We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年12月

医療の世界以外に、「人を助けなければ」という動機を持つことは不適切なのです
J.krishnamurti 

世の中をよくしなければ、人々を啓蒙しなければっという気持ちには
長い間駆り立てられてきた・・・

その不毛さを理解することはとても難しいことだった、私には時間が必要なことだった

自分が「良い」と思ったこと、「正しい」と思ったこと・・・
それが他人には通用しないと言うことが、リクツではなく実感出来るか?
・・・それは〝若さ〟を代償に差し出すだけの価値があることだった

「正しさ」の範疇が如何に広大であるのかは、実は関係ない
どれ程、普遍的な真実を見い出したにせよ、他人というのはかけ離れた宇宙に存在している
石を投げればぶつかるところにいても、
〝他人〟とは、まったく違った法則が支配している全く違う宇宙の住人であると理解するのは
私にとっては、とてもとても難しいことだった・・・

その結果、目の前のその人が千尋の谷底に転げ落ちると判っていても、
救えないものなのだなあと最近はつくづく思う  ・・・説得というものはつくづく無駄だ

私は冷たくなりすぎたのだろうか?人生に醒めてしまいすぎた?諦めすぎてしまった?
そう何度も何度も自問している

・・・でもどう考えても、「世界から手を引く」方が面倒は起きないし、余計な労力や気疲れもない
そしてなにより、その方が誰もがハッピーなのだ

・・・たとえ、明日その人が千尋の谷に落ちると判っていたにせよ、である

世の中に予言能力のある人がそれほどは居ないことは、つまりそういう理由だった
・・・そんな人がやたら居ても、本当の意味では役に立たない、・・・それどころか!
  人々が自分らしく生きる上で、きっとむしろ邪魔なのだ

人にはそれぞれの役目がある  ・・・それがたとえ「破滅する役」であってもだ!

「社会を改善する」「人々を救う」という、一見絶対的な善に見えることよりも大事なこと、
それは「ひとりひとりの内なる悟性を信じる」ことだ・・・ それは「警鐘」「啓蒙」に優先する

なぜなら「未来に待ち受ける危険」は「本人も承知している」からなのだ・・・
表面意識では判っていなくとも、潜在意識ではすでに知っている、熟知している
〝その上で〟人は皆、生きているのだ、自分自身も・・・

  そういう意味では基本的には「すべてを手放す」「見ているだけ」という選択肢しかない

大隋劫火洞然(だいずいごっかとうねん)3より

  「本質ばかりを見つめている人は、とても孤独に陥りやすい。」

恋したことは?

何故そうなってしまうのか?
わたし自身の臨死体験から言えば、死後の世界というのは完全な「ぼっちの世界」だからだ

そこにはクリスマスのようなめくるめく光の洪水の世界だけれど、
一緒にクリスマスを過ごしてくれる人はひとりも居ない
かなり探し回ったけれど、誰も居なかった

で、〝こっち〟の世界に帰って来てつくづく思うのだ
やっぱり「他人が居る世界は良いなあ~」っと・・・

ぼっち


・・・思うに人が輪廻転生を繰り返し、痛みや苦しみ、孤独でまた苦しむと判っていても
またこの「他人が居る世界」に生まれ変わって来てしまう最大の理由はそこなのかも知れない

つまり「死後の世界」イコール「エンライトメントしてすべてとの一体感に回帰した意識」では
              ・・・必ずしも〝ない〟  っというところがミソなのだ

  ・・・やっぱり、サマディーとは、〝分離感のある世界〟でないと得られない境地なのだ

        あなたは耐えられるだろうか?何億年も「ひとりぼっち」の世界に???
           わたしたちは、早速「次の子宮」を探し、そして今があるのだ

「無限の時間の孤独と退屈」と比較するならば、たとえ末期癌の断末魔であっても
「無いよりマシ」な、プリティーな体験に過ぎない・・・のだ



サマディー、エンライトメントとはある意味・・・、
この「5億年ボタン」を押したらもう「無の空間」から二度と帰って来る気をなくしてしまう
    ・・・っと言うワケなので、だからOSHOは「究極の死」といっているわけだ(笑)

実際アナッタ(無自己の自覚)に至った時は生命の進化の歴史で背負ってきたような
何億年もの「わたし」という過去の記憶が一瞬で 錯覚だったと気が付くので、
究極的な開放感がある (2010年5月に体感)

・・・だから、あなたのそれ以後の人生は
  誰でも、どんなことでも「無限の忍耐をもってして永遠に待つ」事が可能になる

          あなたは二度とバーゲンセールに駆け出すことはないだろう

おばちゃん達がスーパーのタイムセールに向かうとき


この、「無限の忍耐を持って、何億年だろうがいまここで永遠に待つ事が出来る」と
何でもばっちこ~い!って状態なので、平気で5億年ボタンを押せる

「今この瞬間に、永遠の時間がある」とは、
スピ系の人なら誰でも一度ぐらいは聞いた話だと思う
 ・・・これが実話であると知る事がどれ程素晴らしいことなのか?
  ・・・いや、ところが残念ながら誰にとってもそれは「恐怖」でしかないだろう

だからこそわたしたちは「いまここ」にいたたまれないのだ

<そこ(=底)>以外、他に<どこ>にも行き場なんてありはしないのだけれど・・・ね・・・(笑)




私たちにとって「何も起きない5億年の退屈」など、恐怖以外の何ものでもない
・・・もしそれが「退屈」ならば、だが

本当は誰もが知っている、「この一瞬」が5億年どころか、永遠に続くのだと
           ・・・だからこそ「待てない」「いたたまれない」のだ

この「無限の忍耐」を受容することを、誰もが死〝よりも〟恐れて(拒否して)いるが故に
           私たちという意識は眠りのブラックアウトに逃げ込むのだ・・・
                  ・・・そんな恐ろしいことは「感じたくない」から

たしかにこの肉体を失う時も、それなりの恐怖感はあるだろう
でもそれ以上の恐怖が、実は「いまここ」との直面にあるのだ・・・  毎瞬毎瞬ある

いつか来る肉体の終わりと同程度か?、いや、それ以上の恐怖が「いまここの連続」にある

わたしたちは「死を恐れて」いる、それ以上に、「生を恐れて」いる・・・
 しかしその恐怖はあまりにも圧倒的であるために、
  その自覚は日常の中では潜在意識に押し込められている

   このパンドラの箱を開けようとする試みが「瞑想」だ、「無為と沈黙」だ

これらの「挑戦意識の反転という挑戦」が、瞑想だと言えるかも知れない
そこでは「退屈」という最大の恐怖と直面することになる・・・

  ・・・「こんな、非生産的な、理不尽な時間に人生を費やしていていいのか?」
   ・・・「やらなければいけないことは、人生でいっぱいあるんじゃないか!?」

    そういった言い訳が、津波のように・・・あっという間に私たちの意識を押し流す

これらの「言い訳」が即ちマインドであり、それらに自己同一化しているのが私たちの日常だ

私たちは恐怖のあまり、日常に「受動的に」参加している・・・「渋々」参加している
私たちにとって「いまここ」とは〝強制参加〟の退屈なものなのだ

わたしたちがイベントや新しい人との出会いを求めて彷徨うのは
「受動的な能動性(=逃避行動)」に過ぎない

「あなたの現実は本当は自分自身が作り出しているのですよ」っと
都留晃一さんあたりが口酸っぱく語りかけても、なぜわたしたちが理解出来ないのか?
・・・その原因は、この「受動性」、この「渋々」、「日々の変わり映えない日常への退屈」にある

つまりは「如何に能動性へ転換するか?」が、最大のテーマなのだが
その前に「ゼロポイント」の転換点への入り方が理解されなければいけない

「いまここ」はカンペキに正しい、そこには「すべて」がある 「ありのまま」がある・・・

オーケー、でもだからといって「変化してはいけない」ということではない
「ゼロポイント~無為と沈黙」に私たちはタッチする・・・するとすなわち〝転換〟が起こる

でも「転換<する>」のではない・・・  それは「自然に<起こる>ことだ

         「改善され〝ねば〟ならない」 

         「昨日より〝BETTER〟であるべきだ」

         でも「そうはなっていない」

         ・・・そこに焦りや苛立ちがあるのではないだろうか? 

その「改善願望」は本当に自分自身のものだったのだろうか?

「昨日から進歩が見られない」っと見て苛立っているのは、本当に自分自身なのだろうか?

・・・そこに酸欠でアップアップしている金魚のような自分自身があるのではないだろうか?

本当の自発性、能動性だと思っていた、思い込んでいた自分の中の焦りの正体が、
           実は受動性だった?・・・本当の自分の自発性ではなかった?

だとすれば
「変わり映えがしない〝いまここ〟の現状」こそが、実はすでに能動性の発露によるもの?

ならば
    「能動的になるべき」だったのではない・・・
        わたしたちはすでに「能動的に人生を作り続けていた」ことになる
              ・・・実はその結果が「この現状」なのだ

   自分で腹を痛めて産んだ実の子供を、認知しなかった、受け取り拒否していた
                 その「我が子」こそが「この現状」なのだ

「能動的に〝なろうと〟していた」  「・・・でもなかなか〝なれない〟」
              という現状認識がすでに間違っていたことになる

           わたしたちはすでにずっと「能動的に人生を作り続けていた」のだ!
           ただその〝自覚〟が無かったが故に人生を引きずり続けていた
           わたしたちは「自覚の無さ」故に受動的だったわけだ・・・
あなたたちは「100%の自己信頼なんて到底無理だ」と言うかも知れません
でも私たちから見れば、あなたたちが完全な自己信頼を失ったことなど一瞬もないんです


バシャール「究極の、無限の自己信頼」 投稿者 maneel-katal
だいたいさ、人間って受動的に出来てるじゃん?
「この物質界があって、そこに自分が生まれてきて・・・」って 半田広宣


もともと私たちは皆「ひとり」だった・・・
「物理的に他者が存在する」かどうか
「他人と仲良く共存できるか?理解し合えるか?」は、全く無関係なことだった!

 「すでに誰もが自分の人生の〝唯一の〟クリエイター(能動者)だった」

 「ところが〝変わり映えしない〟ことは新規の創造ではないという錯覚
  受動的な恐怖に、わたしたち自らを縛り付けてしまう原因となっていた」・・・というわけだ

そのマトリックス構造を理解する(積極的に受容する)ことが、「能動的に能動する」ことなのだ

「新規の客をどう呼ぶか?ではない 〝大企業が勝つ〟〝みんなで勝つ〟時代では無い
  時代は変わったのだ!
  今来ている人達をいかに喜ばせるか?・・・  それが〝ひとり勝ち〟の時代」 


「わたし自身は結婚には反対だ・・・
 だけれど、もしするなら一種のゲームだと思ってシリアスにならないことだ・・・」

 ・・・OSHOの結婚観をざっとまとめればこんな感じだと思う

 出産、育児、その他生活が絡むが故に、「シリアスになるな」というのは難しい
 だから「(法的な制度で愛を縛るのは)基本的には反対」っという趣旨なのだろう

結婚であれ恋愛感情であれ、
本来は当人の自由意思が尊重されることが「基本的人権」だと思う

すると、結婚状態の存続というのは「私は、妻を、夫を、生涯愛し続けます」っという
〝自動更新〟なので独身側から既婚者に接するのも、既婚者側から独身者に接するのも
この「自動更新の意思」が〝機械的に〟尊重されることになる・・・

・・・この〝機械的な〟尊重が、結婚制度の根本的な、重大な欠陥だと思う
それをドギツい表現をするならば、「永久売春契約制度」と言われてもしかたがない
でも、それが現代まで公認されていたのは
「夫婦共同での子育て~家族という社会単位の存続」という
      金字塔的な大義が認知されていたからだろう

多摩川に集まる沢山の男女 一体何事かと思ったら70年前のお見合い映像だった!

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だからこそ
家庭電化製品の普及と少子化の傾向はこの「大義」が形骸化していく原因にもなってきた

電化製品が飯も炊いてくれる、洗濯もしてくれる、
外食や性風俗というアウトソーシングも充実している
相変わらず出産育児には様々なリスクやコストがかかり、結局老後の介護も金次第・・・

素朴な疑問なんだが、子供つくるメリットってある?

男女の独身生活時代から比較して見たなら、「子育て」の負担が「その他の生活」と比較するなら
どんどんその比重が大きくなってきている

・・・だからママさん達から「子育てをなぜ母親ばかりに押し付けて・・・」っと不満が出てきやすいのも
 その〝比較〟からだと思う

あるアメリカ人の主婦の書いたコラムでこんなのがあった
 「わたしも家事や育児の大変さを夫に訴えたが聞いて貰えなかった」
 「でもある日、夫の靴を磨こうとしたらまだ新しいのに靴底がゴッソリと減っているのを見て
    ハッとした・・・夫が如何に仕事で苦労して生活を支えてきてくれているのかを・・・」

わたしたち男性から見れば、「靴底を見なきゃわからんのかよ?」っと突っ込みたくなるが
最近の女性というのはそれ程までに「男のつらさ」「家族を支えるほど稼いでくることの大変さ」
がピンとこないぐらいイマジネーションが欠落しているのだ

女性でもバツイチぐらいはあり得るだろう・・・
しかし、最近私もバツニの女性と、二人ぐらい関わってみて よく判った
(これは私の個人的な主観だと断ったうえでのことだけれど)
バツが二つ以上の女性は、ハッキリ言ってオンナとしては欠陥品だ

結局のところこの2人の女性とも、男性に対する被害者意識が非常に強かった
完全に、「結婚以前」「恋愛以前」のメンヘラだった

彼女たちからすれば、「オトコが悪いのよ」 の一点張りだったのだけれど
私の観察で言うと、彼女たちは全く男性を理解出来ていない、たぶん母親から学んでいないのだ
そのくせ不思議なぐらい「男性の助力を当然のように思う」甘え癖だけはあるのが不思議だった

たぶん自分達の母親から
「オンナはオトコを利用する権利があるが男を立てる必要など無い」と学んだのだろう ・・・

・・・しかし、バツ2とまで行かなくても 名目上結婚生活にキチンと収まっているような女性でも
たぶん今はそういう女性は多いだろう・・・そういう奥さんは浮気の虫を押さえきれないはずだ

こういった女性達・・・
  まずは本人達自身がたぶん永遠にもう本当の男性との協力関係の素晴らしさを知らずに
  死んでいくのだろうし、そういう女性は良いオトコとの出会い自体がなかなか無いはずだ

つぎにそういう女性に色目を使われた男性諸君に警告しておきたい
  こういう「オトコを立てられない」女性は人口比率としては、かなり高いと思う

  ・・・いや、もはや「オトコの立て方」を知っている女性は絶滅危惧種かも知れない

   そしてそういうオンナはとんでもないサゲマンだ
   退屈して欲求不満な主婦・・・  一見、ヤリ逃げの遊び相手には良いのだが
   非常にろくでもない結果になるだろう

   そして独身の女性でも、もう、殆どが「生物学的に女に生まれた、化粧がうまいだけ」
   みたいなのばっかりと思った方が良い・・・

聡明な女が育つ環境とは、いままで戦争で男が命を張って国を守ろうとした時代にはあった
でももう、たぶんそんな時代は二度と来ないだろう

今年の出生数、初の100万人割れ…厚労省推計

つまり、「戦争で人が死なない時代」とは「少子高齢化の歯止めが利かない時代」という
自然のバランスが働いているというわけだ  恒久平和の実現が「人類種の緩慢な絶滅」に
向かうのだとしたら、それは何と言う皮肉だろうか?

労働力がIT革命による自動化、ロボットに置き換わることがどんどん進行しているこの時代
         ・・・これからどんどん結婚も、恋愛すらも成り立たなくなってくるだろう

こんな時代に残された、
「人間という種族に生まれてきた人生の価値」は「エンライトメント」だけにしかない様に思う


まあるいいのち from Katal Maneel on Vimeo.



スペシャル・サンクス!
柳野 建 Yanagino takeshi
サニヤス名 チェタン 二ループ(形なき意識、の意)
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