であれば、
あなたが生まれてくる前の神の存在など、どうしてあなたが気にかける必要があるだろうか?
そしてあなたが消滅するなら、
その後の神の存在など、どうしてあなたが気にかける必要があるだろうか?
三島由紀夫
もしも、あなたが生命の宿らない木偶(デク)人形ならば、
神はあなたから崇拝を期待することさえ出来ないのだから・・・
つまりあなたと神とは同時に生まれ、同じ瞬間に死ぬということになる
そう考えることに「何か不都合は」あるだろうか?
あなたはこう反論するかも知れない、
「でも私以外にも、人間は沢山いるし、大昔から営々と人間は存在してるじゃないか?」
たしかに〝客観的事実〟はそう見える
「人類の歴史」が原因で、その中の小さな小さなたったひとりがあなたに過ぎない
しかしあなたにとって、自身の生命とはこの全宇宙を上回る価値では無いか?
あなたの〝主観的な視点〟というのも〝アリ〟ならば
全世界は、今この瞬間のあなたの体験のためにすべて準備されてきた・・・と言う様にも言える
「いやそんなことはない、わたしは自分の命を捧げても惜しくないほど国や家族を愛している」
というほど、貴方は愛に溢れた素晴らしい人かも知れない
でも、そうだとしたら、やはりその「あなたの」愛は「あなた」の消滅と共に消える
(この場合の〝消滅〟とは、かならずしもあなたの肉体存在に限定された意味では無い)
いままでは
自分を度外視して神に感謝を捧げることを宗教〝組織団体〟は奨励してきた
日本人が大好きな「無私無欲」「無念無想」とは、そういう意味で使われてきた
でも、自分自身が生きていることに歓びや感謝が無いなら
その「空っぽの財布」から、どうやって神に感謝を捧げられるのだろうか?
そんな「無茶なこと」を要求する神を、どうやって崇拝したらいい?
捧げるべきものを持っているものだけが、捧げることが可能だ・・・ 違うだろうか?
あなたが、生きる歓びと感謝のあまり、思わず崇拝の対象を探した時、はじめて神が可能だ
それ以前に幾ら神を崇めても、そこには神が存在しようがしまいが無垢無心な祈りなどありえない
「無我夢中」「一心不乱」で遊んでいるとき、実はそれが最も「自分らしい」状態だ
それはもう神に手を合わせていなくても、もっとも「神への感謝」を捧げている状態なのだ