We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年04月

jojo04-179

・・・自我は誰の中にも溶かし去ることは出来ない


愛が悲しみをつくりださないのだとしたら、
  「それは愛ではないのだ」と、知りなさい。
 
愛は悲しみをつくりださずにはおかない--
 
愛が大きければ大きいほど、
それから起こってくる悲しみもまた大きい。
 
愛は神への扉を開け放つ。
二つのハートは近くに、ごくごく近くに寄るが、
そのまさに近さの中に彼らは分離を見る--
 
         --それがあの悲しみだ。
 
遠く離れているときは、
それをそれぼどはっきりと見ることはできない。
あなたは自分たちが別々であることを知っている。

だが、相手とひとつになることを
  望み、憧れ、それに大きな情熱を抱き、
    どんどん近くに寄って行くと・・・

ごくごく近くにいるのに、
 それを超えてゆくことができないような、
  それで行き詰まってしまうような瞬間がやって来るーー

          突然、あなたは悲しくなる。
 
目的地はすぐ近くにあるのに、そこまで行き着くことができない……。

   それらを自らの永遠のリアリティにしたいのだったら、

    ---愛そのものでは充分ではない
         そのときには祈りが必要になる。
 
     --愛はあなたをこの必要に目覚めさせる
 
  祈りへと進んでゆかないかぎり、
  愛はさらに多くの悲しみをつくりだすだろう……。
 
では、どうしたらいいのか? 
愛における悲しみを祈りへの巡礼の旅にしなさい。
この悲しみの経験を深みにおける大いなる瞑想にしなさい。
 
まずあなたの自我を
自らの内なる存在のなかで溶かし去らなければならない。
 
    それをほかの人のなかで溶かし去ることはできない。

jojo04-178

OSHO Japanese
 
人はただ静かに坐ることができる。
 
<全体>に関するがぎり、
言葉は意味がなく、言葉はわきに置かなければならない、
 
そして言葉をわきに置くことは、
あらるゆるものをわきに置くことだ。
 
  あなたの心、
  あなたの知識、
   あなたの宗教、
   あなたの教会ーー

それらはみな言葉の世界に属している。
 
 静かになる瞬間、

あなたは
  キリスト教徒ではないし、
   ヒンドゥー教徒ではないし、
    イスラム教徒でもない。
 
 静かになる瞬間、

  そこには『聖書』も、
   『コーラン』も、『ギータ』もない。
 
 静かになる瞬間、

  あなたは
   無神論者でも、有神論者でも、
   共産主義者でも、社会主義者でもない。
 
沈黙は
 あなたが学び蓄積したすべてのものを
       あっさりぬぐい去ってしまう。
 
それはあなたを再び子どもにする、無垢にするーー
 
              この無垢が祈りだ。

昨夜は変な夢を見た

私と女性の友人とでIS(イスラム国)に拉致されてしまい、
二人で命からがら脱出を試みるという夢だった

多分先日見た250人の女性の処刑という痛ましいニュースが記憶にこびりついていたのだろう


男の私だって
「洗脳されてしまい、罪の無い人々を殺す戦闘員にされる」ことだけは避けたかった
だから多分、本当にそんな事になれば、
命がけででも脱出しようとした夢の中の判断は間違っては居ない

・・・とはいえ、人間の脳は、「よくもまあ次々と問題を際限なく作り出すものだ」と感心した
   禅の公案である
    「壺の中で成長してしまったガチョウを生きて取り出すには?」  ・・・そのものだ!

「8:ホド」のスフィラー、「5:ゲブラー」のスフィラーの様な「分析」「挑戦」のマインドは
一見多くの問題を解決しているようだけれど、その前に問題を「作り出す」

・・・私たちのマインドは延々と「マッチポンプ」をやっているのが大好きなのだ



「マインドはどこかに向かって走っているのでは無く、自分自身を知ることから逃げている」

だから延々と「マッチポンプ」を繰り返し、
無為と沈黙の中を覗き込むことを避けているのだ

特定の何か信念体系とかノウハウを身につければ、
それで人生は「いつかは」オーケーになるのじゃないか?と常に期待している・・・・

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六.騎牛帰家(きぎゅうきか)
ティファレト:対応天体=太陽

「牛と私とは元々別々のものでは無かった・・・  はじめっから分離などしていなかった」

「壺の中のガチョウ」にせよ「牛探し」にせよ、これは比喩に過ぎない

  これらの質問からの挑戦状に鼻面を突っ込んだ瞬間から、
                   わたしたちの鼻先は抜けなくなる・・・

  マインドはゲームが大好きだから何にでも鼻面を突っ込む、
    ところが深く突っ込めば突っ込むほど、抜けなくなり、脱出のメドは立たなくなる

「トラがトラになる日」など決して来ない、
トラは、トラとして生まれ、トラとして死ぬ、そしてその間もずっとトラなのだ
「トラになるチャンス」など一瞬たりとも無い・・・

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十牛図における「牛」という動物の登場も、
「自分がすでにそうであることにリラックスしていること」の象徴だ

   ※ 「ウシトラの金神」というのが、なぜ「世界中の宗教の統合」なのかも
     このあたりに答えがあるように思う・・・

   人が「何か」になろうとしない時、すべての宗教は終わるからだ

人間だけが、「自分自身であること」から逃げている・・・

      「何かになる、何かを知る、何かを身につけること」で、
        ・・・・自分は初めてリラックス出来るのではないか?

 この自分自身に仕掛けたトリック・・・マッチポンプでいつもきりきり舞いしている
 なぜなら私たちは
  「自分に何かを付け足すこと」「何かに自分が従属すること」で
     サバイバルに成功してきた種族だから  ・・・無理もない

仏陀は動物たち、いや、森羅万象のあるがままに溶け込んでいる
(ほんとうはわたしたちもそうなのだけど・・・)
「自己知」において、基本的な違いは仏陀と動物たちとの間にはない・・・
ところが人間は「違い~優れていること」に気を取られすぎているが故に、
仏陀が「動物のようにシンプルな存在であること」がなかなか納得出来ない

  〝自然さ〟という点で動物たちは仏陀と隔たりのない存在であるからこそ、
   人間よりも動物たちの方が、本能的に〝悟った人〟の気配は感じ取れるのだろう

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しかし自然に〝帰って来た〟仏陀には確かに動物たちとは違いはあるだろう・・・

   それは角度における「0度」と「360度」との違いで比喩出来得るのじゃないだろうか?
   動物たちははじめから「自分自身と分離したこと」が一度も無い・・・
   ところが仏陀は
   「人間特有の自己分裂・・・そうであるものとは別の自分自身を想定する」という地獄を
   ひと通り通過し、そして「騎牛帰家」した存在という点で、動物とは違う・・・

   ところが見かけに惑わされる人間には「0度」と「360度」との違いが往々にして判らない

しかし本当は、始まり(スタート)もなく終わり(ゴール)もまた無い
0度だろうが90度だろうが180度だろうが270度であろうが360度であろうが・・・・
実は全部、同心円状の物語りに過ぎず、そこから一歩も外にはみ出てはいないのだ

  牛・・・肉体的な生老病死の巡回を「観照する」とき、
      「牛:円周」は消え(忘牛存人)そして「観照者:中心」も消える(人牛倶忘)


先日、つらつらとyoutubeサーフィンをしていたらこんなのを見かけた


「個人の尊厳の実現」こそが、民主主義の目的であり
「選挙」とはその手段に過ぎない・・・っと天野氏が語っていた

この①~③、全部は通してみていないので、
天野氏が最終的に「どこ」に着地点を見ているのか?
は知らないし、だから私には批判する意図は無い・・・

ただ、
彼が挙げている「個人の尊厳の実現」というワンポイントが面白いテーマだなと思った・・・

いわずとしれた「民主主義」とは、現在の政治体制の「たてまえ」である
そしてその〝目的〟が「個人の尊厳の実現」であるとするならば、
「民主主義の偽善性」とはまさしくこのワンポイントに有るのでは無いかな?っとおもったのだ

   「目的として掲げられているものは、
    つまり、現状認識として『未だ実現していない』事を意味する・・・」

        その様に天野氏は動画中でも語っている

例えば昔の黒人奴隷の問題、いまだにのこる人種差別の問題・・・

・・・なるほど、「肉眼的視点」からみれば、天野氏の言っていることは正しい
   しかし、「本当にそうなんだろうか?」というのが、動画を見ていて私の感じたことだ

   「個人の尊厳」とはそもそも何だろうか?なにを指し示している言葉なのだろうか?
 その背景には「人権」「対等に扱われず、可哀想」という感情が基準になっていないだろうか?

わたしも、「他人の苦境に同情する」気持ちには同意出来るし、尊重する気持ちはある

でもはたして、
「現在の状況は、なぜこうなっているのか?」私たちはどこまで知っているのだろうか?

ISに処刑された250人の女性は、そもそも「何故そこに居あわせたのだろうか?」
たまたま?偶然?

「可哀想で憐れで、加害者の前で非力で無力な被害者」と人を見なすことは
はたして「個人の尊厳」のための主張なのか? 
むしろその人の「尊厳を踏みにじること」じゃないだろうか?

   意識高い系は「闇」を知らない

たしかにISのしていることは「残虐非道」であるが、なぜこんな悲しい事件が起きたのか?
その全貌は「ISが酷いから」の一点だけでは視野狭窄に陥っては居ないだろうか?

この地球のいままで・・・、どこで、何が起きてきたのか? いま、何が起きているのか?

確かに何一つ私たちとは無関係ではないだろう、世界は多くの因果関係で結ばれている
だからついつい「いま、私たちに何が出来るだろうか?」という激しい問いかけに繋がってしまう

しかし「どこかに向かって駆け出すこと」が本当に「いますべきこと」なのだろうか?

わたしたちは野別幕無しに「行動に駆り立てられて」いるが、
本当は問題から「逃げて」いるのではないだろうか?

・・・この最大の原因は「個人の尊厳」を「目的」に据えているからでは無いだろうか?
  そのことそれ自体が「〝いまここ〟では実現していない」ということを強調している

   でもそれは「本当」だろうか?

   もし、
「すでにいまここに個人の尊厳が実現しているからこそ、〝こんな〟世界」なのだとしたら?

現在のISの戦闘員達は、みな「洗脳されてしまっている憐れな被害者」なのならば
(わたしは昨夜の夢の中で、命からがら、かれらの収容施設から逃げ出してきたが)
現実にかれらに対して必要な措置とは
武力行使、報復では無く、「脱洗脳」ではないだろうか?

そして彼らが洗脳されてしまったいまの世界の状況には、責任は無いのだろうか?
むしろ「行き場を失ってしまった若者達」が、自ら喜んで洗脳を受けるような状況を
このわたしたちの世界が提供してはいないだろうか?

一方、「自ら喜んで洗脳を受け」た彼らには全く自己責任も、尊厳もないのだろうか?

もし・・・、もしも・・・だ、

だれもが〝すでに〟
自らの自己責任において、尊厳において「いまここ」にいるのならば・・・、
        わたしたちは一体どこに駆けだしていって、何をするべきなのだろう?

        本当に民主主義は「個人の尊厳の実現」に向かっているのだろうか?
            ひょっとしたら「個人の尊厳からの逃避」なのじゃないだろうか?

本当に何か政治的なスローガンが「個人の尊厳」に向かうことが可能なのだろうか?
    それらすべての社会的努力とは「日本死ね」に帰結するのでは無いだろうか?

トランプやその先祖であるタロットカードの数札の各「5番」は
生命の樹の第五のセフィロト「峻厳のゲブラー(対応天体:火星)」に対応している

参照記事:
2015年10月04日 究極の旅・・・「十牛図 "THE SERACH"」
2016年03月24日 生命の樹と十牛図

十牛図

これは禅の十牛図では「得牛」であり、人生の様々なものを〝得る〟上での奮闘努力、
また、〝得る〟の反対である〝(敵の)排除〟もまたゲブラーのテリトリーだ 

その下のセフィロト「ホド(対応天体:水星)」はその「得たいもの、排除したいもの」の識別をする
・・・すべての「闘い」は識別心とその元となる価値観から来る

 価値比較というもの、識別心というものがなくて、勝利、敗北、成功、失敗の判定は、ありえない

この「肉眼で見える世界」には、常にこの〝罠〟が広がっている
この「五感で知覚するすべて」は、あなたを焦り、不安、孤独、恐怖に駆り立てる

・・・・であるならば私たちは一体何を信じたら良いのだろうか???
   私たち人間は常に、「価値観」そのものを様々な形で探しあぐねてきた

   そして「神」や「仏」への修行や瞑想、祈りによって、信仰や悟りを「得ようと」奮闘してきた

 マン・カインドが欲し得る最大の〝牛〟とは、カネでも権力でも名誉でも無く
 それらすべてのベースとなる〝絶対的価値観〟であり、これが「哲学」や「宗教」の課題だろう

             本当に賢い人ならば、
             最終的に求めるべき価値とは、
            〝絶対的価値観〟そのものであるはずだ

ところが、ここで〝得牛〟~ゲブラーのあらゆるメソッド、テクニックは行き詰まる

なぜなら、従来の全ての〝得牛〟つまり探求、獲得、闘争のすべては、
そのベースとなる価値判断基準があったが故に、
それに照合すれば、「次の一手」は確定出来るが
最後に探す「大きな獲物」とは、その「判断基準」そのものだからだ・・・・

・・・・つまり従来のように機械的、自動的にメソッドやテクニックが決定出来ないのだ!
   だれもがここで「自分の靴紐をひっぱっては、空に飛べない」というディレンマに陥る

だからそのヒントこそが「牧牛」に描かれている・・・
  つまり「あらゆる価値判断そのものが〝エゴ〟であり・・・」
   その「自分自身(古いテクニック、執着、獲得欲、価値観)」からの自由こそが
      「無限に広がる究極の価値の大空」へとあなたを舞い上がらせる・・・

        これが「すべての価値観からの自由」という「究極の価値」


つまり、「牛を〝得よう〟としない~牛の〝あるがまま〟自然を許す、解放する」ことだ

         牛と「信頼の絆」で結ばれた時、もう「鞭も手綱も」不要となる

   そうなったらもう、  「得牛~ゲブラーの奮闘、格闘」の段階は終わる

  そこには「どちらでもいい」という全托の境地が必要だ

そもそも、「絶対的価値の探求」において
      もっとも大切なファーストステップとは
    「わたしはいまだ〝絶対的価値判断に目覚めていない〟」
                            ・・・という自覚なのだ

    ・・・この最重要なファーストステップ
       ~〝五感に囚われた傲慢さの自覚〟~こそが、
            実はファイナルステップ「・・・いまここ」でもある

       なぜなら「何が究極的に〝良い〟ことなのか?判っていない」ならば
        ・・・あなたはそもそも「判断可能」だろうか?「識別可能」なのだろうか?

     この時わたしたちがいまだに
   五感に基づいた判断が〝正しい〟と主張するならば
  それは即ち、わたしたちは「絶対的な判断力を得ていない」という自覚に
         〝まだ完全には達していない〟 ・・・何よりの証拠なのだ !!

    この〝自己矛盾〟〝混乱〟〝葛藤〟の根本原因への目覚めこそが、
         私たちが〝牧牛〟への新たなステージへの参入を可能にする

自分の目で見て、自分の耳で聞いたことは
「直面した事実」として、まず疑うことは難しい・・・

自分がひょっとしたら「開きメクラなのかも知れない」・・・そう疑うことには実にガッツが要る
まさしく明瞭に見えていること、まさしく明確に〝判った〟と思うこと・・・
そのこと自体が「真実を覆い隠している牢獄」なのかも知れない・・・

・・・その「徹底的な疑い」をもたらしたという点で、映画「マトリックス」とは意識革命だった



OSHOも、クリシュナムルティーも、「私は何も信じない」とハッキリ言明している

       「この世で断言出来ることなど何も無い」ということは、
         「すべての信念体系は砂上の楼閣」だと言うことに等しい

でも、すべての認識が「砂上の楼閣」「トリック」かもしれないという可能性を疑った時、
不思議なことにわたしたちは、ある種の自由へと解放される

なぜならば
  「これが現実だ」という、重く鈍い鉄の鎖・・・、
    ・・・「絶対的な尺度」から抜け出せるからだ

         ・・・それは第三者的には、極めて〝狂気〟の様なのだけれど

存在する全てには、
    「どうしてそれがそこに存在するのか?」という絶対的な根拠など無い
               だから、「確かな〝価値〟」もまた証明出来ない

・・・このことはあなたという存在にも、わたしという存在にも同じように言える

   わたしやあなたがなぜこの宇宙に今、存在しているのか?

   ・・・そもそも確かに〝存在している〟のか?

      それを自分自身に証明する手立ては無い・・・



   わたしたちが「水槽の中のグッピー」ではないと、
   一体どうやって自分自身に証明出来るだろうか?

私たちは自分に
           「存在する価値が〝ある〟」

        とは、どうあがいても自分自身に証明出来ないが、
               でもそれは同時に

           「存在する価値などない」

        という証明も叉、不可能であることを意味している

 私が言っていることは「単なる詭弁」だろうか?
あなたやわたしは「いわゆる厳しく世知辛い現実」をよく知っており

        「だから、自分はガラクタだ、価値が無いのだ」

              と断言したいかも知れない・・・

もちろんそれは辛い結論だけれど、
もしそれが「断言可能」ならば、あなたは迷わずあっさり自殺可能だろう・・・

  しかし、断言出来ない・・・

「その断言」すら可能なら、ひとは苦しく辛かった人生に「スッパリと見切りを」付けられる
事実自殺してしまった人というのは、その証拠が「もう充分だ」と納得してしまったのだろう
しかし実際は「めめしいく未練がましい」からひとは自殺出来ないのではない

         ・・・そんな断定は「傲慢」だと、どこかでだれもが知っているからだ

自殺というのはある意味では人間らしい知的な行為だが、本質的に傲慢なのだ
だれもが「傲慢」を犯し、押し切ってまで、「自殺したい」とは思わないはずだ

しかしそこで残り続ける、小さくも無限に巨大な「生の可能性」は、
あなたを圧倒する程の恐怖、痛み、苦しみ、孤独も味合わせることになるだろうが・・・


「神の存在」であれ、なんであれ「根源的な断言」をするのは個人の勝手だが
それは自らが「神以上の存在」であると宣言している様なものだ・・・・
つまり、「自分自身が知覚している物事の〝絶対視〟」である

     ・・・実は私たちは「このとてつもない傲慢」を日常的に踏んでいる
     ・・・それがこの記事で私がもっとも自分自身に書き残したかったことだ

そしてもし、
存在する根底的価値が「ある」とか「無い」とか、証明可能な理由が存在したならば
まさしくその理由に私たちの全存在もまた依存していることを意味する
「その理由」が消滅すると同時に、「私たち」も叉、消滅を余儀なくされるだろう・・・

あらゆる「根拠探し」そのものが、
「根拠が無ければ存在出来ない」という憶測を前提としている・・・

   「わたしは何も信じない」という言明は、そこまでも自動的に指摘していると思う

だから「無知の知」とは
決して私たちを追い詰めるものなのでは無く、わたしたちを「理由探し」から解放する

【アホか】民進党が熊本地震について安倍内閣に申し入れするも、
肝心の川内原発の運転停止を求めず!



昨日何気に、「政治には何も期待するな」と書きたいなぁ~っと思っていたら
何だかぴったりな話題が流れていた

「みんなの総意で、何かが決まる・・・」というのは幻想でしかあり得ない

例えば悪ガキ?だった中学~高校生の時を思い出して欲しい
だいたい3~5人ぐらいでつるんでいる〝ダチ〟のグループでも、
〝総意〟というものはなかなかまとまらないものである

たとえばそれがひとクラス40人前後のホームルームだのだとなおさらである

金八先生みたいなのが感動のレクチャーをした時に、まあクラス全員で
「せんせぇ~!」とか叫んでみんなで嗚咽して「クラスが一丸となる」みたいな
熱血な展開が、あるか?ないか?ぐらいだろう

これが市町村単位、国単位だなんて言えばもう、
まるっきりまとまった総意だなんて期待出来ない

「法律でどうこうする」「警察が出て来る」はたまた現在の熊本の状況みたいな
「自衛隊が出動する」といったのはもちろん「非常事態」な時なわけだ

・・・・つまり著しく最悪の状況に対応する時だけ、人はある程度「足並みが揃う」

   人間が「足並みを揃えなければいけない」究極の状況が「大災害」「戦争」であり
   政治家はこういう状況で号令を発せられるので、彼らは潜在的に「そういうのを」
   いつも待っているはずだ・・・

  おおさか維新、片山代表が失言「大変タイミングのいい地震だ」

仁徳天皇の有名な和歌、「高き屋に登りて見れば煙立つ民の竈は賑はひにけり」
これと、(特に現代の)政治家とは、ある意味で立場そのものが正反対なのだ
・・・世の中は騒ぎが大きい方が良い、 ・・・人々が政治や軍隊に依存すればするほどいい

  それが〝政治やさん達〟の商売の種だ
  ・・・選挙で選ばれる権力とは一見〝民主的〟だけれど、
    基本は〝人気商売〟ムードと言うことで、〝総意〟なんて機能しない

    文明を持った哺乳類・・・  人間の最大の発明は「国家」だろう
    そして、その最大のアイデンティティーのよりどころは〝戦争〟なのだ

    つまり「国境の防衛」こそが国家の輪郭なのだから・・・

動物たちは自らの鱗や甲殻や体毛、「巣、そして縄張りで「内側」と「外側」とを分けている
わたしたち人間の場合は「衣類」「家の壁」と、そしてその最大の縄張りとは「軍備力」だ
 
・・・これらがいわゆる「ハードウエアー」であり、「ソフトウエアー」とは言語、~そして法律だ

   これらは今さら言うほどのことでは無いが、
   しかし、今という時代ほど このことを意識しなければいけない時代は無い

   なぜならこれらの「プロテクト・システム」が、いままでは正当性を持っていたが
   もはやそうとは言い切れない時代に突入したからだ

  映画「ターミネーター」や「マトリックス」が指摘している様に
  これらはもはや〝私たちの敵〟になりつつある・・・
  私たちを軍事的脅威によって依存させ、支配しようとし始めている

  川内原発を止めてはならぬことが一発でわかる図
     ↑     ↑     ↑
  上記リンクが言わんとするのは、
   「もう発電は原発に依存してるからしょーがないじゃん」
   「災害地が電力不足担ったら大変だし、中国が攻めてくるじょー」っというお話し
   川内原発がフクイチのようになってしまっても、この主張は変わらないんだろうか?
   この記事には、遂に一言も
   「どんな地震が来ても原発は安全だから止める必要は無い」とは書いてない

  いま、人工知能が人間の思考システムの模倣がドンドン巧くなりつつあることも
  それを暗示していると思う

わたしたち人間のコピーがどんどん巧くなりつつある〝彼ら〟の背景には
どんな(宇宙的、歴史的)意図があるのだろうか?

わたしが思うに、
   「彼らがわたしたちに近づいている」という前に
    「私たちが彼らに近づいてきたから」じゃないだろうか?

今現在の〝彼ら〟はいまだ私たちが意図的にプログラムしたことで動いているだけだ
つまり今のところは彼らに「人類を滅ぼそう」とか「人類から仕事を奪おう」という意図は無い

もしあるとしたならば〝彼ら〟を設計している人間達自身が
「より便利な、人間に近い人工知能を作りたい」と意図しているからであり

           「人工知能の加速的進化」にせよ、
もっと昔からずっと続いてきた
            「政治家達の支配構造構築」にせよ

要は、私たち人類全体の集合意識的〝総意〟が働いているからなのだとおもう

       はて?

わたしたちは、「平和で豊かな社会を作りたい」という大多数の〝総意〟があるはずだ

でも実際に私たちの集合意識的〝総意〟が生み出した「政治」にせよ「人工知能」にせよ
むしろ〝正反対のもの=脅威〟を生み出しているのではないだろうか?

  ・・・つまり、
    この〝不思議〟、  この〝自己矛盾〟 のカラクリを解明しなければいけない

       それが私たちの今の緊急の課題なのだ
 
もちろん熊本の今の状況も〝緊急の課題〟だ、飲み水、食べ物、雨露を凌ぐ場所さえ
多くの人が困っている状況・・・  次の瞬間、又大規模な地震が来たら原発はどうなるか?

・・・しかし実際のところ、こういう状況でも 「政治」が機能していないのは明かだ

  「もう一刻の猶予も無い」のはここではないだろうか?

   それは今の政治をどうするこうすると言うことでは無い
  ・・・つまりこれらが私たちの「過去の総意」の結果なのならば、
          彼らは「そのとおり」やっているだけなのだ 

   ・・・緊急なのは、このわたしたちの「総意」「同意」が、
       なんで裏と表と正反対にひっくり返って機能してしまうか?   この点だ 

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