We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年10月

「OSHO、自らのエンライトメントを語る」
翻訳:角屋 昌紀(Swami Prem Alol)
字幕編集:風間夕夜 (マニール・カタル)

Vimeo

OSHO、自身のエンライトメントを語る from Katal Maneel on Vimeo.


この動画の字幕はこちら

修正ログ
2016/11/07
301
00:30:07,307 --> 00:30:11,444
There was no time, there was no passage of time; 

そこに時間はなく、時間の通り道もなかった。

302
00:30:12,712 --> 00:30:15,949
it was the virgin reality -- 

それは初体験のリアリティーだった
 
322
00:32:20,607 --> 00:32:28,248
so beautiful, so precious, 
and yet can slip any moment. 

その美、その貴さ、
そしてそれはいかなる瞬間にも滑り落ちてしまい得る。

323
00:32:30,984 --> 00:32:35,88
So incomparable in its grace, 

それは、その優美さにおいては比較にならない。

324
00:32:35,88 --> 00:32:38,591
but a small breeze can come 

しかしわずかなそよ風によって、

325
00:32:38,591 --> 00:32:43,263
and the dewdrop can slip and be lost forever.

朝露は滑り落ちて、それは永遠に失われてしまう。

高樹沙耶容疑者逮捕、彼女が訴えていた医療用大麻ってどういうもの?


目下、彼女に関して興味有るのは、「彼女は喫煙者だったか?」である

30代以後の自分の人生を振り返ってみると、
それは「タバコの破滅的な害」との闘いという伏線が浮かび上がってきた

わたし自身が「タバコ」も二回程かなり長期間吸っていた
いわゆる今で言う「危険ドラッグ」も丁度同じく二回ぐらい酷く嵌まっていた時期がある

・・・これで人生が潰れても全く不思議はなかったのだけれど、何故か生還できた

  その中で過去には大麻との接点もあった
  体験者ならご存知の様に、マリファナの依存性は殆どないので
  自己規律性が強そうな高樹さんが、公の場で大麻解禁を訴えながら
  自分自身がダラダラ吸引していたとはちょっと信じがたい

  「当局にカマされたのではないか?」と私は強く疑っている

いわゆる彼女の様な「大麻解禁論者達」とは当然接点はあったが、
わたし自身は「解禁論者」ではありながらも、彼らと共闘する気は全く起きなかった
いや、むしろ腹立たしく感じていた

なぜなら彼らの大半が「喫煙者」だったからだ
自らの依存症を払拭出来ない輩
「大麻を解放せよ!」とプラカードを掲げるのは
実に恥ずかしいことではないだろうか? ・・・・ラチもないことだ


アメリカは皆さんご存知の様にもう、何十年も前から「喫煙者に厳しい社会」へと変貌した

   ・・・裁判でも負けたタバコメーカーは・・・
・・・その売り先をアジア、特に我が国と中国をターゲットとし始めた
その利権に最も浴していたのが自民公明だろうと思われる 

その彼らにしても2020の東京オリンピックを前に
「煙草を千円にしない?」と言い出した

アメリカがなぜ近年、マリファナ開放に向かって動き出したのか? 
それは (煙草販売禁止とまでは行かなくても) 喫煙者をビルの谷間の喫煙所に
押し込めることに成功したからだと思う

大麻合法化を支持するアメリカ国民 史上最高水準に達する

「大麻を解禁しろ」 と叫ぶなら、まず煙草への依存を断ち切ってから主張するべきだ
自分のニコ中さえ治せない、いや、治す気が無い人達が大麻への世間の誤解を解くことなど
笑止千万だからだ

煙草は、身体依存性も精神依存性も凄まじい強力な麻薬だ
それはアルコールも同じだが、要は「即死したりしない」ことがこれら合法ドラッグの特徴だ

「禁酒法」がアメリカの暗黒時代を作ったという歴史的教訓があるので、
たぶん煙草は嗜好品としては残り続けるだろうが、飲酒運転がもはや逮捕である様に
副流煙もだんだん社会から厳しく締め出されるだろう

大麻がなぜいまだに解禁されないか?・・・「先客」がいるからだ

「精神的依存性」の強力さと言うことを考えると、
それはある意味では副流煙といった、物理的な害悪以上かも知れないと、今朝思った

わたしも喫煙者であったころ、周囲も喫煙者との付き合いだった
私のその時期の人生を彩るムードとは凄まじく「破滅的」「終末論的」であったことを思い出した

・・・この記事でもっとも強調したいのは何かと言えば、

 「喫煙者との人間関係はたんなる副流煙以上に危険だ」 と言うことだ

日常生活で見ても 喫煙者はいつも酷い咳をしていて、
年がら年中喉の渇きを訴えている

今まであった喫煙者でこう言う症状があった人はほぼ100% ・・・・

これが常に「苛立ちの原因」となって、
怒鳴り癖、キレ癖、うつ病やADHDへの固定化を招いている

タバコを吸う50代の69%、60歳以上の97%が「慢性閉塞性肺疾患(COPD)」の疑い

「タバコを忘れたから」4時間に渡るDVを元恋人から受けた女性がSNSで告白

uploaded


「たばこやめてもらえますか」 お願いされた男、キレて母親と乳児を殴る→逮捕

【社会】 タバコの煙を手で払った"嫌煙派"大学生、22歳喫煙男に殴られ鼻骨折…さいたま★14

・・・「キレやすくなる喫煙者」 ・・・当然だろう
ヴィパサナ(呼吸を見つめる事)が
あらゆる瞑想の中でももっとも基礎的なメソッドなのだから 
常に呼吸困難を起こし、脳内を年中酸欠状態にしている喫煙とは、
まさしく「逆ヴィパサナ」状態である

わたしはOSHOの言葉の多くに敬意を払っているが、
一つどうしても反論したいのがOSHOの喫煙に対する寛容さだ

もし、瞑想を薦めるのなら、唯一、「喫煙だけはやめろ」というべきだ

煙草とは、もうアメリカインディアンの友好のしるしから遠く離れた
アンモニアなどの様な4000種類の化学物質、200種類の有毒物質
ポロニウムの様な放射性物質のカタマリなのだ

幾らあらゆることにおおらかなOSHOだって、
「自殺道具と同義の化学兵器」と分かって煙草に寛容でいられただろうか?

たとえOSHOは寛容であれ、もっとも「寛容ではない」のが喫煙者だ
あなたも当てはまる?「○○依存症」のまとめ

たしかに煙草という存在そのものが悪だとはわたしは思わない
存在事物は全てニュートラルで、
人間が勝手に自分の依存心、破滅願望を煙草でブーストさせているだけだ

ただし、煙草は副流煙という「物理的に素早く広範囲な拡散力」があると同時に
「破滅願望的な心理的感染力」というもまたあるにちがいない確信を今朝得たのだ

それは口にしなければ身体に侵入しないアルコールとの大きな違いだ 

完全には消えないまでも・・・
これから酒も煙草も、ドラッグも、テレビの様なマスメディアの衰退と共に
シェアは萎んでいくだろう ・・・これらすべては人々の依存心に依存していたからだ 

・・・大麻が再び人々の日常に帰ってくるのは「そんなある日のこと」だと思う 

子連れ狼 第一部 第17話「雲龍風虎」で、
刀のない拝は敵に向かって、息子、大五朗を投げるシーンがある



「武士の魂」と言うべき刀も、拝は平気で投げ道具として使う
  ・・・冥府魔道に生きる拝にとっては刀も棒っきれに過ぎないという

卑劣な連中にとって、人質を取るのは常套手段だ
そしてその最も大規模なものが「日米安保」なのかもしれない

「個別的自衛権」とはいわば政府が国民と国土を守るということ
            ・・・つまり国民が人質になったようなものだ

「集団的自衛権」とはこの「守りあう約束」を国家間にまで拡げたものだ

 最終的には政府は「国民を投げつけても」政府そのものを守ろうとするだろう
 具体的には「権力者達」だ

「一般国民」は守るべきプライオリティーとしては低い・・・
それどころか最悪、大五朗の様に「敵に向かって投げつけられる」のがオチだ
それよりも「領土」であったり「政治の中枢」であったり「防衛システム」そのものが
最大のプライオリティーで死守されるだろう

個人は例え雇用されていても会社の〝奴隷〟ではない・・・
個人と法人との対等の契約に基づいて雇用も労働条件も決まる

では、「個人と国家」とではどうだろうか?

・・・上記の例で分かる様に、民主主義は単なるタテマエとして瓦解する
「国家が国家自体を軍事的に防衛する」というとき、すなわち個人は国家と対等ではない
「非常時にはお国のために個人は犠牲になりなさい」という暗黙の了承があるのだ

70年前に「敗戦」を受け入れた我が国は、単に「敗北した」というだけではなく
自発的に「不戦」を受け入れたのだ・・・

 単なる「敗戦」と「恒久的な不戦+天皇陛下の人間宣言(死守の中心ではない)」とは
  実に大きな致命的な違いがある

   もはや国家が個人を大五朗の様に敵に投げつけないという宣言だ

その安心感こそが戦後の日本の復興の原動力となった

しかし、「自衛隊」「日米安保」というグレーゾーンが残った
九条が「アメリカの押し付け」かどうかはともかく
現在の日本が、敗戦というキッカケ(≒外圧)によって誕生したことが揺るぎない事実だからだ

つまり純粋な日本という国の自発性として生まれた平和憲法でもないことは明白なのだ
つまり、「屈服」からうまれた「平和への祈り」 「敗北」から生まれた「民主主義」だった

・・・で、ある以上は安倍政権が生まれてくることは歴史の必然だった

 真に自発性からの発露ではない結論というものは、
  あとあとからグズグズとした議論が蒸し返されるものだ

戦前と全てが塗り替わった様でいて、そうではなかった

敗戦のトラウマ、強迫観念は、「明るい戦後の日本」の底流にずっと残り続け
そしてその矛盾の腐臭はもう抑えきれない程大きくなってしまったのだ

国家が国民を大五朗の様に投げ飛ばさない・・・っと宣言したにせよ
武器を持って迫ってくるものに「どう対処するべきか?」「なんの備えもしないのか?」

  その「漠然とした不安」ゆえに、自衛隊や日米安保というグレーゾーンを
  結局わたしたち日本国民は〝黙認〟してきたのではないだろうか?

「自分で自発的に決めた」のではないことは、致命的な欠陥がある・・・それは「覚悟」だ

大五朗を投げて血路を開くか?親子共々黙って殺されるか?・・・決めなければいけない
そのギリギリの決断をわたしたち日本人はまだ下していない



わたしたちは「何となく」守ってもらい「何となく」平和を謳歌してきた

・・・たとえ国家が国民を「投げつける」ことはないとしても、そのかわりに
  我々ひとりひとりがそういうギリギリの判断をせざるを得ないかもしれない
   という覚悟が必要に迫られているのだと思う

「不戦」の誓いを取り下げること、
例え専守防衛であるにしても、「武力に頼る」「事を構える」ということ
それはイコール
「最悪は大五朗を見殺しにしても、大五朗を敵に投げつけてでも血路を開く」覚悟だと思う

極端だろうか?
しかし「いくさというもの」は、覚悟無くして始まらないし、覚悟無くして終わらない

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DEVILMAN_03_140
 

以前書いた記事だけれど
ブッダが茶を飲む
悟っていない者が茶を飲む
・・・何が違うか?

それは茶碗を持つ手に強迫観念があるか?ないか?の違いだ 
強迫観念は必ず極端を生む

社会に抑圧されたものは常に自分の中にある「社会」や「親からの条件付け」を
振り払おうとして、成人した後までひとりで何年間でも何十年間でも、もがき続ける

たとえばOSHOがいうところの「眠り(悪夢)」とはそういうものだろう

そのひとは社会の影響を脱するために「ひとり」に・・・、
本当の、素の自分自身になろうと必死で努力する
でもその努力がすでに強迫観念なのだ

成人しているその人の周りには、すでにその人が子供の時にその人を蹂躙した
ものは、とっくにすべて入れ替わっている、本人の細胞も7年で入れ替わっている

ところがその努力、もがきの継続、「過去への復讐」そのものが
強迫観念へと心理的に定着化しているのだ

その復讐劇が終わることはない・・・
たぶんそれは
短期的には失敗だったり挫折だったり
あるいは部分的にはスカッとした勝利だったり、劣等感の払拭だったりするだろうが、
そのどんな結果をどれだけ経験するにもかかわらず・・・ 場違いな復讐であること・・・
それがただの強迫観念であると気が付くまでは、この復讐劇は終わらないのだ

それら、作用と反作用の両方が静まった時、加害者も被害者も居なくなり
振り子に何の作意も働かないとき・・・、自由な中で重心が静まった時、すべては終わる



「無条件の愛」というものを人が人に与えられるとは思わない
本当に誰かに対して「無条件さ」を発揮したなら
それは身ぐるみを剥がされ、命をも投げ出すことだ

・・・このブログで何度か書いてきたけれど
  「無条件の愛」とは、自分自身にのみ可能なことだと思う

  自分自身を一切の条件付け無しに受け止められた時
  人は誰に対しても「無償の愛」を発揮出来る

質問
ガールフレンドと私は、いろいろな時期に、お互いに愛し合って来たように思います。
私達は、それぞれに充分には出会っていません。
お互いに明け渡したいと思うことは、間違っているのでしょうか?

osho
最初に・・・あなた方は、お互いに明け渡すことは出来ない。
あなた方は、愛に明け渡すことは出来る。
しかし、お互いに明け渡すことは出来ない。
もしあなたがお互いに明け渡したいと思うなら、困難に向かうことになる。
これは、恋人達が犯す最大の過ちのひとつだ。
そして、ほとんど全ての恋人達がこれを犯す。
彼らは、明け渡しはお互いになされなければならないと思っている。
そうすると、明け渡しの名の元で、微妙な支配が始まる。
明け渡しはお互いにではなく、愛の神になされなければならない。
さもなければ困難が、多くの困難があるだろう。
どうやってあなたは、あなた自身を彼女に明け渡し、
そしてどうやって彼女は、彼女自身をあなたに明け渡すのかね?
彼女はあなたの中に、千とひとつの欠点を見い出し、
あなたは彼女の中に、千とひとつの欠点を見い出す。
人は何か完璧なものにのみ、明け渡すことが出来る。
明け渡すということはとても難しいことであり、
あなたが愛の中にいる時には、なおさら難しくなる。
何故なら愛の中にいる時、あなたは他の人と
あなたを、対等のものとして受け入れているからだ。
あなたはマスターに明け渡すことは出来る・・・
あなたは仏陀やキリストのところへ行って、明け渡すことは出来る・・・
何故ならまさに最初から、あなたはそれらの人を高いものとして受け入れてしまうからだ。
明け渡しは、より易しい・・・すでに明け渡しへの道は出来ている。
しかし、あなたが女性と恋に落ちる時、そしてある女性が
あなたと恋に落ちる時、あなた方は、お互いを対等に受け入れる。
愛の中でこそ、対等であることは受け入れられる。
さて、自分と対等の人に明け渡すことは、とても難しい。
だから、困難や不必要な衝突があるのだ。
もし明け渡そうとしても出来ない時、あなたはそのことに罪悪感を感じてしまう。
この明け渡しという考えの為に、あなたは、あなたの恋愛全体を駄目にしてしまう。
その時、実に微妙なゲームが始まる。
明け渡しの名の元で、あなたは支配を始める。
彼女の方も支配を始める。
そして女性というのは、明け渡しを通して支配するということにおいては、素晴らしく賢明だ。
彼女らはあなたの足に触れ、その手をあなたの首に回してしまう。
これには理由がある。
何故なら女性はより優しく、より繊細なので、
彼女の支配の仕方というのもデリケートなものとなる。
男性が支配しようとする時、彼はただ攻撃的に、暴力的になり、大声を出したりする。
女性が支配しようとする時、彼女は叫んだり泣いたりする。
しかし、彼女は支配しようとしていない、などとは考えないことだ・・・
その涙は支配する為のものだ。
そしてもちろん、彼女はより上手いやり方で成功する。
何故なら、男性はそれと戦うことは出来ないからだ。
もしその女性が彼を打つのなら、彼は戦うことが出来る・・・
彼はもっと強く打つことが出来る。
彼はより筋肉質で、より大きな体を持っているのだから。
だから女性は、非暴力の方法を通り抜けなければならない。
非暴力の方法・・・女性の最も古くからのやり方は、ほとんどこれだ。
彼女はあなたを支配したい。
しかも、あなたが回避出来るようなやり方を通してではなく・・・。
あなたは、彼女のやることを回避することさえ出来ないのだ。
さて、もし彼女が泣いている時に、あなたが本当に彼女を
打ち負かしたいなら、あなたはもっと大きな声で泣かなければならない。
それはあなたには出来ない。
難しい。
だから、あなたは明け渡さなければならない。
ところが女性は、泣くことを通して支配しようとしているようには見えない・・・
それがその美しさだ・・・しかし、それは微妙な支配なのだ。
初めに、最も基本的なことがある。
それは、お互いに明け渡すという点から考えるのではなく、
2人が共に、愛に明け渡すということだ。
その時、あなたは彼女に何も言うことは出来ないし、彼女もあなたに何も言えない。
そうすれば、あなたが誰かの影になる必要もなくなる。
あなたは、あなた自身のままだ。
彼女は、彼女自身のままだ。
実際、愛の神に明け渡すことによって、あなたは
本当にあなた自身になり、彼女も本当に彼女自身になる。
あなたが本当に独立していて、彼女に支配されることを
心配していない時、またあなたが、彼女に明け渡しているのではなく、
愛の神に明け渡している時、その時あなたは、あなた自身を全面的に開くことが出来る。
何故なら、その時には彼女の存在が、あなたと共に在るかないかという問題はないからだ。
この考えを強調させて欲しい。
あなたが愛の神に明け渡す時、その時は、
彼女があなたと共にいるか、あなたの元を離れるか、あるいはあなたが
彼女の元を離れるか、彼女と共にいるかは、それほど大切なことではなくなる。
たったひとつ重要なのは・・・愛は留まる・・・ということだ。
あなたの明け渡しは神に対してであり、彼女に対してではない。
そして彼女の明け渡しは、愛に対してであり、あなたに対してではない。
だから唯一の問題は、愛を裏切らないということだ。
恋人を代えることは出来る。
しかし、愛は留まる。
一度、あなたがそれを理解したら、何の恐怖もなくなる。
私はあなたに、代えなければならないと言っているのではない・・・その必要はない。
しかし、これは絶対に理解されなければならない。
恋人は代えることが出来る。
しかもなお、愛は裏切られないということだ。
あなたは依然として愛している・・・
他の何か、何か他の表現、何か他の形を・・・
しかしあなたは、なおも愛しているし、彼女もなお愛している。
愛はあなたを、あまりにも幸福にしたので、あなたはそれを裏切ることが出来ない。
一度これが理解され、当然のこととして受け取る
ことが出来たら、その時、あなたは全面的に開くことが出来る。
そして、まさにその開くことの中で、あなたはひとつになる。
ふたりの人間が開いている時、彼らはふたつではない。
ふたりの閉じた人間だけが、ふたつなのだ。
ふたりの開いた人間は、ふたつではない。
そして、そこには満ち足りたものがある。
それが、全ての恋人達が探し求めているものだ。


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