We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年09月

もんじゅ まさきさんがPrem Sheelさんの写真をシェアしました。
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Prem Sheel

女性は
男性なしでは
幸福感を得られない。
男性がいなければ、
彼女は
夢のなかを流れられない。
妄想に取り憑かれた男は
平凡な男よりも魅力的だ。
女性が
自分自身に
偉大な幻想を持つ人びとに
恋をするのはそのためだ。
平凡な男とは
幻想を持たない男のことだ。
平凡な男に
惹かれる女性はいない。
妄想に取り憑かれた男は
魔術的に見える。
彼には魔力がある。
彼の眼は未知の何かで
ゆらゆら燃えている。
そして
それこそ女性の願望だ。
彼は
可能性を信じる力を
持っている——。
その
可能性を信じる力が、
彼に魔術的な特質を与える。 
 
自然のなかで
観察するがいい。
いちばんきれいに舞い、
いちばんじょうずに歌う鳥が
最良の雌を獲得する。
人類の場合も同様だ。
観察したことがあるだろうか、
ミュージシャンや
歌手や俳優のまわりに
いったい何人の美人が
たむろしていることだろう? 
何のために? 
魔術的な何か、
この世のものではない何か、
彼方の何かが——。
すると、
たちまち彼女たちは
心を奪われる。
これは自然な誘引力だ。
両者が互いに充足させ合う。
そして
これが続いてゆくことになる。 
 
あなたは尋ねている。 
「私は脱けだしたいのです」

あなたは
入り込まねばならない。
そう簡単には抜け出せない——。
あらゆるものには
代価がいる。
入ってゆくがいい、
可能なかぎり深く。
そんなに急ぐ必要はな い。
もしあなたが
脱けだすとしたら……、
それに、
あなたは脱けだせるほどには
成熟していない、
あなたはもう一度
なかに入らねばならなくなる。
その巡り合わせを
すっかり通り抜けなさい。
そのまさに果てまで行くがいい。
それを完全に見きわめるのだ。 
 
その間、
瞑想を続け、
その現象を
見守りつづけなさ い。
それを
個人的に受け取らないこと、
それは
個人的なものではない。
それを
個人的に受け取ったら、
あなたはものごと全体を
初めから取り違えてしまう。
それは男と女のあいだにある
何かであって、
あなたと
あなたの女性のあいだに
あるものではない。
それは
男性エネルギーと
女性エネルギーの
あいだにある何かだ。
それは
男性的エネルギーと
女性的エネルギーの
あいだにある何かだ。 
 
それを
かけ離れた観察者として
ただ見守るがいい。
自分のいくつかの
小さなエゴ を
そこに
持ち込んではいけない——。
それらは
ふさわしいものではない。
それらは
混乱をひき起こす。
それらは
少しも理解の助けにならない。
あなたのエネルギーに
何が起こっているかを
ただ見ること。
すると
徐々に徐々に、
その瞑想自体が、
あなたが内なる女性を
見いだすのを助けてくれる——。
彼女はそこにいる。

それが起こり、
そしてあなたが
内側を向きはじめる
その日こそ、
あなたは
抜けだすことができる。
内なる女性を
見いだすことが
できるほどの深みにまで、
自分のなかに
はいってゆくことで……、
それはそこにある。
あなたが男であれば、
あなたの意識は
男性的であり、
そして無意識は
女性的だ。
あなたが女であれば、
あなたの意識は
女性的であり、
そして無意識は
男性的だ。
無意識のなかへ
深く飛び込みなさい。 
 
そして、
それが瞑想の何たるかだ。
愛しつづけるがいい、
愛がもたらす
喜びと惨めさを
味わいつづけるがいい。
あなたの機を熟させ、
あなたを成熟させるためには、
それらすべてが必要だ。
そして一方で瞑想を続けなさい。
もし、
この両方のプロセス、
愛と瞑想が同時に続けられたら、
しだいにあなたは、
何であれ
外側で見いだすものを、
はるかに良い方法で
内側に
見いだすことができることに
気づくようになる。

そして
ひとたびそれが起これば、
あなたの無意識と意識が出会う。
あなたは
アルダナリシュワールに——、
男と女の両方になる。
そうなったら違いが、
全面的な違いがある。
あなたの質は
もう同じではない。
それでもあなたは依然
女性を愛することができる。
が、
それはもう依存ではない。
それは今や分かち合いだ。
あなたは依然
男性を愛することができる。
が、
それはただ純粋な喜びだ。
それは 
ただあふれだしている
エネルギーだ。
あなたは
あまりにも多く持っているので、
誰かに与えずにはいられない。
だが、
あなたは
独りでいることもできる——。
そして
共にあるときと
同じくらい幸せだ。

人が独りでいながら、
誰かと共にあるときと
同じくらい
幸福でいられたら、
他の誰かに捕えられることは
けっしてない。
彼は
「誰かが私を支配している」
と感じたりしない。
そうなったら
自分の女性や男性と
争うことはない。
もはや
争うという問題がないからだ。
そうなったら、
あなた方は
自らの自立性から分かち合う、
自らの測り知れない
自由から分かち合う、
自立した2人の人だ。
が、
分かち合う必要性はない。
それは
他のいかなる動機をも持たない——。
ただあなたが
あふれだしているがゆえに
そうなのだ。
そうなったら、
あなたは
傷つけられたと感じはしない。
奴隷になったと
感じることはない。
そのときには、
あなたも主人のままだし、
彼女も主人のままだ。
そして、
誰かを所有する人は
ひとりもいない。
いっさいの所有欲が消える。

この所有欲は
なぜマインドに
何度も何度も
入り込んでくるのだろう? 
なぜあなたは
こうも嫉妬深く、
所有欲が強いのか? 
その原因は、
あなたが
依存しているからだ。
あなたが
恐れているからだ。
もし彼女が
明日にも離れていったら、
自分の大地を
失ってしまうのではないかと
あなたは恐れている。
そして、
寒々とした夜に
独り寂しく何をするつもりだね? 
あなたは
独りぼっちの自分など
思い浮かべることもできない。
それは身震いさせる。
それゆえにあなたは恐れる。
もし彼女が
他の男と笑っていると、
他の男に話しかけていると、
あなたは疑いはじめる。
あるいは、
もし彼が他の女性と
映画に出かけたりしようものなら、
あなたは煮えくりかえる。
あなたは熱に浮かされる。
あなたは火山の上に坐っている。
あなたは今にも爆発して
醜くなる用意ができている 
  
なぜだろう? 
これほどの
所有欲や嫉妬はなぜなのか? 
恐怖だ。
誰にわかるね? 
彼はあなたを愛している。
彼は別の女性を
愛することもできる。
彼はあなたを
ひとりの女性として愛している。
彼の女性に対する愛は
まだ生きている——。
彼が別の女性を
見つけることはありうる。
それに、
おそらく新しい相手のほうが 
古い相手よりずっと魅力的だ——
当然だ——
未知のものは
慣れ親しんだものより魅力がある。
彼はあなたを知りつくした。
今となっては一種の反復だ。
あなたはそれを知っている。
彼は
まだあなたを愛してはいるが、
それは一種の反復だ。
それは
あの魔力を失ってしまった。
それは
あの美しい始まりの日々を
失ってしまった。
あのハネムーンの日々は
もうそこにない。
ものごとは
決まりきった出来事に
なりはててしまった。 
 
今や、
あなたは恐れている。
彼は別の誰かとの
恋に落ちるかもしれない。
そして、
あなたは独りで取り残される。 
 
恐怖がわいてくる。
死があなたのなかに生まれる。 
  
だが、
所有欲が強まれば強まるほど、
関係はますます醜くなる。
関係はますます厭わしくなる。
所有欲が強まれば強まるほど、
それはますます
うんざりするものになる。
そして男は、
とにかく別の女性のことを
夢見はじめる。
女は別の男性のことを
考えはじめる。
内側深くで、
彼らはもう共にはいない。
ただ物理的に共にいるだけだ。 
 
そして、
それが起こりつつあることに
気づけば気づくほど、
あなたはますます狼狽し、
さらに強く所有する。
所有欲は
すべての愛を殺す毒だ。
だが、
それはかならず
起こるものと見える。
ほとんど避けがたい。
この依存状態のなかにあっては、
それは起こらざるをえない。

もはや依存ではなく、
誰をも必要とせず、
ただあふれだしつづけてゆく
別の種類の愛が
あなたの内に生まれると、
あなたは
所有欲や嫉妬など持ちようがない。
誰かが共に分かち合うなら、
けっこうだ。
あなたは感謝する。
共に分かち合う者が
誰もいなくても、
実にけっこうだ。
あなたは独りであって、
まったく幸福だ。

Osho - Take It Easy

マインドそのものは悪いものではなく
人間が生き残るためには必要な機能だと思う

ただ、「手段」があまりにも「生きる目的」そのものを凌駕して「目的化」してしまったゆえに
いまの狂気の文明が自己破滅的に暴走しているというのに過ぎない

人々は自らの生活を共同で守るためのBARG=城壁として文明社会があるはずなのに
いまや文明と社会の防衛と発展のために個々人の人生が踏みにじられようとしている
まったく文字どおり「本末転倒」なことが、いま起きていることであり、それがSF映画の
ディストピア観の根拠となっている・・・

  「私たちは〝手段〟であったはずのAIの進化の暴走を止められず
   シンギュラリティによる人類の最大の敵の誕生を見過ごしてしまうのではないか?」

アメリカの軍上層部では、こういった危惧がいよいよ本気で取りざたされているそうだ

・・・なんのことはない、
  彼ら「軍隊」そのものこそが人々にとってもっとも恐ろしい暴走システムだ、
  軍産複合体こそが人々の生活、生命財産、幸福を踏みにじって自ら生き残ろうとする
  「手のつけられないジャイアント」であるが故に、彼ら軍人はシンギュラリティにまた
  自分たち自身と同じような危うさを感じているのだろう

  「まるで軍隊のように忠実な国防システム達が突如〝飼い主〟である軍人を裏切り
  手の付けられない反逆を企てるのでは無いか?・・・・」

そしてこういった構図は、実は人間ひとりひとりにも起き続けてきたことだった

マインドは「原因と結果」「手段と目的」といった二分法によって多くの成果を得てきた
そしてマインドは最終的な、シンプルな「ひとつの問い」に辿り着く

   「人生の目的とはなんだ?」

マインドは
今まで通りの「目的と手段」という二分法で、この究極の問いへの回答を得ようとする

そしてこの最大の難問を前にして、まずは人間の様々な非合理な「営み」がまず邪魔に見える
その最も大きな非合理性はセックスという行為に見いだせる・・・

「友情」や「愛情」も然りである・・・  とてつもなく非合理だ

だからまずこれらを抹殺して「生きることの究極目的」を引き続き考え続けようとする

・・・そしてだからこそ、哲学的な舞台に場を移し、「これは永遠の謎だ」とか言い始める

   「何て難しい問いだ!、まだまだ解答には永遠の時間が必要だ!」ということだ

でも私たち人間は何でこれ程までにマインドに埋没しきってしまったというのだろうか?
 「生の目的」とは「どこか?」に答えがあるのでは無く「生の営みそのもの」が目的なのだ

だからマインドが考えれば考えるほど、問えば問うほど、 
          「生」という「いまここにある目前の解答」から遠のいてしまうのだ

考えることは単なる引き延ばしにすぎない。

カルキ・バガヴァン
OSHO

あなたが瞑想的になると、肉体は今のあなたには
想像もつかないほど敏感になる。
私たちは決して正確には聞いていないし、正確には見ていない・・
中途半端だ。
あなたは庭を通る。
見ているようだが、ぼんやり眺めているだけで、見てはいない。
眼が鈍感になっている。
あなたが眼と闘ってきたからだ。
肉体が鈍感になっている。あなたが肉体と闘ってきたからだ。
文化全体が肉体を敵にまわしている。
この文化のすべてがだ・・東洋の文化であろうが西洋の文化であろうが違いはない。
この惑星の上で発展してきた文化は、ある意味で病んでいる。
それは肉体を敵にまわしている。
だが、肉体は大いなる神秘だ。
肉体を敵にまわすことは、宇宙に敵対することだと言ってもよい。
肉体は小宇宙だ。
宇宙との絆、宇宙への橋、宇宙に到達するための道具は肉体を通してもたらされる。
肉体は、まさに途上にある駅だ。
だから、肉体と闘ってはいけない。
どれが肉体の記憶で、どれがマインドの記憶であるかを常にはっきりと識別しなさい。
空腹は肉体の記憶であり、知ることができる。
だが、マインドにも独自の記憶がある。
それは実存的なものではない。
実のところ、それには生存に関わる価値がない。
肉体の記憶には生存に関わる価値がある。
そこが二つの記憶の基本的な違いだ。
肉体の記憶を否定し、それと闘えば、生き延びることができない。
だが、心理的な記憶には、実際には生死に関わる価値がない。
それらはたんなる堆積物、廃棄物・・溜まってきたら捨てねばならないもの、
持っていれば重荷になるだけだから、捨てる必要があるものだ。
だが、こういったマインドの記憶もまた古く、歳を経ている。
あなたが腹を立てるときには、常に二つの可能性がある。
それは肉体の記憶かもしれないし、マインドの記憶かもしれない。
肉体の記憶とマインドの記憶のあいだに一定の区別を設けなければならない。
あなたの怒りに生存に関わる価値があり、
それなしでは生き延びることができないとしたら、それは肉体の働きだ。
だが、あなたの怒りに生死を決する価値がなければ、
それはたんなるマインドの習性、マインドの機械的反復にすぎない。
そういう場合はマインドの記憶だ。
何度も何度も腹を立ててきたので、それがあなたの条件づけになってしまっている。
誰かがあなたを、あなたのボタンを押すたびに、あなたはまた腹を立てる。
ちょっと、それに気づいてごらん。
心理的な怒りや習慣的な怒りを一度も起こしたことのない人・・
そういう人の肉体的な怒りには独自の美しさがある。
それは決して醜くない。
それはその人が死んでいるのではなく生きているという証にすぎない。
習慣的に腹を立てれば立てるほど、肉体的な怒りを起こせなくなる。
そうなったら、あなたの怒りは醜いだけだ。
それから得られるものは何もない。
あなたと他人をかき乱してゆくだけだ。
別の角度からそれを理解することもできる。
例えば、セックス。
セックスは肉体の記憶でもある。
その場合には生存に関わる価値がある。
だが、習慣から生まれた精神的、知的なセックスにすぎない場合もある。
そのときには生存に関わる価値はない。
たんなる習慣的なパターンに陥ってしまったら、セックスは醜いものになる。
そこには愛もなければ、美しさもない。
音楽もなければ、より深い感応もない。
セックスが知的なものになればなるほど、肉体はいっそうそのなかに参与しにくくなる。
セックスについて考えれば考えるほど、セックスの真の姿、その最も深い神秘はわからなくなる。
マインドはセックスについて考えつづけ、肉体はそれに従わなければならなくなる。
いつであれ肉体がマインドに従うとき、そこには生命がない。
肉体は鈍重なおもりのようにただ引きずりまわされる。
何に対しても・・セックス、怒り、貪欲、何であれ・・
そこに生存に関わる価値があるかどうかを常に識別するがいい。
そこに生存に関わる価値があるなら、戦わないことだ。
それがたんなる精神的な習慣にすぎなければ、醒めているがいい。
私たちの過去のあらゆる行為からなるこの知的な記憶は、条件づけられたものになっている。
あなたは延々とそれをくり返し、まるで機械のように行為する。
これを意識していなさい!
怒りにマインドが介入しなければ・・
その怒りがある状況に対する全一な感応、身体全体の感応にすぎず、
そこに前からある知的な条件づけがなければ・・そのときには後悔がないことを知って驚くだろう。
あなたはその状況の下で、状況が求めるままに全一に行為した。
そのときには、後悔する必要はまったくない。
さらにもうひとつ・・後悔がないときには、心理的な蓄積は起こらない。
何ひとつあなたの習慣にはならない。
何も蓄積する必要はない。
マインドは、なぜ記憶を蓄積しなければならないのだろう?
それは、ある状況のもとで全一に行為できるかどうか自信がないからだ。
マインドは準備する。
マインドは色々と下稽古をすませなければならない。
これこれの状況下で、うまくやれるかどうか自信がない。
マインドは、かつて起こったことがあるすべての状況を知っておかなければならない。
マインドはものごとを判別しなければならない。
特定の状況のもとでは何をやればいいのかプログラムを練っておかなければならない。
マインドが記憶を蓄積するのはそのためだ。
だが、蓄積すればするほど、あなたは全一に行為できなくなってゆく。
そして、全一に行為できなくなればなるほど、ますますマインドが必要になってくる。
だから、肉体で行為しなさい。
マインドで行為してはいけない。
私がこのことを・・
宗教的な人間が口にするとは思いもよらないようなことを言うと、奇妙に見えるだろう。
それでも私は言う。
「肉体から行為しなさい!」と。
そうすれば、その行為は測り知れないものとなり、その感応は全一になる。
マインドを介入させてはならない。
そうすれば、記憶はなくなる。
心理的な蓄積はなくなる。
後悔は起こらなくなる。
行為は完結する。
ものごとはこうなり、状況はこうなっていて、あなたは後に何も残さず、全一に行為した。
したがって、後悔しうる者はいない。
あなたはその行為になりきっていた。
そうしなければ、行為に加わらなかった半身が後で後悔する。
肉体は全一に行為することができる。
マインドは決して全一に行為することができない。
マインドはいつも分断されている。
マインドは二分法のなかで働く。
マインドの一部は腹を立てているが、
別の部分は同時に後悔するか、後悔する準備を始めている。
このこともマインドに留めておきなさい。
あなたの一部が別の部分と絶えず闘っているときには、
あなたはかならず肉体を通してではなくマインドを通して行為している。
肉体はいつも全一だ。
それはばらばらでは行為できない。




いつか、いつか、ひとりじゃなくなる・・・・


 努力し、準備して「来る」ものもある

    しかし、「来ない」ものもある

「ひとりじゃなくなる」日など永遠に来ない

誰かと出会えれば、それが答え、その人が答えを知っている・・・?、
あるいはその人の存在そのものその出会いの瞬間自体が待望の答えなのでは・・・?

 孤独に震える中で、そう考える人は多いだろうし、私もその一人だった

 しかしある時、疑った・・・「ひょっとしたらそんな『いつか』は来ないのじゃ無いか?」

   「誰かが私の人生の答えを持ってる?」「知っている?」

  ああたしかにそうかもしれない、
  ただし致命的なのは「その人は私じゃない」ということだ

心優しい人は居るだろう・・・  他者への理解溢れる人はいるだろう・・・

しかしそのひともまた、あなたそのもの、わたしそのものではない

だから、
  その優しさや理解力が例え本物であったにせよ
  そのひとの素晴らしい言葉や優しい気遣いが一時的な気休めでは無いにせよ
                それは一瞬の中で吹き抜ける風に過ぎない

どれ程待望し、準備しても、永遠に訪れることのない「いつか」がある・・・
「誰か」の愛の中に「いつか」あなたが溶け去ることなどあり得ない

  そんな「いつか?」への無邪気な希望に絶望し、
   駆け抜ける風のなかで呆然と立ちすくんだ時、
     その「いつか?」は「いまここ」に突如実現する





わたしは救世主では無い
あなたの起きたこと、起きていること、これから起きること・・・
それらを自己の実存の全責任において受け止めたら、
あなたは成熟するだろう

質問
私は若い頃、ビルディングの高いところにある開いた窓のそばで、
ある「吸引力」を、よく感じたものです。
その感覚は「もうちょっとでも近づけば、
きっとジャンプしてしまうだろう」というものです。
私の経験では、それは自殺的なものではありません。
それは何なのですか?
それについて語っていただけますか?

osho
いいだろう、デヴァバクタ。
それについてさらに多くを語ることはできる。
というのも、あなたが私に近づいて来るとき、
その同じ恐怖があなたの内部にあるのを私は感じたからだ。
あなたはある距離を保っている。
あなたは恐れている。
その恐れは自殺的なものではない・・・あるいは、
まったく違う意味で、霊的な意味で自殺的なものだ。
あなたが恐れているのは、禅の人たちが「大死」と呼ぶものだ。
あなたは消滅することを恐れている。
あなたは溶解することを恐れている。
あなたは自分自身を把握できなくなることを恐れている。
そして、誰もがさまざまな仕方でそれを恐れている。
私たちがつねに抑制(コントロール)のもとに生きているのはそのためだ。
抑制は社会が押しつけるものばかりではない。
たとえ社会がすべての抑制を取り除いたとしても、
人々は抑制のもとに生きつづける。
彼らは独自の抑制、独自の規律を創りだす。
もし社会が、あらゆる人を完全に自由にしようと決めたとしても、
人々は自由にはならない。
人々は自由を受け容れない。
彼らは独自の束縛を創りだす。
彼らは独自の枷(かせ)を創りだす。
彼らは自らの看守になる。
自由は驚愕させる。
なぜなら、自由とは、
あなたがそこにいないということに他ならないからだ。
それは、「あなた」が自由になるのではなく、
あなたが「あなた自身」から自由になるということだ。
あなたが束縛だ・・・束縛が消えると、あなたは消滅する。
高いビルディングの窓辺に近づいたり、山の淵に近づいたりすると、
ときとしてその恐怖がやって来ることがある。
その感覚があなたを乗っ取ることはありうる。
その物理的状況があなたの精神の内側で引き金になることはありうる。
それがあなたに、消滅することは
可能だという観念を与えることはありうる。
そして、憶えておきなさい。
そこには恐怖と魅力の両方がある・・つねにそうだ。
何かに魅了されるとき、かならずあなたはそれを恐れてもいる。
男が女に惹かれても、女を恐れるのはそのためだ。
依然女性を恐れているあなたがたのいわゆる聖者たちは、
まだ女性との愛の内にあると私が言うのはそのためだ。
たしかに彼らはそうだ・・彼らは執着している。
恐怖と愛は連れ合ってゆくものだからだ。
彼らはヒマラヤの洞窟に移ったかもしれない。
洞窟のなかに坐り、女性にはまったく
興味がないと思っているかもしれない。
が、彼らは怯えている。
美しい女性が訪ねて山にやって来るという噂がたてば、
何かが彼らの内部で動きだす。
それは恐怖だ!
だが、恐怖は魅力を示している。
恐怖はあなたがまだ巻き込まれていることを示している。
少しでも女性に反対することを述べている経典は、
女性に心を奪われている人々によって書かれたものだ。
彼らは放棄はしたかもしれないが、変わっていない。
彼らは同じ人たちだ。
ある日は女性に向かって突進していたかと思うと、
別の日には女性から急いで逃げはじめる。
が、それは違う形で演じられるまったく同じゲームだ。
女性が彼らの魅力、彼らの恐怖であることに変わりはない。
そしてあなたが男に惹かれる場合も同じだ。
女性が男性に惹かれるときにも恐怖がある。
すべての愛が恐怖を生む、即座に恐怖をもたらす。
だから、これら二つのものは連れ合ってゆく。
あなたが開いた窓に引きつけられるのは、あなたの生になってしまった
この獄舎から自由になることへの大きな魅力があるからだ。
だが、これはあなたが知っている唯一の生だ。
そうなったら、恐怖が来る・・誰が知る?
別の生があるのかどうか?
たんに今あるあなたが消えるだけで、あなたが別の地平、
別の存在に現れることはないかもしれない。
そうなったら、どうするね?
女や男と愛を交わすとき、その同じ恐怖があなたをつかまえる。
オーガズムがとても不可能なのは、とてもむずかしいのはそのためだ。
そして、オーガズムを得ることがむずかしいことに
気づいているのは女性だけだと思ってはならない・・
女性同様、男性にとってもそのむずかしさはまったく同じだ。
男性の場合、単純な事実が彼の偽装を助ける。
射精が彼を助ける・・・
彼は目に見える何かが起こるのを見ることができるので、
オーガズムを達成したつもりになる。
女性には目に見える射精がない。
だから彼女は首をかしげ、自分がオーガズムを得たかどうか思案する。
射精はオーガズムではない。
オーガズムとは、あなたが相手の存在を窓として使い、
知られざるもののなかに跳躍することを言う。
相手があなたの窓を使って知られざる
もののなかに跳躍することを言う・・・そのときオーガズムがある。
あなたが消えるとき、オーガズムは起こる。
オーガズムは広大無辺な広がりの状態だ。
それは境界のない状態だ。
あなたは大空とひとつになる。
あなたはもうちっぽけではない。
あなたはもう限界のなかにはいない。
あなたはもういない!
あなたがいるかぎり、そこには限界、境界、定義があるからだ。
すべての定義が壊され、あなたがただそこに在るとき、定義を絶し、
表現を絶する神の荘厳さの何かがあなたに起こっている・・・
しばらくの間、あなたは溶けた。
あなたは知った、あなたは味わった。

あなたがまだ桃をたべたことがないと想像してみよう

あなたは、桃を見せられても、キョトンとしている
・・・しかし、桃のジューシーな、芳醇な果肉をほおばった瞬間
  あなたは「パラダイスとはこういうものではないか?」と思うかも知れない


セックスにおいてイク瞬間は確かにクレッシェントではある
でも、目を合わせながら初めての異性と初めての結合の瞬間・・・
       ・・・そのドキドキ感は心臓が飛び出しそうな程だ

  それは、何歳になってっても変わらない新鮮な感動だ


死んで生まれ変わることの意味とはそういうことかも知れない
全ての記憶がリセットされ、私たちは全ての経験が一旦、ヴァージンになる

そしてだからこそ人生は新鮮で、新鮮であることとは何事にも替えがたい価値がある

でも、処女がただ単に処女であるだけでは何の歓びも得られない
初女性には価値があるが、それは失われる瞬間のスパークにこそ価値がある

そしてわたしたちは滑り台をすべり終えたあと、また滑り台に歓声を上げてよじ登る
しかし、快楽の繰り返しは決して長くは続かない

だからまた、「あの」感動を再現したいのなら「あれ」を忘れてしまうしか無いのだ

そうかんがえるなら輪廻転生とは罰では無い

私たちは得てして「死という真っ暗闇への忘却」を恐れるが
設定を変えることで、ものごとの完全な繰り返しなどは無くなる

        その「新鮮さの再現」こそが生と死なのかも知れない

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