We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年03月

時間には大きく二種類在る
ニュートン時間とライトニング時間だ

ニュートン時間はいわゆる〝物理的〟〝客観的〟な社会的共有時間のことで
原子時計なんかで正確に測定されている時間の流れのことだ

もう一つのライトニング時間とは人間が主観的に個々人で感じている時間の流れだ
たとえば退屈な仕事をしていると時間の流れが酷く遅く感じたり
楽しい時間があっという間に過ぎ去ってしまったり・・・  という奴だ

物理的な外の世界は、〝比較〟の世界なので相対速度が重要だから、
ニュートン時間的な計算などの速度が早ければ早い程、優秀だと言うことになる

ところが精神的な内なる世界は〝絶対的いまここ〟の世界なので
絶対速度が重要になる・・・ゆったり、のんびり、マイペースで主観的な自分自身にアプローチする

わたしたちは、生物の進化をはじめた時から生存競争の中を生き抜いてきた
その最終兵器こそが思考能力で、暗算が速くて正確、判断が速くて的確で、
っということが求められるが・・・、

しかし、  今までのこの「人間のロボット(道具)化」の流れは、
        現代において大きなターニングポイントを向かえている

誰と比較して、より素早く回答出来るか?つまりはライバルを出し抜けるか?
・・・・が重要視されてきたのが従来の価値観なのに、これからは、
「本当に自分が望んでいることが何なのか?」といった

         <瞬間瞬間の自分自身への正直さ>

                   こそが最重要になってくるだろう

量子コンピューターの演算速度がどれ程凄いものであろうと、
             演算装置は美しさを「感じる」事は出来ない・・・

              つまり〝主観的な〟欲求や、感触は持ち得ないだろう

      コンピューターはチョコレート・パフェを「美味しい」とか「食べたい」とは感じられない



今までは主観的な感覚を大切にすることは
「我が儘」だとか、「妄想だ」「地に足が付いていない」と叱られた、

ところが、
これがコンピューターと比較した時の人間の最大の特徴で、またそれが購買意欲の主因でもある

なので、この人間の機械にはない曖昧さとか、気まぐれ、嗜好、つまり主観性は、
コンピューターが現在よりも飛躍的に高度に発達し、社会を管理するようになってくる近未来では
人間という存在の重要なファクターになるだろう

・・・もうコンピューター社会においては、
   コンピューター的な、無機的な「正確なだけの」人間は不要なのだ
コンピューターの演算速度は・・・、
早まれば速まるほど、ある意味で「時間を超える(無限高速)」
これが光透波が言うところの「トップスピード」
人間の精神は・・・
瞑想的にスローダウンし、定義や既成観念から解き放たれて
「無~自己受容」に近づくほど「時間を超える(停止)」
これが光透波が言うところの「ストップスピード」

ただし、最も重要なのは
「トップ」は100%に限りなく肉迫しても100%に「タッチダウン」することは出来ない
「トップ」のヘッド・ラインにおいてすでに「S(素、中心)」が欠けているのだ

スタート・ラインをゴールラインとして「STOP」するには、最初に「S]がどうしても必要
「ストップ・スピード」にたどり着ける(立ち止まり、光明を得る)のは人間の意識だけなのだ

コンピュータは、人間の被造物として当然「有:(定義有り)」から始まっており
「定義から自由」な生命が始まりでは無いために、どれ程人間らしく振る舞って見せても
そこはマイホーム、ゴールでははじめから無いのだ

コンピューターはまず人間に「動機」「必要性」が起こり、「目的」が発生し、
その為の「プログラム」が成されてはじめて存在出来る・・・「道具」として生まれた以上
「目的」が与えられないとただの粗大ゴミだ

    ・・・・計算機は「計算機であること」から始まっているため「計算機」で終わる

人間は計算機~人工知能、つまり知能の外部化を成し遂げるために
今日まで自分自身の知性を磨いてきた・・・  でも人工知能が産まれた現在、
もはや人工知能をコントロールするための「英知」を磨くことに専念すれば良い

いたずらに映画「ターミネーター」や「マトリックス」の様な不安を恐れるのでは無く
「TOP・SPEED」と「STOP・SPEED」との「〝S〟の違い」を凝視、理解すればいい

なぜ?映画「ターミネーター」や「マトリックス」の様な近未来のディストピアSFが描かれたのか?

・・・それは、私たちがすでに「道具」として
   両親に「躾け」られ、
   学校で「教育」され、
   会社に「訓練」され
   国家や宗教に「洗脳」された〝憐れな〟ロボットだからだ

   ・・・だから、「自分達より遙かに優秀な人工知能」に脅威を抱いているだけに過ぎない
    単純に「ロボットである」ことからリタイヤするだけで、
    人間の本来の進化の道筋が見えてくるのだが
    その〝シフト〟に身を委ねることが出来ないだけなのだ・・・

わたしたち人間が、今感じている
  「ロボットの様に社会の部品として生きてきて 
   いまさら、〝生身の人間〟に戻れなんて難しいよ!」

この〝困難さ〟そのものこそがスタートレックのTMPの「ビジャー」やスポック、
   TNGのアンドロイド・データー少佐が行き当たっている「嘆きの壁」なのだ!


    ・・・これからの人工知能が進歩した社会全体においては、
      自己尊重、つまり「(比較・競争意識の)完全停止」に達した人間の判断こそが
                        これから最重要になってくるだろう

マトリックス 弾丸2

 なぜならこれは、この物理宇宙が生命によって創造された当初からの〝願い〟なのだから・・・

            人々は「めまぐるしく加速する競争社会」から、
            むしろ正反対の方向に「生きる道」を瞬間瞬間見い出していくだろう

トラは、トラとして生まれた以上、良かれ悪しかれ死ぬまでトラで
またそれに葛藤することも無い
「トラになりたがるトラ」なんていないのだ

わたしたち人間だけが「何かになりたがる」生き物だ
その結果として文明社会を築いた地上最強動物にはなったのだが
「自分が誰か?何ものか?」をすっかり見失ってしまった大きな不幸を背負った種族に成り果てた
自分自身を忘れてしまったのならば、あちこちにかけずり回っていても決して思い出せない・・・

・・・だから「立ち止まる」べきなのだが、その「自分自身に寛ぐ」「自分自身を味わう」という
    「立ち止まり方」を、やはり忘れてしまったのだ

ニュートン時間は光の速さにまで「加速ししていった時」に限りなく「進行ゼロ」になるが
しかしライトニング時間を「止める」のは、意識的な「自己へのくつろぎ」だ

アングリマーラは叫んだ 「止まれ」
仏陀は返答した     「私は止まっている、あなたこそ止まりなさい」

2015年01月15日
 39.Creativity


もし、この地球上で最大の問題を挙げるとしたら
戦争への危機でも、金融の破綻でも、資源の枯渇でも、原発でも無い
イルミナティーによる「人口間引き計画」でもない!!!

「カワイイ」「可哀想」の連呼で、精神薄弱のメンヘラな母性原理の横行による
虚栄的な慰めへの欲求や
児童を奴隷として労働をさせないと生きていけない発展途上国の欲求が
人口爆発で、この地球を押しつぶそうとしている・・・

今の若いお母さん達は、
「もう、これ以上の人口増加を歓迎しているのは奴隷が欲しい年寄りだけだ」
という自覚が欠けていると思う
hard07-139
hard07-140
ファンシーグッズ、子供商品、化粧品・・・、
発展途上国では毎日餓死者がでて、人々は疫病で苦しみながらも
日本の経済界では、女達の「カワイイ」が消費を牽引している

考えの無い表面的な「カワイイ」「可哀想」がすべてに優先され、正当化され、押し通されてしまい、
「日本死ね」愚痴軍団が国会前を練り歩く・・・

    「愚痴大国・ニッポン」である

きっとその対極が「安倍政権・日本会議・ネトウヨ」なのだろう

「シールズ」や「日本死ね」といったアンチ・安倍の正体とは、
安倍政権の最大の〝支持層〟〝応援団〟なのだ

52

49

風間 夕夜

いや、単純に愚痴るぐらいなら育児放棄すれば?

子供はどうせ母親の所有物じゃ無いんだし・・・
赤ちゃん死ぬだろうけれど、母親の義務感で生き延びるよりまし

http://gocky.blog.jp/archives/56907473.html
Mai Yamaguchi

こういう考えの人こそ虐待して子供、殺すんでしょうね


子供が所有物でないのは当たり前
私たちと同じひとりの人間です

単純に愚痴るぐらいならって
あなたは仕事の事にせよグチったことないのかしらね?
風間夕夜

子供はペットじゃ無い

今起きてるのは「子供のペット化」でしょ?
つまり自分達のフィーリングだけで産んで

手に余ると虐待する・・・全くの生き地獄
親も子も両方、地獄
だから行き着くところは「日本死ね」

手に余るぐらいなら何故産んだ?
愚痴る前に自分の浅はかさを何故考えない?
それとも「社会のために、産んでやったんだ」って感じ?
子供達には口に出さなくても伝わるんだよ?

子供は「社会の労働人口が足りなくなるのが心配だから」という理由じゃなく、男と女の愛の結晶としてこの世に迎え入れられるべきなんだ

「産む」こと自体が虐待
だから犬や猫には「避妊手術」が慈悲なのに
相手が「人間」だと、そういうワケにいかなくなる
それが世界的な人口爆発の最大原因

子供を産む資格をライセンス制にするべきだとおもう
「できちゃった婚」なんかさせるべきじゃない
世界的な児童労働は、まず「可哀想だから止めさせるべき」というのは先進国の傲慢でしか無い

日本だって未婚の母だの、保育施設だの子育て支援だのといった福祉対策が追いつかないのは当然・・・安倍政権の肩を持つつもりは無いけれど・・・「保育園落ちた日本死ね」のムーブメントにも違和感はある

本当に慎重な社会人は、こんな社会情勢に「無責任に子供なんか産めないよ」って考えている、いまの危機的状況は余程のバカで無い限り、誰にでも充分予測が付くからね

高学歴高収入者ほど、子供産まない
だから人口が減少に向かっている日本とは「教育水準もモラルも高い国だから」なのよ・・・「出産なんて超贅沢
という認識がちゃんとあるから、「少子化が~」っと世間が騒いでも、大半は産むのを控えている

アタマの悪い無責任で性的な欲望をコントロール出来ない人々のモラルと文化レベルが低い地域だけでバンバン子供を産んでいる・・・全く酷い状況、地球はパンク寸前

「生老病死」で最大の苦しみは「生まれる」ことなんだよ?
「死」の苦しみ、恐怖は「産まれる」ことで全部起きること・・・この世に一人の意識を招き寄せることの重大さをあまりにも浅はかな子供じみた人間が性欲と社会的な習慣とだけで決定している・・・この罪の大きさが判りますか?


この先に待ち構えているのは「間引きの絶対必要性」
つまり戦争、飢餓、ウイルスの蔓延・・・


親は子供に「産んでやった」だとか「殺人を犯したくないから育ててます」みたいな感情は千分の一ミリも許されない・・・それはこの世で唯一存在する「殺人以上の」罪
風間 夕夜

この惑星を愛するなら完全な産児制限が必要だ
文句あるならはじめから産むな、「産め」って言ってる連中は経済界のお偉方だけがなるべく安い労働力を欲している自分達の都合で言ってるだけ・・・それ以外に「産んで下さい」って頼むのは年金守って欲しい高齢者ぐらい



今こそ止める時だ
すでに世界はあるべき姿の4倍の人口を抱えている

世界人口を4分の1にできれば貧困も暴力もなくなるだろう
数多くの問題が消え失せるだろう

しかし マザー・テレサは 孤児を助け
世界中に孤児院を開設しているというのでノーベル賞をもらった

彼女は問題を生み出しているのだ 
・・・この孤児たちは子供をつくるだろう

そして彼女は堕胎に反対だ 
なぜならもし堕胎が合法だったらどこから孤児を手に入れる?
そしたら ノーベル賞はどうなる?

この婆さんは人びとを狂わせている
完全な産児制限が必要だ

少なくとも20年間

・・・・「完全な」 と私は言っている!

ふたり目か3人目のあとで止めろ とは言っていない

それでは役に立たない
世界の半数が 飢餓で死んでいる
そして あなたは驚くだろうが 
そうした貧しい国 飢えている国が より多く子供を作っている

それは単純な理由からで 
彼らには他に暇のつぶしようがないからだ

映画に行くには お金がかかる
ディスコに行くには お金がかかる
セックスが 唯一の 無料の娯楽だ

完全な 産児制限が必要だ
ここは 過去4年間にひとりの子供も生まれていない 唯一の都市だ
世界人口を 減らさない限り暴力を避ける道はない

人びとは 腹を空かせ
人びとは 飢えて死んでいる

腹を空かせていれば その人は盗みを働くだろう
死にかけていれば生きのびるために 
人を殺して金を奪うことなど何でもない
なぜなら 生への渇望はあらゆる生物学的成長の根底だからだ

人は 生きるためには何だってできる
第2にもし堕胎が 違法になれば…

法王はすべての避妊方法を 違法にしたい
もし堕胎が違法なら 避妊方法が違法なら
この世界に何がおきるか わかるかな?
誰もが生きのびるために
誰かの首を狙うことだろう
そして 避妊と堕胎は 
  「女性に男性と同等の地位を与えた」
     ということを思い出すべきだ

さもなければ 女性は決して男性と同等にはなれない
貧しい国々では 女性は常に出産し続ける
毎年子供を産む
彼女は常に 妊娠している
彼女は働けない 彼女は経済的に自立できない
彼女は男性のようには教育を受けられない
彼女は政治に加われない
彼女は子供の世話をしなくてはならない
避妊法や堕胎
これらは女性が男性と同等になれる機会を与えた
さもなければ平等に関して語られるすべては 空言だ
見せかけだけ 偽りだ

しかし奇妙にも マザー・テレサは女性で
彼女は 20人から30人の尼僧を抱えていて
彼女たちはみな女性だ
彼女は 修道女たちを指揮している
彼女たちは この2千年の間にたったひとりの女性も
法王として認められてこなかったという事実を 見ようとしない

たったひとりの女性も
キリストとして
仏陀として
預言者として認められてこなかった

あなたは驚くだろう 

これはいまだかつてなかったことで
すべての宗教が私に反対している
彼らは 今まで決して一致して誰かに反対することはなかった 
その点では彼らは一致していた
そして もっと驚くことに無神論者でさえ私に反対だ
彼らもこの点では 有神論者に賛成する
共産主義者は 私に反対だ
彼らは神を信じない
彼らは魂を信じない
彼らは瞑想を信じない
しかし彼らもまた 神を信じる人びとに同意する
魂を信じる人びと あらゆることを信じる人びとに同意する

たったひとつのことについてのみ彼らは皆 同意する
これはいまだかつてなかったことだ

その理由は単純で
私がはっきりとあなたに指し示しているからだ
私の指は 真実を指し示している
信じる必要はない
経典は必要ない
預言者は必要ない ・・・神は必要ない

すべてを疑う途方もない勇気が 必要だ

「チキショーあんにゃろー判ってねえなぁ~~! ・・・思い知らせてやる!」

こういう感情を抱いたことは、わたしは何度もある
油断すれば今でも起きる

ところがこれって考えてみるとずいぶんと変なセリフだ

どう考えても〝愛情深い〟言葉じゃ無いのに、言っている内容は
「判らせて上げよう・・・」 「教育して上げよう・・・」 「相手を向上させてやろう・・・」 なのだ

   ・・・・なんかヘンじゃないだろうか?
    ・・・ここにはヘンチクリンな、サンヘドリンなロジックが隠れている

「教育する」「訓練する」「更生させる」「生産性を上げる」「気付かせてさし上げる・・・」
               これは、一見素晴らしい愛の様な変装をした〝エゴイズム〟だ

・・・ただし強調したいのは、この〝方式〟は、いままでは「有効だった」のだ

       社会が貧しく、人々が自然の猛威と闘って生存を勝ち取るまでは・・・

        もちろん今だって「自然の猛威」はまだまだある、欠乏だってまだまだある

  しかし、「そっち」の視野に限定されて、視野狭窄に陥ることは
   むしろ状況を悪化させるという〝段階〟にまで、人間のテクノロジーは進化を遂げたのだ!

 もはや・・・、
 人々を社会の〝歯車〟と見なしても、けっして生産性も向上はしない、むしろ悪化するだろう
  「つべこべ言わずに国家システムの為に、個々人は奉仕すれば良いのだ」
   「祖国のためにゼロ戦で突っ込んで敵の戦艦を沈めてこい・・・」

     そういわれて大喜びで飛んでいくのは、アベ信者のネトウヨのお役目だろう

      もし彼らがどうしてもそうしたいというのならば、まあ、彼らの命だ
       止める必要も無いだろう、ついでにフクシマの除染作業も彼らに任せよう

     大方の今の日本人は「お国のために死ねだと?・・・日本死ね!」と即答するだろう
                       ・・・・それともアンケートで確かめる必要があるだろうか?

           バシャールの第三法則 「ひとつはすべて、すべてはひとつ」
                        これは総理大臣やら日本会議やらの為の法則では無い

長谷川豊というフリーアナウンサーの公式ブログの記事では、
「年収600万以上の独身男性にこそ、結婚してもらいたい」とか・・・
「なのに、性的満足だけを求めて結婚しないなんてエゴイズムだ」とか・・・
               ・・・いったいこいつ、日本の元首かよ?って思ってしまう

   ・・・山羊座29度のサビアン・シンボルは「世界問題を決定する責務にある男達の秘密会議」

そう思い込んでいるカルト集団を、別にどうこうする必要は無いとわたしは思う
要は、私たちひとりひとりが赤提灯で酔っ払って世界問題を論じているじゃ無いか?
「男達の秘密会議」というのは、
そういうやるせない小市民の愚痴の集合意識が動かしている代表者なワケだ・・・

               ・・・「心理構造が全く同じ・・・」という点においてシンクロしている

              誰もが完全に明晰な〝自己責任〟を自覚した時、
              もうこんな「男達の秘密会議」は世界を操ることは出来ないはずだ

津留晃一の世界

自他一体

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「自他一体」・・・、いまさらといった感のあるこの言葉ですが、
真の一体感の獲得はそうたやすいものではないようです。

誰もがそうありたいと願いながら、
そうなれないところに、
この人間ゲームの面白さがあります。

あくまでも分離して見えてしまうこの肉体眼を持ちながら、
なおかつそれがひとつのものとして
認識できる力を身につけるのが
この三次元人生ゲームであるといえるでしょう。

実は他人とは、
もうひとつのあなたの目なのです。


あなた自身の内宇宙をのぞき込むための
潜望鏡のことを我々は他人と呼んでしまいました。

自分以外の別の人であるという意味の言葉を当ててしまいました。

今日から

「他の人と見えているものは、
広大な真の自分を発見する為の望遠鏡であり、顕微鏡である」
という言葉に変えてしまいましょう。

彼と話をしている時、

「自分の自動操縦リモコン潜望鏡(彼)が、
自分のために今、観察報告をしてくれているのだ」


そんな気持ちを心に止めながら会話してみて下さい。

真のあなたであるハイヤーセルフは、
自分であると誤解できる潜望鏡的自我を作り出し、
自分自身を知るための観察を始めました。

この初期目的を思い出して下さい。

あなたは、
この世界で成果を上げる為に存在しているわけではありません。

「成果を生み出すのだ」と思い込まされてきたにすぎません。

私の分離感の根っこはここにありました。

「この世界に何らかの成果を残して死んでいく。
自分の生きた証を、その痕跡をこの世に留めてみたい」

これが人間型ゲシュタルトが発するごくノーマルな思考です。

自分を取るに足らないちっぽけな存在である、
と誤解させられた自我にとっては、当然の願望であるといえるでしょう。

成果を上げようとするあなたの思いに呼応して、
ちっぽけなあなたに協力する他人が現れ、
それを阻もうとする敵という他人も現れます。

味方も敵も
「成果を上げよう」とするあなたの思いによって、
あなたがこのゲームに生み出す創造物です。

成果を上げるといっても、
それは特別な事をいっているわけではありません。

「彼のために食事を作らねば」という思いもそうです。
   ・・・・・それも成果を上げようとする思いです。

「何日までにこの本を読み終えねば」というのも
                   やはりそうです。

観察が目的である人には

   「しなければならない」 という発想は起こりません。

成果を上げたいという思いが
あなたの意識を今ここから引き離し、
その先のゴールへ意識を向かわせます。

今そこにいる他人との関わりのチャンスを棒に振ってしまいます。
今ここにある変容のチャンスを取り逃がします。

           他からあなたが分離します。

原始時代から我々が進んできた方向は、
自我を確立するという方向でした。

自我が非力な自分の力によって
やっと
成果を生み出すという喜びを得、
ハイヤーセルフはそれを観察してそんな自分を発見してきました。

力のない者が自らの力で成果を生み出すことの素晴らしさを
堪能してきました。
そしてハイヤーセルフのその発見と引き替えに、
自我はより強化され硬くなってきました。

自我は成長し続けました。
それは他との分離の課程でもありました。

成長しきった果実はやがて大地に落下します。

大地というまたひとつの場所に戻って行きます。
大地から生まれた一本であった幹は、
成長とともに枝分かれし、分離していきました。
そして自我(個体)という果実を結ばせました。

成長した我々の自我は熟れすぎた果物として
やがて種子を内包したまま大地に落ちます。

我々の意識は成熟したこの果物自身から、
その核である種子へと移行されなければなりません。

もうあなたは充分に成熟しました。
そして成熟したあなたはそこに止まる事は出来ません。

次なる神の種子へとその意識をあなたの中心へ
          移行させる時がやってきました。

今、あなたが自分の意識を内側へ内側へと向わせることによって、
あなたという種子が必ずまた大地という
元なるひとつの場所へ帰っていきます。

あなたの見ている世界、それはあなた自身です。
それ以上でも、それ以下でもありません。

あなたが素敵だと感じるもの、それは自分です。
あなたが偉大だと感じる哲学者も、それは自分です。
あなたの敬愛するキリスト様も、あなた以上の人物ではありません。

そして新宿駅の構内で、
段ボールの中でうずくまって寝ているその人も、
あなた以上ではなく、またあなた以下でもありません。

そしてまた、そうは見えないのも当たり前です。
この肉眼ではそれは分離して見えているわけですから。

そんなことを
頭で理解したところで何の役にも立ちません。
頭で理解した真理は、
ややもすると人を裁く道具に成り下がってしまいます。

「あなたのそこがいけないのよ」と、
他人と認識するその人をうっかり裁いてしまいます。

あなたが人を否定したその瞬間に、
相手の中に自己防御意識がおこり、
すぐあなたに向かって反撃を開始してくる事でしょう。

そんな手痛いしっぺ返しに
「これはどうしたことだ、どうしてこのやり方はうまくいかないのか」と、
何度もそんな疑問を抱かれた事でしょう。

       ・・・・どうぞ、そのまま進んで下さい。

葛藤を恐れることなく、言いたいことを言い続けてみて下さい。

「うまくいかない」度に、
「どうしてうまくいかないのか?」と、あなたの疑問は膨らんできます。

実は自我であるあなたの内に疑問がわき起こってきたとは、
ハイヤーセルフがその答えを渡したがっていると
言い換えることもできるわけです。

疑問と答えはひとつのものです。

宇宙にプラスとマイナスが同時に誕生するように、
疑問と答えは同時に存在を開始します。

この三次元時空間が、単に互いが出会うまでに
時間の経過を必要とするように設計されているだけのことです。

あなたのすることは、
感じるままに行動してみることです。

うまくいかなければ自然に疑問が発生し、
その瞬間に実はその回答が与えられているわけです。
(「巧くいかない」、「行き止まり」、それ自体が解答)

あなたがそのことを自分の知識でいじりまわさなければうまくいきます。

   人を変えていこうとするエネルギー、
       これが縦のエネルギーです。

   自分が変わっていこうとするエネルギー、
       これが横のエネルギーです。

人を変えようとすればするほど、
 それがうまくいかなくて自然に自己変容が起きてきます。

とても厳しい自己進化の仕方です。
 他人が居ることを前提とした自己変容法です。

一方、宇宙には自分一人しか居ない、
 「他人とは自分の鏡」という前提から始まるのが横のエネルギーです。

自分を変え、その変化が鏡である他人を変容させる、とする進化アプローチです。
問題は全て我が内にあり、と、全てを包み込む広がりです。
包容力という神の一面の体現者達です。

この横のエネルギーの人は周りに縦のエネルギーの人々を配置します。
咎められることによって自己を変えようとしているからです。
そして
どちらのエネルギーにとっても互いが相手のエネルギーを必要としています。
これが自他一体の一側面です。

自他が同じというわけではありません。
その価値(の大きさ)に違いがないというだけです。

ズバズバと人を切り裂く厳しさと、
すべてを包み込む優しさは、その価値において全く対等です。

その価値を同じに感じている人は、
もう自他一体の一側面を卒業しているといえるでしょう。

否定から入っていく縦のエネルギーにしろ、
肯定から入っていく横のエネルギーにしろ、
人は否定されることによって傷ついてきました。

「否定された」と解釈したら、
その瞬間にマイナスの感情がわき起こってきます。
確かに私たちの体はそう作られています。

そこでその解釈を別の肯定的見方に解釈し直してみる、
というのがプラス発想法でした。

もちろん全ての事象、出来事に肯定的意味を発見していくことは可能です。

反対から見てみればいいだけのことですから。

全ての出来事に、肯定的50%の側面と、否定的50%の側面が
一枚のコインの裏と表として存在しているからです。

でも解釈し直してみるまでにマイナスの感情が起こっているという
事実に代わりはありません。

わざわざ意味を付け直すのは、現に今マイナス状態にあるからに他なりません。
他人がどんな言葉を使おうと、その言葉の意味とは無関係に、
相手の発した否定的想念を、私たちは言葉以前に瞬間的に受け取ってしまいます。

ちょうど叩かれた時に痛みを感じるのと同じように・・・。

しかし私達は人の発する否定的想念を、痛みを持って受け取る
必要性が本当にあるのでしょうか?

私達の肉体は痛みを感じなければ困ることもありますが、
100%そういうわけではありません。

親不知の歯を抜いてもらう時に、必ずしも痛みが必要というわけではありません。

確かに空腹感があれば便利なこともあります。
でも必要のない時の空腹感にはとても手を焼きます。

確かに肉体はそうなっています。
しかし、自律神経は私たちの意志でコントロールすることは出来ない
と教え込まされてきた知識を後生大事に持ち続ける必要もありません。

今空腹感はいらないよ、と肉体に教えてあげれば
空腹感を感じるエネルギーをあなたの肉体がストップしてしまうように
他人の発する否定的想念エネルギーを、
「今は必要ないから」と、受け取りを拒むことも可能です。

「彼からの否定的想念は、私の変容の為にあることを認めます。
今はもっとよく自分を見つめたいと思います。
その為には、今このイライラは必要ありません」と望めば
あなたの頭脳は苦痛を生み出すホルモンの分泌を即座に停止してくれます。

あなたに不可能な事はありません。

あなたにとってそれがよければ必ずそれはそうなります。
あなたが人を変えようとして拒否されるのは、
あなたが人から変えられることを拒んでいることの証です。

あなたが他人からの否定のエネルギーを、
   肯定のエネルギーと同じように受け入れられるようになった時・・・、
あなたのまわりにいる人たちも、あなたからの
「こう変わればいいのに」という思いを受け取るようになるでしょう。

あなたが、他人からの
「変わって欲しい」という思いを素直に受け入れることが出来るようになった時、
あなたの
「人に変わって欲しい」という思いは相手の心に素直に入っていくようになるでしょう。

あなたが相手のいうことを信用しないのに、
相手の人があなたの言うことを信用するはずもありません。
              ・・・・自分が疑う人は、人からも疑われます。

自分が「疑っていい」と思っている人は、
宇宙からも「疑っていいよ」というメッセージを引っ張ります。

       宇宙とはあなたの鏡であるからです。
           それが自他一体ということです。

疑おうが、信用しようが、
そんな事はハイヤーセルフにとってはどちらでもいいことです。

何かが何かよりいいという事などないからです。

どちらかが、どちらかより正しいという事もありません。
この方法の方が、あの方法よりも良い、という事もありません。

           全てはひとつなのですから。

   自他一体とは、     全てがひとつであるという事。
   全てがひとつという事は、  全てが自分であるという事。

全てが自分であるとは、それはただそうなっているだけであり、
否定されるべき何物もないという事です。

全てが自分であるこの宇宙に、「否定」することなどあるはずがありません。

「私はもう私の宇宙に、否定という概念の存在を許さない」
                  ・・・そんな決意をしてみませんか? 

その時あなたには
「人から拒否された」という解釈そのものが起こらなくなってしまいます。
あなたはもう何人からも拒否されることがなくなります。
否定されたらもちろんあなたは苦しくなります。

それは否定されたら苦しくなるように肉体にプログラミングしてあるからです。
あなたが創ったプログラムですから、
あなたがそのプログラムを再プログラミングし直せば、それは起こらなくなります。

ひとつであったあなた自身がこの肉体をデザインしました。
                           集合意識として。

  「人からの否定的想念を受け取った時に
   直ちに自分を守り、相手に反撃を開始したくなる」
                    という構造を作り上げました。

         それをこのゲームへの参加条件としたわけです。

しかし我々の集合意識はこのゲームを終演させる事を決めています。
                 もはやこの事は参加条件からはずされました。

どうぞ安心して決めて下さい。
「もう私は人からの否定的想念を感情抜きに受け入れる」と。

人から否定されたからといって、あなたが怒る必要は全くないのです。
人からの否定を受け取る必要性はありません。
否定を受け取ったら、あなたは自己防衛を始め、反撃したくなるからです。

否定という概念をなくした人は、
痛みをともなわずに他人からのアドバイスを
素直に自己改造へと向かわせる事が出来るようになってきます。

            急速な変容が始まります。

今ここにある周りの全てが・・・・、
自分を変容する為のメッセージである事がわかっているからです。

否定は必要ありません。

全てを肯定するものが神だからです。
全てがあなただからです。

             それが・・・      自他一体という事です。

つい先日の記事

七.忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
 - 完全な自己責任に目覚めると「被害者も加害者も」居なくなる
  完全な自己責任とは窮屈さでは無く大きな自由な裁量、決裁権 - と書いたけれど・・・

        ・・・・この〝完全な自己責任〟に辿り着くのは、非常に難しいことだ
             「外側に原因を探すようになるのも無理からぬことだ。」
                           とOSHOは言っている・・・

                だが
                「これこそカルマの理論のすべて」だともOSHOは言う

            因縁果報の「因果律(科学的思考)」だけに目が奪われると、
                 私たちは「原因と結果」だけを追いかけることになる

ところが、
本当の原因とは必ずしも「見えるところだけ」「記憶しているところだけ」にあるとは限らない

          ・・・・すると「不当な仕打ちを受けた」と私たちの〝理性〟は判断する

ところが、  「縁(えん=因に引き寄せられた人間関係や状況)」によって
        機械的に見える因果律への「報い方、報われ方(応報)」は大きく変わる

     バシャールも再三言っているように「起きていること(いまある結果)は常に中立」だ
      そこから如何なるメッセージ「吉報、凶報」を受け止めるかは、解釈次第だ・・・

痛みや苦しみをも、祝福できる
・・・

         ・・・なぜなら、すべては「バランスを取ろうとして」起きていることだからだ
               決してヤセガマンや作り笑いをしろという意味では無い
               「マゾヒスティックな歓び」で自分を虐げろと言うことでも無い

斉藤一人が、
「凄く困ったことが起きたなら、ツいてるな~(素晴らしい機会が来た)と思いなさい」
                   と言っているのは多分このあたりだ

特に商売をしている人などは、こういった「トラブル、苦情、追い詰められた状況」そのものに
いままででは思いつかなかった素晴らしいビジネスチャンスが隠れていると知っているからだ

現在多くの企業が、クレームの内容とその処理方法を「ビジネスチャンスの宝庫」と捉えている

そしてこれは健康のことでも言える

病気の症状や怪我そのものは
突発的に突然表面化したように見えるが
実際には、「突然起きる」ことなどないのだ・・・

・・・往々にして、長い長い身体への無理が症状や怪我などに噴出しただけだ

まだ何も見えていなくとも、まずは「あ!ツいてるぞ!」と吉祥と捉える・・・
・・・一見マゾヒスティックな馬鹿げた対応だけれど、
これによって
  <困って焦って視野狭窄に陥って、いわゆるパニックを起こす> ことなく
                 リラックスした視点で物事が見えてくる

 ・・・そして「結果から原因へと」因果律を遡って原因に働きかけることが可能になるわけだ


カルマとは、
即物的な、機械的な、ターミネーターみたいな反応を繰り返していることによって起きる・・・
機械とは、そこに意識的な立ち会いがなく、〝科学的な〟因果律だけで動くカラクリ仕掛けだ

ターミネーター「体験」

それはそれで「何も間違ってはいない」・・・血の通わない機械的法則がそこにある

 ・・・その「正しさ」にあぐらを掻いた時、私たちは「間違い」を繰り返す
           ・・・針の飛ぶアナログレコード(古い例えだ)のように延々と繰り返す

そこで、(ひょっとしたら前世から、あるいはご先祖様から)
「延々と繰り返し続けたプログラム」を書き換えられるのは、 ・・・・意識的な人間だけなのだ

OSHO Japanese

OSHO : 責任/responsibility

 「人は自分のまいた種を刈り取らねばならない」
ということわざがある。

自分が惨めなのだとしたら、
それは惨めさの種をまいたにほかならない。
ほかの誰かがあなたを惨めにしたわけではない。

もちろんまくことと刈り取ることのあいだには大きな隔たりがあるので、
その隔たりゆえに私たちは誰かに責任があるのだと考える。

その大きな隔たりが私たちの目を欺く。

 私たちは数多くの過去生において、
自分が自分自身に何をしてきたのかを知らないので、
急に何かを刈り取らなければならなくなって、
それがどこから来ているのかわからないとき、
外側に原因を探すようになるのも無理からぬことだ。

それを見つけられないとなると、
私たちは何かをでっちあげる。

だが、これこそカルマの理論のすべてであり、
私たちは自分がまいた種を刈り取っている。

 自らの人生のすべての責任を引き受けなさい。
もしそれが醜いのなら、その責任を感じなさい。
それが苦悩にほかならないのなら、
その責任を取りなさい。

最初のうちは「自分が自らの地獄をつくりだしている」
ということを受け入れるのは難しいだろう……

だが、それも初めのうちだけだ。
 じきに変容の扉が開きはじめる。
なぜなら、

    自らの地獄に責任があるのが自分なら、
    自らの天国をつくりだすこともできるはずだからだ。

自分が自分のために
これほどの苦悩をつくりだしたのなら、
私は多くの歓喜をつくりだすこともできる。
責任は自由をもたらす、責任は創造性をもたらす。
 
 自分のいまの状態は自分自身がつくりだしたものだと見抜くとき、
 あなたはすべての外側の原因と状況から解き放たれる。

いまやそれは自分しだいだ。
美しい歌を歌区こともできるし、
美しいダンスを踊ることもできるし、
祝祭の生を生きることもできるし、
あなたの生を絶えざる祭りにもなる。
誰もそれをじゃますることはできない。

これが人間の尊厳だ。
神は<個>を大いに尊重する。
人は自らの責任を自らの肩に担ったときに、初めて<個>になる。

scriptures in silence and sermons in stone

OSHO Japaneseさんの写真

このブログは不特定多数への読者「あなた」への語りかけを想定することで
実際には「あなた」というもうひとりの自分との対話形式の日記である

もちろん実際読んでくれる人がいた方が嬉しいし感謝している
だから、自分の思い通りに書くことを柱にしつつも
やはり「未来の自分」が読み返した時に判りやすく今の気持ちを思い出すためにも
それが、「なるべく、読みやすく判りやすく書きたい」という動機にも成っている

ここ最近、「所属」「習う」ということがテーマでいろいろ思考が来ていた

そこでイモズル式にテーマになる事が「家族愛」だった

昨夜入った定食屋ではNHKの「ファミリー・ヒストリー」という番組が流れていた
昨夜の回は壇蜜に焦点を当てて、彼女の先祖をたぐっていた

運ばれてきた晩飯をモグモグしながら番組を見た・・・
手塚治虫を連想する様な風貌の、まじめそうだがどこか寂しげな壇蜜の祖父・・・

・・・彼の「家族縁の薄い寂しい人生」が、私の弟が生まれた昭和40年頃に、
まだ若干40歳で糖尿病によって終わるところで、私の夕食は終わり、店を出た

あの番組を見ていると、まるで私の先祖までが私に何かを訴えようとしているかのように感じた
もちろん私の先祖も、私に解って欲しい〝想い〟がきっと山ほどあるだろうな・・・・

人にはきっと誰にもあるだろう・・・
現代に生きる私たちにまで命のリレーをバトンタッチしてきたまでの「先祖達の想い」が・・・

そういう番組を作るあたり、やっぱりNHKの様な存在は必要なのかも知れない
きっと局内でも壮絶な派閥抗争がある中での番組編成なのではないだろうか?

物事というのは何か一面を見ただけでスパッと切り落とせるような単純なものじゃないな
・・・・こんな番組を見せつけられると改めて思う

「人に歴史有り」で、
私たちの人生の中に濃縮されて秘められた先祖達の想いも叉そうなのだろう

壇蜜は番組の冒頭で言っていた
「自分が生きてきた上でさまざまな決断をしなければ行けなかった」
「その決断一つ一つにご先祖様のバックグラウンドがあるのではないか知りたかった」

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船瀬図書館


「知りたくも無い」と意図的に振り払いはしない
しかし、ここには一つの大きな分かれ道がある・・・・

OSHOの発言に関して、一つのことは同意出来るが、もう一つのことは同意しかねる・・・

ひとつは「宗教や政治結社、あるいは男女という社会の最小単位としての〝結婚制度〟」
と言う組織化の問題だ・・・

これに関してはOSHOの発言に諸手を挙げて賛成だ
  ・・・人々が「所属」によって蹂躙され、アイデンティティーまで捧げることには反対だ
もうひとつは「産まれた子供はコミューンが責任を負えば良い」
と言う点だ・・・

これに関してはOSHOの発言に〝反対〟だ・・・というか、とにかく〝従えない〟

         ・・・わたしにとっては「社会的制度所属」も「宗教的コミューン」も
                  結局の処、「他人の寄せ集め」で、・・・違いは無い

(これはわたしがとうとうテイク・サニヤス出来なかったことと〝たぶん〟関連しているだろう)

わたしは20代の頃、サニヤシン達ともいろいろ一緒に暮らしてみたし
それなりに楽しい思い出ではあった・・・、

   ・・・・しかし結局のところ、他人との共同生活には持続性は無かった

  それともコミューンの中で血を分けた子供が産まれたなら〝別〟なのだろうか?
   しかしそれはあまりにも無責任で無謀な生体実験にしか思えない  ・・・・いまは

昨夜の壇蜜のファミリー・ヒストリーでも、老人ホームの中の生き証人が何人か出ていた・・・
あのおばあちゃん達から語られた「血の熱いストーリー」は、もうあの老人施設の
冷たいコンクリートの壁の中で消えかかっていた

いま、何が人と人とを結ぶのだろうか?  ・・・〝血脈〟? ・・・〝宗教的ヴィジョン〟?

昨夜の番組は素晴らしかったが、やはり所詮はどこか〝他人事〟の空虚さも感じる

なるほど掘り起こせば、私の血の中にも様々なヒストリーが埋まっているのかも知れない
でも、「あんなことと、こんなこと・・・」それを抱きしめるような感情というのは、「この世」に
〝失いたくないもの〟がある場合だけだ

結局のところわたしにはまだ、OSHOが言うところの「愛」は判っていないのかもしれない

 ・・・私は今だ父親譲りの「人生への冷淡さ、皮肉性」は、消えては居ない

   ・・・ではなぜ、父は私という「自分の血液のコピーの存続」を願ったのか?

    ・・・それは「愛」だったのか? 
       それとも単なる「社会制度と習慣への無意識な従属」だったのか?

        父は生涯一度だけ「お前の幸せを願っている」とぽつりと言ってくれた
         別にその言葉は疑ってはいない

         かといって「人生最大の不覚としての結婚」が癌で悶え死んだ父の
                          人生最後の言葉だった・・・・

                 ・・・その結果、わたしという存在がぽつねんと残された

   つまり皮肉なものである・・・  〝結婚制度〟によって生まれた私は
                 〝結婚制度〟を遂には憎むようになってしまった・・・

     そして〝結婚制度~社会的公認の無意識な男女のセックス制度〟というのは
                わたしにとっては「父の敵でござる」ということになる

    わたしはこの〝仇討ち〟を、はたして・・・・どの様にすればいいのだろうか?

途中の経過はわたし自身にも未だ判らない ・・・しかし〝結果〟は多分こういうことになるだろう

               「わたし自身の〝消滅〟・・・・」

                       そして誰も居なくなった

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