We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年06月

わたしは若い時、占いや整体で喰っていた

プロでやっていくというのはそれなりに張り合いはあるし
その実務経験の結果、技術も理論も向上する・・・  一見良いことだらけだ

しかし、だんだんその「好きなことへの意欲」は〝すり減って〟きた
自分の「好きなこと」が摩耗していくのを目の当たりにすること程、残酷な人生は無い
よく成功哲学などでは「好きなことをしろ」というが私の場合は例外だったようだ

「あなた、本当に働くことが嫌いなんですね・・・」と
ある霊能力者から溜息交じりに言われたことが私の頭にこびりついている

・・・まさしくそういうことなのかも知れない
  まさしく「好きなこと」を換金し始めた時から、私に地獄が始まる

  すでにやったことに関しては全く悔いは無い

  占いにせよ整体にせよ、
  「お金をとってする」責任を負ってシビアな現場で実践することには
  おおきく得るものがあった・・・

  ・・・しかし「お金を取って商業ペースでやる」そのこと自体が
    ある種の限界を私に課してきた

    この限界点に達した時、ひどく自分を責めた記憶がある
    それは自分の移り気、プロとしての無責任さでは無いか?・・・っと

    でも結局は堪らない気持ちを抱いて廃業した

    ある程度は必要な体験だった・・・しかし、ある瞬間から
    「好き」でお金を取ることで、私の中の「それへの愛情」は窒息しはじめたのだ

この話は、誰にでも当てはまるとは思わない
でも、いままだ若い人の中に、私と同じタイプの人が居る可能性は大いにあると思う

そんな〝かれ〟〝かのじょ〟達に、このわたしの体験談を書き残しておきたいのだ

 たぶん〝あなたたち〟は私と似たタイプなのだろう
 ひょっとしたらまさしく今、過去の私と同じ「頭打ち」を感じて悶絶しているかも知れない

もはや「商業ペース」の中に「自分の愛情」を投げ込み続けることに限界を感じている人達

・・・かれらは、自分達を
「大人になりきれていないのじゃないか?、プロフェッショナル意識に欠陥があるのでは?」
っと、自分を責めているかもしれない、・・・かつての私の様に

でも、過去のその時の苦しかった自分を思い出すと、いまは痛ましい
あんなに自分を責める必要は無かった・・・  いまはそう確信を持って言える

「プロとして研鑽し続ける」と言うことばっかり、この社会では奨励されるだろう
「やめた~!」と投げ出すことは、「敗北である」と教える大人達ばかりだろう
社会は個人に常に、「終始一貫性」をもとめる、
教科書には「やり遂げろ」としか書いてない

   だから、これは命がけの転身だ
    その「命がけ」であることに一番意味がある

「愛がある」ときには愛すれば良い
「愛が無い」なら素直に離れるべきだ

・・・これは「全て」に言える

わたしたちは一方通行のカリキュラムの階段を上がるために生まれてきたのでは無い
一瞬一瞬が断崖絶壁の、何の命綱も無いステップの連続だ

「いまここ」の自分に正直に生きるとはそういうことだと思う・・・

・・・フォースの栄えあれ

2016年 06月 17日
なぜ山本太郎氏はペットボトルのラベルをはがすのか~芸能人が原発反対と言えない理由~講演会レポート 

「お金の本質って、つくづく〝信用〟だよね~」と先日から書きたいと思っていた

紙幣なんてその〝媒体〟に過ぎない
だから多くの決済がデジタル化しようとしつつある・・・

・・・媒体に問題が無ければ、
つまり信頼性があるシステムであれば紙幣や硬貨である必要など別に無い

なぜ人が群れたがるのかと言えば、究極的には互いの信頼関係の結びつきが
「お金同様か、あるいはそれ以上の価値」になり得るからだ

唯一絶対神の発想が薄い私たち日本人にとっては
人間関係ほど手応えのある価値に匹敵するものなどなかなか無い

だから日本では
モラルというか、民度の高い、思いやりがある社会を形成しやすかったけれど
欧米的な個人契約的な厳しさに欠ける

個人同士の人間関係や個人と会社組織との間にも
ある種の「馴れ合い」や「甘え」、
「暗黙の了承」で事が進行しやすく、「ムラ社会」になりやすい

しかもそういう社会構造がずぅ~っと続いていることによって、
日本社会はそれが空気のように当たり前になってしまっている

社会組織に対してもその社会責任を人格的な情緒で見てしまい、 
「きっちりと責任を取らせる」と言うことに関してもムードが優先してしまう

        日本の社会では「空気」や「ムード」は鋼鉄の壁にまさる

・・・はっきりいって日本人とはとことん民主主義が向いていない人種だ
  江戸時代の様に「責任者は腹を切る」ほうが
  よっぽど組織の腐敗を防げるスッキリとした「覚悟の社会」を再建出来るだろう

    バレなけりゃ何やっても良い、バレても命に別状は無い
    時間と場所をちょいと改めれば、叉何度でもワルイコト出来る・・・

    ・・・ 情緒社会と経済最優先の合理主義との最悪な部分の組み合わせが
       いまの日本社会全体を覆っている

          そういう社会に慣れきったのが現在の老人世代であり、
             だから彼らがこの社会体質の変化を一番阻んでいる

立ち返ってみれば
本当は人の命など、一本の蜘蛛の糸で細々と繋がっているに過ぎない
誰の命もそれに違いは無い・・・そのヒリヒリとした自覚を一瞬一瞬忘れないことが全てだ

「人が滅多に死なない」社会が人々を眠らせている・・・
いや、すでに国土の三分の一が放射能に汚染されても眠り続けている

「お金」でさえ、
実際にはその一本の蜘蛛の糸に操られている
 だから「人間関係」でさえその運命の媒体、影に過ぎない

「相互依存のため」のあらゆる「横の糸(意図)」は、
1人に一本ずつ垂れている「縦の糸」が繋がっていてこそ強靱なのだ・・・

・・・つなぎ目の要所要所のどこか一点がプツリと途切れれば、
      縦横無尽な鉄壁に見える蜘蛛の巣全体の構造に
       大きな歪みがあっという間に広がり、全てが決壊する

・・・今日本という巨大な脆いドミノ倒しが起きようとしている
   きっとそれは誰もが感じているだろうが、
  でもだからといってそれで「横の糸」をどれ程強化しようがそれはおかとちがいだ・・・

シッカリと感じ取らなければいけないのは「横の糸」じゃない・・・
天と一対一で繋がっている自分自身の唯一、いっぽんで繋がっている「縦の糸」だ・・・

ディヤン ムディト ― JOY

全世界を、知ることも、
自らの生の、内なる神秘を、知ることに比べれば、無に、等しい。

OSHO:「ゴールド・ナゲッツ」(和尚エンタープライズジャパン)

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今朝変な夢を見た

夢の中で、わたしは映画「ターミネーター」のジョン・コナーだった

 私の傍らに「不審な反応をする男」がいた
殆どは一見自然な反応なのに、人間の「突拍子の無い」行動を見た時
急に不自然な、無機的な反応をするのだ・・・

わたしは「あ、こいつ液体金属ターミネーターだ!」と見抜く

ところが不思議なのは、彼はわたしに襲いかかってこない

夢の中の私は、その理由を探るために〝彼〟のこころの中にダイブしてみた・・・  すると・・・

  かれは元々は私を暗殺に来た

 しかし、単純に「私個人」ではなく、
 「私が組織するレジスタンス組織」全体の壊滅が目的だった 

 なので、単純に私を殺すのでは無く
 「組織全体を壊滅するために最も効率的な方法は何か?」
 を模索するために、私のそばに居ながらも、私を殺さずに
 全体の状況を観察することに徹していたのだ

・・・なるほど、である

そしてシュワちゃん型の「目的突進型」のターミネーターでは無く
この液体型のターミネーターは、「全体的な判断」を得意としていた

その結果、当初与えられていた単純な「暗殺司令」を無視して
「すべてにとって最高の結果とは何か?」を模索しはじめたのだ 

わたしは今朝、この奇妙な夢を朝のベッドで反芻していた
 
それで昨夜眠る直前、NHKの番組「欲望の資本主義」を観たのを思いだし、
それと連動した夢だと気が付いた・・・

「個々人の欲望の衝突、需要と供給のバランスが、〝見えざる手〟によって
 自動的に保たれる・・・」っとアダム・スミスは考えた

しかし番組の終盤では、同じアダム・スミスが「人と人との共感的な要素が市場に働く」
というまるで正反対な説を、「資本論」の前にすでに発表していたことを紹介していた

「これはまるで自己分裂ですよ!」とコメンテーターは言う

「でも、そういう〝二足歩行〟が資本主義の原理かも知れません」というのが
番組の締めくくりであり、なかなか興味深かった

私を殺しに来た液体ターミネーターとは、
その二足歩行の資本主義の〝写し身=アバター〟としてあらわれたのかも知れない

片足が「飽くなき欲望」という怪物の原理
もう片足が「共感と共存意識」という愛の原理

なぜ?、
わたし自身の試行錯誤の〝ヒント〟の様に、
わたしはそんな夢を〝見せられた〟のだろうか?

・・・まるで私の中にもうひとりの私が〝マスター=師〟として存在しているかのようだ

  でも、その〝マスター〟とは、単に私より〝偉い〟存在なのでは無く
  ある時は、わたしの友人、叉ある時は恋人、わたしの教師・・・・、
  そして叉ある時は、私の・・・、〝暗殺者〟なのかもしれない 

そう、液体ターミネーターとは、私の内なるマスターの姿そのものかも知れない

人間社会が資本主義を見いだした
しかし、それは最初は単純な〝道具〟単純な〝方法論〟であったけれど
だんだん巨大で複雑な〝システム〟として、個々人の運命を飲み込んでいくようになった
                     ・・・まるで、映画「マトリックス」のように

〝方法論〟はどんどんグニャグニャと姿を変えながら進化していき、暴走していく

・・・まるで生き物のように  ・・・いや、ひょっとして「生きている」のではないか?
それ独自の意思や知性を持ち始めるのではないか?

それが映画「ターミネーター」や「マトリックス」のテーマだが
 〝彼ら〟が生きているように見えるのは、
  それは私たち自身の〝投影〟だからなのかもしれない 

 わたしたちがフィクションを描き出す時、
 その舞台設定や、登場人物のキャラクター設定によって、
  〝彼ら〟はある意味ではわたしたちの〝影〟として生命を吹き込まれる

  ・・・そして、なかばオートマティックに、彼ら独自の物語を勝手に進行させはじめる

  かれらが独自の生命と、知性と、意思を持っている証拠として
  かれらの物語は、作者である人間の思惑をも外れて、意外な物語を紡ぎ出す

    彼ら・・・、は時として作者の知恵をも超えて、読者達に勝手に語り出す

  だから彼が・・・、たんなる「私たちの投影に過ぎない」はずの彼らが
  そもそもが私たちの「内なるマスター」の実体化ではないとは言い切れないのだ

わたしたちの〝被造物〟とは、広い意味ではわたしたちの〝子孫〟であるとも言える
その〝子供〟に・・・ 「負うた子に教えられ・・・」っということが、「無い」とは断言できない

自分自身の
「マスターであること」と、「弟子であること」とはヌース的には「対化」なのだから・・・

 2015年05月19日

うたしごよみ8日|ちょうどいい小林正観カレンダーより

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【ちょうどいい】

全てがあなたにちょうどいい。

  ~父母も子も、
  ~夫も妻も兄弟も。
  ~上司も部下も友人も。

   ・・・全てがあなたにちょうどいい。

~釈迦の言葉~

「同質異体」的な発想で、
「全てが愛です」「全てが神です」と言った場合
それは「統一原理による支配」を意味する
それが〝統一教会〟のようなカルト宗教の根幹になっている

そして信者達は、「良かれと信じて」すべての統一を目指して多様性を破壊していく

何かひとつの真理、何かひとつの統一原理だけで全てを説明し、統制しようとする時
この多様性や、個々のユニークさ、ユニークな観点は踏みつぶされてゆく

その行き着く先が
母性的な多様性と微妙な相互依存性で成り立つ自然環境の破壊でもある

「全てが愛」と言った場合、
「同質異体」的な意味合いでいう場合と「異質同体」的な意味でいう場合とがある
「同質異体」から「異質同体」へ・・・(自分教ガイド)

わたしは後者の意味合いを込めて、「全ては愛だよね」っといいたい

タロットでも「3」という数字は「女帝」つまり、「母性」のイメージで語られているように
一次元が「隔たり」、二次元が「広がり」ならば、三次元の「膨らみ」とは
母の子宮であり、乳房がもっとも象徴しているように思える

母の乳房を無心で吸う赤ん坊とは「膨らみ」と「膨らみ」との密着した姿だ
三次元と三次元との〝ぴったり寄り添う〟ところに二次元の「広がり」がある

空間というのはこの「360度あらゆる方向からのぴったりの密着性」・・・・・

  ・・・・つまりは〝球体的に過不足無く取り囲む調和〟が
         ギッシリ詰まっているのでは無いか?

   それが、「共に息づいている空間」こそが、私にとっての「愛の定義」だ



窓の外に
  慰めを求めないこと・・・
   癒やしを期待しないこと・・・

    責任転嫁をしないこと・・・

自己責任に目覚めていない人は「寂しい」「心細い」
そして、窓の外に愛を求める

・・・「求めて」「得られた」愛とは、実際には同情だ
  〝与えて〟くれた人がどういう意図で与えたのかは関係なく
   ・・・たとえ真実の愛をもっているひとが真実の愛を投げかけても
     受け取った人にとって、それは「同情」へと腐敗してしまう

      だから「愛を求める人」は受け取っても受け取っても渇いている

「愛を求める人」は「完全な理解」を求める
しかし、「完全な理解」が出来るのは、そのひとと完全に〝同質〟の人であり
そんなのは一卵性双生児の兄弟であっても、ある意味は不可能だ

地獄とは何か?悪とは何か?と問うならば、「異体に同質を期待すること」だ
そこに無限の依存心(甘え)、無限の期待、希望、理想がある

・・・その無限の欲求が充たされないことを悟った時
   そこには無限の絶望が、底なしの暗黒の怒り、悲しみ、苦しみが生じる

本当に他者からの理解や共感が意味を持ち、価値を持つのは
「異質な観点の角度」から、それが得られた時のみだ

  「異質な観点」であるのにも関わらず、そこに共感がある時
    その奥底には無限大の〝同体〟の一側面が見え始める・・・

 それは、日本的な「和」の単なる、馴れ合い、うなずき合いでは得られないタッチだ

   ・・・そこに、「異質な他者」が存在することの意義深さがあり
     「異質な者達」と、この世界で暮らし、分離感を乗り越えていく挑戦がある

友人や知人に
「おめ~なんか、知らね~ずら!」と言い放つと
「何ぁんか冷た~い!」と叱られるかも知れない 

でも、友人や知人、いや、親子、兄弟、恋人、夫婦であれ、
「知らない」~つまり未知の部分があるからこそ、その自覚で互いに尊重し合える

「おめ~のことなんか分かってる、すべてまるっとお見通しだ!」

というならば、それは相手の尊厳を踏みにじることなのだ
これは親族、身内など、社会的距離感が小さな者同士でよく起きる「領界侵犯」だ

わたしたちは「知っている」「馴染んでいる」ことに親しみを覚える
相手を〝既知〟の存在だと思い込むことで、安心する・・・

   その「安心感」のことを多くの場合「信頼」と呼ぶが、
    それは実際のところ「信頼」じゃなく「信用」に過ぎない

「信頼」とは、何か根拠があってのことじゃない、理屈抜き、条件付け、過去とは関係ない
でも、「信用」というのは過去の条件付け、蓄積、実績が全てだ

動物たちが自分の縄張りや群れを、得てしてその様な根拠に基づいて形成するように
人間も叉、「主義思想が同じ」であるとか、「共有した過去がある」といった信用関係で
ある種の囲い込み、縄張り、「敵と味方との境界線」を形成する

         ・・・それが、自然界の自然な営みだった

その原則が変わってしまうわけでは無いが、でも、だんだんと「そうではない」部分での
「理屈では無い」信頼関係が、時としては種族を超えてさえ形成されつつある

「知らない」ことが恐怖の対象では無く、「新鮮さ」、「好奇心」であったり、
「相互の差異の尊重」の源泉となることが、「ワクワク」へと転換される・・・

・・・いままさにそんな時代が訪れようとしているのじゃ無いだろうか?

「知っている」 ことによって「縄張りの観球」を形成する試みがいままでの「生存競争」だった
でも、本当は「知らないことの自覚」こそが「完全な観球」を形成する上で不可欠だと思う 

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