一.尋牛(じんぎゅう)
イエソド:対応天体=月
自己分裂、デュアリティー
「今以外の他の自分が有るのでは無いか?」
「いまここ」から離れた「いつかどこか」の探求の始まり
二.見跡(けんじゃく)
ホド:対応天体=水星
牛の実物はまだ観ていないが理論的には判りはじめる
いまだ「学友」「組織」「神秘」を探している状態・・・ 「お勉強」「研究思索」、情報共有、議論
明晰さへの過信
三.見牛(けんぎゅう)
ネツァーク:対応天体=金星
初めて牛の実物を見る(まだ触れては居ない)、目撃、実証、実感、
しかしここから知的な共有は難しくなる・・・ 憧れ、熱情、本能的な導き・・・
四.得牛(とくぎゅう)
ゲブラー:対応天体=火星
牛との綱引き、挑戦、集中、近視眼的、真剣さ(深刻さ)
孤独な闘い、誰にも同意出来ない、誰にも同意を求められず、期待も出来ない
理論を超えた実践、失敗体験、傷つくこと、産みの苦しみ、血と汗と涙で学ぶ
五.牧牛(ぼくご)
ケセド:対応天体=木星
リラックス、楽観、包括的視点、ヒント、気付き、天佑・・・
友情、信頼の芽生え、気長な視点、意外なアイディア
六.騎牛帰家(きぎゅうきか)
ティファレト:対応天体=太陽
自己受容と同時に起きる世界への信頼と愛、すべてがぴったりであること、ハートの開花・・・
「わたしはあなた、あなたはわたし」~牛と人との一体感
ただし、いまだ自意識に囚われた独善世界
七.忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
ビナー:対応天体=土星
責任、限定、尊厳、熟練研磨、物事の基礎、母体・・・時空間
「牛=客体」の消失、Aloness「天上天下唯我独尊」 「わたしは在る」
完全な自己責任に目覚めると「被害者も加害者も」居なくなる
完全な自己責任とは窮屈さでは無く大きな自由な裁量、決裁権
八.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
コクマー:対応天体=天王星 「世界も私も無い」全ての定義を持たない
直感的で自由な発想、理想、エレクトロニクス、天衣無縫、反逆・・・
「牛」・・・外側の存在が無くなると、内側と外側とを隔てる境界線も無くなる
「人牛~主体と客体」双方が消失した時、「無」「無限」を垣間見る
九.返本還源(へんぽんげんげん)
ケテル:対応天体=海王星
「すべては定義無く、ただただ存在している」
無限の海、波動の世界、不可視なる価値~非顕現世界とのポート、
あるがままのものをそのままに見る
何の先入観も定義も無く世界を見渡すと、瞬間的に映し出されたホログラム映像である
日常の平凡な瞬間瞬間の光景に「生と死」があり、永遠の新鮮さが宿る
十.入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)
マルクト:対応天体=地球
日々の日常の中に神聖さを見いだすことによって
日々の出会いの中に一期一会を伝えていく ・・・グランディング
作意を持って伝えようとするのでは無く
気負いのない虚心坦懐さのなかで「起こるべき事」が起きてゆく
「世はおしなべて事も為し」「天下太平、晴れたり曇ったり・・・・」
以上、イエソドから出発してパスを昇っていきケテルを頂点とし、
そしてマルクト(日常世界)に戻る・・・
途中、「得牛」「牧牛」のあと、後戻りする感じで「騎牛帰家」となるが
生命の樹の中心、ティファレトの「騎牛帰家」を「人と牛との出会い」と考えず「男女の結婚」と考えるならば、
「得牛」で恋人同士がぶつかり合ったり
「牧牛」で恋人同士が和解した後に「騎牛帰家」で和合という流れもあるし
あるいは、「騎牛帰家」で「お見合い結婚したあと」ぶつかり合いや和解があったりというのも
流れとしては「あり」じゃないだろうか?
つまり
「騎牛帰家」が〝前〟ならば既成事実として意気投合した後に関係性を深めていく
「騎牛帰家」が〝後〟ならば関係性を深めていった結果として結ばれていくということ
そもそも
「縁ありき」で「理解を深め合う」のか?
「理解を深め合っていく」ウチに「縁を感じて結ばれる」のか? 単純な因果律では語れない
これはある意味では「人と牛」といった、一見対等に見えないような関係においても同じ
一見明瞭な「因果律」が見いだせるのは
「一.尋牛(じんぎゅう)」から「三.見牛(けんぎゅう)」まで・・・