We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年07月


なぜ?シンプルに呼吸を見つめるだけで、奇跡が起きるというのだろうか?

わたしたちは何か神秘的な現象というのはとても〝複雑な〟現象に違いないと考える
確かにリラックスというのは非常に複雑な現象なのだ

野生の動物たちにとっては「あるがままである」以外の在りようがない
そこには一切の選択肢が無い

人間には一見無限とも思える選択肢がある
そして「あるがまま」とは、その無限の選択肢の「どれかひとつ」にしか見えない
だからリラックスしようとすることは〝試み〟であり一見実に複雑な選択を通過する・・・

するとそこには、成功や達成と、失敗、間違った選択があることになる・・・

・・・しかし、本当はすべての選択は最終的には
  くつろぎがベースにあり、くつろぎがゴールでもある

             ※ これは「最も抵抗値が少ないところを探す」という
                   量子コンピューターの演算原理でもある

 そのことをヴィパサナは思い起こさせてくれるし、
  そのあらゆる複雑さへの理解があってはじめて
              わたしたちはヴィパサナの中に寛ぐことが出来る

 「完璧なくつろぎへのこだわり」が
  わたしたち人間を不完全でいびつなクリーチャーにしているのだ

  ・・・押し付けられた単純さとは「くつろぎ」ではなくファシズムだ
    それは新たな迷路を作り出すだけだ

ヴィパサナへの没入の中では、そんな「わたしという宇宙」の歴史が突如沈黙する
そのことを〝奇跡〟と呼ぶわけだ、

何かが〝起きる〟ことが奇跡なんじゃない・・・

だから〝精進〟とは努力ではないのだ、放縦でも無い・・・

昨日、友人のメールへの返信として、ふと〝精進〟という言葉を使った

「頑張ります」とも違う
  かといって
   だらけるとか怠けるわけでもない

それは単純な「集中」とも「弛緩」とも違う
       「努力」とも「放縦」とも違う

〝精進〟という禅寺の修行なんかで良く使うこの言葉は、まさしく
「弦を緩めるのでもなければむやみに締めすぎるのでもない・・・」

ただただ瞬間瞬間に油断なく、注意深く専念していくこと・・・

重要なのは「為すべき事の種類」でも、その重要性の「大小」でもない

  選択した一つ一つの関わりへのトータリティー(全面性)だ
  選択の中にあって分裂していないこと、選択のミスを悔やまないこと・・・

「ほかの -いつかどこかなにか?- のほうが良かったのじゃないか?」
そう浮き足立っていると、「いまここにあるもの」を全面的に味わうことが出来なくなる

  なんであれ、「それ」が「そう」であるならば「そう」なのだ・・・
        いまここにおいて、他に「どう」しようがあるというのだろう?

中道というのは、
まさしく到達点でも、到達すべき〝境地〟なのでもなく「いまここにあること」そのものだ

だれかに認めてもらう為に従事する行動ではなく
どこまで行っても動かない・・・〝行(ぎょう)〟そのもの、それが〝精進〟だと思う

【神の手】
職人が作った一切のゆがみがない「真球」を細い台の上で転がした結果が凄い!!

自分は移動もしないし、自分は変化もしません。
時計がいくら回転したところで 自分の時間は一秒たりとも進むことはないんです。

 パーソナルパワー (牧野内大史の公式ウェブサイト)
 タオタオ:相補対待という視点。
より

今朝ふと自分は・・・

「人生とは〝疲れる〟ものなのだ・・・」と思い込みすぎているのでは?と自分を疑った

もちろん!!そのとおり!!、人生は〝疲れる〟  ・・・それは別に間違ってはいない
そのことは今までの人生で証明されきっている

しかし、その事実にあまりに囚われ過ぎていなかっただろうか?

どんなものでも「使ったら使っただけ」消耗するものだ
しかし、「汲めども汲めども尽きぬエネルギー」というものもある

「使ったら減る」というのは人間の根源的な恐怖感と結びついている

中東の石油を略奪するために米国がしょっちゅう戦争しているのもそれだ
通貨とは本質的に借金だ・・・  マイナスの借用書・・・  それがお金の本質だ

だから紙幣を私立銀行群であるFRBが、自分勝手に印刷しまくると
インフレーションが発生してしまう・・・

いま、世界は「消耗する事への恐怖」に突き動かされている
そして同時に「消耗する事への快感」にも酔いしれている

・・・この「恐怖感と快感」とのペアーこそが、いま、環境を破壊し
 戦争をしないと数年以内にデフォルトしてしまう日本と世界の経済を追いやってきた

「世界の終わり」と「私の恐怖感」とは見事にリンクしている

「消費するとは枯渇すること」
これを誰が否定出来るだろうか?  これはあまりにもベーシックな物理法則だ

それを人間にも当てはめるなら
「生きるとは疲れることだ」っとなる

はたしてこの物質世界の中に一切の無限性は顕現しないのだろうか?
「肉体を持って生きること、生きていると言うこと」というのは有限性に縛られ続けること?

如何に強固な絶対性を帯びた真実も、
かならずその裏側には正反対の様に見える〝対極の真実〟があるものだ

それが、存在の神秘そのものではないか?

・・・勇気を持って正反対の真実の可能性を仮設してみるべきではないだろうか?

人はひとつの信念に取り憑かれたなら、
必ずそれを肯定するかの様な〝証拠〟が取り巻きはじめるものだ・・・

それはネガティブなものでもポジティブなものでも原則として同じだ
だから「神も仏もない」のではなく「神も仏もある」のだ

そしてまた「神や仏」が原因ではないともいえるし、
にもかかわらず「神や仏」を理由にもしたがるわたしたちの依存心がある

成功法則の教師達は、その根底に在るネガティビティーを転換せよと言っている

わたしたちは「ネガティブな多くの証拠」に取り囲まれて暮らしてきた

  「だから」

わたしたちはつぶやく

  「だから私の考え、観念は正しい・・・」

そしてそれらの「長年蓄積してきた証拠の数々」を指さす
しかし「別の観念」で生きてきた人は「別の証拠の数々」に囲まれて生きている

だから「証拠(過去)」とは、理由にはならないのだ
「理由」は私たちのさび付いた視座にある・・・

その視座が、恐怖でさび付いて柔軟性を失ったところにあるのだろう

乳ガン子宮ガンの共通の人格小林正観メッセージ235


別に自分の〝性別〟だけに限ったことじゃない
これは「自分のいまここ」に与えられたもの全てに言える

人が生まれてきたことによって求めうる野望とは
「自分のいまここ」から「いつかどこか」へ逃避し、「何か」に到達しようとすることだ

  ・・・人間のマインドの活動の大半はその為に忙殺されている

   それゆえに人間は自然界の生物にはあり得ないような巨大な不幸を抱えていて
   そのさらに最大の野望とは「悟ること」だろう

    本当は「悟ること」とは何か?誰もが曖昧なイメージしか持っていないのに
    人はそれを渇望する

    「この肉体へのアイデンティティーはニセモノで
     私はもっといつかどこかの、どこか彼方に自分の本性があるに違いない」

      と言うことだ  そして何か「超越的な体験」を求め続ける


しかし、最大の超越とは
「いつかどこかへの逃避への野心」の超越であり
「いまここへの帰還」こそが、人間が為し得る最大の跳躍~ジャンプだ

  だから、「悟りとは求めて得られるものでは無い」ということになる

     この命題は〝正しく〟もあり、〝間違って〟もいる


  よく、
  瀕死の極限状態を体験した人が「悟りの境地」を体験することがあるというのは
  だれもが聞いたことがある話だと思う

ゴーダマ・シッダルータもまた、6年間の極限的な苦行の果てに悟ったといわれている
それを外野席で眺める私たちは、これらの体験談から
「極限的な苦行体験そのもの」が「悟りをもたらす」という安易な公式を導き出す

・・・この公式を実践したのがオウム真理教だった

   こんな恐ろしい実例を日本人は目撃しているのにもかかわらず
   この思い込みは多くの悟りを求める人々にいまだ強く根付いている

でも実際の原理としては、
「生老病死を超越したい」という「いつかどこか」への強い憧憬の結果としての
強いテンションが瀕死の状態をつくり、その正反対の方向・・・
  ・・・・つまり「いまここ」に投げ返され、空なる洞察が得られたと言うだけだ

  「なんだ、超越すべき生も死も、エゴも、どこにもないじゃないか??」

原理は「輪ゴム鉄砲」と変わらない
ただし、野心というものが「外向きの射出」であるのに対し
唯一の「内向き」であるところが「輪ゴム鉄砲」と大きく異なる

実際にゴーダマが
「いつかどこか、彼方の極限・・・」で得られた洞察とは「いまここがすべて」ということだ

自分の足元に、どれ程祝福がすでにあったのか?
それは弦楽器の弦が「弛みすぎ(放心)ても、張りすぎ(緊張)ても」見えてこない~中道
また、「具体的に何かが理解出来た」ということでもない~空理

誰もが人間の達し得る最大の境地が「動物たちと同じ地点」であるなどと認めたくは無い
だからなぜゴーダマが悟った後、動物たちに語りかけることが出来る様になったのか?
その意味が理解出来ない

・・・きっと悟ったことによって得られた「超能力の一種だろう」というぐらいにしか思わない

人間のような「野心だらけ」の生物種が「いまここ」に完全に着地することなど滅多に無い

  人間はいつも空や海の先に憧れ、
    常にそういう乗り物を発明したり、UFOや宇宙人を探している

     だから、やぼったくみえる「感謝」やら、「自己受容」への重要性が
      現状に甘んじ、安易に「自己肯定」に酔っているようにしか見えない

     だから、「自己否定」して、「その次」に妥協すること無く邁進し、
       精進するべきなのだと教師達はいう

これもまた「正しく」もあり、「間違って」もいる・・・  だから見極めが難しい!

完全に「間違って」いるならば、人は誰もそこに長居はしない ・・・誰でも遅からず判る

ところが半分、「正しく」もある
死の限界の淵には「陰きわまって陽と転ずる」〝生の発見〟が有り得るのだ
だからこの極限まで行って生還してきた人を、私たちは「真実を垣間見てきた人」・・・
あるいは「悟りを得た人」「変容を成し遂げた人」なのではないかと思って敬うのだ

いま、科学や(得にIT)技術の発達は、
人間がいままで人の一生を掛けても得られないような極限的で豊かな体験を
出来る様になってきている・・・  

とくに今年はVR元年とも言われている

時代の加速がいよいよピークに達しつつある実証なのだと思う
これはドラッグの体験にも似て、それは「人生体験の限界的な濃縮化」だ・・・
多くの人を廃人にもするだろうし、また多くの人に「知性の爆発」を引き起こすだろう

〝シンギュラリティー〟とは人工知能に起きる前に、まず人間自身が体験するだろう

 でもそれは、決して「前人未踏の、未曾有の・・・」ことではないのだ

   バーチャルな「臨死体験」を人工的に得られるようになるのを待つまでもなく
       リアルな「いまここへの感謝」とは「生と死のボーダレスな世界」として
                   ・・・・ずっと私たちの目の前にあり続けたのだから

もし、世界中でただひとり、
・・・あなたの為だけの回答というものがあるならば
  あなたはそれを誰から手に入れられるだろうか?

もし、世界の中の誰か一人があなたのための回答の持ち主ならば
  あなたはその人を「唯一の運命の人、マスター、ソウルメイト」と呼ぶかも知れない

   そしてあなたはもちろん、いつかどこかで必ずその人と出会いたいと思うだろう

でももし、   ・・・もしそんな人など世界中のどこにも居なかったなら???

    運命の出会いの人など、存在しないのだとしたら?

   あなたの永遠の孤独をとろかせてくれるような理想の恋人など居ないとしたら?


  人生には〝良き〟友人、〝良き〟恋人、〝良き〟旅の道連れはいるかも知れない

   いや、きっとそういう人は一杯居居るだろう

    でも少なくとも 「あなたのためだけのただひとりの人」は居ないだろう
     そして同時に、「あなたは誰かのために生まれて来た人」ではないだろう

あなたの永遠の孤独を癒してくれる永遠のひと、約束の人など居ない
あなたのためだけの何かを、誰も知る由(よし)もない

  なぜならそれを知っているのは、
   ・・・完全に知っているのは、この世界でただ一人、あなた自身だけだからだ

もしあなたの運命の鍵を「他の誰か」が持っていて、
それをあなたはその人から投げ与えられるだけならば
   一体あなたには存在する意味、生まれた価値が一体あっただろうか?

そしてあなたは、
だれかから投げ与えられた「自分が存在する意味」に本当に満足出来るのだろうか?

・・・もしそんな馬鹿げたことを期待しているならば、まさしくその期待それ自体が・・・

    あなたを永遠の孤独に追いやっている原因そのものなのじゃ無いだろうか?

「完全な理解者などこの世にひとりもいない」ことが、
わたしたちの孤独の原因では無かったのだ 

「完全な理解者をこの世に求め初めて彷徨いだした」時から、
私たちは孤独の漆黒のクレバスに落下し続けていったのだ

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