We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年12月


OSHO_宗教はパンが必要な人に慰めしか与えなかった 投稿者 maneel-katal

わざわざシナゴーグや寺院や教会に行くのは
やめにしなさい

なぜなら彼らはあなたを 
十分コケにしてきたからだ

こうした人びと、ラビや僧や牧師たちに尋ねるのは 
やめにしなさい

なぜなら彼らには 
自分たちが与え続けてきたのが慰めだと
わかっているからだ

何千年にもわたってだ
そして彼らの慰めはみな 無効だと証明された

あなたは
政治家や宗教家から 科学者へと
目を向け直さなくてはならない

惨めさから抜け出したいなら 
全人類が科学に焦点を向けなくてはならない

そして私の宗教を 
私は内なる魂の科学 と呼ぶ

それは宗教ではない
それはまさに 科学だ

ちょうど科学が客観世界で機能するのと同じように
この科学は主観世界で機能する


覚えておきなさい 
外側の科学は あなたの苦しみや
惨めさを減らすのにとても役立つ

ほぼ9割がたは減らせる
そしてあなたの苦や惨めさの
9割が取り除かれたなら…

 ・・・それは身体的生物学的な苦だが
 
科学はそれらをいとも簡単に取り除ける

そのとき 残る1割の惨めさが
あなたにとって はじめて明らかになるだろう


今のところ それはこの9割の惨めさの
ごたごたの中に紛れている

 そのときあなたにはわかるだろう

こうしたすべての惨めさは 
この1割の惨めさに比べたら何でもないと・・・・

    この1割の惨めさは 本物の苦悩だ

そして それが変容されるのは
内側へ向かうことによってのみ可能だ
それを 瞑想 気づき 観照 と呼ぶ

その1割の惨めさにはとてつもない重みがある

9割は何でもない
それはただの空腹だ…
食べ物は必要だし 休む場所が必要だ
仕事も必要だ 
そしてこうしたすべてのことは科学で対処できる

聖職者を完全に取り除きなさい
彼は未来には 何の役目も果たさない
彼はすでに十分 悪さをしてきた

科学に焦点を向けなさい
そうすればすぐに あなたは
自分の内側に 新しい次元が生じるのに気づく
今まで気づかなかった次元だ それはそこにあったが
空腹な人に どうして考えられるだろう

生に意味があるかどうか などと?
空腹な人は花がきれいかどうかなど かまう余裕がない
彼は腹が減っているのだ

彼に向かって 音楽や詩や絵画の話などできない
それは 彼に恥をかかせることになるだろう

それは侮辱になる あからさまな侮辱だ

しかし ひとたびこうした問題が消えたなら
そのとき彼は
初めて本当の実存的疑問への探求を始めることになる

それは 主観の科学を通してのみ答えが可能だ

だから 宗教には何の未来もない

客観的なものごとを扱う 客観科学の世界には未来があり
あなたの内側のことを扱う 主観科学には未来がある

一方は
身体や生物学的なことの面倒をみて
  
もう一方は
心理的なことやあなたの究極の中心
魂の 面倒をみる

昨日書いた記事の続きになると思う

愛の最大の敵とは冷淡さだとおもう・・・そしてそれは偏愛から生じる

誰も彼もが比較しがたいほどすでに〝個(ユニーク)〟だ
例え本人がアリンコのような集団帰属意識に留まっていて個にまだ目覚めていなくても、だ

・・・ただ、「この人はいまのところはそういう意識だ」ということに過ぎず、
   その現状だけを見て軽んじて(馬鹿にして)はいけないと思う・・・
    まだ泥の中の蓮・・・  それでも全ての蓮は根のネットワークで繋がっている

そしてそういうことなのだとしたら、全ての人を比較不能な個と見た場合、
誰かと誰かを大事にし、尊重し、そしてその他の人達を冷淡に切り離すというのは
どう見ても愛ではない・・・

  だから偏愛こそが愛の最大の敵だ
  「それ」への偏愛が、「それ以外のその他諸々」への冷淡さを生じさせる

だからこういった偏愛を退けた本当の愛とは究極的には〝球〟になる
いや、時空間上にある全てとの関係性が自分自身をセンターとした〝球〟になる

どんなに美しく片寄りがない球であれ、
もし重力がある平面と接するならば、球はその平面とは一点のみに自重を支えることになる
それが「いまここに一点」であり、その一点には「全宇宙の自重」が存在している

それがメンタル体、アストラル体、エーテル体・・・と下ってゆき、
そして最終的には「いまここ」の私たちの肉体であり、物質界だ

わたしたちひとりひとり、一瞬一瞬に、全宇宙の100%の「重み」がのしかかっている

いまここの目の前の状況に誠意を持って精一杯対応することが、
すなわち「すべて」に対応することになる


これが斉藤ひとりが言う「100%の自己責任」なのではないだろうか?


「観点から観球へ」バシャール・バージョン 投稿者 maneel-katal

・・・それは第三者から見れば「博愛主義者ですね?」ということかもしれないが、
  「~イズム(主義)」でやることなのではなく、ただただ素朴にそうしているということで
  むしろ「~イズム」とは正反対だ・・・このことはまたあとで分けて書きたい


上記の記事を見かけた時、「うんうんそうだよね!分かっているよOSHO」と思いつつ
今日は「やっぱ分かってなかった、オレ!」と愕然とすることがあった・・・

〝愛〟という言葉を聞くと多くの人がピンク色の大きなハートマークを連想する
特に、親が子の幸福を想う気持ちというのは、さぞかし強いだろう・・・

親子愛に限らず、誰かの幸福を強く願う・・・、自分自身の幸福以上に強く願う事・・・
他人に支点を置いた時の、「忘我の感覚」とは実に心地よい・・・

だからこの「心地よさ」を賞して、その酩酊感覚をドピンクのハートマークと共に〝愛〟と言う

  だから多くの人は、「自分は愛を知っている」と信じ込んでいる

そんな人達に「人のことは放っておけ」と言おうものならきっと非難されることだろう

・・・特に「子を持つ親バカ」はそうだろう
  子供の幸福を強く願っていればいるほど、その親は当然「放って」はおけないだろうから

しかし、子供を不幸にする〝毒親〟とは〝育児放棄〟〝放任教育〟ばかりではない
昔から「親は無くても子は育つ」というのはこのことだ


・・・むしろより確実に子供を抑圧するのは「暴力」以上に「強すぎる親からの幸福を願う思い」だ
  「思い」「想い」・・・それは強ければ強いほど「重い」になってゆく

  いや、もっと思いっきり言ってしまおう、
   「特定の誰かの幸福を強く願望すること」とは、
  一見、「強い愛」の様に見えるが実際には暴力だ!

「過ぎたるは及ばざるが如き」  ・・・・放任も溺愛も同じコインの裏表だ
ある者に対しては冷淡で無責任に切り離し、そしてまた別の者に対しては干渉して握りつぶす

こんなこと、一時期の教育議論でさんざん言われてきたことだが、
親子間だけでなく男女間、友人間・・・、
すべての関係性に同じような問題点が発生しえる・・・  それを見落としていた!

 まさか自分自身がこんなミスを侵していて、ずっと気がつかなかったとは、恥ずかしい次第だ

  「自分は愛を知っている」 「わたしはあなたの幸福を願う光の波動を持っている!」

              ・・・〝愛〟に限らず、〝自由〟であれ、〝平和〟であれ
                「知っている」という確信、実感は心の壁だ、心の牢獄だ

・・・それはその確信、実感を抱く本人も、その確信、実感をぶつけられている対象の人々も
              その当事者の誰をも不幸にする、誰もが皆、不幸になる


「・・・さとりも開ける」

う~ん、〝開いた〟のかなあ? オレ?(笑)

でも、ひとりさんがそういうぐらい、確かに素晴らしい、とてつもない体験です
だって「全宇宙が自分の責任」というのは
反転すれば「全宇宙に対して自分に権限があるから」です
すべての「他人の権限」すら「自分の権限」が カバーしていることになります

はたして「権限」を認めずに「責任」を引き受けることが可能でしょうか?
「責任の認識」と「権限の自覚」とはセットですから・・・

 ・・・ではそのアト、是非疑ってみて下さい「100%の自己責任って本当かな?」って(爆)

もし、「いま、この瞬間の私のために、この宇宙がお膳立てしてくれている」のだとしたら
これは正しいと言うことになるわけです

この宇宙に存在する無数の存在が、すべて「いまここの私のため」に振る舞っているのなら
それぞれの存在が持つ権限は、すべて私の権限で行使されているわけです

でもわたし自身も、誰もがそんな覚えはない
この「覚えがない」「自覚がない」というのは鍵だと思う・・・

・・・もし、私だけが「宇宙の中心」であり、誰もがその周辺に過ぎないのなら
これは極めて疑わしい仮説です

でももし、誰もが「自分らしく自然に振る舞う」ことが「私の幸福」であったとき
全ての人は自分らしく振る舞っているだけで「私の幸福」に貢献してくれていることになります 

ならばわたし自身も「自分らしく振る舞う」だけで全宇宙に貢献していることになります

・・・そもそも「自分らしく自然に振る舞う」とは何か?

  それは、この宇宙の中心者として生きると言うことと同義ではないでしょうか??
  「覚えがない」「自覚がない」からこそ「中心」なのではないでしょうか?
  もし、世界中が「Aさんという宇宙の王様」を自分の外側に見て、
  「Aさんのために」作為的に動いていたら?、

・・・・それが「おのおのが自分らしく自然に振る舞う」ことになるか? たぶん「ノー」でしょう

・・・そしてその逆に、Aさんからみて
「Aさんが中心」であることが「他人(Aさん以外のすべて)を周辺に追いやる」ことであれば
〝宇宙の中心をAさんが独占する〟という現象が起きますが
みんながそれぞれ自分の中心として生きることが、もし「わたし自身の幸福でもある」ならば
この問題は解決します、矛盾は解消します そこには完全な平和がもうすでにあります

「責任や権限に伴って発生する、この宇宙での私たちの義務 」とは何か?
それはつまり、「めいめいが宇宙の中心者として、自分らしく振る舞う事だ」・・・となるわけです

バガヴァン:あなた方は実際には応答する宇宙に生きているのです。

人々は人間性を
「改善しよう」「改善しよう」「改善しよう」と
何千年間も努力してきたが、何一つ改善されなかった

ひとつ私にチャンスをくれないか?
その「改善しよう」と前のめりにつんのめるのを 一旦やめてみるのだ・・・

そのとき、 「いまここを生きる」エネルギーを 人々は取り戻すだろう
愛するエネルギー
踊るエネルギー
笑うエネルギーを・・・

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