We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年05月

誰もが学校でも社会でも、そして家族からもよく尋ねられることとは
「何がしたいの?」「何になりたいの?」だ

・・・つまり何か、したいこと、何か、成りたいものがあることが大前提の質問だ

だれもがこの質問に直面させられたことがあると思うけど、
これは私が最も嫌いな質問のひとつで、・・・こう言うテーマで作文を書け
と学校で言われれば、わたしはよく白紙で提出したものだ

「何ものかにならなければならない」
「何かを成し遂げなければいけない」というのが、この世の中における最大の圧力に思う

「一番やりたいこと、一番好きなこととは何か?」
これも私に、常にジレンマを与え続けた質問だった・・・

「え?特にやりたいことは無いよ?」と答えても、大概相手はつまらなそうな顔をするし
答えた私も、実はこの我が儘な回答にさえ自分の妥協を感じてしまうのだ・・・

なぜなら、生きている以上、やりたい事なんて瞬間瞬間変わっていくものじゃないか?
だからこの答えを口にした瞬間、それは結果としてはウソになる・・・・

本当のところ
  「何を〝したい〟か?」という足し算で私に尋ねないで欲しい
   「何を〝したくない〟か?」という引き算で質問して欲しい

・・・であれば私は嘘をつかずに即答できる

          「ガマンをしたくない!」っと

ところが、あまたの・・・・
  「何がしたいか?」という質問(というか実際には詰問なのだが)を受けてきたが
    「何を〝したくない〟か?」という親切な質問にはまず出喰わした記憶が無い

わたしが、妥協として「やりたいことなんか何も無い」と答えても、
その真意は、「ただじっと岩のように静止していたい」という意味では無い

小便がしたければ小便に行きたいし、喰いたければ喰う
すこし気分転換にぶらりと散歩したければする・・・

  誰だって瞬間瞬間したいことが変わり。必ずしも終始一貫しているわけではない
   そして周囲への思いやりも大事ではあるが、無意味なガマンは誰だって苦痛だ
     バカバカしくナンセンスに思えるガマンはしたくない・・・・

       「気に掛かる」ことがあるなら何でもガマンせずにさっさと〝やる〟

  ・・・それが私にとっての〝無為〟という言葉の定義で、
    〝無為〟と〝自然で必要なありとあらゆる行為〟とは、

                       わたしにとってほぼ同義なのだ

   でもこんなこと、誰にとっても同じなのではないだろうか?・・・だから不思議に思う

東日本大震災の時は、
店に整然と長蛇の列をつくる被災者の姿に世界から称賛の声が上がったが、
反面、阪神大震災ではトイレをガマンして死亡した人が非常に多かったそうだ・・・

何故誰もが、〝無為~自然な行為〟を受け入れられないのだろうか?

     「あれがしたい」「これがしたい」と未来の自分を固定してしまったなら、
         その自分自身の解答、過去の自分に縛られてしまうじゃ無いか?

本当のところ、ADHDをもつ私にとっては
「何がしたいか?」「したくないか?」という質問自体が、微妙な暴力なのだ
   その暴力に対する最高の回答とは「沈黙」であり「白紙回答」だと思う

アインシュタインが言う「光速度不変の法則」とは
あらゆる物体が光速度に達する為にはすべての質量を失うことを意味する
なぜなら質量や体積が少しでもあると、それ以上の加速のためには
無限の力積(質量x速度)を必要としてしまうからだ

私たちが空気の中で空気の質量を感じないように
空間の最小単位と目されているヒッグス粒子と同等にならなければ
この私たちの住む空間では質量が発生してしまい、光速以下に
なってしまうと言うことかも知れない 

白紙回答とは「質量も体積も失う」こと、「何者でも無くなる」ことだ
だってあなたとは「それ」ではないか?

何かになれという〝暴力的で鈍感な質問〟に、今後人々がどう答えるのであれ、・・・

・・・誰もがどっちにせよ
  身近なことから、ひとつずつ、気になることから優先的にこなしていくしかないだろう・・・

だから、
本当は誰もが私と同じく「無為」からは逃れられない!
本当は誰もが「無為」を拒絶しているようで、実際は「無為」しか選べないのだ

そして・・・
だれもが「自分はこれこれをやってます」と思ってる・・・でも、そうじゃない

「自分がやっている」という錯覚は人が抱える最大の不幸だと思う
だれもが自分の目の前の気になることから淡々と、粛々とこなしている・・・

・・・それは時としてはエキサイトメントに見えたり、
   大きな成功に歓喜したり、大きな失敗に地団駄を踏んだり落胆したりするだろう

  でもそれら全ては、本当は誰も、「気になることから、ただ順番にこなしている」だけだ
   そして「なぜこれが気になったのか?」その真相は本人でさえ自覚も理解もしていない

                       でもそれは〝救い〟だと私は思っている

  肉体の中の生理現象も、外界の様々な出来事や義務も、すべては自然に起きている
  人工的な、不自然なさまざまな事象も、巨視的に見れば自然だ・・・

   だれもがその本当のカラクリも、宇宙的意味も、本当は知らずにやっている

                          しかしそれは〝救い〟だと私は思う

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Prem Sheel

23間前 ·



生にはふたつのバランスがある。
ひとつは「在ること Being」であり、もうひとつは、「すること Doing」だ。

「在ること」というのはあなたの本性だ。
それはいつもあなたとともにあるーー
なにかをして獲得するものではない。
それはもとからある。
あなたはそれだ。
あなたがそれを持っているわけではない。
あなたとそれとの間には距離さえない。
あなたはそれだ。
あなたこそがその「在ること」だ。

一方「すること」は達成するものだ。
あなたがなにをするにせよ、
その行為はもとからあるわけではない。
もしそれをすれば、それは起こる。
しなければ、それは起こらない。
もとからあるわけではないものはすべて、あなたの「在ること」ではない。

生きるためにあなたはいろんなことをする。
するとだんだんその活動が障壁となって、自分の「在ること」がわからなくなる。
活動はあなたの周辺部分でしかない。
あなたはそれによって生きるーー
それなしには生きられない。
でもそれはたんなる周辺部分だ。
あなたではない。
それは中心ではない。
あなたの持っているものは、
すべて行為の所有だ。
「持つこと」は「すること」の結果だ。

そして中心は、
あなたの「すること」と「持つこと」によって取り込まれている。
これらの技法に進む前に注意すべきことがある。

ひとつ。
あなたが何を持っていようと、それはあなたの「在ること」ではない。
また、あなたが何をしようと、あなたに何ができようと、
それはあなたの「在ること」ではない。
あなたの「在ること」は、一切の「すること」に先行する。
あなたの「在ること」は、一切の所有、一切の「持つこと」に先行する。

ところがマインドはいつも「すること」と「持つこと」に巻き込まれてしまう。
マインドをを超えたところに、あるいはマインドの下に、あなたの「在ること」はある。

それではどうやってその中心を貫くのか?
それこそが宗教の探究してきたことだ。
それこそが、人間存在の根本的真実や究極的な核心に関心を持つ人々、
自分の「在ること」そのものに関心を持つ人々の、つねに探究してきたことだ。

Osho - The Book Of Secrets

恋川愛夢


『チームしんしん♪』。

例えばどんなに他人に悪く言われようが、

「私はわたし」を貫く勇気と根性があれば

どなた様のことも大切にできる自分になっていくと私は思うのです。


我の幸せ無くして他人の幸せを願うことはできないと思っています。


みなさん、おはようございます💓

雨の大阪を迎えております!


毎日いろんなドラマを描いてるお互いであります。

今日も『わたし』を世界一楽しませるシナリオを全うしてきますね!


みなさんも十分に今日1日のご自分を味わってくださいませ💓

今日も1日よろしくお願いいたしますm(__)m

「世間の常識ってのはある?」と問うなら「無い」とは答えられない・・・

「世間の常識」「世間体」というのは確かに人々の営みのあいだに存在する

  ・・・しかし、「その実体は?」と問うとちょっと怪しくなってくる
    「ある」様な?  「ない」様な??

「みんながそういうこと」を、難しく言えば「客観性があるか?」とも表現する

STAP細胞はあります!っと幾ら叫んでも、第三者が再現出来なければ
「それでは客観性がありませんね」というのが科学の世界だ

さらに科学アカデミズムの世界は「形式」がうるさい
誰かや何かや、ある種の「常識」、科学的「定説」を覆すためには
その「ウルサイ人達」を納得させる多くの手順が要求される

2016年05月31日 19時00分00秒
科学の「再現性」が危機に瀕している

・・・ただし!、これはあくまでも、
          「世間」とか「科学」とかの世界で認知を求める場合だけだ

では、あなた自身の人生の〝成就〟とは
いったいどんな権威に「認めてもらえばいい」というのだろうか?

・・・・それを激しく徹底的に問い詰めてみるなら、
          きっと誰もがとてつもないばかばかしさに辿り着くだろう

たとえ、世間の人達の何人に認めてもらおうと
たとえ、科学の分野のどんな権威者に認めてもらおうと
たとえそれが、政治の分野であろうと、宗教の分野であろうと・・・
どんな分野の最高権威者達があなたによってたかって「いいね!」を押してくれたとしても

もしあなた自身が満足していなければ、
それらの「いいね」の山にどんな価値があるだろう?

あなたに決定的な「いいね」を押せるのはあなた以外には居ない
わたしに決定的な「いいね」を押せるのはわたし自身しか居ない

それ以外の、各界の分野の何人もの最高権威者に「いいね」をもらっても、意味は無いのだ

・・・これがいかなる「絶対的孤独」を意味しているのか?あなたは分かるだろうか?

・・・しかし、裏を返せば、「口説(クド)き落とせば良いのはひとりだけ」ということになる

  それは「あなた自身」「わたし自身」だ
  ・・・そのたったひとつの「いいね」が、全世界を塗り替える
      かけがえのない、・・・他の誰も付けようが無い、唯一の「いいね」だ
                他の誰も、それを代行してくれることは出来ないのだ・・・

でもその「あなた自身」「わたし自身」が、
もし「客観的な意見」とか「権威」とか、「世間体」を気にして、右往左往して
自分自身を肯定出来ないのだとしたら、一体全体いつ、どうすれば
その唯一の「いいね」は得られるというのだろうか?

いったいどれだけの他人の「いいね」が集まれば、あなたはゴール出来るだろうか?

そもそも、
 そのゴールがどこなのか?
  いったい「自身~セルフ」以外の誰が知っているというのだろう?

私達はこんな愚問のために、世界の中心で腕を組んで考えあぐねているのだ・・・

私たちはいつも何かの〝達成〟に向けて急いでいる

すると目の前をモンシロチョウが飛んでいても足を止めることは無い

身内が交通事故に遭ったと聞いたらすっ飛んでいくかも知れないが
そんな非常事態でも無い限り、私たちの目の前を通る光景は常に流れ去っていく

「いまここにあるもの」とは常に
「いつかどこかに辿り着く為の通過点」であったり、「手段」に過ぎない・・・
              ・・・と、ついつい見なしてうつろに見送っている


「食べる」ならば「食べる」ことが究極の目的地だとは思わず
味わうこと無く腹に詰め込んでしまう

「蝶々を見る」とき、それは「他愛の無いこと」と無意識的に価値評価している

蝶は象徴学ではよく「魂」を示す

たとえばふいに目の前を通ったその一匹のモンシロチョウは
あなたのご先祖様とか、あなた自身の未来の意識が乗り物として使っていて
その先の曲がり角であなたが交通事故に遭う危険を防ごうとアピールしに
来ているのかも知れない・・・・

・・・もちろん愛する家族の交通事故も緊急事態だが、その知らせに慌てて
あなた自身が交通事故に遭うともっと大変では無いか?

わたしたちが瞬間瞬間目にしている光景に・・・・
・・・「大きい」とか「小さい」とか
   「良い」とか「悪い」とか「損」とか「得」とか・・・・  そんな判別は不可能なのだ

「生まれてきたこと」の最も避けがたい重要な意味とは
「次の瞬間、全てが終わるかも知れない」ということだ・・・・

常に今この瞬間が、「人生最後の瞬間」かもしれない

  ・・・達成すべき「いつかどこかの目的」の、
        その、「いつかどこか」の到来は
                       常に仮説に過ぎない

キャッシュ・・・間違いなく私たちが握りしめている〝現金〟とは、常に「いまここ」だけだ

  であるなら、常にいまここだけが「約束の地」なのだ

  それ以外の全ての「約束の地」は、運命によって反故にされるかも知れない
  その〝可能性〟だけで充分〝致命的〟であることをついつい忘れてしまう
        それを忘れて、「きっと明日があるさ」とわたしたちは眠りこける
 
 それが、「全てを手段と見なして価値付けする」わたしたちの病であり、悲劇だと思う

 バーガーショップが深夜に大混雑! 長蛇の列にも、人々が怒らなかった理由

ディヤン ムディトさんの写真

ディヤン ムディト  JOY
2015年5月29日 ·

私達は、ものを食べる、ということを、
完全に、機械的なプロセスにしてしまった。
人は、食べ物を身体に入れ、そして食卓を離れる。
それはもう、心理的なプロセスではない。
これでは、危険だ。
私達は、ものを食べ、水を飲み、呼吸をしている。
私達は、これらのすべてに、
感謝の気持ちを、持たなくてはならない。
生命すべてに、世界すべてに、全宇宙に、全自然に、
神聖なるものに対して、
感謝の気持ちがあって、しかるべきだ。
また一日、私は、生を受けました。
また一食、食べる物を戴きました。
また一日、私は、太陽を、咲きほころんでいる花を、
見ています。
私は、今日もまた、生きています。
この気持ち、この感謝の気持ちが、
人生のあらゆる側面に、なくてはならない。
そして、特に食事には、それがあって然るべきだ。
そうして初めて、人の食事は、正しい食事になる。

OSHO:The Inner Journey, より抜粋

昨日はこれ↓に出席のため、皇居の前まで行ってきた・・・・


私はここに別に「何の期待もせずに」行ったつもりだったが
出席者は皆、主催の藤田さんをはじめ、みな素晴らしい人だった

やはり「漫然と集まる」よりも、一応「スピリチュアルな・・・」とか「ワクワク・・・」とか
最低限のキーワード、つまり〝テーマ〟が定まった集まりじゃないと
「注目すべき人達との出会い」の〝命中率〟は落ちるものだ・・・

この席の中で私は、私の興味としてこれら出席者各人に「人生への期待はあるか?」
インタビューしてみた・・・

言い出しっぺの私は、まず「わたし自身は何の期待も持っていない」と語った

「この先、人類が至福千年の時代を向かえようが、 核戦争で絶滅しようが
私個人で左右出来ることではないし・・・」とまず自分自身の〝期待〟を表明した

それに対し、私以外の出席者で最も印象に残った回答が、主催者の藤田さんであった

「わたしは〝有る特定の信念を共有する仲間〟を作りたいのでは無い」
「集まってくる人達は皆、いろいろで、その個性の分かち合いをしたい」と言ったような
回答だった・・・

私は嬉しくなってヌーソロジーで仕込んできた「同質異体と異質同体」の話を紹介した

OSHOの言葉に「天国への道は天国」というのがあるが
昨日集まった人達は「ワクワクというキーワード自体にワクワクして来た・・・」のだった 

わたし自身も
「・・・何も期待していないとさっき言いつつ、でもこんなところに来てるわけだし・・・」
と苦笑した・・・・一同ニヤリ


    果たして「ワクワク」と「期待」とは同じなのだろうか?

・・・・昨日の集まりを解散した後も、ずっとその疑問が頭に残っていた

バシャールの十八番、「ワクワク~エキサイトメント」 ・・・それは何か?
                 この言葉の定義それ自体が結構難問である

「期待にワクワクする」こともあれば「ワクワクすることに期待する」こともあるので
ワクワクと期待とは同一視されやすいが、厳密には違うように思う

その会では、「ワクワクの正反対のもの」ということで、「それは恐怖だと思う」と
私の瞑想の中で出てきた言葉を皆さんにご披露してきた

 「こうであって欲しい」「ああであったらいいなあ」というのが〝期待〟だが
  そこには常に自分自身の欲望に基づいた〝憶測〟が介在していて
   イコール〝裏切られる危険性=リスクへの恐怖〟を背後に含んでいる

「期待」には、
シュレディンガーの猫のように「オモテか?ウラか?」という可能性が同居している・・・
しかし「未知の未来」がオモテであれ、ウラであれ、実はどちらも「想定範囲内」なのが
「期待」のカテゴリーだと思う・・・・期待の「毒ガス室」を開けてみたら、そこにあるのは
          「生きている猫」か?「死んでしまった猫」か?のどちらかで、
                  そこからドラゴンが飛び出すことは無い

サプライズの要素無しに「ワクワク」が有り得るか?と言えばもちろん「ノー」だろう
「想定し得ない純然たる未知の事態」に対して
ネガティブに(閉じて)構えれば「(リスクに対する)恐怖」であり、
ポジティブに(開いて)構えなければ「(スリルに対する)ワクワク」と言えるかも知れない

セレンディピティー(思わぬ僥倖、「わらしべ長者」現象)とは
この「恐怖」を「ワクワク」へと転換することではじめて起こり得る・・・

それは
「オモテか?ウラか?」という「過去に基づいた未来への不安と期待の揺らぎ」・・・
         ・・・その〝感情の暗雲を突き抜けた〟成層圏の飛行のようだ

  ひとは何の期待ももたずに、それでも「歩いて行ける」だろうか?
  ひとは何の夢も理想も目的も信念ももたず、
  それらから自由で居られるだろうか?

・・・それらからの自由と解放とはイコール〝絶望~虚無感〟ではないだろうか?

   わたしたちは「明日を一切期待せず」「今日を生きていけるのだろうか?」

          ・・・・これが私がこの記事で問いたいところだ


質問:人生に目的を持つべきでしょうか? 投稿者 maneel-katal

日常は「小さな目的、動機」の細かい積み重ねで動いてゆく・・・
それは「仕事に出勤する」とか「おしっこにいきたい」とか「腹が減った」だとか
ごくごく事務的な必要性だったり、生理的な欲求だったりする・・・

行った先に、今日も職場があったり、トイレがあったり、行きつけの定食屋があるのは
「期待」と言う程のことではないと思う・・・

  行った先のトイレがたまたま故障していて使用禁止だったり
  行きつけの定食屋がたまたま臨時休業だからと行って
  別にそれがいちいち恐怖であったり、怒りといった感情を動かす程のことじゃない

・・・そんなことで落胆したり、怒り狂うヒマがあるならば、
   さっさと別のトイレを探すなり、他のお店を探すまでのことだ

人間ひとりの〝無限の欲望〟を充たすのには全地球の資源を使い果たしても足りないが
目の前の〝食欲〟〝睡眠欲〟・・・〝欲〟を充たすだけならどうということはないのだ

実は昨日の「お茶会」に出席する前、こんな投稿をフェイスブックで目にしていた
損得勘定で生きる人は怒らない・小林正観メッセージ176

つまり、「損得勘定」という即物的な、ごく自然な動機というのは
「いちいち〝一喜一憂する感情〟を掻き立てない」ということだ

でもここに
期待とか、理想とか、達成目標とか、信念大系のようなものが絡むとそうはいかない

・・・ここにバシャールが言うところの「ワクワク」と、
 私たちが期待の上で追求している「ワクワク」との重大な〝ずれ〟があるように思う


バシャール「究極の、無限の自己信頼」 投稿者 maneel-katal

※ 動画中9分20秒ごろより
  「エキサイトメントとは、跳んだり跳ねたりの気分の抑揚のことでは無く
      自分の内なる平和を感じる満足感が鍵となる感覚のことです」

私たちが「エキサイトメント」という言葉を聞くと、
一般的にそれは「スリルと興奮」、そして「歓喜の追求」のことだが、
どうもそれはバシャヤンが言う「エキサイトメント」のニュアンスとは違う気がする・・・

気が付いてみると、
私たちは「際限ない欲望の追求」を「ワクワクの追求」だと思って暴走している

この〝違い〟・・・・  この「エキサイトメント」という単語のひとり歩きは、
以下でゲラー氏が指摘する・・・
〝好きなこと〟〝(人に褒めて貰える)得意なこと〟との〝混同〟」で
                  巧みに説明されているように思うのだ・・・

そしてそれは、
そのまま「スピリチュアルとは何か?」という言葉の定義とも、深く関わっていると思う

P076


「アセンション」にせよ
「無条件の愛」にせよ・・・
  本当の意味で
   「完全なる自己責任とは何か?」が
    分からなければ、それは机上の空論だろう・・・

 P056


     なぜなら「無条件の愛」も、「完全なる自己責任」も
      全く同じ事を別側面から表現した言葉に過ぎないからだ

90%も、99%も、0.9%も・・・、
100%とは本質的に全く次元が違う・・・
・・・・水が100度の沸点に達した時、蒸気へと変態するように

    「100%の自己責任」とは何か?

たった10分間でも良い
「自分の人生に100%の責任を取ります」と
自分自身にホンキで宣言してみて、
一体それが何を意味するのか?
そしてそれが
自分自身の精神に何をおこすのか?   ・・・10分間だけ真剣に試してみて欲しい

・・・きっと驚くべきことが起きる!  あなたは「気化する」だろう!

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「自分自身の全責任を負う覚悟」とは、「全宇宙を背負う覚悟」に等しい・・・
 ・・・・それを表現した漫画が、永井豪の不朽の名作マンガ「デビルマン」だ



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