We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年04月

もし、あなたがいないなら、神など居ない

であれば、
あなたが生まれてくる前の神の存在など、どうしてあなたが気にかける必要があるだろうか?

そしてあなたが消滅するなら、
その後の神の存在など、どうしてあなたが気にかける必要があるだろうか?

俺が死んだら、この世界も消えるのさ・・・

三島由紀夫

           もしも、あなたが生命の宿らない木偶(デク)人形ならば、
              神はあなたから崇拝を期待することさえ出来ないのだから・・・

つまりあなたと神とは同時に生まれ、同じ瞬間に死ぬということになる
そう考えることに「何か不都合は」あるだろうか?

  あなたはこう反論するかも知れない、
  「でも私以外にも、人間は沢山いるし、大昔から営々と人間は存在してるじゃないか?」

  たしかに〝客観的事実〟はそう見える


  「人類の歴史」が原因で、その中の小さな小さなたったひとりがあなたに過ぎない
  しかしあなたにとって、自身の生命とはこの全宇宙を上回る価値では無いか?

  あなたの〝主観的な視点〟というのも〝アリ〟ならば
  全世界は、今この瞬間のあなたの体験のためにすべて準備されてきた・・・と言う様にも言える

 「いやそんなことはない、わたしは自分の命を捧げても惜しくないほど国や家族を愛している」
 というほど、貴方は愛に溢れた素晴らしい人かも知れない

 でも、そうだとしたら、やはりその「あなたの」愛は「あなた」の消滅と共に消える
  (この場合の〝消滅〟とは、かならずしもあなたの肉体存在に限定された意味では無い)

・・・今度は「わたし」が「神」となり(覚醒期)、
    「あなた」と交替して、「あなた」を創造していく・・・


いままでは
自分を度外視して神に感謝を捧げることを宗教〝組織団体〟は奨励してきた
日本人が大好きな「無私無欲」「無念無想」とは、そういう意味で使われてきた

でも、自分自身が生きていることに歓びや感謝が無いなら
その「空っぽの財布」から、どうやって神に感謝を捧げられるのだろうか?

  そんな「無茶なこと」を要求する神を、どうやって崇拝したらいい?

   捧げるべきものを持っているものだけが、捧げることが可能だ・・・ 違うだろうか?

あなたが、生きる歓びと感謝のあまり、思わず崇拝の対象を探した時、はじめて神が可能だ
それ以前に幾ら神を崇めても、そこには神が存在しようがしまいが無垢無心な祈りなどありえない

「無我夢中」「一心不乱」で遊んでいるとき、実はそれが最も「自分らしい」状態だ
それはもう神に手を合わせていなくても、もっとも「神への感謝」を捧げている状態なのだ

ディヤン ムディト's photo.
ディヤン ムディト  JOY


生に溢れる、ということは、ユーモアのセンスを持つことだ。

深い愛に、溢れた質と、遊び心を、持つことだ。


私は、生に否定的な、あらゆる態度に完全に反対する。


今まで、

  神に敬意を払うことは、

  生を、否定することだった。


それを、

  生を肯定する態度に、変えるには、

  遊び心と、ユーモアのセンスと、愛と、尊敬の念、


       ・・・・・・その全てが、合わさることが、必要だ。


            生、そのものより、神聖なものはない。


だから、

  生に対する敬意は、

  神に対する唯一の敬意だ。


OSHO:「ゴールド・ナゲッツ」(和尚エンタープライズジャパン)

社会も、様々な単位の組織も、
つまるところ個人を〝メンバーの頭数〟として吸収して生き残ってきた
それによって個人もまた、その庇護を受けてきた

この歴史は哺乳類の始まりに遡るだろう・・・

  だからとてつもなく長い歴史だ
  私たちの生存本能のレベルまで食い込んだプログラムだ
  そしてこれが、相互の「比較、競争、嫉妬、疎外、差別・・・」といったものの温床ともなった

ところが、こういった〝群れること〟〝どこかに所属し、そこで何ものかになる事〟から脱出し
OSHOがいう「自分らしさ」を取り返そうとすると、そこで当惑する

本当の〝自分らしさ〟というのは、「誰かへの首尾一貫性」である必要は無く
「わたしのスタイルとはこれですよ」といったマニフェストも要らない・・・

それは
人類の歴史がいままで一度も体験したことが無い〝絶対的自由〟を引き受けることになり、
わたしたちは恐怖で足がすくんでしまう・・・・

組織の中、群衆の中、システムの中には
「(ある一定幅の)選択の自由」だけしかなく、「選択しない自由」は無かった、
そんな経験をしたことがかつて無かったのだ

「選択する自由」とは「コースを選ぶ自由」でもあった
「道無き未知を歩む自由」とは、瞬間瞬間の判断を要求される・・・
「自分らしさ」というのも瞬間瞬間で変化して、「これ」というコースもサンプルもお手本も無い

しかし、「自分らしい創造性」とは、そういった「お手本が無い」ところにしかあり得ないのだ

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ディヤン ムディト  JOY

人々が、決して、
内に秘めた、可能性のことなど、考えないように、
社会は、あらゆる手段を、用いて来た。

そして、惨めさの、全ての原因は、
人が、自分自身でないことに、ある。

ただ、自分自身で、ありなさい。

そうすれば、惨めさも、競争も、
他人が、自分より、多く持っている、
ということも、

自分の方が、他人より、少ない、
といった、煩わしさも、ない。

自分の芝生を、もっと、青く育てるなら、
塀の向こうを、眺める必要はない。

自分の芝生を、青く育てなさい。

芝生を、青く育てることは、とても簡単だ。

人は、何であれ、
自らの内に秘めた、可能性に、根ざすべきだ。

そうすれば、世界は、
信じられないほど、満ち足りたものになる。

OSHO:「ゴールド・ナゲッツ」(和尚エンタープライズジャパン)

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ディヤン ムディト  JOY

あなたが、手にしているのは、
まさに、小さな生。
体面など、気にしてはいけない。
名誉など、気にすることはない。
他人がなんと言うか、気にしてはいけない。
ただ、自分自身のエネルギーに、耳を傾けて、
それに、従うがいい。
私は、それを「勇気」と呼ぶ。
OSHO
https://www.facebook.com/OSHOjapanese?fref=nf 


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「引き寄せの法則」とは
「自分が欲しいと望んだものを、すでにあるものとしてイメージし
幸せな気分に浸ったら、本当にその通りのものが実現した」という奇跡話だ

わたしはこの法則が必ずしもウソだとは思わない

ただしここにはひとつの大前提がある
「自分が望んだ」・・・これが原因で
「自分が得た」・・・これが結果だという思い込みだ

あなたは足が20本あり、頭が4っつある褐色の宇宙人になっている自分に成りたいだろうか?
そしてそれをありありと歓びに溢れてイメージ出来るだろうか?
そしてイメージ出来たなら実現出来るのだろうか?

・・・本当に「イメージしたら・・・」そしたら「実現した」のだろうか?
それとも「そういう未来の可能性」を予知、予感したこと
「自分の欲望とイメージだ」と勘違いした可能性は無いだろうか?

「何でも思い通りにイメージすれば実現する」ならば頭にリンゴの木を生やし、
その木からミカンを収穫することも出来るハズだ

猫と日本語で話すことも出来るだろう

岩の中から神が挨拶に出て来るビジョンをありありと浮かべることも出来るかも知れない

  ・・・しかしそういう「投影の熟達者」になることで
    あなたは「あるがままの世界」に本当に近づいたのだろうか?
               むしろ遠のいたのでは無いだろうか?

「目に突き刺さった大木」がとれた瞬間こそが「無」であり、「あるがままの世界」だ
「正常な視力を持つ目玉をくりぬくこと」ではない



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Prem Sheel
2014年4月14日
ずっと以前、 人々がひとりの聖人を連れてわたしのところにやって来た。
彼らがいうには、 その男はいたるところに神を見るということだった。 この三十年というもの、
彼は万物のなかに神を見てきたということだった。
花のなかに、 木のなかに、 岩のなかに、 あらゆるもののなかに。 わたしは、 「訓練によって万物のうちに神を見るようになったのか?」、と男に訊ねた。 もしそうなら、そのヴィジョンは偽物だからだ。 男はわたしのいうことを理解できなかった。 わたしはふたたび訊ねた。
「あなたは万物のうちに 神を見ることを想像したり、  強く願ったりしましたか?」 男は答えた。
「はい、それはもう。  岩のなかに、 木々のなかに、 山々のなかに、すべてのもののなかに  神を見ようと、三十年前にわたしはこの修行(サダーナ)を はじめたのです。  やがてあらゆるところに 神を見るようになりました。」 わたしはその男に、3日間わたしとともにいて、 その間、いたるところに神を見るのをやめるようにいった。 彼は承知した。 ところがさっそくその翌日、男はこういってきた。
「あんたは  随分ひどいことを してくれたものだ。  いつもの行(ぎょう)をやめて まだ12時間しかたっていないというのに、  もうわたしは岩を岩として、山を山として見はじめている。  あんたはわたしの神をかすめ取ってしまった!  なんという人だ!」 わたしはいった。
「たった12時間  行をやめただけで 神が消えてしまうようなら、あなたが見てきたものは 神ではない。  それは日々の練習の 賜物だったにすぎない。」 たえず何かを繰り返しているうちに幻覚をつくりだすようなものだ。 そうではない、岩のなかに神を見るのではない。 むしろ、 岩のなかに神それ以外に何ひとつ見るべきものが残っていない、 という状態に達する必要があるのだ。
このふたつは別ものだ。 そこに神を見ようと努力して、あなたは岩のなかに神を見はじめる。 だが、 その神は心理投影以上のものではない。 それはあなたによって岩のうえに二重に映しにされた神。 あなたの想像の産物だ。
その神は混じりっけなしのあなたの創作。 想像による完全な作りごとだ。
その神はあなたの夢以外の何ものでもない。 何度も何度も補強し固めてきた夢だ。
このようにして神を見ること自体に何も問題はない。 しかし、それは幻想のなかに生きること。 真理への参入ではない。
ある日 もちろんそれは起こる。 その人個人が消えうせ、その結果、 人は神のほかに何も見なくなる。
そのとき、人は神が岩のなかにいると感じたりしない。
「岩はどこだ?  神しかいないぞ!」
これがそのときの感じだ。 わたしの言ってる違いがわかるだろうか?
そのとき、 人は草木のなかに神が存在してると感じるのでもなく、 岩のなかに神が存在してると感じるのでもない。 植物が存在していて、その植物のなかに神が存在している・・・・。
そうではない。 そういうことではない。
Osho - And Now,And Here 

参照:和尚ネオタロット:24.Misuse of Power
   力の誤用(一見上記とは正反対の話)
(解説書はココをクリックすると別窓でテキストが開きます)




「文明」という単語は言語によって世界が明るくなるという意味だろう

「神ははじめ、〝ことば〟を造った」という旧約聖書の表現はつまり
この宇宙の物理的な誕生のことでは無く
人間の文明社会の始まりを意味しているのだと思う

たしかに言葉によって、ものごとは明瞭化する
なぜなら言葉とは、境界線の曖昧な、世界が渾然一体の状態(無・無限・無限光)から
「あれ」やら「これ」やらと指さし、デファイン(定義)し、「切り出して」くることで成立するからだ

アンマニフェスト

人間はそのお陰で自然からその恩恵を「切り出す」「取り出す」のが上手な生命種になった・・・

「価値観」やその「比較」は言葉や道具を持たない人間以外の動物たちも
ある程度はその概念を持っている

動物たちは、自分自身に適した環境を「選び」巣作りし、
長い進化に歴史の中で自分の身体に適応したものだけを本能的に「選んで」食べる

「選ぶ」ということには必ず「価値」や「比較」「抽出」の概念がある

しかし、わたしたち人間はこれらを言葉によって正確に定義し、概念化したことで
自分達の両手の延長に様々な道具、器具、理論、システムを作り出し 、
効率的に自然の恵みを収奪してきた

そしてこれがいま、歯止めの掛からない環境破壊を進行させている・・・

 「必要なもの」と「不要なもの」との選別、「純粋抽出」の技術は、
  つまるところ「産業廃棄物」という、自然の復元力を大きく逸脱した歪みを作り出す

   そして人間同士でも「必要な人材」と「不要な人材」といった選別が行われ
    それが社会システムの維持に不可欠であった

「勝者」「敗者」「要る人」「要らない人」という分離、選別が、システマティックに進行した・・・

人々は社会システムからの分離を恐れ、
自らが作り出したこの巨大な「環境収奪装置」の
歯車のひとつにこぞって自発的に従属しようとしてきた・・・

  この「従属」そのものを「社会参加」「社会貢献」とよんで、先祖から子孫へと美徳としてきた

人々は今、日々直接的には衣食住では悩まず、その替わりお金や人間関係、その中での
「自己の役割」「居場所」・・・つまりアイデンティティーに悩んでいる

    ・・・それが、つまり「社会生命」「社会貢献」こそが、日々の「衣食住」にも直結するからだ

人間の価値観とは社会的アイデンティティーと切っても切れない

  これらから自由(無頓着)であるためには「技術、知識」「財力」「権力」「名誉」を得ることだ

   なぜなら、これらが人間が蓄積してきた「価値観」の集約されたものだからだ

だれもが、なにがしかの価値観、つまりなにがしかの〝達成〟を追いかけて生きている
               ・・・その「なにがしか」は個々人によって違うのだけれど

「意見」というのも、これら「価値観」がベースになってのことだ
何の価値観も持ち得なければ、何の「意見」にも意味は無い

だから最高の価値とは、「いかなる価値観(動機)からも自由である」ことだ

・・・それを理解するために、私たち人間の歴史の堆積はあるのではないだろうか?


  いかなる価値観も「何か」の為に・・・  「何か」を達成するために存在する

               では、その「何か」が「何も」なければ???
                 そのとき、わたしたちはどこに行くべきなのだろう? 

                  その「何も従属すべき価値観がない状態」とは・・・

                           「不毛(虚しさ)」なのだろうか?
                     それとも  「豊穣(充足)」なのだろうか?

ディヤン ムディトさんの写真
ディヤン ムディト  JOY

私は人々が、全世界を、
笑い、喜び、歌、そして踊りで、
満たすことを、望んでいる。

私達は、どこかに、
楽園を求めているのではなく、

今、ここに、
楽園を作り出す方法を、求めている。

もし、今ここに、
楽園を作り出すことが、出来るのなら、

たとえ、地獄で出会うとしても、
そこで、楽園を作り出すことが、
出来るだろう。

OSHO



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