We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年06月

オープニング映像から紐解く☆NOOS初心レクチャー
【 NOOS LECTURE OPV Navi 】



ヌース用語の概念理解をひとつひとつ徹底的に追いかけるよりも、
イマジネーション的に概略をつまんでいく方が理解は進みやすいかも知れないとのこと

無限遠点の(ワンネスの?)目が眠っている間、「青い光」だけがあった

「開眼」によって「見る者(負荷)noos=奇数観察子:ワタシ」となり、
それは即座に「見られる者(反映)nos=偶数観察子:アナタ(の客観的?視点)」を生む

「ワタシとアナタ」との観察視点の差異は立体的世界認識を生じさせる

「ワタシとアナタ」との差異を「白と黒」に例えれば
その互いの個別的差異を尊重しつつ「統合」していくのが「等化」
「白と黒とを混ぜ合わせて灰色にする」様に妥協的にブレンドするのが「中和」

往々にして「等化」は高度で難しいために「中和」が行われる

立体的世界認識が出来るということは、我々はすでに四次元に居ると言うこと
その(最低でも)一つ上の次元の存在で無ければ、
その次元を「裏返してみる」事が出来ない

たとえば我々が平面存在であればA点からB点までの「距離=一次元情報」しか
把握出来ず、A点からB点までの間に平面図形が描かれていても、
同一平面上の私たちには「図形」として認識出来ないはずである
(※ ナスカの地上絵など)

立方体の対角線を透視して三次元を平面的に折りたたんでみる時
X軸、Y軸、Z軸のいずれに対しても、その垂線から視座出来るが故に
それは「四次元的な観察ポイント」だと言える

https://pbs.twimg.com/media/BK3XBFfCMAMlXIO.jpg

これは「アナタ」という視点からも言える

私たちは通常、両眼でものを見ているために
一つの脳内で「ワタシとアナタ」の視点を持ってものごとを立体視しているため
「自分はこの立体世界の中に閉じ込められて生活している肉体存在だ」という
アイデンティティーに蹂躙されているが、〝無限遠点〟においてはこの立体視が
無効になる為に二つの目は「一つ目」の視点に統合される

個人で内包している左右両眼の十数センチの視界の差異によって
実感可能な距離感はせいぜい数メートルで、そこからさきの遠近感やスケール感は
「見た目の大きさ」の比較だけで類推しているに過ぎない

本当は遠くにあるのに異様に大きいものは「近く」に見えるし
その逆に目の前にあるものでも精密に小さく作ってあるものは「大きく」錯覚する
・・・つまりスケール感が狂う

一見普通の高校生の部屋かと思ったら…まさかの展開にビックリ!



この「無限遠点のプロミネンスのひとつ目」からみると「三次元」はすべてパソコンの画面のような
〝ピクチャー〟へと二次元化され、それを「不動の視点」で見ていることになる

たとえばスターバックスを背景とした星は
実質的に無限遠点であるためにわたしたちは立体視出来ず、
「無限の遠くの二次元画面に張り付いた点」にしか見えない

通常、星のように遠くの物体は小さく、動きも緩慢にしか見えないが
わたしたちは両眼の視覚情報を統合してみているために
それが「二枚のピクチャー」~つまり平面を見ていることを忘れて
近距離の激しく大きく動くものを「近くの物体」として認識している

二次元の左右両眼用の二枚の動画を整合性を持たせて高速で描写して見せることで
脳は架空の三次元の中に没入してしまう・・・これがVRというわけだ

つまり、自分自身の肉体感覚を含め、三次元空間上のあらゆる感覚は
「情報~水の言葉」が与えられるだけで再現可能なわけで・・・



・・・つまりわたしたちは
  「三次元世界を裏返してみることが出来る四次元認識」を持ちながらも
  「三次元ホログラフィックの中に夢観て創造した自分のアバターに没入してしまい
                その中に囚われてしまった無限遠点のひとつ目」
と言うべき存在かも知れない

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ある平和集会への勧誘を見て思ったことだった・・・

  「平和を実現したい方はこちら」とばかりに会場への指をさしている

 彼らの志を悪く言いたくは無い  ・・・平和への想いは尊重したい

 しかし、平和は名詞でも動詞でもなく〝形容詞〟だとおもう

そこに
具体的に何かがあるということが平和ではないし
具体的に何かをすること、実現することが平和でも無い 

   「何も起きていない、ただ在るべきものがある様にあること」
   ・・・そういった、すべてがのどかに、自然な、それぞれの中心にある状態が
                             平和だと思う

だからどこかを指さし、その先に平和があるのでは無い

        「平和」という言葉は、
        私たちの本性を形容する言葉の一つだと思う

平和は常にいまここにある・・・それ以外のどこにも無い
 戦さのまっただ中にあっても平和はある
     日本の武士道の真髄はそこにある


 瞑想とは、何かを「する」行為を指さしている言葉では無い
  「何かをしていても、何もしていない」状態、であるとおもう
   だからエンライトメントを含め、「何かを実現する」ためのメソッドでも無い

努力しない努力」というのは初めのうちだけだ

  はじめは「努力しない」ということに努力が必要だ、
   「なにかをしなきゃマズいんじゃないか?」
     とそわそわウズウズする習慣が私たちにこびりついているからだ
 
   何もしなくても良いと実感できるまでに、
    最初は苛立たされ 、次に退屈し、不安になる
    そして中心にある静寂な空間に辿り着く前に、孤独と恐怖感に襲われる

   この「努力しない努力」を達成するまでは、理知的な試行錯誤は有用だと思う
          なぜならこういう「なにかしなけりゃ」という脅迫神経症も
               知的なレベルで私たちに侵入してきたからだ

 だから「トゲを抜くためのトゲ」として、ノーマインドへの知的な理解は意味がある


   しかし最後には小さな一歩への大きな勇気が必要だ

世界中でたったひとりになる勇気

世界中に無数にある様々な・・・

   ・・・「有益な情報」 ・・・「素敵なストーリー」

〝あなたをワクワクさせる〟と称する、さまざまな・・・

   ・・・「アトラクション、セミナー、イベント、未知の出会い」

これらが、あなたを中心の静寂に近づかないようにあなたを連れ出しに来る
 その中には「平和集会」だの「瞑想の集い」への誘いの矢印も含まれる

   しかし、あらゆる「指さす指の先」には平和も、瞑想も、沈黙も無い
    看板に書かれた「平和、瞑想、沈黙・・・」すべては方便に過ぎない

   集うこと、シェアリングというのはあくまでも
   「シェアすべき」歓喜が湧き出ている人にのみ偽善のない言葉になる


マインドにとっては、「その為の方法論」のほうが「それ自身」よりも分かりやすい
しかし、「方法論」を辿っていっても、その先はまた「方法論」が継ぎ足されるだけだ
そして道はどんどん複雑多岐になって、さらにそのひとつひとつが延々と続いていく
         ・・・「平和」どころか、バーゲンセールからの帰宅のように
             わたしたちはますます泥のように疲れ果ててゆく

もし、「方法論」の先に平和があるならば、とっくに全人類に平和が訪れているだろう
しかし「平和を実現させよう」とする、その「良き意図」そのものが
私たちから「内なる静寂」を見失わせてきたのだ

そして「内なる静寂」を見つけられない人々が平和を見つけることは無い
「名詞としての平和、動詞としての平和」を探していると言うことは
実際には「平和からの逃避」だからだ・・・
・・・それはマインドが「内なる静寂」から逃避するための策略だからだ

「追い求める」ことも「逃避する」こともなく、立ち止まった時に、それがある

2016/06/07
「こんなクズ、産むんじゃなかった」と嘆く母親に対しての名回答が話題に!
子どもへの接し方についても考えさせられたコラム
http://select.mamastar.jp/113128
2016-06-10
「ガッカリされる恐怖」を乗り越えると、またひとつ自分を好きになれる。
http://center-muscle.hateblo.jp/entry/2016/06/10/132009

以前の記事で「自己肯定と自己受容との違い」を書いたけれど
またちょっと書き直してみる

「自己肯定」の裏側には、常に「自己否定」が付いている

他人からの期待に「答えられれば」自分自身を〝肯定〟し
他人の期待を「裏切る」と自己否定が待ち受けている・・・

このリスクを一種のモチベーションに変換出来るチャレンジ精神を持った人は
この自己否定の「恐怖」を「ワクワク」に転換出来る人で
そういうタフな人ならば、例え他人の期待に報いることが出来なくても
笑い飛ばす事が出来るだろう---そんなチャレンジを純粋に楽しむ人は
その結果が成功だろうが失敗だろうが、自己の「肯定」だの「否定」だの無関係だろう

しかし、そうはいっても勝敗、成否へのワクワク感は、どうしても結果主義に陥りやすい
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でも、「ワクワク」にはもう一種類のタイプがある

それは「のるかそるか?」というスリルへのワクワクではなく
自己受容に充たされることによって自然に湧き上がるワクワク・・・
自分自身への無条件の愛がもたらすワクワクだ

「自己肯定」と「自己受容」とは字面的にはなんだか似たように見えるが
「自己肯定」とは「自己否定」を跳ね返した時の「俺はやれるぜ!」という
コンプレックスとの闘いの勝利のことだ

しかし、「自己受容」というのには条件は要らない・・・無条件の赦し、抱擁だ
ここでいう〝自己〟とは、ありのままの、素顔の自己のことだ
飾り立てた自己を受容したとしても、それは本当の自己受容とは言えないからだ

もしそれが出来たなら、その人は〝超伝導体〟になる
「素直な自分自身に対して抵抗値ゼロ」になるということはこの宇宙での最大の奇跡だ

なぜならそこでカルマは終息へと向かうだろうから
人はそこでもう、「自己を肯定するために他人の期待にこたえよう」としたりしなくなる
そしてもう「否定と肯定との波紋のカルマ」に関心を向けないからだ

真実とは常に良く似たものと紙一重のところにある

しかし実際には
努力して目標や理想を達成したことによるマッチョな自分を肯定したとしても、
それを「受容した」とは表現出来ない・・・その「条件付き自己肯定」とは
麻薬のように永遠に次の目標へと人を追い立て続けるだろう・・・

「自己肯定」か? 「自己受容」か?

それは一見紛らわしく、それゆえに多くの人が自己肯定感を得ようとして
生涯をすり減らして終わっていく・・・

   人に必要なのは
       人の心に革命を起こすのは
                          「肯定」ではない、「受容」だ

夢の世界が私たちが共同生活している、いわゆるこの〝三次元現実〟と大きく違うのは
継続性と限定性という要素ゆえにだと思う

もし、「人生の目的は〝無〟を悟ること」ならば、
それは継続性(時間)や限定性(空間)の喝破なのだから「眠り」に近い状況だろう

ただ、
精神的な内向による継続性や限定性から離れると言うだけなら「眠れば良い」

ただ、
この世の中でのアイデンティティーを脱ぎ捨てたり、執着を捨てるだけで
「悟り」に近づけるならば、「世捨て人」の方向に向かって一直線に突進すれば良い
 
あらゆる制限も継続性も忘れてとりとめの無い夢の世界を飛び回るなら
心理的なストレスから解放されるわけだし、それは事実私たちが毎晩体験している

いや、でも「それが悟り」だというなら
そもそもはじめから「肉体自我に縛られる」という体験が何故必要なのだろうか? 

バシャールは、地球人が認識する「夢と現実」とは認識が逆転していると言っている
わたしたちが「夢見ている状態」というのが実は現実~(つまり覚醒状態)で
わたしたちが「覚醒している状態」と思っている日常の肉体生活こそが「夢なんです」と
バシャールはいう

だからわたしたちが肉体から去った、「無」の世界、「死後の世界」とは
  バシャールが言うところの「覚醒した状態」とは、つまり・・・
    ・・・私たちが言うところの「夢見ている状態」が非常に近い様だ

そこでは「継続性と限定性」というガチガチの法則から私たちの意識は解放される

今私たちの社会は危機に瀕していて、
その「継続性と限定性」はますます私たちを苦しめている
だからこの「ハードモードの世界」の苦しみに絶望して「ログアウト」してしまう人も多い

 もし「無の世界に帰ること」がイコール「悟り」なのならば
  自殺とは「悟りへの直行便」だと言うことになってしまう
            ・・・それはやはり違和感のある結論だ


つまり言いたいことは、単純に「無へ帰る」ことが悟りなのでも無ければ
この肉体を持った人生を体験することの目的でもないようだ・・・ということだ

この「継続性と限定性」を振り払うこともなく、そこから逃避することもなく
それを〝保持したまま〟私たちのふる里「無の世界」を「いまここ」に見いだせるか?
っということは、「悟る」ということとは何か?を憶測する上で・・・
・・・ひとつの大きな要素かも知れない

「肉体を保持したまま、〝無〟のパラダイスを思い出す」

そうする事によって、この肉体世界も叉、そのままパラダイスに変えることが出来る
そこに「霊的な勝利」と言うべきものがあるのかも知れない

つまり、「パラダイスに帰る」のではなく「自分の肉体をパラダイスとの通路にする」ことだ

「あらゆるものに、すでに仏性が宿っている」のだとしたら
「肉体を持って生きている」それ自体で
すでに「パラダイスとのパイプラインの役目を私たちは果たしていると言える

しかしわたしたちの苦しみとは、「その自覚が無い」ことだ

「自分という存在そのものが、すでにパラダイスとの通路の役目を果たしている」

・・・もしそう自覚できたなら、
私たちは今後の人生を、どれ程自尊心の歓びに充たされて生きていけることだろうか?



「危機はどこにあるのか?」と、ぐるりと見渡しているとき、
すでに私たちは見逃している

危機は常に「いま、ここ」にある
そして、その答えも「いま、ここ」にある  ・・・外には無い、

 責任は〝誰か〟にはない、
  問題は〝どこか〟にあるわけではない
      戦争は「いつかどこか」で起きるのでは無い

  「これだけ長い間の人類の苦しみの歴史で、
   人は葛藤を何故終わらせられないのでしょうか?」

しかし
いったいなぜそれを、誰かに問うのだろうか?
なぜどこかに答えが見つかるだなんて思ったのだろうか?

   ・・・なんでわたしたちは問い続けてばかりいるんだろうか?

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