We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年06月


すべての分離はあなたの錯覚~ナイト・アンド・デイ 投稿者 maneel-katal

「あなたは大変良いタイミングで生まれてきた・・・
 古い家制度はその根拠を失っている

  なんであなたは誰かのコピーとして生きようとするのだ?
  今度こそ、自分自身のオリジナリティーの中に帰還するべきだ」

「古い家制度の終わりの始まり」という「その時歴史が動いた」一つのポイントは
日本の敗戦と天皇陛下の人間宣言だといって、差し支えないだろう

それまでの人の生き様とは、主に「先祖代々引き継いだ歴史の伝承と改善」にあった

〝個人〟の生きる喜びや表現というのはあくまでもその範囲の中でのみ許されていた

「個人は何故生まれてきたのか?」
それは、家族の絆の中に生まれた時から答えが用意されていた

しかし日本の主要都市が焼け野原にされ、原爆を二発投下され
そして、天皇を現人神とする精神的な支柱を失い、
私たち日本人は、物理的にも精神的にも「家」を失ってしまったのだ

もはや「天皇陛下を精神的支柱とした家」はない
それに替わって〝民主主義~ひとりひとりが人生の主人公〟という時代が来た
それは「封建的搾取もなければ差別も無い、カミナリ親父も消えていった・・・」
それは一見、光の時代の到来に見えるのだけれど、
「あまりにも歴史が古く、完成度が高い〝家制度〟」に慣れ親しんだ日本人にとって
「個々人の自由と自己責任」というのは、「鎖からの解放」というよりも「家からの放逐」だった

OSHOがいう「第三の目を開いた自分自身への家路」をもっとも必要としているのは
私たち日本人だと思う  ・・・世界中のどの民族よりも「家を失った嘆き」を感じている

たしかに世界中には「祖国を失って放浪した」民族は沢山いたが
日本程「快適で、安定した家」を失った経験をした民族は古今東西を通じてないだろう

・・・だからこそ、その〝嘆き〟も地獄の底に達する程深い

   それゆえに歴史的にも浅い「民主主義」との付き合いを
   私たち日本人はいまだ、受け止め切れているとは思えない

それゆえに、「議会制民主主義」という〝偽善〟をつかって
戦後70年、・・・・これ程までに奴隷的だった「敗戦後の民族」はいなかっただろう

いま、安倍政権によってその総決算がなされようとしている

つまり、「君達はずっと奴隷化の道を歩んできたのだよ」という宣告だ 

先日、ある女性と「プライド」ということでちょっとした論争があった

これを彼女は「馬鹿な男のプライドだ」といったのがキッカケだった

「いや、こんなのに〝プライド〟だなんていう言葉を使うのはおかしい」っとわたし
結局のところ彼女は素直に訂正してくれた

・・・・まさしくこの〝素直さ〟〝潔さ〟こそが、わたしが言うところの〝プライド〟である

桝添の
「やりっ放しで逃げる」という態度は「気位の高さ、驕慢、無責任さ」であって
「男の誇り」とは正反対だ

しかし「沽券へのこだわり」と、「誇り」とは、日常ではよく混同される
   ・・・で、あるがゆえに彼女も上記の様な表現をしたのだろう

人間の言葉というのは生き物で、
ひとりひとりの生きてきた過程の中で言葉は意味づけされる
だから、ある人物がどの様な定義で言葉を使っているかは、
そのままその人の「生き様」そのものを表現している

そういう意味では、ひとりひとり言葉の定義とは微妙に違っているものであり
わたしの「プライド」という言葉の定義に対するこだわりが絶対普遍のものだとは言わない

しかし、言葉の奥に秘められた響きには普遍的な意味合い・・・
・・・ヌーソロジー的に言えば「クオリア」と呼び得るものが秘められていると思う


三宅洋平氏の街頭演説が注目を浴びている・・・・

「---本当の保守ってのは、国家の暴走から、国を守る奴ら。
 じゃあ国って何だ?国体じゃない。皇家でもない。俺たちだよ。---」

結果論としては彼の言葉に賛成だ
しかし、かれは「国体」という言葉を分かっていて使っているのだろうか?

それとも、曖昧なまま、興味すら無いまま、
単なるアジテーションのために、この言葉を引っ張り出しているのでは無いだろうか?

かれはこうも言っている

「---創価学会の人すごいぜ、選挙のとき。
  100人でも300人でも電話するんだよ、友だちに。
  それでどうなる?200人くらいに嫌われちゃうんだよ
  『まーた電話かかってきた、あいつ選挙の時ばっかり』って。
  それでも、自分たちの思いを果たしてくれるのは公明党だって、
  信じて、何十年も何十年も そういうことくり返してきたんだよ。---」

「---日本会議だって一緒だよ。
  利権?利害?それも絡んでるかもしれない。
  だけど俺はいろいろ調べてみたら、あれは想いだよ。---」

 彼がここまで言うのなら、当然、〝国体とは何か?〟彼なりに理解しているハズだ
それを前提とするならば、彼の言葉に素直に賛同出来る

わたし自身、「国体」という言葉の意味を十分理解しているとは思わない
しかし「家紋」という言葉を手がかりに私なりに「国体」という言葉の真意を類推している

家紋というのは戦場において
「わたしはこの家紋に恥じないように正々堂々と闘う」
っという誓いの象徴なのだそうだ

まさしく「命がけの誇り」こそが「家紋」の意味するところであり
そういう視点で見てみると、平和を至上価値として疑わない現代の私たちにも
稲田朋美の「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」っという
言葉の根拠が垣間見えてこないだろうか?

これは武家だけのことでは無い
時代劇では無くても「暖簾を背負う」という言葉ぐらいは
現代でも時々聞ける台詞じゃ無いだろうか ?

つまり、士農工商、いずれの職業にせよ、私たち日本人のバックボーンにあるのは
「先祖代々からの信頼関係、誇り、名誉」である

その「お家制度」の頂点にあるのが「天皇陛下だ」となってくれば
阿南陸軍大臣が「ただただ国体護持を思って・・・」という言葉に
総理大臣が肯くやり取り
も見えてくる・・・・

私たちは、文化大革命で文化人、教養人を根絶やしにしてしまった中国人とは違う
例え自らの命の危機に遭ったにせよ、卑怯なことはしない、秩序は乱さない
火事場泥棒などと言う卑劣なことはしない・・・・

〝国体〟という言葉には、
「日本人が各人の命よりも大切な〝人間として生きる誇り〟」が込められていたのだ
そして「人間らしく死ぬことの〝祈り〟」が・・・・

このキーワードは、敗戦後意図的に教えられなくなってしまった
このキーワードがブラックボックスのままだと、「戦前の日本人の誇り」は見えてこない
「戦前の日本人は誰もが単なる天皇の個人崇拝に狂った戦争マニア」に見えてしまう
なぜ?
「国体が守られない」ぐらいなら「本土決戦の方がマシ」という発想が
常識的に行き渡っていたのか?・・・単に戦前教育が「狂気」だったからなのか?

三宅氏がいう「創価や日本会議の人達は凄いぜ」といい、
「彼らの〝想い〟」を本当にフォローしているならば、なぜちゃんと言わないのか?

「国としての誇り」・・・いや、「人間が人間であることの条件」を
戦前の日本人は「国体」という言葉に見いだしていた・・・

それがわからなければ、「日本会議はキチガイ、悪魔の集団だ!」というつばぜり合いで
この選挙は終わるだろう・・・  その結果は見るまでも無く明らかだ

でも、この「大義」が封印されている・・・
そして「日本会議」というのは、その「封印されていること」を悪用して
カルト的なエリート意識とその政治的勢力を養ってきた

このタブーとなってきた言葉の解明、そしてリファインこそが、
「日本会議の悪の理論」を公衆の面前でつまびらかにする唯一の可能性に思える

それが「出来ない」というのは、単に無知なのか?無関心なのか?
・・・あるいはそこに「彼ら自身にとっても都合の悪いこと」があるからなのか?
 ・・・勘ぐらざるを得ない

    「天皇陛下こそが憲法九条の発案者だった」

新しいミレニアムの幕開けの年に発見された、この驚くべき事実

なぜ、安倍シンパのみならず、アンチ安倍グループまで無視し続けるのか?

つまりは「右派」にとっても、「左派」にとっても都合が悪い話なのだ

明治維新の時のように天皇を「錦の御旗」に祭り上げたい安倍政権にとっても
天皇を戦犯として罵ってきたアンチ安倍派にとっても、〝実にマズい〟話だからだ

「幣原喜重郎が発案者だ」ならOK
しかし
「実は天皇陛下自らが・・・」っというのは、
天皇を悪魔教徒や世界的な陰謀の背後のラスボスだと糾弾したい人達にとっては
あまりにも問題の核心だからだ

このポイントを無視して、ワイルドでカッコよく、弁舌爽やかなレゲエミュージシャンが
、「僕たちが、皆それぞれ自分らしく生きられる政治を!」
と叫んで、果たして歴史は動くだろうか?  ・・・わたしははなはだ疑問だ

わたしには彼らが、
大樹の根も、幹も見ること無く、その実をもぎ取ろうとしているように見える 

阿閉研一郎縄文古代文字を楽しく書く会

左巻きの渦(黄金比)と右巻きの渦を重ねてみました。
すると重なったところに現れた形は・・・
※縦と横の直線は無視して、心眼で見てね。

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なんと!!フトマニの中心にある・・・
びっくりポンでした。何気なく渦の図形をいじっていた時に偶然見つけちゃいました。

ホツマツタエの創造記に記された通り
左巻きの「陽」と右巻きの「陰」が重なり、合わさり、融合した時、
まさに『±=0』、無(0)となり、その瞬間「ウ」という言霊と共にビックバンが起こり、
新たな創造が始まる。・・・その通りの形をしています。

また、その種のような、ハートのような形は、
フラクタル図形であり、永遠と相似形で出現します。

ヲシテ文字は、一音一音に意味が込められている表意文字であるだけでなく、
その形も、幾何学的に深遠な意味が込められている文字であることを
歓びと共に実感した瞬間でした。

「国境とは何か?」といえば〝なわばり〟である

かつて生物学的な生存権として暴力によって〝なわばり〟の争奪合戦があった
そしてそれは今も続いているかのように見える
つまり国家間の領土紛争だ・・・

・・・しかし、ユダヤによるNWO:新世界秩序がほぼ完成している現在、
  この「国家間の縄張り争い」という判りやすい論理は、
  単なる〝やらせ〟である可能性が濃厚だ

しかし、国を想って指揮した日本の指導者達の多くが、切腹という最期を遂げた・・・
かれらは、自分自身のたったひとつの命をかけて一体何を証明しようとしたのか?

もし、単純な利害関係や〝やらせ〟の使い走りならば、「自分の腹を自分で切る」という
苦痛に満ちた最後を選ぶことは出来なかっただろう


阿南陸軍大臣(三船敏郎)の切腹シーン ~岡本喜八 1... 投稿者 maneel-katal

日本の歴史では武家社会が始まってから、〝覚悟〟〝完全なる自己責任の示し〟として
切腹という作法がある

わたしはこれをむやみに美化したり賛辞したりするつもりは無い
しかし、自分が指導してきた部下達や、自分が使える〝殿(との)〟=上司に対して
「誠(まこと)いつわりのない思いを〝ハラを割って〟お見せする」ために
こういう〝覚悟〟の証明のしかたがあったということだ

こういうのを「男のプライドだ」という女性が私の身近にもいて、マジで目眩を感じた

  こういう勘違いをする子孫達が、「後の世の日本にははびこるのでは・・・!?」

  ・・・そういう危惧を抱いて、
    歴史上の多くの男達が「男のプライド」「男の覚悟」を見せるために
     みずからのたったひとつの命を捧げてきたのでは無いかと思う

  しかし、どれほどの人柱を費やしても、魂の腐った人間というのは生まれてくる
  それは止めようがないことだ

   そういう魂こそが「次の人生」を貪りたいからだ・・・

  ・・・そんな魂の腐った人間に「誠」を理解する能力は無いだろうし
        また、「わかって戴く」必要など、きっと無いのだろうと思う

  上記リンクのような稲田朋美のようなおばちゃんが
   「彼らを称賛する」のに、もし本当に「値する」というならば、
    それはあのおばちゃん自身に「その覚悟がある」という場合だけだ

   人々に「血の犠牲」を強いて、賛美し、自分自身は「女だから」と何の覚悟もせず
   その「血の美しさ」にウットリしてオナニーとかされたのでは、たまったものではない

わたしは切腹を賛美しない・・・
・・・なぜなら「わたしには賛美する〝資格などない〟」と思っているからだ

もし、公衆の面前で、切腹を賛美するならば、それは自分自身にその覚悟がある時だ

わたしにはどう見ても現在の安倍政権で「腹を切って〝おのれの誠〟を示す」人は
皆無のように見える・・・
つまり、「お芝居としての国家間縄張り争い~やらせ」の走狗たちにしか見えない

最悪の売国奴達が、愛国心をコマーシャルしているという笑えないジョーク・・・・

単純な話だ

   「血を流す覚悟が無ければ、国は守れない」
         ・・・理屈としては〝昔なら〟一理あるはなしだ

しかし、それは自らの腹をかっきって、おのれの誠を示せるものだけに許される発言だ
三島由紀夫を「尊敬しています」と口で言うだけなら簡単だ

そして、たとえ切腹を実行して果てた者がいたとしても、それはもう今となっては
「その人の信念は、ホンキだったんだな・・・」
あるいは「アタマオカシイ」と人々がツイッターで呟き、それで終わりである

たとえ誠心の信念がある人が国防の決心を人々に呼びかけるにしても
それを制度によって全国民に強制する」と言う時代はとっくに終わった

それが「昭和天皇が勅命した平和憲法」の歴史的な意味だと思う

【拡散希望】平和憲法は昭和天皇の指示であることの動かぬ証拠

安倍政権~日本会議は、「みずからの血を流して守る意義がある国家」を
明治維新の時と同じように天皇陛下を担ぎ出してまで主張しているが、
その「国家の品格」をも、
その「天皇陛下の平和への思い」も・・・・
・・・もっとも破壊しているのは、他ならぬ彼ら安倍政権自身の様にわたしには見える

片岡 由章

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現在、
虚数世界(あの世)が整数世界(この世)に現れてきています。
あの世とこの世が繋がっています。

スピリチュアルの普及をしていると、
意外に理系の職業に携わる方が理解を示すことが多いので驚きました。
「どうして霊界観を信じられるのですか?」
と質問すると、 
「数学や物理で使用されている虚数を実質論として展開すると、
 多次元宇宙(霊界)があると認めざる負えないからです」という。

2乗するとマイナスになる数「虚数」。
昔は、虚数を「実態のある数」と認めることには懐疑的で、
計算上の「技巧」とされていました。

しかし現代では、虚数は「現実の数」であることがわかってきました。
なぜなら、虚数なしには、超伝導の原理も説明できなければ、
電子の動きを記述することすらできないからです。

しかし、2乗するとマイナスになる世界が実際に存在するとしたら、
それはどんな世界なのでしょうか。

虚数として生きる生命、虚数として生きる人間…
それは、霊界なのか、裏宇宙なのか、パラレルワールドなのか…

ちなみに聖書には
「神は、α(アルファ)であり、ω(オメガ)である」という記述があります。
もう少し分かりやすくいいますと
「宇宙を創造した創造主(超宇宙意識)は、
 初めであり、終わりでもある、循環した無限の存在である」というような意味です。

「α(はじまり)= ω(終わり)」
つまり、
「0次元(点)= ∞(無限大)」

これはまさに
「アインシュタイン方程式」で計算された宇宙のはじまりの矛盾、
「Big Bang が起ころうとしていたとき、
 そこは空間も時間も何もない世界だったが、
 なぜか無限大のエネルギーが存在していた」
にあたります。

これを最新のスピリチュアル理論で説明すると、
「私たちの住んでいる三次元宇宙が創造される以前、
 すでに四次元以降の多次元宇宙が創造されていた。
 三次元宇宙の Big Bang は、
 高次元宇宙から供給された神のエネルギーが、
 凝集して物質化した現象である」
ということになります。

「0次元(点)= ∞(無限大)」
これは、粒子と波という、相反する性質を持つ「光」と同じです。

光は「粒子」という極微の存在になりますが、
宇宙全体に遍満する波「極大の存在」にもなります。

光が粒子として顕われたとき、そこに物質が出現します。
光が波として顕われたときは、量子力学が示す「宇宙の意識」として存在するのです。
これは、華厳経に書いてある「一即一切・一切即一」にあたり、
「波動として宇宙の全てに遍満している創造主(超宇宙意識)の念いが、
 凝縮されて光の粒子になると物質が顕われる」
ということを意味しています。

また、下記のような一説があります。
「惑星の寿命が尽きて縮んでいってピンポン球くらいの大きさになると
 ブラックホール化して重力も光もエネルギーも全て吸い込んでいく。
 さらに小さくなって0次元(点)となり、
 体積グラフが裏返って虚数化されると、
 裏宇宙で新たな虚数惑星となって顕われる」

これはまさに「∞(無限大)(メビウスの輪)」そのものです。
「∞」の右半分が、私たちの住む「表宇宙(整数世界)」
とするならば、
「∞」の中心部分が「0次元(点)」
「∞」の左半分が、体積グラフが裏返って虚数化された「裏宇宙(虚数世界)」
となるわけです。

時空とは、複雑な「メビウスの輪」なのかもしれません…

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