
タイでおはぎを作っている榊みやこ達」に
ネットやイマジネーションを介してワープできる、と言うだけで、
やはりそれは「同時存在」ではない

もし、同時存在とか共時性ということを言うのなら、
ケチな事をつべこべ言わず、
いっそのこと徹底して「すべてはひとつ」と宣言すればいいじゃん


「NOW HEREとはどこのことですか?」と問うなら、
「NO WHEREですよ」と回答可能だろう
なぜならケイブコンパスとは
「どこでも行けるが、それ自体は〝どこでもない〟(非局所性)」からだ

 そしてそれが「純粋意識」の本質そのものでもある
  「いまここ」とは「わたし」という存在の「時空的な言い換え」にすぎない

  私たちが生ある間、肉体の上に物理的視座が固定しているのは、
  まったく正反対の可能性を同時に提示している

  それは、「時空間の中で人と分離してひとりぼっち」という相対観と
      「どこに行き、何を観ていても私という視座は微動だにしない」という
       絶対的な「〝不動の視座〟への不断のヒント」という真逆の両面性だ

みながそれぞれのユニークな資質、ユニークなシチュエーションの体験を積み重ね
 そして誰もが世界で前人未踏のユニークな視座の中にあることで
  「私という存在を完全に理解出来る人はいない」という絶対的現実を
    ・・・悲観的に取るか? それとも「大いなる尊厳」と転換して取るか?
   そこが、人が無限の狂気に落下するか?、無上の喜悦へ至るか?の分岐点だ・・・

  それはケイブコンパスという無限の自由な可能性に目覚めた
   私たち人間という種族が個々人の責任で引き受けた「苦悶とエクスタシー」だ 
それは、キョロキョロ周囲の顔色伺うこと無く、徹底的に無条件に自己受容できるか?
  ・・・そこにすべてが掛かっている ・・・そこに宇宙的な重みが掛かってくる 

    私たちは「自由過ぎちゃって」勘違いし、苦しんでいるのだ(笑)

質問
OSHO、禅の逸話や禅師の法話にはほとんど愛や慈愛への言及が見られません。
どうしてでしょうか?

アナンド、あなたがだれかを愛するとき、
あなたは「愛している」と何度も何度も言って、相手を困らせたりしてはいけない。
そうでないと、彼はあなたを殺してしまう。
xxxx中略xxxxx

デール・カーネギーの本はアメリカでベストセラーになっている、
聖書に次いで第二位だ。彼はクラスや学校を開設していたが、
そこで人びとは愛しているかどうかなど関係ないと教えられた。

問題になるのは言葉、表現だ。
内面についてだれが語りえようか?
 家を出る前に、妻にキスして言いなさい、
「愛しているよ、いとしい人。でも行かなくちゃならないんだ」

xxxx以下略xxxxx

実際、カーネギー本を読んだ人なら知っているだろうが、カーネギーはそうは言ってない
「表面的なおべんちゃらは偽だ、」
「相手を称賛する時は心の底からそう思えることだけにしなさい」
っと言っている

だから一見、彼の「人を動かす」と言った様なタイトルにはあまりイヤミは無い
・・・・いいじゃないか?「心の底からの称賛」ならば?

ノ・ジェス氏が主催するNRジャパンの弟子達などは、「褒めゲー」などをやっている様だ
これも同じ、・・・一体誰が「他人を称賛する」ことがイケナイだなんて思うだろう?

人を褒める、許す、愛する・・・・ それを言葉にする
 ・・・そうしてポジティブなエネルギーを引き寄せる
    ・・・そこの一体何か問題が有るのだろうか?

たぶん、「問題は無い」
しかし、これは「人生に如何なる動機を持っているのか?」というのが
重要なポイントになってくる

「他人と上手くやっていきたい」「社会的に成功したい」ということならば、
あるいは斉藤一人氏が盛んに薦めている「他人に愛を与えて、商売も繁盛」
ということがスタートラインなのならば、たぶんそれは実に有効な
アファーメーションなのじゃないだろうか?

「あなたを許します」「わたし自身を許します」「愛してます」「ありがとう」

それらは社会の潤滑剤になるだろうし、
そのハッキリした言語化は確かに自他のセルフイメージを向上させるに違いない

たとえば
あえて心を込めない〝ありがとう〟の連呼」だって
ちゃんと機能するし、言霊的効果はある

・・・ただしこれらはあくまでも〝対社会〟〝対人間関係〟に関してに限定される
   セルフイメージというのも、あくまでも〝社会の中での〟セルフのことなのだ!

実はポイントは「心を込める、心がこもってない」ではなかったのだ!
ここが今回の記事の一つ強調したいことだ


ん?・・・「自己実現は絶対的に必要だ」、そして「私はお金に敬意を払う」って
      オショーいってたやん?

  ・・・じゃあ、やっぱ「自己実現」と「経済的な成功」って同じじゃないの?

ところがここが〝ミソもクソも一緒くた〟にしてはマズいところなのだ

OSHOが言っていた「自己実現」とはエンライトメント、まさにズバリそれのことであり、
OSHOが言う「自己実現」と
カーネギーやナポレオン・ヒルの様な「成功哲学」とは〝混ぜるな危険〟なのであ~る

・・・私の様な社会的な適応障害を持っていることに関しても、OSHOは
       「ま、社会って狂ってますから気にしなくてイイヨ」と言っている

OSHOは「お金が悪」という観念に染まった、いわゆるスピな人達に対して
「私はお金に敬意を払うよ」っと釘を刺しているだけだ
・・・「対告衆が誰か?」が重要だ

「瞑想はあなたから全てを奪い続ける・・・」 つまり〝引き算〟なのだ

一般的な成功法則の教師達が私達に教えているのは〝足し算〟だ
だから、「人生をより豊かに足し算していきたい」ひとは
斉藤一人やカーネギーのセミナーに行けば良い

でも、「引き算」したい人は、瞑想に精進するべきなのだ
OSHOが「スピリチュアル・テロリスト」を自認しているのもその点だろう

やはり、「足し算」で得られる自己実現もあれば「引き算」の自己実現もある

どちらも間違っていない、それは動機の違いと、それによる目的地の違いだ
・・・もちろん「足し算」と「引き算」の目的地は正反対だが、それで良いと思う

私の目的地とは「引き算」で導き出される答えだった
でもそれはもしわたしがバングラディッシュで飢えと闘っていたのではどうにもならない

わたしがたとえ瞑想に興味を持ったにしても、
それはオウム真理教の様に「超能力が得られるかな?」といった動機からだろう・・・
結局のところ、わたしは乞食のままだ、
物乞いするものが「食べ物」「金銭」から「超能力」「霊界での昇格」といった対象へと
スライドさせただけのことだ
そういった人達に対してOSHOは
「物質的な豊かさをもっとリスペクトしなさい、感謝しなさい」と言っているわけだ

バシャールは「まあとにかくワクワクが羅針盤だよ」というが、
それはその時々に、
その人が本当に必要としているモノをインジケートしてくれるからなのだ

・・・人は皆、
  自分の細胞レベル、本能のレベルで
  トータルに望んでいるモノに向き合うとワクワクする

それは恋愛かも知れないし、お金かも知れないし、新しい人生の選択かも知れない
特に重要なのは、まだ自分自身でさえ自覚していない〝何か〟かもしれない

昨日まで「足し算」をし続けた人間が「引き算」にワクワクしはじめるかもしれない
「引き算」に拘って骨皮筋エモンになっていた人が、
突如「足し算」にワクワクしはじめるかも知れない・・・それで良いのだろう

私は先日、女性達に、よってたかって褒めていただいたが、その結果、私は
「他人に褒めてもらっても充たされない」ことを実感した・・・
でもそれはその体験をしてみた結果、自然に得られた自覚だった

  (だからその女性達には感謝していると同時に、
   その称賛を素直に受け取れなかったことを申し訳なく思っている)

往々にして、
「自分の本当にワクワク出来る方向」とは
「それではないもの」のコントラストで強烈に自覚させられるものなのだ・・・・
だから「足し算」が間違っているとか、「引き算」が正解だとか断言出来るものではない

人間とは「天と地との正反対の無限なるものの結合」なのだから・・・・

「OSHO、不正と闘うべきでしょうか?」
「人はあらゆる〝べき〟も〝べきではない〟も持つ〝べき〟ではない」

あっはっは、ですな

もし、「世界のすべてがシンプルだ」っと宣言する人がいるなら
その人は並外れた天才か?救世主か? あるいは短絡的なバカだ

わたしはその人に言うだろう
  「いや、世界は単純じゃないよ」っと・・・

  事実世界は単純じゃない、世界の政治も、気象も、地震の起きる原因も
  人々の心も・・・・

だからいまだに完全には気象や地震の予測は出来ないし、世界は事実平和ではないし
女心は秋の空なのだ

世界が単純ではないという証拠は、いくらでも転がっているし、いくらでも列挙出来る

逆に、「ああ、世界って複雑ですね」と途方に暮れ、嘆き、疲れた人がいるならば
わたしはその人の肩を抱いてこう慰める

  「いや、そうでもないさ、この世の中って意外に単純だよ」っと・・・

  確かに物事の現れている現象は複雑怪奇だが、それらはいくつかのシンプルな
  原理原則が組み合わさっているのに過ぎない

世界は細かく定義してみれば、専門用語はゴマンとあるし、専門分野は網の目の様だ
しかしどの分野であれ、本当に精通している人ならば子供にでも判る様に
自分の研究成果を説明出来るはずだ・・・とてもエキサイティングに、面白おかしく

・・・それが可能な人こそが「精通者」なのだとおもう

だれもが自分の関心を持てる分野のエキスパートになれば良いと思う
それがどんな分野であるのか?どれほど社会的認知を得たり、称賛を得られるかは、
そんなことは別の話だ

・・・自分の拘りたい世界にとことん拘れば良いと思う

するとそこで、複雑な紆余曲折を通過することには成るだろうが
誰にでも単純に説明可能な究極のエッセンスにかならず突き抜けるだろうと私は思う

・・・そしたなら、それを人々にシェアーすれば良い

如何なる技術の究極のコツというのも、きっと言葉にすれば単純だ
しかし、だからといって誰もがすぐにマネ出来るかと言えばそれはまた別の話だ

たとえ言語化してしまえば単純なエッセンスも、いや、シンプルであればあるほど
そこには、そこに至るには、様々なドラマ、様々な試行錯誤があったに違いない

だから知識とは怖いのだ、
単純なことを、ただ単純だと思い込み、判ったつもりになってしまう

毎瞬毎瞬、人類の知識の蓄積は加速度的に増してゆく
だからといって、人々が賢くなってゆくのではない
人々は、如何なる複雑で精巧な装置、システムに対しても、ただアホウの様に
オペレーションを学ぶだけだ

究極的にはいずれ、もう遠くない未来に
全ての文明の利器は電源スイッチを入れて、言葉で指示するだけになるだろう
でもそれ自体は人間の〝質〟が向上したことを意味しない
むしろ、より高度なロボット達のサービスを何の疑問も持たずに受けるだけの
痴呆的な、受動的な、無機的な、「栽培されているだけの様な」人々が増えるだろう

そして彼らは言う  「ああ、世界はシンプルだね」「人生はシンプルだね」っと

いや、シンプルではない!
背後には常に一瞬の休み無く、膨大な複雑な英知の結晶が機能している

そして、「食べる」「排泄する」「眠る」「セックスする」「呼吸する」「歩く」
一見シンプルで素朴な、太古から続く生命の営みもまたそうなのだ 
そこには味わっても、味わっても、味わいきれない無限の「深み」がある

それは「シンプルだね」といって口を半開きにして即物的にも味わえるし
その複雑さに注意深く、感謝の念を持って味わうことも出来る 

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