We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年07月

辻本 恒

真の東洋人には成長するためにグループは必要ない、
とOSHOは言うが、誰も真の東洋人ではないのが現代。
西欧的なマインドも持つ我々には、西欧的成長グループも必要だ。

だけど、力点はやはり東洋・瞑想にある。
なぜなら「真の・・」ではなくなってしまったが、
やっぱり僕らのボディとマインドは東洋人だから。

西洋では、大昔からずっと成長してきた心理学は
外向的で、それは社交的だ。

東洋で発展してきた心理学は内向的で、それは内へ行く。
真の東洋人が成長す るために、グループは必要ない。
彼にはヴィパッサナや坐禅のような、全ての外側を忘れて
ただ彼自身の存在に没頭することのできる瞑想が必要だ。

彼にはどんな関係性も必要ない。
関係を持つことは必要ない。
彼には世界と彼自身を無関係にさせることだけが必要だ・・・。

 成長グループが必要なのは、あなたが関係すること、愛すること、
意思を伝えること(コミュニケーション)を途方もなく必要としているからだ。

西洋での基本的な問題は、
どのように意思を伝えるか、どのように関係するか、だ・・・。

これは異なる心理学だ。
両方とも究極に達するための道で、一つは瞑想、もう一つは愛だ。
東洋は瞑想のためのマインドを発達させてきた。
西洋は愛のためのマインドを発達させてきた。
愛は関係性を意味し、瞑想は非関係性を意味する。

Osho: The Luminous Rebe

サイコロジー・オブ・ザ・ブッダより

津留晃一の世界さんの写真 より

 

人間ははじめに信じたことをなかなかハズせないという
認識欠陥(バイアス)を持った生き物だ

進化の過ち:人間の身体が持つ欠点 Spotwright / スポットライト

ひとつの気付きを持って「ああ!わかった」
ひとつの目覚めを持って「自分は悟った!」と思い込むのは大間違いだ

「あれを悟った」「これを悟った」といっていること自体が、
たぶん 「悟っていない」何よりの証拠なのだろう

人生は最後まで悟りの皮を剥き続ける作業が続くのだと思った方が良い
「悟ることなど何も無い」というところまで皮を剥ききって
「無」が表出した時、きっと全てが終わるのだ

そのときはまた
「悟った人など誰もいない」ということにもなるわけだ
  「幻想とは、部分的な何かでは無いのです」 都留晃一

「自由・平等・博愛」とはなにか?

「それはフリーメイソンの陰謀だ」というところで留まってしまう場合もあるだろう
でもその陰謀論に人々を留める(思考停止させる)こと自体が、また陰謀なのかも知れない

何かを問う時、まさしくその「問いの出発点」「問い始めたその動機のところ」に
往々にして「自明の理」が隠れている・・・

・・・「自由とは何か?」問うている心のゆとりが与えられていること
  それ自体が〝大いなる自由〟なのだ

  そして、誰にでも、真の自由とは何か?
   問うべきチャンスは必ず有ると言うこと自体が最大の平等だ

  さらに「不自由」や「不平等」を感じた瞬間にこそ、人々は自由や平等を意識出来る
   それは他者への愛情の広がりや慈しみ、哀れみが無ければ決して芽生えない

だれもがこの「いまここ」から一歩を踏み出す瞬間から様々な探求の旅をはじめる
でも実を言えば「いまここ」~つまり純粋意識の中にすでに「それら」がなければ
わたしたちは「問う」「探す」ことすら思いも寄らなかっただろう

「近頃の若いもんは・・・」というのは
いつの時代のおっさん、おばさんたちも口にしてきたフレーズなのだ

その言葉の意味は翻って、「オレ達の世代は大変だった」なのだ

目の前には常に絶望的とさえ言える危機があるものだ
いつの時代もそれなりの「絶体絶命」を乗り越えてきたのだ
いつの世代も自分達が一番苦労してきた世代だと思い込んでいる・・・

でも、つねに新しい世代が頼りなく見えたり、脆弱に見えるのは錯覚だ・・・

「次なる世代」は、かならず「次の時代の想像も付かないような困難」に
立ち向かう覚悟をもって生まれている・・・それが古い世代には分からないのだ

新しい時代の、新しい局面の、新たに立ちはだかる困難は、
常に古い世代の想像を絶するムリゲーだ、よりガンジガラメだろう

にもかわらず、わたしは「時代はどんどん良くなっている」と言いたい

なぜなら、「より難易度の高い局面に挑戦出来る」と言うこと自体が「恵み」だからだ

わたしたちは、つねにより「自由」で、「平等」で、「愛に満ちた」世界を建設する
なぜなら「より〝個人〟であること」を求められる社会になっていくからだ

そして、いままでも、これからも、「自由、平等、博愛」は、社会の中では無く
個人の中にありつづけた・・・  それが発見されていくからだ

わたしたちの歴史の今までの混乱は、
それを個人にでは無く社会システムに求め、実現させようとしてきたが故のものだった

しかし、「コピー可能な作業」は片っ端からロボットが人間から奪い取っていくだろう
その結果残るのは、「個人としてのユニークさとは何か?」という問いかけだ

都留晃一氏が言う「他人が消えた個人の芽生え・・・」
その中にこそフリーメイソンが秘匿してきた本当の「自由、平等、博愛」があるに違いない

花たちはミツバチの来訪を待っている
美しい花弁を開いて誘惑し、訪問してきたミツバチに蜜を吸わせることで受粉する

これはまるでそのまま女と男の関係の様だ

女達は魅力的に自らを着飾り、男を誘惑する
しかし、めしべにとっての「夫」とはミツバチではなく、本当は「おしべ」だ

動物ならいざしらず、なぜ自由に動けない植物までが
「みつばちに頼ってまで」雄と雌との危険なドラマを必要としたのだろうか?

人間の女達にとって、男達とは「みつばち」なのだろうか?「おしべ」なのだろうか?

恋の物語にはスリルがあり、リスクがあり、ギャンブルがある、アドヴェンチャーがある
恋に落ちることさえなければ、それらのリスクはないが、生命の飛躍もまたあり得ない

恋なんてしない方が安全だ
蜜だけを吸われて飛び去っていくミツバチもいるかも知れない
めしべ達は・・・・  女達は傷つくかもしれないが、愛さずにいられない
               彼女たちは愛の密を与えずにはいられない

それが「生きる」ということの挑戦だからだ

「挑戦」がない生とは、損はしないかもしれない、危険は避けられるかも知れないが
実際のところそれは死んでいる


会社や組織にとっての新たな人材の受け入れも、ちょっと似ている

新しい血を受け入れるということには、かならずリスクが伴う
来る者達は必ずしも「良いミツバチ」ではないかもしれない
だから企業は「単なるパーツになってくれる人材」を雇いたがる
個人に権限を持たせると言うことに、社会は常に怯えている
社会は常に「良き公務員」を求めている

当たり障り無く、マジメで従順で、波風を立てない和気藹々とした人物を好む

独創的で、強力な指導力をもった人物の登場に憧れる反面、出る杭はすぐに打つ
そういうヒーロー達が独裁に走らないか怯えている

そういう人物達は、社会を飛躍的に改善してくれるかも知れないが
致命的なまでにシステムを破壊し、踏み荒らす存在にもなり得るのだ

だから社会とか、組織とかいうものは、本質的には「おんな」かもしれない

それは、ロマンティックな、ドラマティックな飛翔を夢見つつ
実際には食虫植物の様に、密を吸いに来た「ミツバチ」を捕獲して食い尽くそうとする

・・・すべてが、アクロバットなドラマだ

「じゃあなんでブログなんて書いているんだ?」  っと叱られそうなタイトルなのだけれど
 「だから〝防備録〟なんじゃん!」  と言い訳するところから書き始めよう

・・・・

亡き父の口癖のひとつは
「他人の事なんてどうでも良いんだ!」  だった

わたしはこの言葉が嫌いだった・・・

父とは違ったメンタルの持ち主が、違ったニュアンスで言うならば
全く違った意味合いにも成るだろう

   ・・・しかし、父の場合、
     他人への冷淡さ、他人へのニヒリズムから出ていた言葉だった

父の死んだ歳に自分自身が近づいてくると、
父の言い放っていた気持ちがひしひしと伝わってくる

しかしわたしは父と同じ道を辿りたくは無かった
父のある種の他人への冷淡さ、社会への諦め、失望、被害者意識・・・

   ・・・「若さを失う」とは何か? わたしは息子として父を客観的に見守る立場に居た

     確かに世の中の〝世知辛さ〟や〝人は皆ひとり〟という感覚は
     年齢を重ねれば重ねる程、人は痛感していき、
     ある種の「ひねくれた」「諦めた」状況に陥りやすい

      それこそが、「老いる孤独」というものの正体なのかも知れない

でも、父の「人のことなんかどうでも良い」というのは、本当に真実なのか?

もう少し違った角度 ・・・ほんの少し違ったニュアンスの中に真実があるように思う

つまり、「どうでもいい」という捨て鉢に陥ったところは「老い」への一方通行だけれど
本当のところは「どうしようもない」ということではないだろうか?

・・・つまり、「他人というのは言葉や暴力で〝どうにかしようがある〟ものではない」
  っということだ

   お釈迦様に言わせれば「縁なき衆生は度しがたし」ってやつだ

   ・・・これは単純な「捨て鉢」とは一見似ている表現だが、その実はかなり違う


ひとりひとりの中には、(前世を仮定すればなおさら)膨大な過去の集積がある

それをわたしたちは「ことばひとつ」で簡単に修正可能だと思い込んでは居ないだろうか?
私はこのブログで、度々、「言葉の定義」に強く拘ってきたのもその点だ
「言葉の定義」というのには、人皆ひとりひとりのなかの莫大な歴史の中で培われている
それを安易に「似たようなモノ」と思い込んだ時、たった一言がそのひとの

  「トラウマを開ける鍵になっていた」  (いわゆる〝地雷〟を踏んだ)
               だなんて経験は、あなたには無いだろうか?

  ・・・わたしたちは、「言葉」を過信し、「常識」というものを
             無邪気に思い込みすぎていないだろうか?

ディスコミュニケーションとは、単純に「言葉が足りなかったから」と
   ・・・思い込んでいた時期がワタシニモアリマシタ

   ・・・だから必死に言葉を積み重ねていた
      ・・・・そんな時期がワタシニモアリマシタ 

   お釈迦様の言う「縁なき衆生は度しがたし」という言葉を
                 もっと徹底的に見つめてみる必要があるように思う

この言葉をわたしたちは時として・・・、いや、往々にして・・・
      相手を冷淡に見放し、相手を馬鹿呼ばわりして、
      その関係性から逃げ出すための言い訳に使っていないだろうか?

      「他人の理解不足への忍耐強さ」「粘り強さ」とは、
そのままかえって、自分自身の愚鈍さへの忍耐強さにも繋がってくることだ

・・・ここでいう「忍耐」とは
  かならずしも、「何とか相手に判らせ、説得する忍耐」を意図しているわけではない

 ひととひととは、
 単純に「言葉が論理的に伝われば・・・」わかり合える単純なモンじゃないってことだ

ディスコミュニケーションが人との間に起きたとき、
つまりそれ自体が問題の主題では無いのかもしれない

それで、「ふてくされ」「(説得、説明を)諦め」「関係性をぶん投げ」
              ・・・そして「老け込み」、「ヒキコモル」

  しかしそこで本当に大切な〝主題〟とは、「転換する」ことなんじゃないか?
  っということだ

百万遍言って聞かせても、百万年待っても
・・・人は変わらない、人とは分からない、わかってくれない「モノ」なんじゃ無いだろうか?

でも、そこで見直してみるべきなのは
「人との関係性」ではなく「接し方」でもなく・・・、

    「言葉やコモンセンスへの過信と押し付け」
    ・・・・そしてそこに渦巻く「判って欲しい」自分の期待それ自体じゃ無いだろうか?

なぜ?他人に「判って欲しい」「変わって欲しい」「理解して欲しい」のだろう?

その発生源に、自分自身の孤独感や独善性が隠れては居ないだろうか?

                    ・・・だからあくまでも〝防備録〟なのだ 
           こういうことは「わたし」が「わたし」に問いかけるべき事だから

ふてくされて引きこもった沈黙は、「死んだ沈黙」だ
          ・・・それは「頑迷なる老い」しかもたらさないだろう

でも、
他人への期待から自分自身が解放された時、
そこには「他人や社会への失望」なんてない・・・・

 そのとき人間関係は周辺の問題に過ぎない
  「政治」とは文字通りの「おまつり的」な問題に過ぎなくなる

 ・・・そこにある、ふくよかで生き生きとした沈黙の時間とは
   「説明しよう」とする焦りと緊張から離れて「ひとりあること」・・・なのでは?

  私たち人間は、言葉を話さない動物たちを自分達より「下等な存在」として
   平然と虐待し、奪い、殺し続けているが、
   「ものを言わない」ということが、イコール本当に「下等であること」なのだろうか?

   ・・・その傲慢さはもう私たちの文明全体に跳ね返ってきている気がしてならない

「はじめに言葉ありき」という聖書の言葉とは、少なくとも生物学的にはあり得ない
これはすくなくとも人間が道具を使ったり言葉で意思疎通をはじめたアトの歴史のことだ
人間が自然に挑戦しはじめ、動物から決別しようとした時からの歴史に違いない

そのまえまで私たちの先祖も、他の動物たちと同じ様に言葉を持たない存在としての
長い長い・・・  遙かに長い悠久の時を経てきたに違いない

 警官を見つめ呼ぶ素振りをするガチョウ。付いて行った先に待っていたものとは・・・?


なぜひとつ目なのか?mono+EYE 投稿者 maneel-katal

「広い島=三次元世界」を見下ろす
「長い崎=無限遠点」とは、「ひとつ目」という意味だ

 ヒロシマとナガサキに原爆が落とされる前と後とでは
人類の歴史は全く違う・・・  それはまさしく「ターニング・ポイント」だった

それは、それ以後
「ひとつ目=お金」によって、
この三次元に存在する全ては換算されることを意味する

そもそもこの「ひとつ目」の正体とはなんだろうか?

私達はこのピラミッド~三次元世界の中の住民であるというアイデンティティーで
日常を生きているが、それは「この肉体が私だ」ということだ

しかし、このピラミッドの世界の一体どこに「平和」はあるのか?

「幸福」はどこにあるのか?

じゃあ「戦争」は? 「悲惨さ」は?

わたしたちはこのピラミッドのなかの「いつかどこか」にあると思っている

でも、無限遠点の目からみれば、おのれの肉体も、その作用も含めた
この三次元世界全体が時間も空間もない小さなごま粒に見えるだろう

それゆえに「平和」も、「戦争」も、「幸福」も、「悲惨さ」も・・・
すべてはこのごま粒の中での物語なのだろう・・・

・・・わたしたちは、この不気味な「ひとつ目」に支配される憐れな家畜なのだろうか?

いや、ひょっとしてイルミナティーでさえも私達が自分で書いた地球生活での脚本の
「登場キャラクター」に過ぎないのでは無いだろうか?

かれらは、「シリウスから来た犬たち」に過ぎないのかも知れない

 DOG(犬)が忠実に従う「ISIS(イシス神)」GODもまた、
           ・・・私達が作り出した登場キャラクター??

コスミック・トリガー―イリュミナティ最後の秘密
ロバート・アントン ウィルソン
八幡書店
1994-04


・・・・「ひとつ目」とは、なんのことはない、私達自身の正体なのでは無いだろうか?

      ならば、戦争も平和も、安らぎも葛藤も・・・  すべてはいまここにある

      「 ヒロシマとナガサキ以後」とは
      「全てが完全な自己責任・・・皆が天皇、全てが神」という意識次元への
                あたらしい人類の歴史の幕開けだったのでは?

幸も不幸もみんな自分が決めている
小林正観|祝彩しゅくさいひめくりカレンダー17


祝彩ひめくりカレンダー17日

文・小林正観 画・斎灯サトル

祝彩しゅくさいひめくり17|小林正観ひめくり

祝彩しゅくさいひめくり17|小林正観ひめくりです

人生は自分が書いたシナリオどおり、
良くも悪くもなく、幸も不幸もない。

幸も不幸も みんな自分が決めている。 

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