We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年03月

十牛図

cow-s01
一.尋牛(じんぎゅう)
イエソド:対応天体=月
自己分裂、デュアリティー
「今以外の他の自分が有るのでは無いか?」
「いまここ」から離れた「いつかどこか」の探求の始まり

cow-s02
二.見跡(けんじゃく)
ホド:対応天体=水星
牛の実物はまだ観ていないが理論的には判りはじめる
いまだ「学友」「組織」「神秘」を探している状態・・・ 「お勉強」「研究思索」、情報共有、議論
明晰さへの過信

cow-s03
三.見牛(けんぎゅう)
ネツァーク:対応天体=金星
初めて牛の実物を見る(まだ触れては居ない)、目撃、実証、実感、
しかしここから知的な共有は難しくなる・・・ 憧れ、熱情、本能的な導き・・・

cow-s04
四.得牛(とくぎゅう)
ゲブラー:対応天体=火星
牛との綱引き、挑戦、集中、近視眼的、真剣さ(深刻さ)
孤独な闘い、誰にも同意出来ない、誰にも同意を求められず、期待も出来ない
理論を超えた実践、失敗体験、傷つくこと、産みの苦しみ、血と汗と涙で学ぶ

cow-s05
五.牧牛(ぼくご)
ケセド:対応天体=木星
リラックス、楽観、包括的視点、ヒント、気付き、天佑・・・
友情、信頼の芽生え、気長な視点、意外なアイディア

cow-s06
六.騎牛帰家(きぎゅうきか)
ティファレト:対応天体=太陽
自己受容と同時に起きる世界への信頼と愛、すべてがぴったりであること、ハートの開花・・・
「わたしはあなた、あなたはわたし」~牛と人との一体感
ただし、いまだ自意識に囚われた独善世界

cow-s07
七.忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
ビナー:対応天体=土星
責任、限定、尊厳、熟練研磨、物事の基礎、母体・・・時空間
「牛=客体」の消失、Aloness「天上天下唯我独尊」 「わたしは在る」
完全な自己責任に目覚めると「被害者も加害者も」居なくなる
完全な自己責任とは窮屈さでは無く大きな自由な裁量、決裁権

cow-s08
八.人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)
コクマー:対応天体=天王星 「世界も私も無い」全ての定義を持たない
直感的で自由な発想、理想、エレクトロニクス、天衣無縫、反逆・・・
「牛」・・・外側の存在が無くなると、内側と外側とを隔てる境界線も無くなる
「人牛~主体と客体」双方が消失した時、「無」「無限」を垣間見る

cow-s09
九.返本還源(へんぽんげんげん)
ケテル:対応天体=海王星
「すべては定義無く、ただただ存在している」
無限の海、波動の世界、不可視なる価値~非顕現世界とのポート、
あるがままのものをそのままに見る
何の先入観も定義も無く世界を見渡すと、瞬間的に映し出されたホログラム映像である
日常の平凡な瞬間瞬間の光景に「生と死」があり、永遠の新鮮さが宿る

cow-s10
十.入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)
マルクト:対応天体=地球
日々の日常の中に神聖さを見いだすことによって
日々の出会いの中に一期一会を伝えていく  ・・・グランディング
作意を持って伝えようとするのでは無く
気負いのない虚心坦懐さのなかで「起こるべき事」が起きてゆく
「世はおしなべて事も為し」「天下太平、晴れたり曇ったり・・・・」

以上、イエソドから出発してパスを昇っていきケテルを頂点とし、

そしてマルクト(日常世界)に戻る・・・


途中、「得牛」「牧牛」のあと、後戻りする感じで「騎牛帰家」となるが

生命の樹の中心、ティファレトの「騎牛帰家」を「人と牛との出会い」と考えず
「男女の結婚」と考えるならば、
「得牛」で恋人同士がぶつかり合ったり
「牧牛」で恋人同士が和解した後に「騎牛帰家」で和合という流れもあるし
あるいは、「騎牛帰家」で「お見合い結婚したあと」ぶつかり合いや和解があったりというのも
流れとしては「あり」じゃないだろうか?

つまり
「騎牛帰家」が〝前〟ならば既成事実として意気投合した後に関係性を深めていく

「騎牛帰家」が〝後〟ならば関係性を深めていった結果として結ばれていくということ

そもそも
「縁ありき」で「理解を深め合う」のか?
「理解を深め合っていく」ウチに「縁を感じて結ばれる」のか?  単純な因果律では語れない

これはある意味では「人と牛」といった、一見対等に見えないような関係においても同じ

一見明瞭な「因果律」が見いだせるのは
「一.尋牛(じんぎゅう)」から「三.見牛(けんぎゅう)」まで・・・

カバラで言う「アンマニフェスト:非顕現世界」とは私たちの意識の三つの状態と対応している

〝無〟~アイン

実はこれこそが完全な覚醒状態だ
世界が消えてなくなってしまっているのでは無く
わたしたちの「思い込み」「定義」「世界観」「既成概念」がすべて消し飛んでいる意識状態

私たちの日常においては
外界のあらゆるドタバタ劇に気が煩わされず、振り回されていない寛いだ状態
何ものにも囚われていない深い瞑想(くつろいだ)状態

夢を見ない睡眠状態も〝無〟なのだが、
わたしたちは既成概念のスイッチを切って純粋に状況に立ち会うことが出来ず
「無とは何も無い事だ」と深く思い込んでいる為に意識も昏睡状態に陥ってしまい
いわゆるブラック・アウト~気絶してしまうため、
意識はその状態に全く「立ち会って」おらず、記憶が無い
〝無限〟~アイン・ソフ

私たちの日常においては、いわゆる就寝中の夢を見ている状態
空想(イマジネーション)に耽っている状態、夢を膨らませ、
とりとめが無い連想、妄想のまま漂っている状態

ここでは全く既成概念が支配的で無いない為に・・・・

  知人がまったく違った顔かたちで登場しても
  また、その人がみるみるカバに変身しても
  さらにそのカバに唐突に羽が生えて空に飛び去っても・・・

・・・私たちは疑問も抱くこと無く、
   その「飛び去っていくカバ」を何の疑問も抱かずに見送っている
〝無限光〟~アイン・ソフ・アウル

私たちの日常における、いわゆる起床中の日常的な活動状態意識

わたしたちは自覚としては、起床中を覚醒状態だと思い込んでいるが
実際には何かの思いつき、期待、不安や葛藤、恐怖に取り憑かれていて
それらは過去の記憶や未来への憶測を前提として起因している

本当は私たちは起床中でも白昼夢を見ていて、
自分の都合で「見たい」と思って引き寄せ、抽出した現実しか見ておらず
その自分勝手なフィルタリングさえ自覚していない

・・・つまり、〝あるがままの現実〟を見ては居ないのだが
白日の光が見せる明瞭な輪郭のある〝この〟クリアーな世界・・・
他人との意思疎通している「いかにもわかり合えているかのような」コミュニケーションの成立が
「本当は自分はいま夢を見ているのでは?」という目覚めへの疑惑を強烈に疎外している

  私たちは今、あまりにも〝もっともらしい〟情報の洪水に囲まれた・・・
   ・・・いわゆる「ウルトラ開きメクラ状態」なのだが、
       それを自覚することが大変困難な、  ・・・厄介な牢獄にいる

「自分は自由なんだ」「自分は自由に何でも選べる」「自分達は目覚めている」
という幻想こそが最大の「心の牢獄」なのだ

(しかしこの牢獄にぶち込んだのは「誰だよ?」と問うなら、それは他ならぬ「自分自身」ということになるのだが・・・)

「開きメクラ状態」である無限光よりも、睡眠時のトランス状態で「夢見ている」無限の状態の方が
本当は観念的囚われが少なく「完全なる覚醒~〝無〟」に近いために、バシャールは・・・

・・・・「あなたたちの〝夢と現実〟の定義は、私たち(ササニ人)と正反対です」
                                        と言っているわけだ

この無限光=「全ては明瞭だという思い込みの夢」が描き出すホログラムの三次元世界が
「生命の樹」という「迷いと覚醒のRPGゲーム大系」の樹形図へと整理されたと理解すれば
生命の樹はグッと解明しやすくなると思う
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「無」「無限」「無限光」

アンマニフェスト(顕現せざる世界)の三態が理解出来ると、大まかなことは判ってくる

  「無とは何か?」

  「え?無って何も『無い』事じゃん?」

  ・・・この思考停止こそ  ・・・つまりアンマニフェストに対する洞察の放棄こそが
     私たちの停滞の根本原因だと、ここで何度も書いた

「無の探求」とは、基本的に日本の禅宗の使命だった

ところが日本の仏教全体が単純な葬式仏教に陥ってしまい、
禅の修行もまた単なるシゴキのメッカに成り果ててしまった為に、
ここで「無の探求」そのものも足踏みして終わっている

「無」とは本来「禅」そのものであり、「わたしとは何?」という解答そのものだ

それが単純な「不在」であるとか、「無念無想」というのを格好だけそう振る舞って、
実際は単なる思考停止状態に陥っている・・・・

「ニッポンジンは形式が大好き・・・」という特性が見事に裏目に出てしまっているのだ

「無」が、「あらゆる定義の除外」であると判ってくると、「無限」も自動的に判る

「あらゆる定義から解放される」ことによって
「あらゆる存在事物は無限の可能性を開花させる・・・」

ところがただそれだけだと、「明瞭さがない」為にそこに「光」がもたらされる

「無限」の中にすでに「光」は存在していても、それを「意識」しなければ「明瞭さ」は得られない
だから「無限光」とは即ち、私たちひとりひとりの「意識」そのもののことだ

通常「光」とは「閃光:スパーク」に過ぎず、一過性のものだ・・・

ではなぜ「無限光」が可能なのか?といえば
「無限(のエネルギー)」がバックグラウンドの母体として存在するからだ

  ・・・それゆえに「連続した光」「永遠に連続するスパーク現象」が可能なのだけれど
    でも、ここで留意しなければいけないのは、
     あくまでも「光の本質」は一過性のものであることは「別に変わらないよ?」ということだ

「発光」とはあくまでも瞬間的な現象に過ぎず、
粒子性の物体の様にジーーーっとそこに安定して居続けるわけでは無い

しかし「無限なる、無尽蔵なる燃料」があるならば、
それはまるで時間的には「点」ではなく「線」的な実体を持っているかの様に見える

さらには「光」はその放射性によって「面」や「立体」の世界も描きだす

・・・しかし、元はと言えば瞬間的な「点」の現象だ

何かが「在る」とは点灯の状態で、「無い」とは点滅の状態だ

この両者には本来は本質的には単なる「状態の変化」だけで、スイッチのオン・オフに過ぎない
この「あらゆる可能性のスイッチ」こそが「無限」である

つまり私たちが日常で体験しているマニフェスト(顕現世界)世界での「無い~不在」とは
根本的な「無(む)」とは別物の表層的な「光のスイッチのオフ」に過ぎない

・・・ここで強調したいことは
   「探求する意識」がないならば「探求される対象」も当然あるわけが無い

    っという、至極当然のことである

   つまり、あなたが何をどう見なすかによって、その対象が姿形を変えているということだ

物理学というのは「もののことわり」を考える学問な訳だけれど、この大前提として
「観察者である人間だけが生き物であり意思を持っていて、観察対象はみんな意思のない物体だ」
というのがある・・・

「探求する意識」なんぞ存在しなくても、そのまえから「無」は「在りて在るもの」であり
したがって「無限」もあれば「無限光」もすでに存在している

・・・にもかかわらず、「宇宙は無い」っと、量子力学で証明されたというのは傲慢なのだ

   つまり、「観察対象~森羅万象も全て生きていて知性があり、意思も持っている」ならば
   わたしたちはまず「かくれんぼ」をしていると言う可能性を考えなければいけない

   あなたが猫の存在を確認する、
   で、あなたはシュレディンガーのガス室に、その嫌がる猫を突っ込む
   そして一旦目をつむり「10数えて」いる間にも、猫は危険を察知して脱出を試みるかも知れない

バシャールは、この三次元世界は十億分の一秒ごとに書き換えられていると言っているが
あなたが何かを「見て」、そして目をそらし、もう一度同じ方向を見ても、同じ世界は見ることはない

でも実験結果に不確定性があるからといって「何も無い」と言い張るのはおかしな話で
実際にはめまぐるしく変化している〝何か〟があるのだ

「観測不能なもの」をすなわち「存在しない」という断定は・・・、

    ・・・いわゆる昔からの
「科学者のもっとも非科学的な」ヘンテコリンというかサンへドリンな姿勢から出てきている

「観測出来ないから・・・な~いんです~!」っておまえら、神かよ?って言いたい
未だ空間の正体も分かっていないのに・・・・

あらゆる怪奇現象を「プラズマで説明出来る」かもしれない
でも、「説明出来る」というのは単なるひとつの仮説に過ぎず、別の可能性が有るかも知れない
なにげ無い当たり前の空間の見えない向こう側に「無限の世界」が広がっているのかも知れない
「私達の潜在意識には、自分を死ぬ程ビックリさせようと企んでいるもうひとりの自分がいる」
ライアル・ワトソン「生命潮流」より
no title

シュレディンガーの猫が「生きている」か?「死んでいるか?」
その両方の状態が共存している可能性をわたしたちはどうしても想像できないが
本当は「ガス室の扉を開けていたら猫は犬に化けていた・・・」とか「猫が消えていなくなっていた・・・」

  ・・・そんなバナナ事が起こり得るのが、「無限世界」だ

あなたが他の女性を脇見をしている時、あなたとデート中の彼女はあなたの視線に気がつき
今まであなたが見たことも無い凄まじい形相であなたを睨んでいるかも知れない・・・

あなたは永久に目撃することは無いかも知れないが・・・

  ・・・なんだってありえる

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それは「多次元世界」とかそんな大層な話なんじゃない、いま、この日常の中でのことだ!!
わたしたちが生きているこの現実とは本当は壮大な・・・
「だるまさんがころんだ」とか、「いないいないばあ」のゲーム世界かも知れないのだ・・・



それが、「無限世界(~なんでもあり)」と言うことの意味だ
それは、アンマニフェストの世界から、突如、私たちの日常に侵入してくるかも知れない・・・

顕現せざる「無」「無限」は「探求の光」より前から有る、いや「光の存在」の大前提として存在する
〝光〟の両親が「無(父)」と「無限(母)」だ・・・

  「光の前身として、ありてある」ということは、
  「光」から見るならば非顕現世界とは「闇の様な」存在なのだ

ところが「意識的な探求」というのは「光的行為」なので「闇」を見つけ出すことが出来ない
闇を照らしだして
「あれ?闇がないぞないぞ!?」とうろたえている強烈なサーチライトを連想してみれば良い

   ・・・まるでコメディーだ!

私たちが人間という個別的な小さな存在にアイデンティティーをもって生きているのは
「光(自分自身)の探求」の為であり、またさらにその「光の根源」の探求だ

つまり、「光である」とは「明瞭明確な個別である」ということだから
「自他の尊重」によって、その相互の「内なる光」を見いだすことが出来る

しかし「個別なる存在」とはスパーク現象に過ぎず、一瞬のことだ

それが覚者達が言う「無限なるもの」なのか?というと、当然確信は持てない
それゆえに「光の根源とはなにか?」を探し当てなければいけない

しかし、それはランプを持って闇を捜す様な滑稽な状況・・・  パラドックスに陥る

   「探求しない」という探求、「努力しない」という努力を試みなければいけなくなる

・・・でははじめから何もしなければ良いじゃ無いか?

   ところが、それでは、「光そのもの(自分自身)」が発見出来ない・・・

   それゆえにこのすべてが明瞭に別れて見える、光が溢れるこの限定世界に
               「探求の第一歩」をどうしても踏み出さざるを得なかったのだ!

    このパラドックスに満ちた旅は、実に危険な迷路なのだが
     私たちは皆、この「迷いへの第一歩」を踏み出してしまったのだ・・・

    これが「うまれてくること」、そして「死というタイムリミットに追いかけられる」ことの意味だ

この「リミットだらけのこの世界」で、一体どうして「無限」の世界が見つかるというのだろうか?

     嘆き、悲しみ、打ちのめされ、そして行く手はますます草むらが生い茂るばかり・・・

                   私たちは皆、このグレート・ジャーニーの真っ最中なのだ


NOWHERE 「どこにもない」とNOW HERE「いまここある」とは
論理的には一見正反対に見える

でもよく見れば矛盾はしていない
「外側を探すと、そのどこにもない」
「でも、内側を探すと、いまこの真っ只中にはある」
ということだ  ・・・チルチルミチルの「青い鳥」である

じゃあ「いまなか」とは何か?といえば相補的な説明としては
「それはどこか?いつか?特定の時間と場所を指さしているのでは無い・・・」
・・・つまり「NOWHERE(どこでもない)」となる

こういったパラドックス的なロジックは表面的には矛盾しているが
じっくりと洞察してみる・・・、つまり「見かけでは無い、その奥」を噛みしめてみると
「正反対ではあるが相補的で、実は(論理的にも)矛盾していない」ということになる

この味わい深さに最初に出会わせてくれたのは、「ザ・シークレット」の動画の中の
ヘンリー・フォードの言葉だった

    「出来ると思っても、出来ないと思っても、両方正しい」

この言葉を最初目にした時はショックだった・・・目から鱗だった
これが「正しさを超えた正しさ」との最初の出会いだった・・・

「なるほど!だから覚者は穏やかで忍耐強く、受容的なんだな!」と納得出来た

「選択こそが苦悩の原因である」という言葉の難解さも自動的に氷解する
「どっちでもいい」「どちらでも正しい」のなら「苦悩する必要」などない

(もっとも近視眼的には「どっちか片方だけが正しく、他は間違い」である)

単なる言葉のコミュニケーションだけなら、相手に投げ与えれば
基本的には
「誰にでも理解出来る(再現性がある)」ということであり
それをもって「客観性がある事実」ということになるけれど
こういった禅の公案の様な命題には洞察力が要求される・・・

よくよく咀嚼するならば、所詮(しょせん)はロジックの範囲内の話なので、
こうやってブログに書いても伝わる可能性はあるが
しかし、「聞く側」に受容性が要求される・・・

  ・・・冷静沈着さと、集中と、そして受容性を総動員する必要がある

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「NOWHERE は NOW と HERE の二つに分けることができる。」

この話を最初に聞いたのは光透波のお勉強会だったが
オリジナルはどうやらOSHOが語る「スワミ・ラーマティルタの友人のエピソード」の様だ・・・

この含蓄ある単語の区切り方を発見したのが「父親の膝に坐っていた子ども」だったというのも
実に意味深長なポイントだと思う


Prem Sheel

2013年3月21日

天上をさすらいながら、
受容の精神を食べる。
"受容"とは
女性性を意味している。
あなたはその対極を食べる。
そして、いいかね、
食べるとは
吸収するということだ。
「弟子たちはみな
 人の肉を
 食べなければならない」
といういにしえの格言があるのは
そのためだ――
それは師を食べなければ
ならないからだ。
それを文字通りに
受け取ってはいけない。
それは譬(たとえ)にすぎないが、
ひじょうに深い意味が
込められている。
食べるとは
吸収すること、
消化することを
意味しているからだ。
師はあなたの一部になり、
もはや分離してはいない。
イエスが最後の晩餐で
弟子たちに別れを告げるとき
言っていたのはそのことだ。
彼はパンを裂いて
弟子たちに配り、
「このパンは私だ。
 それを食べなさい。
 それは私の肉だ」
と言い、
ワインを注いで
弟子たちに配り、
「このワインは私だ。
 それを飲みなさい。
 これは私の血だ」
と言う。
これもやはり譬えだ。
彼は弟子たちに言っている。
「人食いになりなさい。
 師を食べ、
 師を消化しなさい。
 そうすれば、
 あなたと師のあいだに
 分離はなくなる」
それは
この第四の言辞についても
当てはまる。
あなたは自分のなかの
もうひとつの極を
食べなければならない。
呂祖は男性の弟子たちに
語っていたにちがいない。
なぜなら、
いつの時代でも、
男たちのほうが
冒険心や探究心が旺盛だからだ。
女性のほうがもっと落ち着き、
くつろいでいるように見える。
だから、
そこにいたのは
男性の弟子たちだったにちがいない。
彼は男性の弟子たちに
語っていたにちがいない。
だから彼は
「みずからの女性を食べなさい」
と言っている。
だが、
それは女性の弟子たちにも
当てはまる。
彼女たちは
みずからの男性を
食べなければならない。
二元性が消え失せるように、
内側でもうひとつの極を
吸収しなければならない。
ひとたび
この四つの詩句が
成就されたなら、
すべてのなかで
最も深遠な秘密が
明かされるだろう。
そして、
さらに深い
秘法のなかの秘法がある――
どこにもない国こそ、
真のわが家である。
さあ、
ここではじめてあなたは
自分が存在していないことに
気づく。
だが、
自分が存在しないといっても、
それはたんなる空虚な状態を
意味するものではない。
あなたのなかの
人格は姿を消すが、
臨在が現れてくる。
内側にあった
<存在>からの分離感は
消え失せるが、
全体があなたのなかに
宿るようになる。
あなたはもはや孤島ではない。
今や自分がどこにいるかを
つきとめるすべはない。
それゆえに……
どこにもない国こそ、
真のわが家である。

もう自分がどこにいるのか、
自分が誰であるのか
言うことはできない――
それこそが真のわが家だ。
この"どこにもない"というのは、
実にすばらしい言葉だ。
インドの偉大な神秘家
スワミ・ラーマティルタは、
最高裁判所で検事をやっていた
友人の話を何度も何度も
くり返したものだった。
この友人は
完璧な無神論者であり、
絶えず神の存在を
否定する説を唱えていた。
彼は筋金入りの
無心論者だったので、
みんなに
注意をうながすために、
居間の壁に
誰の目にもわかる大きな文字で
「神はどこにもない GOD IS NOWHERE」
と書きつけていた。
彼に会いにきたり
訪ねてきた者たちはみな、
まずこの「神はどこにもない」
というこの文字を
いやでも目にすることになる。
あなたが「神はある」
と言おうものなら、
手ぐすねを引いて待っていた彼が
ただちにとびかかってくる。
そうこうするうちに
子どもが生まれて、
子どもは言葉を覚えはじめたが、
まだまだたどたどしかった。
ある日のこと、
父親の膝に坐っていた子どもが
その文字を読みはじめた。
「どこにもない NOWHERE」
という単語は長すぎて
読めなかったので、
子どもはそれを二つに分けて
こう読んだ――
「神は今ここにいる GOD IS NOW HERE」
NOWHERE は 
NOW と HERE の二つに
分けることができる。
父親は驚いてしまった。
この言葉を書いたのは自分だが、
一度もそんな読み方をしたことは
なかったからだ。
意味がまるで逆さになってしまう……
神は今ここにいる。
彼は子どもの目を、
その天真爛漫な目をのぞき込み、
はじめて何か
神秘的なものを感じた。
はじめて子どもを通して
神が話しかけたような気がした。
彼の無神論、
生涯をかけた無神論は、
この子どもの言葉ゆえに
消え失せてしまった。
そしてラーマティルタは、
この友人は
息を引き取るときには、
彼が知るかぎり
最も敬虔な人物のひとりに
なっていたと言っている。
が、
その変化は
子どものちょっとした
読み違いで起こった。
子どもは
「どこにもない NOWHERE」を
一息で読むことができなかった。
この
「今ここ NOW-HERE」

「どこにもない NOWHERE」
という言葉はすばらしい。
神が今ここにいることが
わかると、
神はどこにもいないことが
わかる。
どちらも同じことだ。
神はどこか特定の場所に
いるわけではなく、
それは確かに真実なので、
神はどこそこにいるという
言い方はできない。
居場所をつきとめることは
できないし、
それを確定することはできない。
ナナークは、
神の居場所を尋ねるのは
まるで見当違いであり、
神がいない場所はどこかと
尋ねるべきだと言っている。
神があまねく
存在しているのであれば、
神は至るところにいる
と言っても、
神はどこにもいない
と言っても大差はない。
神があまねく
存在しているのであれば、
どこそこにと言うことには
意味がないからだ。
神はある。
どこにもない国とは
今ここのことだ。
今が唯一の時間であり、
ここが唯一の場所だ。
今ここで
神を見いだすことが
できなければ、
どこへ行っても
神を見つけることはできない。


Osho - The Secret Of Secrets 

宮井陸郎 シャンタン

2時間前

両方正しいという考え方に なじんでいないからです。

津留晃一
私達の魂には
初期挿入されたと考えられる
基本的欲求があります。
「源へ帰りたい」という
帰省本能とでも
言えばよいでしょうか、
そんな根本欲求が
埋め込まれているようです。

これを読まれている皆様方全員に
覚醒したいという思いが
あるのではないでしょうか?
欲求が起こってきた時、
自我は基本的にいつも
同じ思考パターンをたどります。

自我は目標を捉えるための
準備を即座に開始します。
どうすれば
目的が遂げられるかと
思考を開始します。
手段、方法論の
検討を始めます。

あなたが欲求に
意識をフォーカスしたとたん、
自我は自分の知識を総動員させて
ゴールへ到る最善の手段について
検討を開始するのです。
エゴは自分に出来る
ベストをつくし始めますが、
体験のない事に関して
この方法は
効果を期待できません。
検討するための材料が
自我の記憶にないからです

そこであなたの自我は
外側に向けて
情報を求め始めます。

情報を求めて必死になっている
自我の努力も
わかってあげて下さい。
情報を集め始めた自我にとって、
困った問題が起きてきます。
これまでのあなたの常識に
かからない情報に手を焼きます。
どう整理して
受け入れていけばいいのか
戸惑います。

あなたの正しさが、
新しいなじめない情報を
はじきますが、
これまで
受け入れることのなかった、
なじめない情報を
受け入れる事によって、
これまで使われることのなかった
あなたの頭脳の別の部分が、
活動できるようになってきます。
そして矛盾対立する情報がくると、
どちらが正しいのか
選択しようとし始めます。

両方正しいという
考え方に
なじんでいないからです。
正しい情報なんか
ないのだという考え方を
採用していると、
対立する両方の意見を
素直に受け取れるように
なってきます。

宇宙はひとつしかない
というこれまでの
固定した見方から、
人の数だけの
宇宙があるという認識を
受け入れてみると、
人の数だけの
対立する意見が
どれも正しいと
思えるようになってきます。

まだ、いわゆる「危険ドラッグ」にハマっていた頃、
ひとつのセッションは、私にとってはひとつの「セルフ・カウンセリング」と位置づけていた

なぜ平気でドラッグ体験をここに書けるのか?と言えば
「あの時の自分は死にたがっていた」からだ

だから、過去の私と同じく「死にたい」と思っている人間にはドラッグはお薦めだ
そして逆にそれは、「死にたくない」ならドラッグなんか止めておけ!っと言う意味でもある
だから平気で、過去のドラッグ使用(まあ一応非合法のものは手を出さない主義だった)を
ここにバラせるのだ・・・

このドラッグ体験がある意味での「瞑想のコツ」を教えてくれた

つまり私なりに言えば瞑想とは、ズバリ「死に近づく」ことだ・・・
・・・私はあまりに自分自身をシリアスに問い詰める癖があった
それはなぜかといえば、あまりに世の中への責任とか適合とかに必死だったからだ

この、「まじめすぎる」傾向は、「死に近づく」覚悟が無ければ振りほどけないほどだったのだ

だれであっても「まじめ」でなければ「落ち込む」と言うことは無い
シリアスさというのは、他人に対してあまりにも責任だの迷惑だの恥だのと言うことを
考えすぎてしまうことで起きる感情だ

日本人の自殺率が世界でトップクラスなのもここに所以があり
バガヴァンが言う「日本人の特殊性に合わせたワンネスの調整が必要」という発言も
このあたりと絡んでいると思う

日本人の多くは「他人や社会に迷惑掛けるぐらいならば、死にます」という
まじめで優しい民族だ・・・  わたし自身もそういう民族性を愛おしいと思う

しかし、
その日本人が「日本死ね」と叫びはじめるぐらい、もう時代はせっぱ詰まってきた・・・
  もしその後に「至福千年」の人類の黄金の時代が来るというならば、この時代の転換期に
   日本人は「夜明け前の最も深い闇」をいまくぐり抜けているところなのでは無いだろうか?

「きまじめさ」とは往々にして社会の権力者に悪用されるものだ
いま、忍耐強い日本人が悲鳴を上げるほどに日本中には「痛みが充ち満ちている」様に思う

それが、バガヴァンの言う「日本人の目覚めが遅れている」最大の理由だとおもう

どうしても「きまじめさ」はマニュアル抜きで物事を判断することを嫌う
ある意味では「全てをセオリー通りに進めないと」気が済まない

ここでは「優秀な万能のマスター」が、実は最大の障害になってしまう恐れがあると思う

「OSHOはこう言った」・・・  「クリシュナムルティーはかく語りき」・・・

これが如何に素晴らしい言葉でも
いや、「素晴らしい言葉だから」こそ、
それに囚われて柔軟に自分らしい道を見つけることが
逆に困難になってしまう危険性があるのだ・・・

   ・・・まさしくここが「仏陀と会ったら仏陀を殺せ」というところだと思う

私にとって、ただただ死を求めて、もうすべてを終わりにしたいと願ってドラッグを使ったのは
「仏陀を殺す」作法に他ならなかった

「自殺は罪だ」とか「ドラッグは良くない」だなんてクソ食らえ・・・
っと真剣に思えるほど生きていることが苦しかった、全てに行き詰まっていた

でもこの自暴自棄とも言うべき状態こそが、
もっとも自分自身に素直に向き合えるチャンスでもあった

・・・失うものが何も無い ・・・求めるものも何も無い

・・・その状態において、マニュアルだのセオリーだの、偉い人の「イイ言葉」だのは吹っ飛んでいた

結局それがあらゆる前提をぶっ壊して自分自身と素直に向き合える時空間を私に与えてくれた

瞑想とは究極の処、メソッドでは無い
あらゆる「教え」を忘れ去って瞬間瞬間の自分に「イエス」といえるかどうかに全てが掛かっている

そこにおいて初めて
テイク・サニヤスでさえ単なる方便だ」と言い切れるのだ      ・・・自分自身の権威において

OSHOのにやりと笑う顔が目に浮かぶようだ・・・

済まないね、私のことは忘れなさい」と笑う顔だ

彼はディスコースの中で何度となく「リメンバー・・・これを覚えておきなさい」と言った

そうだ、必要な間、しがみつく必要がある間は「覚えておく」ことが助けになる
でも、自分自身の中に生と死を超えて寛ぐコツを掴んだら、ドラッグは要らない
そしてOSHOの話した全ての「リメンバー・・・これを覚えておきなさい」というのを手放すべきだ

もちろん物理的には記憶は残るだろう、でも、自分自身に溶け始めた時、
この記憶がしゃしゃり出ることは、もはや「ノイズ」になってしまうのだ・・・
それは微妙なマントラ、リフレイン、ドラッグになる

リラックスを前にして、
すべての「教え」、すべての「留意」が緊張になってしまう
すべてのドラッグが人工的な誇張と散漫を招く

「今この瞬間の自分」に素直でありたいと願うなら、あらゆるテクニックは追いつかないのだ・・・

瞬間瞬間に「イエス」と言う時、思考の連鎖反応は止まり、緊張は溶け、葛藤は力を失い・・・、
                     ・・・そして分裂は止まり、自分自身に抵抗する自己は死ぬ

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