We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年04月



「大千世界=マクロ・コスモス」も「小千世界=ミクロ・コスモス」も、
              そしてこの「人の世~中千世界」も・・・、

   三千世界がすべてシンクロして「現在」の「この一点」にあるのだと
                      確信が持てるようになると・・・

   ・・・もうあなたは「孤独」や「野心」からだんだん距離が出来てくるだろう

         だって、「すべてがいまここにある」なら、

             どこに急ぐ必要があるだろう?
                何になる必要があるだろう?
                 誰に置いていかれるというのだろう?

no title

OSHO Japanese

小さなことを歓びなさい。
食べ物でさえ、ひとつの秘蹟になるべきだ。

握手でさえも、ひとつの祈りに、・・・贈り物になるべきだ。
人びとと共にいることさえも、深い至福になるべきだ。

なぜなら、
あなたに起こったことは、
他のどこでも起こったことのないこと だからだ。

2015年01月21日



Q:なぜ人びとは ただの人であるのに飽き足らず 
地位や権力への衝動をこれほどまでに抱えているのでしょうか?


OSHO

ひとつには
あなたは一度も受け入れられてこなかった
両親からも先生からも 近所からも 社会からも
   ・・・あるがままでは受け入れられてこなかった

誰もが あなたを改善しようとしていた
あなたをより〝良く〟しようとしていた

あなたに反する絶え間ない条件付けのせいで
あなたの中にアイデアが生み出された

「私はそのままでは十分ではない
 何かが欠けている・・・・
 どこかよそに行かなくてはならない

 ここではなく・・・
 
 ここは私がいるはずのところではない
 どこかもっと高いところ・・・
 もっと
 力があって
 支配力があって
 尊敬されて、有名にならなくては」

これが話の半分だ
それは醜い・・・事実であってはならない 
これは取り去ることができる

もし人びとが もう少し賢くあって

母であること
父であること
教師であることとは何かわかったなら…

あなたは 子供を駄目にするためにいるのではない

子供の自尊心
子供の自己受容

・・・あなたはそれが育つよう 助けなければならない

しかし2番目の部分は途方もなく重要だ
こうしたすべての条件付けが取り去られようとも
あなたが条件付けを外されて
あなたのマインドからすべての概念が取り去られたとしても
それでもあなたは自分は十分ではない と感じるだろう

・・・しかしそれは まったく異なる体験だ

言葉は同じだろうが、その体験は異なる

あなたは十分ではない
なぜなら あなたはそれ以上になれるからだ

それはもはや 有名になるとか
尊敬されるとか権力を得るとか
金持ちになるとかいう問題ではない

それらは まったくあなたの関心ではないだろう
あなたの関心は、あなたの実存は
種に過ぎないということだ

生まれたとき あなたは木として生まれてはいない
あなたはただの種として生まれる

そしてあなたは花を咲かせるところまで育たなくてはならない
そしてその開花が あなたの充足感、成就となる

この開花は
権力とは何の関係もない
金とは何の関係もない
政治とは何の関係もない

それは全くもって あなたに関係がある
それは個々人の過程だ
種は花になるために
遠く旅しなくてはならない
それは長旅だ
この欲求は美しい それは自然から与えられたものだ

しかし社会はこれまでのところとても狡猾で、 
あなたの自然の本能を捻じ曲げ、道をそらし、誤用し
社会にとって便利なものにした

これらふたつの側面があなたに
自分はどこにいても何かが欠けていると感じさせている

あなたは
何かを得なくてはならない
何かを達成しなくてはならない
達成者に、登山家にならなくてはと感じさせる

さあ あなたの知性が必要だ
はっきりさせなくてはならない
何があなたの自然な欲求で
何が社会の条件付けなのか?

社会の条件付けを切り捨てなさい それはすべてゴミだ
自然が 純粋なまま 汚されないまま残るように
そして自然はいつでも ユニークだ
あなたは成長して 花を咲かせて
バラの花を咲かせるかもしれない

他の誰かは成長して
マリーゴールドを咲かせるかもしれない

あなたがバラを咲かせるからといって
優れているわけではない

彼はマリーゴールドだからといって
劣っているわけではない

あなたたちはともに 開花に至った そこが重要だ

そしてその開花が深い充足感を与える
すべての欲求不満
すべての緊張が消えうせる

深い平安が あなたを包み込む
理解をもたらす  ・・・平安だ

しかしまずあなたは
社会の戯言を完全に切り落とさなければならない
さもなければ それはあなたの道をそらし続けるだろう
あなたは豊かにならなければならない 金持ちにではない
豊かさは何か別のものだ

乞食も豊かでありえる
皇帝も貧しくありえる

豊かさとは 実存の質だ

変性意識・・・  意識が拡張している時にあって最大の問いかけはここだった

痛みを感じることに焦点を合わせるか?合わせないか?

意識が拡張している時は、当然肉体的、心理的な痛みも拡張して感じる
だから思わず「逃げ出したく」なる

しかしそれは、せっかくのチャンスなのだ
ここから日常的な感覚に戻った時、
「日常的感覚とは何か?」が分かる

日常こそが、ある意味では「異常な」状態なのだ
私たちは普段とても鈍感な状態にある
自分自身から逃げている

だってそうでないと「日常生活なんてやってらんない」からだ
私たちは普段敢えて、意識をスローダウンさせて鈍らせ
なるべく多くのことを「感じないようにして」生きている

それはある種の安心感、安定感は与えてくれるが
同時に溜まらなく・・・
退屈な、愚鈍な、逃避的な、腐った、習慣的な時間感覚だ

・・・この決着が着いた時

  「そうだ、自分自身の感覚に真摯に向き合おう」という結論に達した時

    落ち着いて自分自身と対話できるコツを掴めれば
    まぎれもないある種の確信が宿りはじめる・・・

  ・・・するともう、変性意識というのは「特殊な体験」ではなくなる
    「ドラッグ」も、「慰め」も、その他「スペシャルな体験」を求める渇望も、・・・なくなる

     玉葱の皮を剥き続ける様な
     「自分自身を剥き続ける」新鮮な旅が始まる
          ・・・あとは何も必要ないのだ

それは、決して「傲慢、エゴイズムに陥った」のではない・・・
  「他人の有意義な意見」やら「すごい情報」「成功法則」は、
                  ・・・あくまでも「二の次」だ、「周辺」だ

そう突っぱねられて不満な教師、弁士達、寂しくなるグル達が
「確固たる自分自身を持っているひと」を指さして「エゴイストだ!」と糾弾しているだけだ

     「他人や、しいては社会に影響を与え続けたい
                ・・・重要人物であり続けたい」

・・・これこそがエゴイズムの何たるかなので、
    こういう「教師、弁士達、グル達」の主張とは「壮大なブーメラン」なわけだ・・・
「覚者は確固不動です」

  クリシュナムルティー
「自分の中心に入ったならば、他のことなどどうでも良くなる」

   OSHO

わたしたちは自分自身の責任において、失敗を踏みしめる準備が出来る
間違いの痛みを、自分自身の尊厳に置いて甘受することが出来る様になる
「失敗しない方法」を教えてくれるという教師達の助言は「単なる助言」に留まる・・・

   そうなると、それはもっとも大切な「自由の味わい」なのだと分かるはずだ

角屋 昌紀

OSHO SAID,

奇妙で矛盾したことに聞こえるだろうが---

平和は、
「痛みのただなかに見いだされるもの」であって、
       それはけっして・・・、

  「ネガティブなもの、痛みをもたらすもの」
         と見なされたなにか

          ・・・それらと闘ったり、
             それから逃げたりすることで               見いだされるものではない。 心理的な痛みとの交わりによってのみ、
   それからの解放と超越の扉が開く。     --心理的な痛みとの交わり-- が唯一の手段だ。 すべての痛みを受け容れなければならない。   --それとの対話-- が必要だ。

           それは「あなた」だ。           それを超えるにはほかの道はない。
           それを吸収するのが唯一の道だ。     非難も理由づけもなしにただそこにいれば、 その無選択の気づきのなかで、すべての心理的な痛みは消える。 早朝の太陽に照らされて水滴が蒸発するように。 あとに残るのは純粋な空間、汚れなき空間だけだ。 それこそが「ひとつのもの」、それこそが「タオ」だ。    Unio Mystica Vol.1 #8

「熟年離婚理由ランキング」→検索結果

私自身も若い時にバツが付いている経験者ではあるが
私の両親は「死別離婚」なのだから、 見かけ上は「添い遂げた」とも言える

・・・しかしその実質的な内容としては、「社会的体裁を気にして離婚しなかった」だけだ

  だから結婚が本当の愛情や信頼の絆で継続しているケースとは、
          「一体どれぐらいなんだろう?」と、ふと思った

・・・自分や、自分の周囲の感覚からすれば、本当に〝わずか〟であるように思う
 
しかし、たとえ〝わずか〟であっても、きっとそんなカップルにとっては、
結婚制度とは、そのまま〝愛の絆〟を公認してくれる素晴らしい制度だったのだろう

自分達には子供もいて、また物理的にも共同生活している居住空間があり
また、家族相互には信頼関係がある・・・

そして、土地や建物に明確な法的保護、権利保証があるように
家族関係も戸籍で明記されている・・・・

 ・・・これが生まれてから死ぬまでの血縁や所属を証明する

この文化は特に日本のような古い社会においては重視されてきた
自分の「血のルーツ:歴史」を辿れるということは素晴らしいことだと思う
自分の肉体に流れる血液とは、
長い長い生命の歴史における多くの先祖達の記憶が刻まれているのだ・・・

そう思いをはせると、
ご先祖様についてほとんど知らない、墓参りに行ったこともない私が
結婚が長続きしないのは当然だったような気もする

「袖触れ合うも多生の縁」と言うけれど、それは歳を喰ってきてみると感じる

まるでスポーツやゲームのように異性との交わりを求めていた若い時を
いま振り返っても、「契りを交わす行為」というのはすべて、何か〝不思議な縁〟が
奥深くにあったような気がしてならない・・・

・・・男と女というものは単なる快楽の追求だけで「ああいう」不思議な行為には至らない

でもそれらはすべて「瞬間的な」ものだった・・・むしろ、結婚という形で
社会的継続性の中に押し込めておくこと自体が、もはや無理な気もする

「継続性」というのは、「契約」なのではなく「起きる」事だと思う

  ・・・それは男女関係だけではなく、親子、兄弟のような血縁関係でさえそうだ
   ・・・交友関係ももちろんそうだ

「さあ、お友達になりませう!」と宣言して交友関係は起きることではない
どんな人間関係も、気が付いたら始まっていて、気が付いたら終わっていた

・・・さらに思うのは、人生における全般のことは、人間関係だけでは無く、
  住居にしても、仕事にしても「不思議なご縁」を感じることがよくある

人生には確かに自分の意思で決めたように見えて、実際にはすべてが
「夢のように始まり」「夢のように終わってゆく」・・・そう思い起こしてみれば奇跡の連続だ

すべてが「ぼんやりと流れ去っていかないように」
人々は「区切り」とか、「けじめ」を付けてこようとしてきたのだろう・・・
                ・・・・すべてが忘却の彼方に流されないように

わたしは「忘却しないように」こうやって人にも読んで貰える形のブログを書いているが
でも反面それは「安心して忘却出来るように」書いているような気もする

つまり「記憶の外部化」だ・・・
・・・最近の科学的な実験でも、「記憶は外部化した方が忘れにくい」そうだ

「覚える」ことをハードディスクやクラウド・サーバーに依託することで
「記憶に留める」という緊張から解放される・・・と言うことなのだろう

はたしてどちらの方が、「ボケないで済むか?」(笑)

・・・・痴呆症というのは、究極的に言えば「アイデンティティーの喪失」だ
   究極的には、親子関係でさえ忘れる、自分自身が誰か?さえ、忘れ得るのだ

記憶というのは情報の集積で、
 ある意味では物体では無いが、
  やはり〝物体〟であり、結局は〝重荷〟なのかもしれない

伴侶としての義務、親としての保護義務、扶養義務、 雇用関係における義務・・・

・・・〝友情〟以外の全てには何らかの社会的義務が付随する
   そして、それと同時にその関係における権利、権限も保証される

これらの〝義務と権利〟のすべてが「重荷」となって意識を押しつぶそうとする時
ひとは「ボケる」のじゃないだろうか?

たとえば老夫婦などで、どちらかがどちらかを介護しなければいけない状況の時
ひとは「ボケる」ことすら許されず、ひたすら相手の命を支え続けなければいけない

確かテレビ番組で聞いたのだけれど・・・熟年離婚において、意外にも
    『相手の病気で要介護になって離婚する』というケースは少ないとのことだ

かなりまえに書いたことだけれど「この人の介護を喜んでしたい」という気持ちを
相手にもてるか?どうか?というところで、本当の愛が試されるのかも知れない

それが、野島伸司の脚本のテレビドラマ「この世の果て」のテーマだった

[(048319)12-28-12] 

戸籍制度も、結婚制度も、「利用したい」ひとは今後も利用すれば良いだろう

でも、ひたすら義務で人を縛り合うための制度であれば、いつかは破綻する
      また、自発的にひとが「背負っていきたいもの」があるならば
         制度的な拘束、義務など無くても、ひとは背負っていく

人はみな弱く儚いものだけれど、「背負いたいもの」があるとき、人は強いのだと思う 

家族を残し、事故にあった男性…アトムに導かれ、未来で見たものとは 

jojo04-178


遊びの中では、
エゴはただ、蒸発してしまう。

何度も言ってきたことだが、
私に関する限り、仕事という言葉を使わないように。
それを、純粋な遊びにしなさい。

私は自分自身を楽しんでいる。
あなたもどうか、ここにいるあなた自身を楽しんでほしい。

もし、
これが可能になれば、そこには偉大なコミュニオンがあることだろう。

この喜びに溢れた二つのものが出会う。
 その喜びから大いなる創造性が現れる。
その喜びから新しい世界、新しいビジョンが生まれる。
 
だが、
 それが目的なのではない。
  それはただの副産物だ。

 あなたはそれについて考えさえもしない。
       それは、それ自身で起こる。

副産物、という言葉を覚えておきなさい。
それは結果ではなく、ついでの副産物なのだ。
 それは起こる、確かに起こる。
  本当のところ、それはそれ以外のやり方では起こり得ない。

いつでもエネルギーが喜びの中で出会う時、そこに変容がある。
これはブッダフィールドだ、
喜びのフィールド、サット・チット・アナンダだ。
あなたのエネルギーを、喜びの中に引きこみなさい。

だが、
 そこから何かを得ることは、すっかり忘れなさい。
  利益を動機にすることを落としなさい。

そのやり方であなたが得るものは、ほとんどないだろう。
 
得ることを忘れれば忘れるほど、あなたは多くを得るだろう。
得ることを考えれば考えるほど、得るものは少ないだろう。

得ることにあまりにも憑りつかれたら、
あなたは空っぽのままだろう、あなたは惨めなままだろう。

  地獄は、強欲だ。
  天国は、無欲だ。

   地獄は、動機づけされたワークであり、
   天国は、純粋な喜び、戯れだ。

私と踊りなさい、私と歌いなさい、私と沈黙の中にいなさい。
この瞬間を、楽しみなさい。
 
    過去もなく、未来もなく―
 
      ただ、この瞬間に。
      そこに、大きな祝福がある。
 
- Osho

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