We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年09月


斉藤ひとりさんや小林静観さん的な意味での「無敵」とは
敵う相手がこの世にいないほどのチャンピオンになる事~孤高ではなく
「敵をも味方と見なす」ことだ

なるほど全てを味方へと転ずる〝見方〟は確かに最強で「敵なし」である

でも、「愚かな友よりも賢い敵を持て」という格言もあるように
ただすべてを〝味方〟に出来れば良いか?と言えばそれは疑問だ 

 昔わたしは、占い師なんかやっていた頃、
  人が「占いの結果はすべて良い様にしか取らない」というのをよく聞いた 

 物事はすべからく解釈次第・・・ これはこれで大切な真実だと思う 

  「・・・だから良いようにしか物事を取らない(解釈しない)」

   なるほど! これもある意味、「無敵の人生」「幸福な人生」への心得ではある

 しかし、釈迦は
「好きな人と別れなければいけない」「嫌いな人と関わらなければいけない」というのを
                   人生の四苦八苦のひとつとして数えた

嫌いな人~敵のみならず、好きな人~味方であっても「苦の原因」となるのだ

昔、一時「褒め殺し」という言葉が流行ったが、
攻撃や批判、罵倒が必ずしも「人生の害」ではないのと同様 
称賛や同意、協力が必ずしも「人生の益」ではない  ---傲慢や増長をもたらす

「敵をも味方と見なす」というよりもさらにその奥義としては
 「敵も味方も本当は存在しない」というところに物事の本質が有るのでは無いか?

わたしたちは選り好みで何かを退け、遠ざけ、忌諱し、何かを引き寄せようとする・・・

・・・もうそれ自体に「苦の原因」があるのではないか?
・・・もうそれ自体が「人生の油断」なのではないだろうか?

  「敵だ」とか「味方だ」という解釈の迷宮に入り込んでいること自体に
  わたしたちは選択の幅を勝手に狭める間違いを犯しているのじゃないだろうか?

敵も無く、味方も無く、すべてをニュートラルな等距離で観察し続けるのには
とても注意深さが必要だ

 ・・・わたしはOSHOがいうところの「中心にあって油断なく醒めていろ」ということに
   こういった意味合いを含んでいる気がしてならない

  わたしたちは「か弱い哺乳類」として、「社会的動物・人間」っとして
  常に何かに所属していたい、帰属していたい、自分の立ち位置を確保したい

  ・・・孤立することを極端に恐れる「はだかのサル」、それが人間だ

 たしかに「所属」の毛布にくるまり、
  あるいは一時的に餓えや寒さからは免れるかも知れない
      わたしたちは「孤立していない!!」~We are not alone

しかし、「孤立」から逃れようとする代償として、「孤独」に蝕まれていないだろうか?

本当は、わたしたちの中心から世界の全ては等距離で、ニュートラルなのではないだろうか?
あるひとは近く見える、またある知らない人々は遠く見える
・・・日常生活において、ある種の人達とは親しく、多くの人々とは疎遠だったり敵対している

しかし世界中、存在する誰との関係であれ、本当は「ベストな距離感」を保っているが故に
「いまこの状態」なのだとしたならば、やはりすべては〝等距離〟なのだといえないだろうか? 

もしそうであるならば、わたしたちはいままで
自分の世界の中心にあり続けたのであり 、これからもそうでありつづけるのだ

   ・・・どんなに泣こうがわめこうが、求めようが逃げようが・・・
     「すべての存在事物とは、常に遠からず近からず、敵でも味方でもない」

 そのこと自体に「運命の好意~すべてがメタフィジックな意味で〝味方〟なのだ」と見える

    そうでなければ、
    わたしたちはどんな小さな事にさえ
         自己責任を負うことは出来ないだろう---

    そうでなければ、
    わたしたちは決して 「ひとりでいる」ことなど耐えがたいし、
              「ひとりじゃない」ことも認められない---

We are all alone
         but
We are not not lonly
あなたが来る(生まれる)前、
あなたの居る場所はずっと空席だった

あなたが去った(死んだ)あと。
あなたの居る席は ずっと空席になるだろう

  そのことが、あなたに充実感を与えるだろう
  人間に最も大切なことは、「必要とされる」ことだからだ

 OSHO

 2015年09月25日



デタラメ歌詞和訳:風間夕夜

ミトコンドリアとは何か・・・・・・

人間の場合、腸には脳とは別の脳細胞が一億個もあるそうだ
それゆえに脳からの指令を受けなくても単独で自立判断できる唯一の臓器が腸だとのこと

っとなると、これはまるで細胞核DNAとミトコンドリアDNAとの関係みたいだなふと思った・・・

脳と腸との関係とは細胞核とミトコンドリアとの関係の拡大版なのじゃないだろうか? 


・・・その、三つ目
 三つ目に、呼吸はあなたと身体の架け橋だということ。

絶え間なく、
呼吸はあなたとあなたの身体に橋を架けている、
あなたをあなたの身体につなげ、関係づけている。
呼吸は身体への架け橋というだけではなく、あなたと宇宙との架け橋でもある。

身体というのは
宇宙があなたのところに降りてきたもの、よりあなたに近いものにすぎない。

身体は宇宙の一部だ。
身体にあるものは何であれ、あらゆる粒子、あらゆる細胞が宇宙の一部なのだ。

それは宇宙に接するための最短の道。呼吸というのは架け橋だ。
もし架け橋が壊れたら、あなたは身体にいなくなる。
もし架け橋が壊れたら、あなたはもう宇宙に存在しなくなる。
あなたはどこか知らない次元へと入っていく。
そうしたら時空の中にあなたを見つけることはできなくなる。
だから三つ目は、呼吸はあなたと時空の架け橋でもあるということだ。

 そのために、呼吸はとても意義深い、最も重要なことになる。
もし
呼吸をどうにかすることができれば、あなたは突如としてこの瞬間に直面する。
呼吸をどうにかすることができれば、あなたは生命の源泉に辿り着く。
呼吸をどうにかすることができれば、あなたは時間と空間を超越する。
呼吸をどうにかすることができれば、あなたは世界の内に存在し、
                         しかもそれを越えているだろう。

 呼吸には二つの点がある。
ひとつはそれが身体と宇宙に接触しているところであり、
もうひとつはそれがあなたに接触し、そして宇宙を超越しているところだ。

 私たちは呼吸の一部分しか知らない。
それが宇宙へと、身体へと動いていくところは知っている。

けれどもそれは
身体から「身体でないもの」へ、「身体でないもの」から身体へと常に動きつづけている。

もう一方の点を私たちは知らないのだ。

もしもう一方の点、架け橋のもう片方、橋の対極に気づくことができれば、
突如としてあなたは変容し、異次元へと入っていくだろう。

 何か特別な呼吸のやり方とか、ある規則的な呼吸の仕方とか、
特定の呼吸のリズムとかを練習するというのではない・・・
・・・・いや、そうではないのだ!
          呼吸はあるがままにしなくてはならない。
       ただ、呼吸のある点に気づかなくてはならないというだけだ。
            そこにはある点があるのだが、私たちはそれに気づいていない。

 私たちは今まで呼吸し続けてきたし、
これからも呼吸し続けるが--私たちは呼吸とともに生まれ、
呼吸とともに死んでいくが--ある点に気づいていない。

 これは不思議なことだ。
  人間は宇宙の奥深くまで探検し、探索している。
   人間は月に至り、もっと遠くまで行こうと、地球を離れて宇宙へと向かっている。
        それなのに人間は、自分の生命の最も近いところをまだ知らないのだ。
 
 呼吸にはあなたが未だかつて観察したことがないある点が存在する、
 そして、その点が扉なのだ。

  そこから異なる世界へと、異なる存在へと、
        異なる意識へと入っていくことができる、最も身近な扉なのだ。

Osho, The Book of Secrets, #3 抜粋

天気午前6時更新







Osho:
瞑想はとても単純な現象だ
あなたがまったく何もしていないとき…
身体的にも 精神的にも
どんなレベルでもだ…
すべての活動が止み
あなたはただ いる
ただ 在る
それが瞑想の何たるかだ

あなたはそれをすることはできないし 練習もできない
ただそれを理解するしかない

そしていつであれ
時間をみつけて
ただ在る

そして すべての行為を落とす…
考えることも行為だし
集中も行為だし
凝視も行為だ…

もしほんのわずかな瞬間でも あなたが何もしていなくて
ただ自分の中心にいて
完全にくつろいでいたら
それが瞑想だ
そしていったんあなたがそのコツをつかんだら
いたいだけその状態に留まることができる
あなたはその状態に留まれる
最終的には24時間

いったんあなたが 乱されることなく
ただ在ることに
留まれる方法がわかったなら
少しずつ 何かをし始めることができる…
ただ在ることが乱されないよう 油断なくありながら
それが瞑想の第2段階だ

最初は ただ在ることを学ぶ
そして次に簡単な行為を学ぶ
床を掃除するとか
シャワーを浴びるとかだ
しかし自分を中心にとどめておく

そうして 複雑なこともできるようになる
例えば私は あなた方に語りかけているが
私の瞑想は乱されない
私は話し続けることができる
しかし私の最も中心には
ひとつの波紋もない
ただのサイレンス
完全なる静寂だ
だから瞑想とは行為に反することではない
それはあなたが生から逃げなくてはならないものではない

それは単に あなたに新しい生き方を教える
そこではあなたは 台風の中心に留まる
あなたの生は
実により強烈になり
より喜びに満ち
より明晰になり
より一層のビジョンを持ち
より創造的になり

それでも
あなたは孤高の丘の上の物見にすぎない

淡々とあなたの周りで起きていることをすべて見ている
あなたは行為者ではない
あなたは観る者だ
それが瞑想の秘訣のすべてだ
あなたは観る者になる
行為はそれ独自のレベルで続く
何の問題もなく…

木を切り
井戸から水をくみ上げる
あなたはあらゆる些細なことも たいそうなこともできる
ただひとつのことだけが許されない
それは あなたのセンタリングが
失われてはいけないということ
気づきが
油断なさが
残っていなければならない
ひとつの曇りもなく乱されずにだ

瞑想はとても単純な現象だ


ヤコブ・ベーメという人の著作に「無底と根底」というタイトルの本があるが
わたしたちは「これが世界の存在を支える根底だ」という断言を出来る日は来ないだろう
だってそう断言した瞬間、「これ」を「指さしている世界」がその外にあることになるからだ


私たちが暮らす世界を超越して、
その外側から「〝この〟世界の根底は・・・」といいだしたとたん、
もう「その」世界は水槽の飼育室だ・・・こんどはその水槽の外の世界の根底探しが叉始まる

その永遠に続くであろうループ~ディレンマが避けがたいという意味で
「いまここのわたしたち」というのはその「底なし沼」に居る・・・それが無底ということだ

意識物理学研究所「”2x2”と”3+1”」

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