以前も書いたことだけれど
私の父の口癖は「他人なんかどうでも良い」だった
しかし、この言葉は他人への無関心、絶望、放逐のニュアンスが入っている
わたしは「他人をどうのこうのするというのは基本的に不可能で傲慢だ」
っと、言い直したいと思う
21世紀に入ってから「どう人を変える(コントロールする)か?」という
質問ばかりになったという小林正観さんの証言は、実に興味深い
つまり、悩みというのが関係性の中に遊離、拡散してしまっているのだ
たしかに仕事においてもよく言われるのが「人間関係の難しさ」だけれど
そもそもこれを「相手を(改造することで)どうこう出来うる」と錯覚することが
「対社会的な悩み」のスタートラインじゃ無いか?と思う
しかしそれは決して他者への絶望や無関心、
他者や環境に対するこういった中国人のように「無頓着でいろ」っという意味では無い
現代の中国こそが唯物思想の成れの果てなのだ
それをそろそろ日本人も笑えなくなって来つつある・・・
・・・・そうではない
周囲の世界に対して冷たく無機的、即物的であれということではなく
世界に対して「水の様に柔軟な球であれ」ということなのだ
それを処世術として語ったのがDカーネギーの「人を動かす」だ
各種の武術の「達人の領域」というのも円運動、求心力遠心力を縦横無尽に応用するワザだ
わたしたちはいつも
「外部に対する派手な影響力の強さ」に憧れている(劣等感を持っている)から
こういう映像を見ると身体の小さな老人がガタイの大きな外人を投げ上げていることに
目を奪われてしまう
しかし、ここでもっとも大切なことは「球体の持つ幾何学的な応用力の凄さ」ではなく
それが、「おのれの中心を見失わないための鍛錬に過ぎない」と言うことだと思う
「球」は「旧」や「久」にも通じる
旧家の歴史の重みというのは、その「中心の定まり具合」にある
本当の旧家とは単なる伝統の歴史の押しつけでは無い
自分自身のグランディングの中心を見失わないが為のエッセンスを個々人に伝えるのだ
本当の伝統とは個人の活躍と実現を抑圧するのではなく、バックアップするものなのだ
それは「他人や状況のコントロール術」が主たる目的では無い
カーネギーが言うところの「人を動かす」円滑化はあくまでもその応用技術に過ぎない
「揺るぎない自己信頼」のなかにあらゆるアカシックの英知は湧いてくる
それが「自分の中心を見失わない」鍛錬ということなのだろうと思う
私の父の口癖は「他人なんかどうでも良い」だった
しかし、この言葉は他人への無関心、絶望、放逐のニュアンスが入っている
わたしは「他人をどうのこうのするというのは基本的に不可能で傲慢だ」
っと、言い直したいと思う
21世紀に入ってから「どう人を変える(コントロールする)か?」という
質問ばかりになったという小林正観さんの証言は、実に興味深い
つまり、悩みというのが関係性の中に遊離、拡散してしまっているのだ
たしかに仕事においてもよく言われるのが「人間関係の難しさ」だけれど
そもそもこれを「相手を(改造することで)どうこう出来うる」と錯覚することが
「対社会的な悩み」のスタートラインじゃ無いか?と思う
しかしそれは決して他者への絶望や無関心、
他者や環境に対するこういった中国人のように「無頓着でいろ」っという意味では無い
現代の中国こそが唯物思想の成れの果てなのだ
それをそろそろ日本人も笑えなくなって来つつある・・・
・・・・そうではない
周囲の世界に対して冷たく無機的、即物的であれということではなく
世界に対して「水の様に柔軟な球であれ」ということなのだ
それを処世術として語ったのがDカーネギーの「人を動かす」だ
各種の武術の「達人の領域」というのも円運動、求心力遠心力を縦横無尽に応用するワザだ
わたしたちはいつも
「外部に対する派手な影響力の強さ」に憧れている(劣等感を持っている)から
こういう映像を見ると身体の小さな老人がガタイの大きな外人を投げ上げていることに
目を奪われてしまう
しかし、ここでもっとも大切なことは「球体の持つ幾何学的な応用力の凄さ」ではなく
それが、「おのれの中心を見失わないための鍛錬に過ぎない」と言うことだと思う
「球」は「旧」や「久」にも通じる
旧家の歴史の重みというのは、その「中心の定まり具合」にある
本当の旧家とは単なる伝統の歴史の押しつけでは無い
自分自身のグランディングの中心を見失わないが為のエッセンスを個々人に伝えるのだ
本当の伝統とは個人の活躍と実現を抑圧するのではなく、バックアップするものなのだ
それは「他人や状況のコントロール術」が主たる目的では無い
カーネギーが言うところの「人を動かす」円滑化はあくまでもその応用技術に過ぎない
「揺るぎない自己信頼」のなかにあらゆるアカシックの英知は湧いてくる
それが「自分の中心を見失わない」鍛錬ということなのだろうと思う