We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年05月

●アニマンダラレクチャー
 
一昨日のアニマンダラレクチャー、実に面白かったです。遂にヌース的思考が動物の世界にも侵入を開始した!!という感じでした。内骨格系と外骨格系の分化 を垂直進化と水平進化と見なし、両者をヌーソロジーでいう「人間の外面」と「人間の内面」という相互反転関係にある意識状態の射影と見なす、というアイデ ア。ほんと、ブラボー!!の一言に尽きます。
 
ヌーソロジーでも生態系の世界を人間の自我内部で蠢く情念全体の写し絵のようなものとして考えるのですが、それを論理化していくにあたっての切り口がなかなか見えませんでした。というか、そちら方面について考える時間の余裕がほとんどなかった。
 
天海さんは「内骨格系と外骨格系の分化」と「奥行き認識と幅認識の分化」の対応関係を直観し、そこから生物の形態形成を意識の空間軸の獲得と重ねて合わせ て見事にダイアグラム化されていました。これは確実にヌーソロジーが用いるケイブコンパスの構造と繋がってくる予感があります。いやぁ、ほんと面白いで す。
 
ヌーソロジーに関心のある方は是非、天海ヒロ氏のアニマンダラレクチャーにもご参加を。本が一冊出れば、「負け組進化論」というキャッチーなコピーも手伝って、アニマンダラは大ブレイク間違いなしですね。
  
天海さんもレクチャーの中で何度も言っていたのが「外部の内部化」という話。この外部の内部化というのは動物の形態形成のみならず、細胞レベルでも見られ るとても重要なトポロジーなんですが、実はこれが内在を貫いている存在の一義性が持った構造原理とも言っていいと思います。
 
ヌーソロジーがいつも「物質とは霊だ」と言っているのも、基本はこの外部の内部化というトポロジー的な視点からです。昨日の対談では、それをカタカムナを意識して「泡(アワ)」に喩えて紹介しました(下図参照)。
 
「物質とは空間の中に浮かび上がってきた泡のようなものなんだ。例えば時空を一つの巨大なシャポン玉に喩えてみよう。そのシャボン玉の表面に向かって、 フゥーと息を吹きかける。すると、シャボン玉の表面がへっこんで、表面が裏面側に反転した小さなシャボン玉が大きなシャボン玉の中にふわふわと浮かぶ。物 質とはそういうものなのだ」と。これは、時空の外部で活動している霊が、同時に時空において物質として裏返って出現してくるような仕組みになっているとい うことを意味します。
 
実際の物理世界では、この「裏返って出てきている最初の霊」が電荷に当たります。奥行きの空間(霊的な持続空間)は反転していて、時空の中では内包性とし て映し出されてくるということなんですね。この内包性が文字通り「泡=アワ」なんです。物質はすべてアワのようなもの。このアワに方向性を持っているのが 女性性です。当たり前ですね。物質を産み出す力ですから。
 
最後に関西ヌーソロジー研究会の川瀬氏の方から、「本日の会場の場所は阿波座(アワ座)ですね」という何とも素晴らしいオチが。流石です(^^)。
 
いやぁ、実に楽しい一日でした。

2016年5月21日(土曜)高田馬場にて吉田統合研究所主催の
「第一回  “日本から世界を変える!” Japan Surprise」集会における
山口由美「あわの唄」及び、カタカムナ研究家・吉野信子による解説
「始まりと終わりが一つに統合されて球体を形成していることを唄っている・・・」

何とけったいな問いだろうか?

「悟りの定義」だなんて・・・・

わたしたちは通常、この肉体の中の存在として自分という意識をとらえている
そしてそれが一種の〝チャレンジ〟だとも言えるようだ

しかし、肉体への自己同一化の正体・・・ というか、〝内容物〟とは何か?
・・・っというならば、答えは〝過去〟だ

そして、私たちが恐れたり憧れたりしている〝未来〟というのは、
この〝過去〟からの投影でしかないから、心理的な意味での〝時間〟こそが
すなわち〝寿命〟であり、〝人生〟だ・・・、というのが私たちのアイデンティティーだ

ヌーソロジーがベルグソンを引用して言うところの「純粋持続」とは
どうやらこの「心理時間」ではなく、この心理時間に〝流されないもの〟のことを
指し示しているようだ・・・・

        ・・・・つまり状況やら喜怒哀楽やらに左右されずに
            純粋に「いまここを見ているもの」=純粋意識

森羅万象を「定義不能なもの」として純然たる驚きを持って見回すならば
「位置の交換」が起きると「自分自身こそが定義不能なもの」だということになる

音楽に耳を傾けているあなたを「定義出来る」だろうか?
美味しい食べ物を味わっているあなたは「定義可能」だろうか?

過去に関してならば
いろいろ説明出来る、解釈を加えられる、表題を付けて部屋に飾っておける・・・

   「・・・・あの時はあ~だった」  「・・・・この時はこ~だった」

しかし、「今この瞬間のこと」とは説明出来ないことだらけだ
そしてそれを「説明しないまま」でいることは非常に危険なことだ!
わたしたちは「既知の世界」に逃げ込むことが出来なくなってしまうからだ
そして本当のところ、「既知」と思い込んでいるものでさえ、まったく判ってはいない

・・・沈黙と無為とは極めて危険な行為だ

   だから私たちは誰かと会いたがり、おしゃべりし続けたいのだ

エンライトメントが何がしかの「到達点」である以上、そこにはかならず偶像がある

     「悟りとはきっとこう言う状態になるに違いない」という憶測が入り込む

            そしてそれは過去の経験や学習や比較類推がある
           そこにはいつも「誰かから借りてきたアイディア」がある

   でももし、「それらのすべてが妄想」だとしたら?
    たぶん、そんなことを宣言したらあなたは怒るだろう

     あなたのなかの「最高の権威」「最大の価値」「すべての偉大さ」を
     全部私が「妄想だ」とぶち壊したら、あなたは怒り心頭かも知れない

だから、私は誰かに対してそういうつもりは無い
それはただ人を不愉快にするだけで、わたしが得るものは何も無い
人は皆、何か「大事にしているもの」「かけがえのないもの」があるのだから・・・

ひとを問い詰めることは「全て不毛だ」となった時・・・・ 絶望と慟哭と孤独がある
・・・・だから、わたしは私自身に対してだけ自問する

      「〝エンライトメントとはなにか?〟と定義しようとする努力自体が、
             エンライトメントを遠のけてきたのじゃ無いか・・・・?」

定義とは全て〝過去〟に依っている
そしてすべての「過去への依存」「他者への依存」に「悟り」があろうはずはない
最後には「達成したブッダ」すらぶった切ってその先の未知に踏み込んでいくしか無い

    誰かに問う・・・・、何かを求める・・・・  そして確証を得ようとする・・・
     ・・・・それ自体が「永遠の堂々巡り」を生みだしてきたのじゃ無いだろうか? 

それは、誰が答えを「持っていない」とか、「持っている」とか
「賢い」とか、「愚かだ」ということでは無いのだ・・・  そういうこととは「本質的に違う」

          だれもが、私が誰か?自分自身が誰か?答えようが無いのだ

魚座の29度(最後のサビアン魚座の30度)

魚座30度 人面に似ている巨岩の累層が、少年にとっての偉大さの理想像となり、彼は成長するにしたがってその像に似はじめる 

マクドナルド元CEOが
「最低賃金がこのまま上昇し続けるならすべてロボットに置き換えられる」と予測
http://gigazine.net/news/20160526-mcdonalds-worker-robot/

マクドナルドならそれでいいんじゃない?
もともと工業製品みたいなハンバーガーなんだし・・・
「スマイルゼロ円」の「笑顔を貼り付けたロボット」でさぁ~!

2

Prem Sheel
2013年5月26日


このサニヤスは、
今や全人類に必要とされている。
全人類がそれを必要としている。

私たちは、
生きた流れにあまりにも無自覚になっている。
私たちは、
内にも外にもある神性にあまりにも無自覚になっている。

ひとりひとりがそれを自覚しなければならない。
さもなければ、今ある状況が悪化の一途を辿り、
人類は次の世紀に再起できなくなるおそれがある。
状況は留まることなく悪化し続けてきた。

ダーウィンは
人間は動物だったと考えたが、
今や人間は自動機械だと考えられている。

少なくとも動物には魂がある!
彼らは魂を持っていたが、現代人にはない。
やがて私たちは効率のよい自動機械でさえなくなるだろう。

なぜなら、
もっと優れたコンピュータが現れるからだ。
もっと優れた機械が現れるからだ。



あなたはただの機械になるだけでなく、ひどく凡庸な機械になる。
これは信仰の一種だ。
これは知識ではない。
だが、
これは3世紀にわたって人間のマインドに強要されてきた信仰だ。
今ではこのような態度が目立ってきている。
それは他のどの信仰にも劣らない信仰だ。

科学がそれを支持していようと変わりはない。
それは信仰だ。
だが、
ひとたび人間がそれを信じはじめたら、人間の魂を蘇らせることはむずかしくなる。
だから、これからの時代、今世紀の終わりはきわめて決定的なものになる。
今世紀の終りが来たるべき世紀の運命を決める。
これは決定的な時代になる・・

人間は機械に・・・、
自然が生んだ機械的な装置にすぎないという信仰が蔓延するという意味で
決定的なものになる。
この信仰が蔓延してしまったら、
再び生きた流れと接触することはひじょうにむずかしくなる。
それはますます困難になってゆくだろう。
今日ですら、それはひじょうにむずかしくなってきている。
生きた流れを本当に体得している人は、この世界にほとんどいない。
指で数えられるほどしかいない。

それについて語る者たちはみな、口先で語っているだけだ。
本当に体得している人は、ごくわずかしかいない。

そして、日毎にその数は減りつづけている。
彼らに代わる者は二度と現れない。
生きた流れを知る人々、内なるリアリティを知る人々、
意識を知る人々、聖なるものを知る人々は、日を追うごとに少なくなっていっている。

この時代、今世紀の終わりは決定的なものになる。
だから、とにかく始める用意ができている者たちに、私はイニシエーションを授ける。
イニシエーションを受けた1万人のうち、
ひとりでも目的地に辿り着くなら、苦労するだけの価値がある。
この内なる世界を少しでも知るに到った者たちは
みな行って、すべての戸口を叩いて欲しい。

屋根の上に立ち、
至福に満ちたもの、不死なるもの、聖なるものは本当にあると宣言して欲しい。

その証人になりなさい。
行って、その証人になりなさい。
そうしなければ、人間は機械的な存在だという信仰が蔓延するだろう。

今ならくい止めるのはやさしいが、後になれば、それを覆すのはむずかしくなる。

マトリックス 弾丸2

ある意味では、
人間のマインドは昔よりも今のほうがしなやかで、
どんな形でも取る用意ができている。

それは古い信仰がすべて取り去られ、マインドはうつろで、
どこかに帰属したいと渇望しているからだ・・

    ・・・・たとえそれが機械的な信仰であってもだ。

人間のマインドは、帰属感を与えてくれそうなもの、
現実が何であるかを知っている気にさせてくれるものなら、
それがどんなに馬鹿げたものであっても、つかみとる。
・・・人間のマインドはそれに縛られるようになる。

だから、一瞬といえども無駄にはできない。

ほんの少しでも知っている者たち、一瞥でも得たことがある者たちは、
それを他の者たちに語るべきだ。

今世紀の終わりは、見かけほど短い時間ではない。
ある意味では、何世紀よりも長いと言ってもいい。

なぜなら、変化のスピードが猛烈に早いからだ。

この30年は、30世紀に等しい。
30世紀かかって為されえなかったことが、30年で為されうる。

変化があまりに早いので、わずかに見える時間でさえも
それほど短いものではない。
人間と生きた聖なる流れのあいだに架かる最後の橋を消滅させ、
破壊してしまう信仰が3つある。

ひとつは、マインドは機械にすぎないという信仰だ。

2番目は、共産主義・・
人間と人間の社会的関係は経済的な現象にすぎないという信仰だ。
そうなったら、ハートが果たす役割はない。
人間は決定要因ではなく、経済が決定する。
人間は経済力、盲目的な力の手中にある。

そうなったら、意識には決定的な役割はない。
社会構造が決定力を持つ。

マルクスは
「意識が社会を決定するのではなく、社会が意識を決定する」と言う。

だとすれば、意識は無に等しい。
決定力を持たないならば、意識など存在しないということだ。

そして3番目に、フロイト派の非合理という概念がある。
人間は機械であるという信仰に姿を変えたダーウィン学派の概念、
意識を経済力の付随現象に変えたマルクス主義者の概念、
そして、人間は自然の力、本能の手中にあるという
フロイト学派の非合理の概念の3つがある。
人間はすべての行為をやむにやまれず行う。
意識などというものは実際には存在しない。
私たちは、自らが意識的であるという幻想的な観念を抱いているにすぎない。

マトリックス・希望は人間の典型的な妄想

この3つが今流行の宗教だ。
イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教などの宗教は、どれもすたれている。
仏陀も、マハヴィーラも、モハメッドも、キリストも、現代の預言者ではない。

現代の預言者は、フロイトであり、ダーウィンであり、マルクスだ。
この3人はこぞって自由に反対し、こぞって不死なるものに反対している。

私はあらゆる人を内なる世界に突き動かしつづけてゆく。
生きた流れ、サッチタナンダ(真理・意識・歓喜)に辿りつき、
全身全霊で生きることでそれを表現できる誰かが現れるかもしれないという
万にひとつの望みをかけて・・

今それを生きる人がごくわずかでも見つかれば、
人類の未来の進路全体が変化するだろう。

だが、それは教えを通してではなく、生きることを通して初めて起こりうる。

私がサニヤスを強調するのはそのためだ。
それは生きることの始まりだ。

Osho - I Am The Gate

夢の中で私は・・・・

さながら「銀河鉄道999」の主人公・鉄郎のような
「探求の旅をする少年」だった

「銀河鉄道999」の主人公・鉄郎

わたしはやっと「光透波行き」の列車が発進するプラットフォームを見つけた

それは一見、出勤のために列車に乗ろうとする通勤客も多いごく普通の
早朝の駅だった

『こんな普通の出勤風景の中に
 果たして〝光透波〟に向かう列車なんかに乗れるんだろうか?』

わたしはいぶかしがりながら自分のポケットの中にある全財産をはたいて
乗車券を買い、他の通勤客達と一緒に「光透波行き」の列車の到着を待った・・・


列車は定刻通りに来た

ところが驚いたことに、
その列車は私を含めた待合客達を置いて、猛スピードでプラットフォームを通り過ぎていった あれれ~~~!!?

待合客達は慌てて電車を追いかけて走った
わたしも走って必死に追いかけた

と、突然場面は変わって、わたしはその列車の中に居た
わたしと一緒に乗り込めたのは、あの中の数人の待合客だけだったようだ・・・

車掌のような男が、私の切符を改札してこういった

「いいかい坊や?」

「この列車に乗った以上、過去を何一つ残そうとするな、全部燃やし尽くせ!」

「すると頭の〝後頭部〟にヒヤリとしたものを感じるはずだよ」

「それが〝光透波〟だ」 

そして、次の瞬間、朝のベッドだった

〝語られるべき〟中身を乞うている間は、人は誰もが乞食だ
〝伝授された〟内容を探っている間は、人はまだ根拠に餓えている

定義や意味や根拠という〝陸地〟にしがみついている間は、ひとは海から分離している

Prem Sheel
2013年5月24日


931160_515842441815709_1485949816_n

寓話をひとつ・・

ある日のこと、
仏陀は一輪の花を手にして現れた。
彼は説法をすることになっていたのだが、沈黙したままだった。

彼の話を聴きにきた人々は、
仏陀は何をしておられるのだろうと訝しがりはじめた。

  時間が過ぎてゆく。
    こんなことはそれまで一度もなかった。

仏陀は何をしておられるのだろう?
彼らは、
仏陀は話をされるのだろうか?されないのだろうか?と首を傾げた。

やがて、誰かが
「あなたは何をなさっているのです?
 私たちが あなたのお話を聴きにきていることをお忘れになったのですか?」
と尋ねた。

仏陀は言った。
「私はあることを伝えた。
 私は言葉で伝えることのできないことを伝えた。
 あなたはそれを聞いたかね、それとも聞かなかったかね?」

それを聞いた者はひとりもいなかった。
だが、ひとりの弟子・・
ほとんど名も知られていない、ここで初めて知られる弟子・・
マハカーシャッパという比丘が腹の底から笑った。

ブッダは言った。
「マハカーシャッパ、 こちらにおいで。
 この花をおまえにあげよう。
 言葉で与えられるものはすべてあなたがた全員に与えたが、
 本当に意味のあるもの、言葉では伝えられないものは、マハカーシャッパに与える」

禅の伝統では何度も何度もこう問われてきた。
「何がマハカーシャッパに伝授されたのだろう?」・・

教外別伝。

仏陀は何を言ったのだろう?
マハカーシャッパは何を聞いたのだろう?
そして、いつも誰かが知るたびに、再び笑いが起こる。
そして、物語は謎のままだ。

いつも誰かが理解するたびに、再び笑いが起こる。
だが、学者が顔を合わせると・・  
彼らはたくさんの知識を持っているが、本当には何も知らない・・
必ずその話の議論になる。

彼らは何が聞かれたのかを決める。
だが、知っている者は笑うだけだ!
偉大な禅師、盤珪(ばんけい)は言った。

「仏陀は何も言わなかった。
 マハカーシャッパは何も聞かなかった」

誰かが彼に尋ねた。
「仏陀は何も言わなかったですって?」

「その通り」と盤珪は言った。

「何も語られなかったし、 何も聞かれなかった。
 それが語られ、 それが聞かれた。 私は証人だ」

すると、誰かが言った。
「あなたはその場に 居合わせなかったではないですか」

盤珪は言った。
「その場に居合わせる必要はない。
 『無』が伝えられたとき、証人はいらなかった。
 私はその場にいなかったが、それでも私は証人だ」

誰かが笑った。
盤珪は言った。
「彼もまた証人だった」

生きた流れは伝えられない。
それは常にそこにある。

あなたはそこへおもむくだけでいい。
それは近くに、すぐそこにある。
それはあなたの内側にある。

「あなた」が生きた流れだ。
ところがあなたは一度も内側に入ったことがない。

あなたは
いつも注意を外に注ぎ、外界に順応してきたので、そこに固着してしまっている。

焦点が外界にあまりに固着しているので、
あなたは内側にいるということがどういうことなのか想像することもできない。

内側にいようとするときでさえ、ただ目を閉じているだけで、外側にいつづける。
内側にいるというのは、内も外もない心の境地にいるということだ。

内側にいるというのは、
あなたとすべてのものとのあいだに境界がないという意味だ。
外部に何もなくなったときに初めて、あなたは内なる流れに到達する。

ひとたび一瞥が起これば、あなたは変容を遂げている。
あなたは解釈しえないものを知る。
あなたは知性が解釈しえないものを知る。
あなたは知性が伝えることのできないものを知る。
それでも人は伝えなければならない・・
花や笑いを使ってでも。
どんな形で伝えても違いはない。
それらは仕草だ。
私が口を使って話すのと、手に花を持つのとでは、どこに違いがあるのだろう?
だが、仕草が目新しいと、あなたはかき乱されてしまう。
さもなければ、それは口を動かすのと少しも変わらない仕草だ。

私が声を出すのは仕草だ。
私が沈黙するのは仕草だ。

だが、仕草が新しく、馴染みがないと、
あなたは何か違うことが起こっていると考える。

違いは何もない。
生きた流れは伝えることができない。
が、
それでも伝えなければならない。

何らかの形でほのめかし、何らかの形で示さなければならない。
サニヤスを受ける用意が整う瞬間、その人は大いなる探究に向かう決意をしている。
それはいつでもジャンプできるという私への意志表示だ。
ある人が進んで変わろう・・
古い自己証明を失い、新しい存在に生まれ変わろうとしているときには、
ある人に準備ができているときには、資格などいらない。

何も違いはない。この覚悟こそが資格だ。
ある人に準備ができていれば、私はいつでも押すことができる。
相手が辿り着くかどうかは関係ない。

彼が始めるというそのことこそが驚異だ。
そのこと・・相手が辿り着くかどうかは少しも重要ではない。
だが、人は始める。
こうして始めることこそが偉大だ。

辿り着くことは、それほど偉大なことではない。
なぜなら、辿り着く者はすでにその力があって辿り着くが、
始めようとしている者にはいつもその力が欠けているからだ。

     理解出来るかね?

だからこそ、始めることが奇跡なのだ。

仏陀のような人は奇跡ではない。
彼には能力があるからこそ辿り着く。
きわめて数学的で、何の奇跡もない。

だが、ある人がありとあらゆる欲望、憧れ、限界を抱えて私のもとにやって来て、
始めようと考えたなら、それは奇跡だ。

もし仏陀と彼のどちらかを選ばなければならないとしたら、私は彼の方を選ぶ。

彼は奇跡だ・・
まるで能力がないのに、とてつもない勇気がある。

Osho - I Am The Gate

このページのトップヘ