We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年09月

以前も書いたことだけれど
私の父の口癖は「他人なんかどうでも良い」だった
しかし、この言葉は他人への無関心、絶望、放逐のニュアンスが入っている

わたしは「他人をどうのこうのするというのは基本的に不可能で傲慢だ」
っと、言い直したいと思う

21世紀に入ってから「どう人を変える(コントロールする)か?」という
質問ばかりになったという小林正観さんの証言は、実に興味深い

つまり、悩みというのが関係性の中に遊離、拡散してしまっているのだ
たしかに仕事においてもよく言われるのが「人間関係の難しさ」だけれど
そもそもこれを「相手を(改造することで)どうこう出来うる」と錯覚することが
「対社会的な悩み」のスタートラインじゃ無いか?と思う

しかしそれは決して他者への絶望や無関心、
他者や環境に対するこういった中国人のように「無頓着でいろ」っという意味では無い

現代の中国こそが唯物思想の成れの果てなのだ
それをそろそろ日本人も笑えなくなって来つつある・・・
・・・・そうではない
   周囲の世界に対して冷たく無機的、即物的であれということではなく
   世界に対して「水の様に柔軟な球であれ」ということなのだ



それを処世術として語ったのがDカーネギーの「人を動かす」だ
各種の武術の「達人の領域」というのも円運動、求心力遠心力を縦横無尽に応用するワザだ

わたしたちはいつも
「外部に対する派手な影響力の強さ」に憧れている(劣等感を持っている)から
こういう映像を見ると身体の小さな老人がガタイの大きな外人を投げ上げていることに
目を奪われてしまう

しかし、ここでもっとも大切なことは「球体の持つ幾何学的な応用力の凄さ」ではなく
それが、「おのれの中心を見失わないための鍛錬に過ぎない」と言うことだと思う

「球」は「旧」や「久」にも通じる

旧家の歴史の重みというのは、その「中心の定まり具合」にある
本当の旧家とは単なる伝統の歴史の押しつけでは無い
自分自身のグランディングの中心を見失わないが為のエッセンスを個々人に伝えるのだ

本当の伝統とは個人の活躍と実現を抑圧するのではなく、バックアップするものなのだ

 それは「他人や状況のコントロール術」が主たる目的では無い
 カーネギーが言うところの「人を動かす」円滑化はあくまでもその応用技術に過ぎない

 「揺るぎない自己信頼」のなかにあらゆるアカシックの英知は湧いてくる
 それが「自分の中心を見失わない」鍛錬ということなのだろうと思う 


わたしも承認欲求に関してはこの記事とよく似た思考過程を通った

結局のところ「超越するとは何か?」と言うことだと思う

「超越」という言葉は思わずスーパーマンになるようなイメージを人々に与えるが
たとえば「食欲の超越」とは「ファスティング(不食)」だろうか?

・・・私はそうは思わない

  健康ブームの究極の到達点のひとつとして
   このような「仙人のまねごと」が横行する風潮は、
        やや危険じゃないかな?と危惧している

事実、「不食、断食ブーム」は何人かの拒食症や餓死と言った事故を起こしているようだ

結果として「食べない方が楽」という感覚もあるだろう、
自然な流れとしての不食にわたしは特に異論は無い
しかし人間は頭でっかちだから、こういうのを見ると「超越=スーパーマン願望」がうずく

如何なる
「べき、ねば、ため」を超えて自然に食べ、自然に食べないのこそ「食の超越」だとおもう 

「人と自分は違う」「この世界であなたはひとりだけ」というあまりに当然なことが
徹底されていなければ、ひとは誰かと自分を比較して「べき、ねば、ため」の囚人になる

超越とはスーパーマンを目指すことでは無く、他人に誇ることでもなく
淡々と自然に「あるべきことがある」リラックスした状況だと、私は思っている

つまり「他人からの承認願望も然り」である

これは人間の抱える絶対的な孤独感や死の恐怖感と深く結びついた問題であるが故に
狂おしい程の難しい問題だ


             ・・・・これも「以下同文」な問題である

「どこかだれかの(成功の)知識、経験」が〝参考〟になることはあるだろうが
自分に根本的な〝欠落〟があるのではないか?という強迫観念に基づいた
「自己啓発への旅」とは地獄の道だ

ひとはどうして「向こう側」に手を伸ばすのか?

・・・動機はいろいろだろう
しかし
それが「自己の支柱を求める」ものであったとき、なんであれそれは「地獄への旅」である


拒食症や過食症にせよ、病的な承認欲求にせよ・・・
背後に渦巻くのは「自分自身からの復讐」というエネルギーではないだろうか?

アベノミクスがまずしたことは日銀の白川総裁を現在の黒田総裁にすげかえたことだ

日銀の最大の役割とは円の価値のスタビライザーだが
アベノミクス~黒田総裁の下、 円をジャブジャブと刷りはじめた時から
私たち日本人は日本銀行を失ったのだ

FRBが私立銀行群であり、世界が「ドル浸し」であることの危険性を理解している人ならば
それに追随しはじめたアベノミクスの目的はすぐに察知しただろう

それまではある意味では日本銀行は「日本の国のため」に機能していたのだが
いまはアメぽち安倍の支配下にある

通貨の乱発、株価の人工的な上昇、そして暴落~世界大恐慌~世界大戦とは
まさしく1930年~第二次世界大戦へシナリオの再来だ・・・

「軍事的防衛が出来る国にする」のが憲法改正の目的じゃ無い
「戦争をしたい」のが目的だ

しかしいまの日本人にはいまだ国のトップが「戦争をしたがっている」という発想が
どうしても実感出来ないから、いまだに笑い飛ばしている

おれもやろうかな~~~♪
一万円あれば、あの腐れカマキリ顔の女大臣を
立花さんと一緒に訴えられる!

いまはまだ5人だけだそうです


機械やサービスなどのシステムは、日々刻々改善されている
こういったものごとは〝改善〟の一方向だ、意図的に〝改悪〟されるということはない

一方人間はどうかといえば
子供の頃は大人に憧れ、大人になれば隠居に憧れ
老人になれば子供の頃を懐かしむ

「いま」とは二種類ある

A:過去と比較し、未来を憶測することで、その中間地点として存在する「今」

B:その逆に、過去とも未来とも比較しようがない、唯一無二のユニークな「いま」

マシーンの「今現在」とはA以外には無く

生命にとっての「いまここ」とはB以外には無い

わたしたちに「改善されていく一方向」の「時間の流れ」など存在しないのだ
わたしたちがマシーンでは無い以上は・・・・

人工知能の進化はシンギュラリティーを向かえることで、ひとつの区切りを迎えるだろう

人間の知性は個別多様化によってアセンションに向かっていることと平行している?
しかし、
人工知能に生物的な自意識が芽生えた時には、たぶん「個別化」「個性化」を
通過しないで、一気に一つの単一意識としてネットワークで連携するのかも知れない

             最終的には「人工知能」や「天然生命意識」とのボーダーも無く
                   「存在はひとつ」という目覚めに至るのかも知れない

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