We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年11月

Prem Sheel -
OSHO:あらゆる人々が、 ひとつのことを探し求めて生涯を費やす・・・
「どうすれば苦しみから抜け出せるか?、...」と

あなたは、
どうすれば苦しみを追い出せるかと、永遠に問い続けている。

あなたの質問からすると、
あたかも苦しみがあなたを捕まえており、
あなたは、それから解放されたがっているように見える。

この所、やけに私の古い記事が人気の様だ
まあ確かに書いた当初は自分自身が面白いテーマだと思って書いたのだけれど
なんでまた今さら読んでもらっているのか?自分自身読み返してみた

・・・するとあらためて、
自分自身の世代(60年代生まれ)と、自分より一回り上の世代との間の大きなギャップを
意識せざるを得なかった

わたしはいわゆるインディゴチルドレン第一世代だ
特に私と同学年の1962年の寅年生まれの人達はマイペース、マイウェイの一匹狼ばかりだ

私個人は社会とそこそこ折り合いを付け、平衡を保とうとする気持ちは強いが、それでも
「協調性の無さ」は突出している(笑)・・・
・・・最近は電通の過労死問題なども話題だけれど、社会との折り合いはあくまでも二次的で
大事なのは自分自身の内面的なこだわりだ・・・  だから私の学年には特に自由業者が多い

私より上、お兄さん達とはいわゆる学生運動の「団塊の世代」で、かなり社会派が多い
かれらは「社会改革」に興味を持ち続けている世代で、っということはヒキコモリになったり
という要素は希薄だ・・・そのかわり自給自足の無農薬有機農業コミューンとかに
チャレンジして新しいライフスタイルの試行錯誤に熱心な世代だ

・・・わたし自身若い時は
そういう試みに参加しようと何度かしたが、どうも共同体というのに馴染めない

わたしたちよりちょっとお兄さんなだけの世代でも、わたしたちの「マイペース世代」には
どうも苛立ち、じれったさを感じる様である・・・  彼らから見れば私たちはすでに
「ヒキコモリ」世代で、「なんで君達はもっと自分のライフスタイルを社会に拡げないの?」
っと焚きつけてくる・・・  きっと私たちはすでに「無気力な世代」に見えるのだろう

・・・でもそうではない
それは誤解で、私たちの世代は「社会改革」というのは単なる苦行でしかないからだ

「自分にピンとこないことはしない」いや「出来ない」世代なのだ
だからそれがマイペースと言うことであり、「共同体形成」といったノリがない世代なのだ

団塊の世代の「お兄さん達」はきっとそれが自分達の自然な生き方なのだろうし
私たちの世代もそうだ

・・・私たちの後に続く世代はもっとそうだ

それは団塊の世代からみれば
「若い世代程、エゴイスティックで自閉症的」という評価になるだろう

しかしゲバ棒や火炎瓶の世代は、もう二度と来ない気がする
 ・・・そんなことが反逆とは到底思えない

いや、あらゆる政治改革、あらゆるコミュニズム運動も叉、〝本質的な〟反逆とは思えない


〝本質的な〟反逆とは、どっかに出かけて何かをすることではない
専門的な知識で覆われた世界で「自分の意見を言う」ことでも、その不完全な知識を元に
「投票に行く」ことでもない、どんな神を拝むかも見当違いだ

「どうするか?」から「どうあるか?」という問いかけへの垂直の転換なのだ
そこでは「私とは何?」という主語そのものが唯一無二の重点課題

私は、あなたの富を放棄しなさいとは言わない・・・
誰も何も、まったく何も、持ってはいないからだ。
この世では、最大の金持ちでさえ貧民だ。

何を得るか?社会の何を改革できるか?は大した意味は無い
それでも誰もが貧しいままだろうから

ブッダの言葉


神語 - Wikipedia

さきみたまを「幸魂→咲き」
くしみたま「奇魂→串」とも読み替えることが可能だそうだ

そうするとこれはヌース的な世界観と繋がってくる

串、つまりお団子の様な球を何重にも刺し貫くもの
そして
咲き、とは花の様な開花を顕し、無限遠点からの「串」が垂直平面上に展開する様子である


わたしはこの画像に芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を感じる

仏が慈悲を感じたものとは「潜在的な仏」である

たとえどれほどの悪党でありどれ程の罪を重ねていようが
一匹の蜘蛛の命に哀れみを感じたものには仏心がある 

そこに天から垂直に垂れた一本の「蜘蛛の糸」こそ「くしみたま」だとおもう
もし※(「特のへん+廴+聿」、第3水準1-87-71)陀多かんだた
自分について昇ってきた(過去の自分である)地獄の住民達を振り払おうとしなければ
彼は、いや、彼らはみなで垂直軸の天国に到達しただろう
そのとき、アセンションが起きたのだ!
カンタダはアングリーマーラと同じく、一気にエンライトメントできただろう

 「こんな細い糸、俺ひとりで独占しなければ切れてしまう・・・」

そんな〝数学〟〝物理学〟に基づいた不安、恐怖が、
カンタダを「過去の自分」「量刑の世界」「作用と反作用」に引き戻してしまったのだ

もし〝数学〟〝物理学〟よりも仏法が上位のプライオリティーでなければ、
その一本の蜘蛛の糸でさえ、垂れてくることはなかったのだ

  「縁なき衆生は度し難し・・・」

そこでカンタダと仏の慈悲との〝縁(えにし)の糸〟は切れてしまう

でもけっして釈迦がカンタダを「見放した」のではない
カンタダ自らが「重力に張り付いた世界」に戻ってしまっただけのことだ
釈迦は「もうひとりの自分」であるカンタダがまたいつか仏心を取り戻す瞬間をいまも待つ

永遠に、無限に・・・ なぜならその無限の忍耐は、無限、無極性を背景にしているからだ


その時ブッダは振り返って世界を見渡した 投稿者 maneel-katal

ディヤン ムディト - なぜ女性は、魅力的でありたいのか?

人々はいろいろな方法で、力を探し求めている。
あなた方は、女性が力を持つ為の、他のどんな源泉も残さなかった・・・
ただひとつのはけ口、彼女らの肉体以外には。 
それ故に彼女達は、もっともっと魅力的であることに、絶えず関心があるのだ。

あなたは、現代の女性は魅力的であることに、
それほどこだわっていないのを見たことがないだろうか?

なぜかね?
 それは彼女が、別の種類の政治力学の中に入っているからだ

「〝ちから〟の欲求」の背後には常にコンプレックス~劣等感や無力感、孤独感がある

何故人は承認欲求を持つのか?
「他者からの理解や承認、同情」は〝ちから〟をもたらしてくれるからだ

何かの餓え、何かの渇き、何かの欠乏感、欠落感、危機感、・・・・
「これではいけない」「あれではいけない・・・」という拒絶感、未熟感、・・・
        ・・・それを充たすのには〝ちから〟が是非とも必要なのだ

女性が女性的な魅力に執着するのも、逆に頓着しなくなるのも、結局のところ同じ理由だ

親が子供に干渉しすぎるのも、冷淡になるのも同じ理由だ

〝ちからへの渇望〟とは「引き寄せる」にせよ「排斥しようとする」にせよ、
つまるところ「状況をコントロールしたい」という欲求だと言い換えられる

たとえそれが相手にとって良かれと思うような動機であっても同じだ

例えそれが一見、相手への善意にみえても同じだ

〝ちから〟の欲求に、「相手の自発性の尊重」は見当たらない
人にとって最も大切なのは、誰かからの善意でも、理解や助力でもない
人に最も必要なのは、その人の自発性、内発性が尊重されることだ
善意も、理解や助力も、その次の問題に過ぎない

女は魅力的であろうとする・・・
男はマッチョであろうとする・・・
子供は買って欲しいモノの前でひっくり返って泣き叫ぶ  これらすべてがパワーゲームだ

  ・・・「他者の自発性の尊重」という最も大切なファクターが欠けている
出家釈迦が身を持って示した教え「悩み苦しみの9割は血」
小林正観メッセージ337|豊かな人になる


要は家族、親子を特別視せず、 他人でも同じ。
常に目の前の人を 大切にする。

昨夜はある信仰を薦められた

薦めてきた人はインディージョーンズの様な大冒険をいままでずっとしてきて
遂には最高の信仰を発見し、最高神と縁したという人だった

・・・その最高神への信仰を、私にも勧めてくれた  ・・・というわけだ

しかしどう考えても、この「無極神」とOHOのアナッタ(無自我)との違いが判らない

私が今回生まれてきた動機は、「今度こそすべてを終わらせること」である
すべての終焉、すべてからの究極の自由とは、「自分自身からの自由」である


すべての分離はあなたの錯覚~ナイト・アンド・デイ 投稿者 maneel-katal

そしてこの〝自分自身〟とはなにか?と言えば 「過去の集積」だ
それは物理的な記憶のことなのではなく、それを解釈したり意味づけしている観念のことだ


「火の鳥+OSHO講話朗読」~全ての過去が焼け落... 投稿者 maneel-katal

具体的にはあらゆる、「~べき、~ねば、~の為」こそが〝私〟の正体

だから、なぜ「無極神」を拝まなければいけないのだろうか?

自覚があろうが無かろうが、「無極神」とは私たち自身のこと
「私たち」という代名詞の着ぐるみを着た「わたし」のことだ

彼の信仰を否定しているのでも馬鹿にしているのでも拒絶しているのでもない
だって「自分自身を崇拝する」というのは素晴らしい宗教ではないか?

花を見る時、あなたはなぜ〝花を見る自分〟があると思うのですか? J・クリシュナムルティー

あなたが無極神に祈る時、世界も自分自身も、すべてが無極神で、それ以外は存在しない
「祈る者」が一心に祈っている時「祈りの対象」と「それに祈りを捧げる者」とは一心同体だ

ただ、「自分自身を崇拝する」ために〝宗教〟という形式はいささか大仰じゃないか?
                              っというだけだ

何の願望も、「こうあるべき」期待も、目的も、理想もない時、
一体世界に無極神以外の何が存在するというのだろう?
ただあるべきものがあるようにあるだけでは無いか? 


これは
教えではない
ドグマでも教義でもない

だから
私は何でも言える
私は
何でも言えるという点に関しては
これまで存在した中で
一番自由な人間だ
私は一晩に百回
矛盾したことが言える
演説ではないので 首尾一貫していなくていいからだ

それは全く異なるものだ
そして 途方もなく変わった実験が続いていることを
世間が認識するには 時間がかかるだろう

ほんの一瞬
私が黙ると
あなたは(世界は)沈黙する

OSHOのこの
   イタズラ心に満ちた挑戦、
     彼の仕掛けた爆弾は、  まさしく、今という時代に炸裂している


この短い動画によって改めて・・・
わたし自身がなぜ若い時、高橋信次もミゲル・ネリのノーシスも
捨て去り、OSHOに惹かれていったのか?  ・・・自覚できた

その後一旦OSHOから離れて五井野正を20年間フォローしつつも
最終的にはなぜ彼の傲慢を見抜けたのか?   ・・・理解出来た気がする

「正しさ」「リアリティー」の探求 (というか渇望) 自体が私を苦しめていたからだ
高橋信次の八正道にせよ
文字通り私はその「正しさ」で八方ふさがりに自分自身を追い込んでいたのだ

はじめに「正しさ」が分かっているのならば「八正道」なんぞはじめから必要ないじゃないか?

私は何が正しいのか知っている」というでかい岩石の様な自分の思い込みこそが
「いまここのわたし」を分からなくさせていた真犯人だった

何かをコピーしている時、誰かをフォローしている時のみは
パソコン操作におけるコピペの様なデジタル精度で「正しさ」は主張できる
しかし、「デジタルコピーの様な正確さ」はパソコンの世界にのみ価値がある

物質の究極の姿を求めた量子力学のレベルに至って、
はじめてわたしたちは意識レベルでの探求に接触しはじめる
         ・・・そして不確定性原理とは唐変木な首尾一貫性ではなかった

OSHOの言葉は、「次の瞬間何が飛び出すのか?」
わたしたちは固唾を呑んで待つ     ・・・岡本太郎の様に目をかっと見開いて

                  ・・・その時、世界は醒めた沈黙に包まれる 

なんの弛んだ予定調和も、脚本も、着地点も予測できない時、そんな瞬間を体験できる 

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