We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2017年01月


32.Beyond the Small Family
   小さな家族を超えて

あなたは全体の一部です。存在に属しています。

部分への執着に、
より大きな全体へと入っていくのを妨げさせてはいけません。


Bhagwan Shree Rajneesh

 イエスに関する非常に神秘的な物語、
(愛情深い)イエスにしては、非常に厳しく見える物語がある。

 彼は群衆に語りかけていた。すると、誰かが言った。

 「イエス、あなたのおかあさんが
  外の方で待っていらっしゃいます。
  でも、人の集まりが大きすぎて、
  彼女はなかに入ってこれません。
  あなたに会いたがっておられます」

イエスは言った。「誰も私の母ではない」



 そしてあるとき、
イエスがまだ子どもだったころ、父母と共に毎年
恒例の祝祭でユダヤの偉大な寺院に来ていたが、
両親から離れてしまった。

両親は捜しに捜し回った。
そして夕方になり、彼らが心乱れ、ひどく心配に
なっていたところで、ようやくイエスが見つかった。

彼はある学者たちといっしょに坐っていた

--子どもにすぎないのに、
   彼は未知なるものについて
   彼らとなにごとか議論していた。--

父ヨセフは、彼のところに行って、こう言った。

 「イエス、ここでなにをしている?
  私たちは一日中お前のことを心配していたのだよ」

 イエスは言った。

  「私のことは心配しないでください。
   私は、私の父の仕事をしていたのです」

 ヨセフは言った。

 「私がお前の父親だ……それに、ここで
  どんな仕事をしているというのか?
   私は大工だ!」

 ところが、イエスが言った。

  「私の父は天にいます--
    --あなたは私の父ではありません」



 子どもがまさに
母の肉体を離れなければならないように、人もまた、
いつの日か、父母の子宮から精神的に出なければならない。

--肉体的にというだけではなく、精神的にも、
--精神的にというだけではなく、スピリチュアルな意味でも。

そして、子どもがスピリチュアルな意味で生まれるとき、
過去から完全に脱けるとき、過去との関係を究全に絶つとき、

そのとき初めて、その子は自己に、独立した現実になる。

それまでは、
母親、あるいは父親、あるいは家族の一部だったにすぎない。

        けっして自分自身ではなかったのだ。


            NO WATER,NO MOON,pp.173-179


 もしあなたが家族と恋に落ちたら、
 その愛を超えなければならない。

 さもなければ、
 その愛そのものが、
 その執着そのものが、
 もっと大きな全体へと入ってゆくのを許さない。


            COME FOLLOW ME.Vol.2,p.122

生命にとって価値の根底は「生きること」それ自体にある

もし「お前はなぜ生きたいのか?」と問われれば
誰もが答えに窮するだろう ・・・それはロジックを超えているからだ
それゆえにシンギュラリティー「人工知能による自我の芽生え」はありえない
演算の速さやロジックの蓄積、無機的な情報の蓄積がどれ程膨大でも
すべての根源となる「存在への渇望」は後付けでは芽生えないからだ

エサを探し、子孫を残すという生き物の営みが始まってから
この世に価値と無価値との差異は始まる

全てが等価ならば、生きる為の何の努力も格闘もないだろう
「価値ある生き生きとした世界」は「生を望むあなた」から始まるのだ

生を渇望するものがいない、無機物だけで占められた世界に
一体どんな意味があるだろう?鉱物資源があるだけだ

そして人間は
ものごとの意味を考え、言語化して、ラベリング(名詞化)し、
カテゴライズして言葉と論理によって思考する

それがご存知のように地球上で最強の武器と甲冑として
私たちの文明を作った、・・・「生きる」ことの延長としての「生き残る」上での
最高の手段をわたしたちはその他のあらゆる生物に上回って手に入れた

しかし最強の〝生き残る手段〟としての論理的思考能力が、
すぐに〝生きる目的〟へとすり替わっていった

「人生の意味」の論理的追求・・・・  である

人はなぜいつも頭の中でおしゃべりし続けているのか?
・・・それは発狂しかかっているからだ



思考能力という〝手段〟で〝自分が存在する意味〟を
確証し、実感しようとする主客転倒の狂気に私たちは日常的に囚われている

私たちは皆
デカルトの「我思う、故に我在り」という自己証明のループに陥っている

文明とは、本来魚を効率よく捕獲する為の罠なのに、
その罠で自分自身を捕獲しようとしている

ロジックで何かを問うとき、まずはじめに、
「それが本当にロジックで問い得る質問なのか?」を吟味すべきだ

だからその壁に、限界に、禅の公案がある

そこに思考の沈黙(ギブアップ)があるとき、
そこでひとは漆黒の闇を、死の恐怖を感じる

全てのスピリチュアリズムを裏切って、死後の意識なんて無かったなら?

本当はそこには何も問題は無い
私達は睡眠中だって完全に昏睡状態の時が何時間も、何度もあるが、
そこには苦痛は無い
「苦痛を感じるひと」そのものがないとき、もちろん苦痛はない
しかし、そこに「考える私」の不在をも意味する為、論理はパニックを起こす

わたしたちは、「何の確証も無い世界」が好きではない
なにか自分を肯定してくれる手応えや信念が欲しい
・・・すべての〝探求〟とはつまるところその為の努力に他ならない

論理的思考は決して「シュレディンガーの猫」を受け入れがたい
「在る」ものは「在り続けるべき」であって、突如消滅してはならない
「完全な無」とはあくまでも「無の継続状態」であって、
そこから唐突に何かが発生してはならない、それは論理的ではない・・・

ところが私たちは日常の中でも、
自分自身が「在る」と実感したり、全くの無自己の状態を経験している

そんな風に書けば
きっとあなたは「忘我と無我とは違う、単なる記憶の消失だ」と反論するだろう
ではなぜ私たちは自分たちの存在証明をしたがるのだろう?
誰かに承認してもらいたがり、忘れないでいて欲しいのだろう?
自分が重要でありたいのだろう?

  ・・・それは「自我が消滅していることもある」と
     どこかで知っているからではないだろうか?

「わたしは在る」  ・・・それでいいではないか?

しかしそうはいかない 
わたしたちは皆どこかで
「我思う、故に我在り」ということの〝危うさ〟〝怪しさ〟を知っているのだ

・・・そして間断なく思考することで、その危なっかしさから逃避している
   だから言いたい、私たちは皆、狂気寸前に、
    「自分自身に言い聞かせ続けている」存在なのだ

すべての論理はそれなりに美しい、
ぐるりと回って、独自の美をたたえて円を描き、究極的には出発点に完結する

   すべてはゼロに帰する・・・美しい!

         ・・・でも、「だから何?」なのだ

そこで
  天才には狂気の道しか残されていない
     論理には破滅しか残されていない

 真に論理を突き詰め、煎じ詰めれば、すべてはそうなる
 なぜなら論理とは「武器」として生まれているから、その動機に戻るのだ

 私たち凡人は、だから「考えすぎないようにしよう」とする
 「アタマおかしくなっちゃうから・・・」である

 私たち凡人に許されているのは、残されている道とは
  「社会生活が営める程度の中途半端な狂気」 だけなのだ

私たちに「生きる」ことは決して許されない
なぜならそれは「死と隣り合わせ」であることを意味しているからだ

私たちに「徹底的な探求」は許されない、それは狂気を意味する

私たちに唯一残されている探求とは「生き残る手段」の模索だけだ
それだったら学んだり、マネしたり、論理的に発展させられる
「手段」の世界だったら無限に広がり続ける、発展出来る

しかしそこには本質的な「なぜ?」という問いが残り続ける

 「生き残る手段(ハウツー)」とは常に
  「生きる」という根底的衝動に対する問いかけへの、
      すり替えられたチープな回答に過ぎない
        ・・・それは永遠に私たちを満足させることはないだろう

「わたし」という意識は何かの実体なのか?
それとも「脳の活動が描きだした〝現象〟」に過ぎないのか?

それは
すべての「存在」が、日常的に「無」と自由自在に往来しうる・・・
夢と現実との境界線は実は曖昧だ・・・
という
非論理的な仮説を受け入れるまで、
私たちの正気を蝕み続ける問いだろうと思う

沈黙

ゼロ

在る

深く

深く

深く…

至福

調和
 
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トランプ新大統領に対する憶測がいろいろ飛び交っている

「プーチンと組んでCIAをやっつける」という話もあれば

当の本人のトランプは就任すぐにCIAにすっ飛んでいって
「あなたたちを千パーセント支持する」とか

トランプ米大統領と「エホバの証人」知られざるユダヤ・コネクションとかとか・・・・


 熾烈なアメリカのビジネス・シーンのキングとしてのし上がってきた大統領として
 一筋縄では語れない人物であることは間違いない様だ

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この新大統領についてあれこれ考えているウチに、ハッとしたことが起きた
「トランプについて考えている自分・・・」に突如気が付いたのだ

その時、「トランプについての思考」はまるで自分の肉、
それを見ている自分自身は「骨(脊椎)」の自分だった

・・・思考とはまるで「お肉」の様だ

もちろん、どんな筋肉を、どんな皮膚をまとっていきているかは人生を大きく作用する
でもそれは骨格的な視点から見れば、文字通り皮相的なレベルであって
人生の本質とは距離がある

・・・でもわたしたちは「他人や社会にどんな影響を与えられる存在か?」ということで
  一喜一憂している

これら、「お肉的執着」を自分の本質だと思い込んで生き続けることは実に不幸だ

そして実に無責任だ
「お肉指向~思考」には常に感情的ムラがある、気分がある、ムードに左右される

肉食獣的なムラッ気、気まぐれは「思考の雲」そのものだ
トランプ新大統領に関する色々な思惑憶測もそうだし、
フェイスブックのタイムラインに流れてくる、種々雑多なニュースも
まさしく「流れ来ては去る雲」のようだ

何か一つの「雲」に一喜一憂しているごとに肉体は独特の磁気波動を帯びる

私たちはいつまでこんな「来ては去る」ものにアイデンティティーを奪われているのだろうか?
私たちは決して自分自身ひとりの人生に対してさえ、全く何の責任も取れないだろう
私たちはいつも「お肉的志向」に振り回されて、興奮し、疲弊し、中心を見失っている

いわゆる「霊的な精妙さ」に目覚めている人というのは
こういった「思考の雲」に対する客観性に目覚めているのじゃないだろうか?

たぶん「肉食の弊害」というのもまさしくここにあるのだろう
つまり、思考に振り回されやすくなる、アイデンティティーやら信念に取り憑かれやすくなる
すると、「骨としての自分」の自覚に目覚めるのがどんどん難しくなる

別に私は誰にでもヴィーガンになれと強制するつもりはない
「肉食には肉食の世界」があるのだ ・・・それを否定するつもりはない

ただしそこにはなかなか安らぎがない  絶え間ない修羅の世界だ

アメリカの「修羅の世界」は、まだ当面続く様だ

 ・・・たぶんバーニー(うさぎちゃん)・サンダースが大統領になった方が
   アメリカはヴィーガン的な世界に飛躍しただろうが、
    ものごとはそう一足飛びには行かない様だ

大事なことは世界がどう変化するか?大勢がどう流れるか?ではない
 群衆とはいつも、がつがつハンバーガーを食って
  あっちだのこっちだのに流れては、でも、どこに辿り着いてもやっぱり不満で
    年がら年中、デモやら暴動を繰り返す、そういう性質は変わらないものだ

    安らぎは常に、自分自身のホネを感じて生きることだ ・・・そこにある

トランプ新大統領就任演説(日英字幕) from Katal Maneel on Vimeo.


字幕ファイルはこちらです

以下の三橋貴明氏の指摘した箇所は
私も朝日新聞の翻訳と照らし合わせていて「あれ?」っとおもったところでした
結局Google翻訳を元に「保護活動」と訳したのですが・・・

やはりこう言う大事な声明は、ちゃんと原文を当たって自分で翻訳することには
大いに価値があるなと今回実感しました

NHKが日本国民に隠した「トランプ米大統領就任演説」のキーポイント=三橋貴明

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重要な部分を省略。NHKによる全訳「トランプ就任演説」

昨日、取り上げましたが、NHKはトランプ大統領の就任演説の全訳の際に、

We must protect our borders from the ravages of other countries making our products, stealing our companies and destroying our jobs.
Protection will lead to great prosperity and strength. I will fight for you with every breath in my body and I will never ever let you down.

上記の部分について、

ほかの国々が、われわれの製品を作り、われわれの企業を奪い取り、われわれの雇用を破壊するという略奪から、われわれの国を守らなければなりません。わたしは全力で皆さんのために戦います。

と訳し、最も重要な発言である、

Protection will lead to great prosperity and strength.(保護主義は繁栄と強さに結びつく。)

省略しました。




「本当に自分がやりたいこととは何なのか?」
  ・・・・悩み続けている人は多いと思う

それが「何もしないことだ!」という回答に行き着くまでにわたしは20代の殆どを費やした

わたしは「ああしろ」「こうなれ」という親の期待や願望や不安の投影に
あまりにも 引きずり回されていたが故の苦闘だった、そして行き着いた回答だった

いま、私は親を怨んではいない、
前世でさんざん人を振り回したキリスト教の牧師だったときの私が積んできた業(カルマ)だった

「神に身を捧げる」という悲愴的な献身感に酔いしれることが如何に精神を不健全にすることか!
そういった宗教的な使命感は、結局の所、他人まで巻き込まずにはいられないものなのだ

しかし、そうは言ってもわたしは疲れ果てていた
「何もしない」こと、とは、
「何かしなきゃ」という成長とか、目的への邁進といった
「行動に駆り立てられた強迫観念」に対するボイコット・・・ 

   ・・・それは反動として起きたどうしようもない根底的疲労感から来るものだった

「何もしない」こと  ・・・真意としてはリラックスこそが、「一番したいこと」というパラドックスに
気が付いた時、私はとても嬉しかった・・・

 それは現代のニートやヒキコモリ君達に是非シェアーしたい歓喜だった・・・ 
  まるで人生のすべての難問が解決したかの様な爽快感だった

・・・が、しかし、そこにはあまりに激しい積年の疲労感があった為
        一気に反対側に動いたわたしの〝振り子〟は、
         〝そこ〟にもまた強迫観念があることに気が付く為には
                  とても長い年月が必要だったのだ

「静寂へのこだわり」「無為へのこだわり」「無選択へのこだわり」もまた、
微妙な意味で〝行動〟なのだ・・・

    ・・・・これは「目に見える行動」よりも、さらに!、遙かに!!、見抜くのは難しい

「無為へのこだわり」は一見、とてもスピリチュアルで高度だ、いや、事実そうだ・・・
しかし、所詮は「こだわり」に過ぎない・・・

「自分の本当にやりたいこととは何だろう?」と、
かけずり回っている若い人達がサルのように見える・・・

   ・・・まさしくその〝優越感〟に、実に巧妙で見破りがたい罠があるのだ


いわゆる「スピリチュアルな人達」「(神聖な)静寂を求める人達」の殆どはこの罠に嵌まっている

       「無為自然」とは「何もしない」ことではない

オシッコがしたくなれば単にトイレに行けば良いだけだ 、それもまた無為自然だ
それは無為であると同時に行為でもある、無為と行為とは同じコインの表裏であり、
それは一体だ

強迫観念が何かあると、ひとはジッとしては居られない、
マインド・・・ 「あれか?これか?」なしでいられない
見かけだけは聖人君子のように静かに座っていても、
こころはサルのような状態であちこちにかけずり回っている

本当に無為自然であることとはどういうことなのか? ありったけの洞察が必要なのだ

わたしはこの数十年で何度もこのヴィジョンを得て、何度も気が付いたのだが、
それでも何度も引き戻された

  ・・・「無為自然とは何か?」 知的理解は出来ても、それほどまでに、体得は難しい

    「わかったぞ!」と喝采しても、また引き戻される・・・  「判ったつもり」にハマる


だからこうして若い人達に、
わたし自身の「老いてなお悟れぬ」恥を忍んで告白し書き残しているのだ

 ・・・「何をしたいのか判らない、暗中模索の若者達」に

        そしてそれが「無為自然だ!」と見抜くことが出来たとしても、
         そのあと待ち受けるもっと難しい、微妙な罠に私は是非、注意を促したい

人は安易に判ったつもりになって「生の道」を選んだつもりで、実際には「死の道」を選ぶのだ

   だから「リラックスとは実は複雑な現象なのだ」というOSHOの真意はそこにあると思う

あなたのリラックスを助けられる本はない 
あなたがあなた自身の内側の実在を読まない限り・・・
 
そうして リラックスは「しなければならない」ではない 
リラックスとは不在だ、「行為」ではなく「行動」の不在だ 

だからヒマラヤへ行く必要はない 
幾らかの人々はリラックスするため それをしている 

彼らはヒマラヤへ動く ヒマラヤに動く必要は何?
行為は落とされない 
なぜなら もしあなたが行為を落としたら あなたは生を落とす 
ならば あなたは死んでいるだろう それはリラックスではない

だから(静寂な瞑想の場である)ヒマラヤで 
あなたはリラックスではなく 死んだ聖人を見つけるだろう 

彼らは生から 行為から逃げている

  ※ 現在字幕制作中の、OSHO「存在の詩」第四章より

わたしは30年前、
とっくにこの言葉と出会っていながら、恥ずかしい事にいまだに体得出来ていない

無選択でいられれば、人は美しくいられる、・・・「無限性」を失わずにいられる
そこで人は「悟ったフリ」が出来る

  ・・・ところがそれは「死の道」なのだ

私たちは生きている以上、選択を免れない
「私は選択しない」というなら、それが選択だと言うことになる

 「生きている」ということは、「仏像のような死んだ美しさ」に留まることではなく

  この「有限だらけ」「限定だらけ」の世界に果敢に挑戦することなのだ


それがなぜ「リラックス~無為自然への道」なのか?

  「選択をする」・・・するとそれに応じたある特定のゲームが始まる それは何でも良い

  進学の進路を選ぶことも、どんな師を選ぶか?も
   そして今夜のおかずをスーパーで選ぶことも、すべて選択だ

  重要なのはそれを「能動的に」選択することなのだ、「意識的に関わる」ことなのだ

  ・・・回避的動機、からではなく 単に「安易だから」ではなく  ・・・それは「何であれ」だ!

   降りかかってきたようなどんな運命でも、ハプニングでも、「能動的に受容する」ことだ

   そこではじめて、そのゲーム、その遊びが楽しみになる、祝祭になる

   「悲しいこと」「怒りに満ちたこと」でも、すべてが祝祭になる

その「転換の名人」になった時、私たちは初めてリラックスを会得出来る
それは「ガマン(受動的受容)の達人、聖人」になることではない

そしてそのリラックスの究極の先にエンライトメントがあるのだろう・・・
それは〝おまけ〟位に思っていればいいのだ


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