We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年03月

現代の物理学は
素粒子の世界までその科学のメスを入れているが
しかしまだ「生命現象」という私達自身を含めた、
ごく日常的な現象の本質について
いまだ明確な答えを得ていない

ミミズやバクテリアの様な人間より遙かに単純な構造の生命体に関してですら
その生命とはどこから来るのか?未だ科学はキチンとした定義や説明は為してはいない

  ・・・・鉱物と生物との境界線はどこなのか?
       ・・・・・生体と死体との境界線は?

「生物学」的には一応の線引きはあるだろうが、
それにしても人間が人為的に定義した上でのことだとおもう

「何か形而下に・・・」あらわれたものであるならば、
なにがしかのラベリング、カテゴライズ、定義が可能で
形而上の世界が、いわゆる「アンマニフェスト」とほぼ同じ意味ではないだろうか?

〝無=0〟とは〝no thing〟〝無限=00〟とは〝any thing〟
 そして〝無限光=000〟とは〝every thing〟と表現出来るかも知れない

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 これらの「アンマニフェスト」には「有限性」や「限定」がまるでない、とりとめが無い世界なので
                この世界では「自他の境界線」もまた、曖昧だっただろう

    ゼロは、幾つ集まってもゼロなのだ・・・

    ・・・つまり「数字の概念さえ無い~すべてが唯一無二で数えられない」ということだ

  わたし(たち?)生命とはこの「アンマニフェスト=No Where」からやってきたのだとしたら、
     解剖室や各種の科学測定研究所で、「生命が純粋抽出できない」のは当然だろう

 いままで、科学者達は
       「生命とは物質のまぐれの中で局所的に発生した〝現象〟」
       という前提でずっと「生命体」を切り刻んで、
       その中の「生命現象の原因物質」を捜してきた

  いま、科学者達は
       生命とはこの物質世界を〝発生させた〟原因なのではないか?
                               と疑いはじめている

「わたし(たち?)」は自らを知ろうと思ったなら、
       何か「限定」「分離」が必要だった
         「個別」になることが必要だった

そこから「生命の樹」の頂上「ケテル=究極の一点」を「くぐってきた」のではないか?と思う

「上の如く下もあり」エメラルド・タブレットの言うとおり
形而上の投影として形而下に「生命の樹」が現れたのだとしたら、
「ケテル」とは、この「上と下の」世界を結ぶピンホールなのかもしれない
「無限の光=000」は、このピンホールを通って生命の樹の〝至高の三角形〟

       「ケテル(いまここ/有ると無いの同時存在) =1」
        「コクマー(なにもない/囚われない自由) =2」
         「ビナー(すべてがある/〝美しさ〟)  =3」 を投影する

この肉体に宿る三次元世界からみれば、
   「形而上(見えない)世界」  が 「内的な世界」で
   「形而下(見える)世界」   が 「外的な世界」だから
          「形而下世界」の方が大きく、広がって見える

 しかし実際には何ものにもまだ限定を受けていない「無限に広がる世界」の方が
       「限定され、個別化された世界」よりも、本来は遙かに広大なのだ・・・

   もっとも、「広大」という形容自体が「三次元的」な例え、比喩なのだけれど・・・

    つまり「外と内」という「空間的比較」は見方によってひっくり返ってしまうわけだ

     トーラス図を見れば判る・・・
     「中心」の無に等しい体積ゼロの小さな一点が
     「世界の果て」の外壁にまで広がり、またその逆の行程もある
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「探し求めていたものは、自分自身の内にあった・・・・」

チルチルミチルの青い鳥のテーマは、この「トーラス図」で単純明快に表現されている

   「自分という中心」と「世界という周辺」とは相補関係にあり、
      本来は「境目は無い」=シームレス、ボーダレス、だ

   
あなたに打ち明け話を・・・、それは、あなたは創造主なのだという事です。
                              
津留晃一


 しかしでは、
  分離している〝かのように見える〟三次元世界が、なぜ生まれたのか?

  ・・・いや、本当にこの世界は「ある」のか?・・・・  それさえ定かでは無いが、
    私たちの五感で確かめられる以上、少なくとも「データー」としては存在している

わたしたちはこの世界に「選択」をしに来た・・・
「選択」とは「あれか?これか?それか?」ということだ

「選択」をするということは、その前提として「迷い」があることを意味している
つまりわたしたちは「迷う」為にここに来ている

「あれか?これか?それか?・・・・」  選択によって当然結果が違ってくる、

そしてその結果の〝価値〟や〝意味合い〟に〝比較可能な差が生じる〟と思っている

          ・・・しかしそんなものは本当にあるのだろうか?

          少なくともわたしは〝比較可能な差〟などない・・・っと思っている

もちろん結果そのものは選択次第で大きく変わるだろう
ある日の私の些末な、何気ない選択が、私に死を招くかも知れない
ある日のあなたの決心が「全人類を救う」かも「破滅させる」かもしれない・・・

 ・・・でも、それぞれの枝分かれした「もしも」の運命が、本当に「比較可能」だろうか?

     そしてその結果の〝価値〟や〝意味合い〟が、本当に「比較可能」だろうか?

きっと誰もがこう答えるはずだ

ああもちろん!、その通り!
運命は変えられる、そしてその価値は計り知れない

だから私たちは真剣に人生を生きているのだ
「きっと明日は良くなる」っと、信じて! 

こんな答えだろうと思う・・・なぜなら

      「選択によって、努力によって、人生も世界も何も変わらない」
       のだとしたら、いったい人生に生きる意味や、生きる価値はあるだろうか?

もしそうでないなら、大きな絶望に襲われ、途方に暮れてしまう

  しかしそれでも言いたい  ・・・「全部同じだ!とは断言しない、しかし、比較は不能だ!」


もちろんこの回答は人によって違うだろう

  あるひとにとっては「選択肢Aの結果は成果が上がり、価値があり、意味がある」
       そして「選択肢Bの結果には何の価値も意味も無い(低い)」

  ・・・そうでなきゃ、選択すること自体に「価値や意味」などありはしないじゃないか?

  ・・・もし「何も変わらない」ならば「宿命論」なのではないか?

    わたしは、「いや、結果が全く同じだなんて言ってない」と答えよう

         「ただし、その価値や意味は、AとBとでは〝比較不能だ〟」と言いたい

     つまり別の言い方をするなら、
      「全ての選択は〝致命的に絶対だ〟」ということだ・・・
                ・・・比較不能、取り返しようが無いのだ

       「覆水盆に戻らず」という諺(ことわざ)に深く静かに入っていくならば
       私たちの人生は完全に静止するのだ、私たちは立ち止まらざるを得ない

マトリックス 弾丸2

あなたがたとえ私の胸ぐらを掴もうと、これは事実だと思う・・・

    わたしは別に「人生そのものに価値や意味がない」なんて言ってない

     「人生の選択やその為の努力 は本質的には〝比較不能だ〟」
      という理解に達することには〝無限の価値がある〟 と確信している

    ・・・なぜならそこから先、もう「選択する上での葛藤」から解放されるからだ

      そこから先、わたしたちは「自らの中心に留まり続ける・・・」  ・・・永遠に

          そういう意味において、この理解に達するという価値において・・・
                  生まれて来たことには確かに価値があるのだ

覚者が、「もう二度と生まれてこない」と言われている理由はそこにあるだろうと私は思う 

覚者はもう、「あれか?これか?それか?」で葛藤することは無いのだ 

表面的には選択には「善し悪し」「正しい、間違い」はある・・・
しかし、そこには本質的な差は無い・・・いや、比較不能だ
だったら、「生まれてくる」事に意味はあるだろうか?
「失敗も成功も」蜻蛉の様なものだとしたら・・・?

ただし、
「いや、そんな悟りなんかまっぴらだぜ!」
「人生には失敗も成功もある」「勝ち負けもある」「だから楽しいんじゃないか?」

・・・もちろんそういう人も多いだろう  ・・・だからこそ「悟り」とは「強制的な義務」ではないのだ

「悟っていない」ことはまったくもって「罪ではない」と思う
だれも好きこのんで「おシャカ(無用物)」になる必要もなければ、そんな義務も無い

誰もが好きなだけ「あれか?これか?それか?」
ゲームを無限に楽しむ事が出来ると思う・・・   「迷い」もまた「人生の楽しみ」なのだ

覚醒したくなったわたしのところにおいで・・・
でもキミは、楽しい夢を見ているかも知れないじゃないか?
わたしには無理矢理キミを揺り起こす権利は無いんだよ?  OSHO 

もし、
覚醒を求めるとしたらあなたの「あれか?これか?それか?」のゲームが、
                   きっともう終わりかけているのだ

   もうその時が来ているならば、「あれも、これも、それも、・・・」
      ・・・きっとすべての選択が、何んだか虚しく、虚ろに感じるのだろう

          そこにあなたの本性、「無」の本性が、もう現れ始めている、
                ・・・人間(エゴ)である事への完全なる「絶望」

         「無」とは「あれでも、これでも、それでも、・・・無い」ということなのだ


       「為すべき事など何も無い」  ・・・そう語ることは容易い

 ・・・しかし、これを実感するためには私たちは無限とも言えるほどの「為すべき事」が必要だ

   だから言葉は虚しいのだ・・・
  たったひとつのことを伝えるのに
  どれ程正確無比な定義を積み重ねても、〝それ〟は伝わらない

    なぜなら、無限の旅人である人と人との間にも、無限とも言える隔たりがあるからだ 

    そしてこの「 言葉は虚しい」と言うテーゼそれ自体が、実に難しい

  光透波では「言葉は神なりき」という・・・たしかにそうだろう
  なぜなら見方によれば、「神など居ない」が、見方によっては「すべては神」だからだ

    でも、そうであるならば「神」という言葉に一体どんな意味があるというのだろう?

     ことばとは「あれとこれとの違い」を明瞭化するために有るのではなかったのか?

  まさしく「言葉の虚しさ」「理論の積み重ねの虚しさ」そのものこそが
  「為すべき事は無い」という究極的理解に辿り着く上での最大の難関では無いだろうか? 

  だから禅マスターは、私たちを窓から放り出すのだ 

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Prem Sheel

2013年3月29日
千代能もそのようにして取り逃がしていた。
彼女は探求し、探求し、その探求に あまりにも巻き込まれすぎていた。
だが、 この探求もまた
「私は求道者だ」「私は凡人ではない」 「私は精神的だ」「私は宗教的だ」 「私は高潔だ」と言って、
あなたのエゴを膨らませる。
もしこの

 "おまえよりも私のほうが高潔だ"

 といった態度が生まれてきたら、    あなたは道に迷ってしまう。
それは 人生で犯しうる最大の罪であり、最大のあやまちだ。
他人よりも自分のほうが高潔であり、 自分は聖者だが他人は罪人であり、
「見ろ、  私の徳の高い人生を」
   といった思いが浮かんできたら、      有徳の人になってしまったら、
       あなたは道に迷ってしまう。
なぜなら、この
   自分は徳が高い  というエゴは              もっとも微妙なエゴであり、 落とすのがひじょうにむずかしいからだ。
鉄の鎖を捨てるほうがやさしい。
ダイヤモンドを散りばめた金の鎖を身にまとうことができたら、 それを捨てることはいっそうむずかしくなる。
なぜなら、それは鎖のようには見えず、 高価な装飾品のように見えるからだ。
汚い牢屋から脱け出すことはやさしいが、 もしそれが宮殿だったら、誰が脱け出したいと思うだろう?    脱け出すどころか、なかに入りたいと思うだろう。
罪人のほうが聖人よりも神に近い。 なぜなら、罪人はその境遇から脱け出したいと思っているが、 聖人は得意になって自分の幻想にひたっているからだ。
千代能は尼僧だった。 彼女は微妙な、
――自分は正しいものをよく知っている、高潔な人間だ――
という態度を楽しんでいたにちがいない。
彼女は偉大な出家者だった。   彼女はすばらしい美貌に恵まれていたと言う。
あまりに美しいので、 ある僧院を訪ねたときには断られてしまった。
こんなに美しい女性を僧院に入れると、 僧侶たちが動揺するかもしれないからだ。
その後、
彼女は顔を傷つけてやっと別の僧院に入ることができた。
彼女はすばらしい美人だったにちがいないが、   ちょっと考えてごらん……    彼女は自分の顔を傷つけて、それを醜くしておきながら、    深いところではこう考えていたにちがいない。
「私のみごとな 捨て方を見なさい。  私はとても美しい女性だった。  なのに  私はその顔を傷つけた……
 こんなことをした者は かつていなかったし、  これからもいないだろう。
 私の捨て方を見なさい。  肉体への 執着のなさを見なさい。
 私は美貌のことなど 少しも気にしていない。  私はどんな犠牲を払っても光明を得ようと決意している」
こうして彼女は見逃しつづけていた。
だが、ある満月の夜にそれは起こった。
  それは意表をついて、突然、起こった。   それはいつも不意に起こる。   それはつねに突発的に起こる。
だが私は、
それは他の誰にでも起こりえたと言っているのではない。
それは千代能に起こった。 彼女が為したことはどれもその原因ではないが、 彼女が為したことのすべてが彼女の内側にあるものを――
  何をやっても失敗に終わる、
    人が成功することはありえないという理解を生じさせた。
彼女はまったく望みのない状態に到ったにちがいない。 その絶望は為しうることをすべてやりつくしたときにはじめて感じられるものだ。
そして その絶望が訪れたときに、はじめて希望が生まれてくる――
その救いようのなさのなかで、エゴは大地に叩きつけられ粉々になる。
    人はもはや何ものも要求しない。
  自我はその絶頂に達してはじめて、その頂点で消えてゆく。
   中途半端な自我を落とすことはできない。
            それはできない相談だ。
           なぜなら、まだ先に望みがあるからだ。
「わからないぞ、  もう少し努力すれば、  もう少し修行すれば、  もう少し執着を捨てれば……」
「わかるものか。  まだすべての方角を調べたわけじゃない、まだ望みはある」                    とそれはつぶやく。
                  自我というのはしぶとい。 だが、 可能なあらゆる方角をすべて探しつくし、 究めつくしたのに、
  いつもしくじってばかりいれば、    失敗につぐ失敗を重ねていれば、
   いつまで探求し、探索することをつづけていられるだろう?
いつの日か探求や探索は落ちてしまう。
だから このパラドックスを覚えておきなさい――
光明は探求を落とした者たちにしか起こらない。
だが、探求を落とすことができるのは誰なのか?
それは充分に深く究めつくした者たちだけだ。
     これはパラドックスだ。
     これは理解しなければならない           大いなる秘密のひとつだ。
それを胸の奥に沈潜させなさい。  片方だけを選ぶ可能性は高い。
「探し求めよ、そうすれば汝は見いだすだろう」             と言う者たちがいる。
それは真理の半面にすぎない。 ただ求めるだけで見いだした者はひとりもいない。
また 「求めても 神が見つからないのなら、そもそもなぜ求めるのか?
 待てばよい。 ・・・・やがて神の恵みとして起こるだろう」                と言う者たちもいる。
         そのようなやり方でもけっして起こらない。
あなたがたは何世紀にもわたり、何生にもわたって待ちつづけてきたが、 いまだにそれは起こっていない―― そのような仕方では起こらないことはそれだけで充分に明らかだ。

Osho - The Secret Of Secrets


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Prem Sheel

遊び心とは、
人間の内側でもっとも抑圧されたもののひとつだ。 

あらゆる社会、文化、文明が遊び心に反対してきたのは、 
遊び好きの人間はけっして深刻にならないからだ。 

そして
人は深刻にならない限り、
支配されることはあり得えず、 
野心をもたせることはできず、 
彼に権力、金、地位を求めさせることはできない。

どんな人の内側でも、
けっして子どもは死なない。 
大人になればその子が死ぬというのではなく、 
その子どもはそのまま残っている。 

かつて
あなたであった存在は、
今でもことごとくあなたの中にいて、 
そして
最後に息を引き取るまで、あなたの中に残っている。

だが
社会はつねに、深刻でない人びとを恐れる。 
深刻でない人びとは、金や政治権力に対する野心をもつことはない。 

彼らはむしろ存在を楽しむ。 
だが
存在を楽しむことが地位をもたらすことはあり得ない。 
人を権力者にすることはあり得えず、 その人のエゴを満たすことはあり得えない。 

ところが、人間の世界全体はエゴという観念のまわりを回っている。 
遊び心は、エゴに反する。
試してみれば気がつくはずだ。

ちょっと
子どもと遊んでみれば、 
自分のエゴが消えていくのが分かるはずだ。 
自分が再び、子どもになっているのが分かるだろう。 
それはあなたについてだけでなく、誰についても言えることだ。

自分の中の子どもを抑圧してきたために、 
人は自分の子どもを抑圧することになる。

自分の子どもが
踊ったり、
歌ったり、
叫んだり、 
飛びはねたりするのを許す者はいない。 
ほんの些細な理由で、

・・・多分、なにかが壊れるかもしれないとか、 
・・・外に飛び出したら雨で服が濡れる
           ―― というような

そんな
小さなことのために大いなる霊的資質、遊び心が完全に破壊される。

従順な子どもは、両親にも、教師にも、誰にも褒められる。 
そして、いたずらっ子は非難される。 

その子の遊び心は、まったくなんの害もないかもしれないが、 
そこに反逆の危険があるという理由で、その子は非難される。 

もし子どもが、遊ぶための完全な自由をもって成長しつづけたら、 
その子は反逆者になるだろう。 

彼は簡単には隷属させられない。 
彼は、人を殺すため、あるいは自分が殺されるために、たやすく軍隊に入れられはしない。

反逆的な子どもは、反逆的な若者になる。 
そうなったら、彼に結婚を強制することはできない。 
彼に特定の職業を押しつけることはできない。 

そうなったら、
両親の満たされなかった欲望と憧れを成就するように、 
その子を強制するわけにはいかない。 

反逆的な若者は、自分自身の道を進む。 
彼は自らの内奥の願望に従って自分の生を生きることになる。

        ・・・・ほかの誰の理想に合わせるのでもなく。


反逆者は、基本的に自然だ。 
従順な子どもは、死んでいるも同然だ。 

それゆえ、両親はひじょうに幸せだ。 
その子がつねに支配下にあるからだ。

人間は不思議な病にかかっている。 

 人間は他人を支配したい。
  他人を支配することで、
   自分のエゴが満たされる、 
    自分が特別な者になれる。

そして、
  自分自身もまた他人に支配されたい。 
   支配されれば、もう自分に責任はないからだ。 
  
これらすべての理由のために、 
遊び心は、最初の最初から窒息させられ、押しつぶされる。

あなたはこうたずねている、 

「私の中に、
 もう長いこと無視してきた
 美しい小さな男の子がいます。 
 この小さな男の子は
 遊び好きで、
 好奇心に満ち、
 歓喜に満ちています。
 けれども、
 私はたいてい彼が自制心を失うのを許しません」 と。 
 
その恐怖はなんだろう?  
その恐怖は他人によって植えつけられたものだ。 

つねに制御の下にとどまるように、
つねに規律の下にとどまるように、 
つねに年上の者を尊敬するように、   と。 
 
つねに聖職者の、両親の、教師たちの言うことに従うように。
彼らがあなたにとってなにが正しいのかを知っている、  と。 
 
あなたの本質は、けっしてその本音を言うことを許されない。

ゆっくり、ゆっくりと、あなたは自分の中に死んだ子どもを運びはじめる。 
このあなたの中の死んだ子どもが、あなたの中のユーモアのセンスを破壊する。 

あなたは心から笑うことができない、あなたは遊べない、 
あなたは人生の小さなことを楽しむことができない。 

あまりにも深刻になるために、 
あなたの人生は広がるどころか、
むしろ縮小しはじめる。

私はいつも、
なぜキリスト教が世界最大の宗教になったのか 不思議に思ってきた。 
そして再三再四、それは十字架と磔にされたイエスのためだ、 という結論に達した。

あんなにも悲しげで、あんなにも深刻そうだ…… 
当然のことだが、 十字架上に微笑んでいるイエスを期待するわけにはいかない。 

そして無数の人びとが、 
自分と十字架上のイエスの間に類似性を見いだしたのだ。

その深刻さ、その悲しさこそ、 
キリスト教がほかのどの宗教よりも大きく広がった理由だった。
 

私は、
 私たちの教会が、寺院が、モスクが、シナゴーグが、 
  深刻でない、もっと遊びに満ちた、 笑いと喜びに満ちたものになってほしい。 
   それは人類にもっと健康で、完全で、 統合した魂をもたらすことになるはずだ。

だがここではあなたたちは……。 
少なくとも私のサニヤシンであることで、 
あなたたちは肩に十字架を担ぐ必要はない。 

十字架を捨てなさい。 
私はあなたに踊ることを、歌うことを、遊ぶことを教える。 

    生は、一瞬一瞬が貴重な創造性であるべきだ。 
        なにを創造するかは問題ではない。

           それは海辺の砂の城であってもいい。

だがあなたがなにをするにせよ、 
それはあなたの遊び心と喜びから出てくるべきだ。

あなたの子どもをけっして死なせるべきではない。 
その子に栄養を与え、 そしてその子が統制から飛び出すことを恐れてはいけない。 
その子がどこに行けると言うのかね?  

そしてたとえ、
その子が飛び出したとして、だからどうだと言うのか?  
制御を飛び出したらあなたになにができるだろう?  

あなたは
狂人のように踊ることができる。 
狂人のように笑うことができる。 
あなたは狂人のように飛び跳ね、走ることができる…… 

  人はあなたが狂ったと思うだろうが、それは彼らの問題だ。 

もしあなたがそれを楽しんでいるのなら、 
もしあなたの生が、それによって栄養を得ているなら、 
それが残りの全世界にとって問題になろうとかまわない。

Osho - The Rebellious Spirit

いままで、いくつかの「孤独の正体」を見抜いてきたつもりだ

あるとき

  「孤独」とは「寂しさ」に対する不正直だった

自分に正直に「寂しい」と告白できる時、人はこころを開いている
ところが「孤独だ」と俯いている時、人は心を閉ざしている

「寂しい」という時、それは甘えているかも知れない、
   ・・・それは弱々しく、見窄らしいかも知れない

   ・・・それでも自分の気持ちに正直に「寂しい」と無邪気に言えるなら、
               その正直さは強さであり気高さだと思う

「ボクは寂しいんだ」「私は寂しいの」
そう打ち明けてくれた人を決して笑ったり拒否したりするものじゃない
自分自身でも無理がない範囲で、胸を貸して上げれば良いじゃ無いか? 

あるとき

  「孤独」とは理解者や称賛者への渇望だった

「理解者が居たら、何が良いの?」
「だって理解者がいればひとりじゃないじゃん」

「ひとりじゃなければ、何が良いの?」
「ひとりじゃなければ、心強いじゃん」

「なんでひとりじゃない方が、心強いの?」
「だって味方は多い方が良いじゃん・・・」

  つまりこういうことだ、
   「孤独だ」というのは、「理解者、味方を増やして、強くなりたい」という意味なのだ

   「孤独感を忌諱する感覚」とは、
    単純に哺乳類的な「生き残りの為の策略」以上のものではない・・・

あるとき

  「孤独」とは「誰にも必要とされていない」という確信だった

バシャールは「そんな風に思うのは、最大の傲慢だ」と指摘しているが
それにも関わらず、なぜか「自分は必要とされていない」というのは
強い確信であった・・・

・・・そのバシャールが言うところの「最大の傲慢」が如何なる根拠によるものだったのか?

その理由はシンプルだった・・・「自分も叉、他人を必要としていないから」であった

もちろん、この社会の中で、
自分は多くの人間と相互依存の中で生きているのは間違いなかった・・・

・・・自分は物理的、社会的には、人を必要としていて、されていた
               しかし問題はそんなところでは無かった

  自分は、世界が滅びても構わなかった
  この惑星の全人類、全生命が滅んでも、気に掛けないつもりだった

  だからその結果、自分が死ぬのにせよ、それはやむを得ないと思えた
  なぜなら、それは「どうしようもない」「自分ひとりでは防ぎようがない」と断言出来たからだ

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先日(27日)、東京大学安田講堂にて梶田教授のノーベル賞受賞記念講演を聴いた

「物質と反物質との差はホンの極微の差だった」
「その差こそがニュートリノであり、私達の宇宙が消滅しなかったのはそのお陰のようだ・・・」

文字通りの壮大な宇宙論の世界だった!

今この宇宙とは138億年前の「紙一重の差」が「ゼロ」から一歩を踏み出して存在している・・・

「だからありがたい」「奇跡だ」という言い方も、もちろん出来るだろう
「なんだ、単なる紙一重の気まぐれ的にこの世界は存在するだけなのか?」と
                       シラけて見ることも出来る

どちらが正しい見方だとか、間違った見方だとか、誰にも言えはしない

きっと
「この世界には何の意味も価値も無い」と言い切るなら、
            そういう世界に囲まれるだろう

あるいは
「この世界の存在は奇跡に溢れているが故に無限の価値がある」
           ・・・そういっても一体誰が反論出来るだろうか?

私の住む世界のすべてが!  ・・・私次第

あなたの住む世界のすべてが!  ・・・あなた次第

     きっとそこには何の強制も、 何の模範解答も存在しないのだろう

  世界の破滅すらも、託されていると言うこと・・・
                ・・・「愛」とは「そういうこと」なのかも知れない

 「愛」を拒否して、「愛なき、虚無の世界」に住むことすら・・・きっと「愛」が許しているのだ

「まごころを君に」 なきべそ

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Prem Sheel
2012年3月28日
サイキック・パワーの誤用の 唯一の解毒剤は愛だ。

さもなければ力は汚染される。 あらゆる力は汚染される。
経済であろうと、 政治だろうと、 サイキックであろうと違いはない。
いつであれ、 あなたが力に満ちていると感じるとき、
もしもあなたに解毒剤としての愛がなければ、 あなたの力は他への災いとなる。
というのは 力は人を盲目にするからだ。
愛は目を開かせる、 愛は目をきれいにする...
あなたの認識は明晰になる。
力は曇らせる・・・ すべての力は盲目だ。
銀であろうと 金であろうと サイキックな 達成であろうと、 すべての力は盲目だ。
あなたはあなた自身しか見ていない。 そういうわけで
パタンジャリの強調する「サムヤマ」が達成されたと瞬間、 ただちに友情と愛を持ち込みなさい。
サムヤマの後、最初にあるべきことは、 すべてのエネルギーが分かちあいの愛の流れになることだ。
なんであれ分かちあわねばならない。
そのときにはどんな間違いの可能性もない。
Osho - Yoga, Volume 8

「お金なんかなくても生きていけるのだ」

わたしは正直、まだこの都留さんの言葉にはついて行けては居ない・・・
事実、喰うために働いている・・・

しかしこの「自己実現性」が体得出来ないと、やはりすべてが「絵に描いた餅」なのだ

・・・っとまあ、迂闊にも「ついて行けては居ない」と宣言してしまったわけだが、
  果たしてこれは「本当」だろうか? ・・・一瞬前の自分自身を疑うのは私のモットーであ~る

 ・・・もっと正確に状況を描写するならば

 「都留さんの言葉について行けては居ない」という状況を
  毎瞬毎瞬、せっせせっせと全身全霊で〝創造〟しているのではないだろうか? ・・・私は?

斉藤一人氏が言うところの

 「あんたたち、もてる限りの全力を振り絞って〝不幸〟になってる」   ってやつだ(笑)

OSHOが言うところの

 「孤児と飢餓を産み出すために、あの婆さんは中絶に反対している」  ってのもそう

  「不自由を毎瞬作り出しているのは自分自身」というテーゼを、
   私たちは重大な仮説として徹底的に、真剣に検証するべきでは無いだろうか?

〝自己実現〟とは絶対的に必要だ!
 しかしそれは、カネや権力や名声を手に入れると言うことではない
 それ・・・〝自己実現〟とは〝エンライトメント〟のことだからなのだ  OSHO

このOSHOの言葉に肯きつつも、やっぱり私は〝自己実現〟という言葉に抵抗を感じてきた・・・
なぜなら、この言葉にはどうしても
「出発すべき未熟ないま」と「到達(実現)すべき地点(いつかどこか)」とが、イメージされたからだ

しかし、エックハルト・トールが言う様に、
「人生の第一目的地」とは「いまここ」なのだ
「いまここに全てがすでに実現されている・・・」   よく耳にする話だ

ところがこのエックハルトの声明は普通に考えると実に不可解だ
  ・・・通常、「目的地」といえば「ここではない、いつかどこか」のことだからだ

スピでよく言われる「いまここ」、禅が言うところの「今中」、日常で家族に帰宅を告げる「ただいま」
わたしたちはこの言葉を耳にタコができる程聞いているウチに、それはなんだか天国のような
「いいところ」「至福の境地」という勝手なイメージングに陥っていないだろうか?

でも、わたしたちはすでに知っている・・・、目の前にある「いまここ」とは「地獄の一丁目」だ

モーフィアスとアンダーソン

だから
「さあ!瞑想しませう!」とはいうのだが
実際には「いまここ」から目をそらして、
パラダイスのようなお花が咲乱れる「いまここのイメージ」を探してはいないだろうか?

   ・・・ほれ、スピ系大好きな、そこのお嬢さん?あなたのことです

「あなた」も、「わたし」も、変わらないし、変わりようなどないし、改善など必要ない
そしてまた「世界」もまたそうだ・・・、  「いまここ」だって見かけは何も変わらない

じゃあ何が変わるのか?

      それは「もう引き寄せない」「もう新しい家を建てない」ということで
           「いまここ」は「パラダイスに変わっていく」のではないだろうか?





私たちが毎日毎瞬目撃している物理的な五感で知覚している・・・・ 「いまここ」

     わたしたちは記憶の感触と、脳で認識しているシチュエーションの推移を頼りに

         「ほら、わたしはいまここにいる!」
          ・・・と自分自身の現在位置を確かめて (グランディングして) いる

       ところが実際には、その
「いまここ」とは138億年の「過去の集積」

       実を言えば、脳は「いまここ」を知覚出来ないのだ
       通常では、脳は物理的な状況の把握に対して0.5秒遅れている

       だから、視覚神経の情報でマトリックスを組み立てる(内部表現する)ことなく
       即時に反応するカエルやカメレオンが蠅を捕獲するスピードに
       
私たちの視覚は追いつけないのだ
私たちは、
実際には自分たちの積み立ててきた「過去の成果」を
「いまここ」だと勘違いして生活している

それゆえに、
視覚や聴覚にあまりに支配されて (乗っ取られて) いて、
本当の「いまここ」には立ち会っていない・・・

だから、もし自分たちが0.5秒まえの状況からの憶測・・・

つまり
「138億年の延長線上」に自己証明(家)を積み上げないで、

   = 無為にとどまる === これ以上家を建てない = 

   そのときはじめて、
    138億年間に積もり積もったチリが払われて
          「いまここの知覚」が可能になる

・・・わたしたちはこの「膨大な歴史」にあぐらを掻いていたのでは、
   自覚としては 「何もしていない」 様でいながら
   本当は「138億年の話の続き」を・・・、
   無意識の激しい緊張の中せっせせっせと積み立て続けているのだ

   それゆえに私たちは
   いつも「古くさい、自分が大好きなド演歌」を歌い続け、
   その歌声に自分自身で聞き惚れながら自分自身を確認している  ・・・とも喩えられる

   このド演歌の歌声(古い世界観)は「他ならぬ〝過去の〟自分自身」なのではないか?

   では
   〝歌うのを止める〟と「どうなるのだろうか? 世界が消滅してしまう?」のだろうか?

        ・・・いや、たぶん消滅したりはしないだろう
           その時、この世界は「何一つ」変わらない・・・・

        ・・・でも「全てが新鮮 (無自我:アナッタ)」 なのではないだろうか?

もし、常に新鮮な人生を求めるならば、「私は知っている」という安心を捨て去り
徹底した「不可知論」、「全世界への懐疑」 つまり、「自分自身への懐疑」に溺れ死ぬしか無い

私たちは実際のところ
 「新鮮な、曇り無い目」で周りの人や、世界を見たことなどほぼないのだ

 私たちは、
  「決めつけ、先入観(定義、観念)や憶測、願望」を常に眼に一杯詰め込んで見ている

 そして「類友の法則」により、
  あなたのまわりも程度の差はあれ「似た様な世界観の人達」だろう


あなたの周りには強迫観念に取り憑かれている人はいないだろうか?

私の母は・・・・、
戦中戦後世代として常に「飢餓感」から一瞬たりとも意識が離れることがないひとだった
その代償行為として、周囲の人間に全てを責任転換して自分自身を見つめることから逃げていた

・・・・ところがその逃避そのものが、母に飢餓感をさらに煽るような状況を
        ダイソンの掃除機の様に吸引力の衰えることもなく引き寄せていた

わたしは子供ながらに
「なんでこの母親は間断無くキリキリと責め悩まされて生きてるんだろう?」っと不思議だった
自分自身もその同じ「寸断なき責め苦のプログラム」にすでに感染しているとはつゆ知らず・・・
 (・・・・いや、多分そういう人間だと分かってる上で、きっとわたしはこの母親を選んだのだろう)

「そこそこ成功した商社の社長令嬢」として
我が家の中でもっとも裕福な生活を体験していた母こそが
家族中に常に自分の「飢餓感」をばらまき、その放射能汚染の中心にいた・・・・

私たちは何かを「引き寄せる」必要は何も無い

  ・・・それ自体が「飢餓感」「欠乏感」「自己肯定への渇望」を動機としており
     その「引き寄せ」自体がさらに「飢餓感」「欠乏感」を増幅させるからだ

そしてあえて意図的に引き寄せなくても、
否が応でも、自分自身のシャドー、投影、姿見として、
「類友の法則」が、すでに周囲に様々な状況があるはずだ

一見自分とは正反対に見える人でも、
その対称性自体がある種の「共通項(カテゴリー)」を形成して
私たちの周囲を取り囲む  ・・・大概、「大きな嫌悪感」の正体とは「近親憎悪」なのである

「感情的に引っかかる」人間関係も、状況も無いのが「無為自然」だと思う

それは別に「世界が消えてなくなる」ことなのではない
あなたの意識が「無(=定義や観念から自由)」になった (・・・・リセットされた) だけだ




「自己実現した~い」っと願う前に、ひょっとして「もうしちゃってる?」可能性を考えるべきだ
「もうしちゃってる・・・」だからこそ「目の前は地獄の一丁目」なのじゃないだろうか?
そうでなくて「いまここに全て実現している」だなんて、いつ、納得出来るというのだろうか?

・・・これが「世迷い言」だとしたら、こんな仮説はさっさとぶん投げて仕事や勉強に没頭すべきだ

   でももし、この仮説が「正しい」のだとしたら、
    私たちはずっと「自己実現」に囲まれて、包まれて、生活していたことになる

       ・・・・これこそが「無償の愛」という言葉が指し示すものではないだろうか?

   「すでにそうであるもの」は、永遠にあがいても「実現出来る事は決して無い」のだ

  「トラはトラであることは出来ても、トラになる事は出来ない・・・」

   それがバガヴァンの言うところの「私は変わることができない」ことを受け入れなさい。
   という言葉の指し示すことじゃないか?っと思う


幸せになるのに、恋人は必要ありません。
津留晃一

あなた方を仕事に駆り立てる原動力は何でしょう?

ひとことで表現するならそれは
「幸せのため」ということになるでしょう。

幸せになるために
あなたは毎日行動し続けているわけですが、
どうして人は幸せを得るために、仕事をするのでしょうか? 

当たり前だと思いこんでいるだけで、
人はあまりその理由を考えたこともないようです。
幸せになるために
本当に人は仕事をしないといけないのでしょうか?

自分には、
好きなことをする力がないと信じている人は
(現代地球人の大半はそうなのですが)、

幸せになるためには基礎をこつこつと
築き上げなければならないと信じています。

恐れから出てくる発想です。

マイナスの想念世界で発想すると、
人は自分を守るために思考が流れます。

幸せの創造に意識は働かず、
自分を守る方に意識が向いてしまいます。

守ろうとする思いが敵を産み出すというのに・・・。

「働かざる者喰うべからず」
という強い強い価値観が今の地球を覆っています。

「働かないと生きていけない」と硬く信じていますが、
決してそういうわけではないようです。

そう信じているから
そんな現実社会を見ているだけだと伝えられました。

 「私は人に左右されず、
  社会に左右されず、
  自分に素直に、
  自分の好きなように生きていくのだ、

  好きなことをしているだけで
  絶対に生きていけるはずだ」

という生き方を、
他の人に先駆けて始める人達が出始めました。

この地球の変容の時期に、
そのために地球にやってきた人達が、
積極的にそんな生き方を始めています。

これを読んでいるあなたもきっとそのひとりでしょう。
これを読みながら魂が感応しているとしたらそれが証拠です。

貨幣経済社会とは
基本的には奪い合いの仕組みですが、
お金のない社会では、人は与えあわない限り生きていけません。

「お金なんかなくても生きていけるのだ」と、
  誰かがそんな生き方の手本を示すことによって、
  これまで通りの生活に嫌気を感じていた人達が、
   新しい生き方に同調してきます。

   誰かが勇気を奮って
   これまで通りの因習的生き方にさよならをして、
   新しい生き方をしてみせる必要があります。

あなたもきっとそんな人達の中のひとりではないでしょうか。

我々人間が根本創造神から与えられている能力は、

    「創造の自由」と
    「選択の自由」である、

      と初めに伝えられました。

私は長い間、
このことの意味が判りませんでした。

人は誰でも自由を求めますが、
それは好きなことをしたい自由であると考えたからです。
選択の自由が与えられたとしても、
行動が自由になるとは思えなかったのです。

   「自分には力がない」
   という考え方で今までうまく行かなかったのなら、

   「自分には無限の力がある」
   という考え方を選択してみることも可能です。

あなたが信じ、受け入れた考え方は、
やがて時間の経過と共にあなたの現実の中に浸透し、現れてきます。

望む結果を手に入れるのに、
必ずしも行動しなければならないわけではありません。

     ・・・・・そう思い込まされてきただけです。

      より有利になりたい、
      より都合よく、
      より豊かに、
      よりよい環境で、
      より優れるため・・・・、

あなたは行動をとり続けてきたわけですが、
そろそろそんな幸せになるために

    何かに成ってみたり、
    何かを手に入れてから・・・
      という考え方にしばし別れを告げ、

単に
幸せでいるための考え方を
選んでみるという生き方に
挑戦してみてはいかがでしょう?

   「選ぶだけで幸せが手に入るだなんて、
    そんな虫のいい考えが通用するかしら」
 
       という考えが浮かんできたとしたら、
       ただそのことに気付いていて下さい。

あなたの現実はあなたの選択の結果にすぎません。
では何を選択すればいいのか・・・。

・・・ただ単に
あなたの都合のいい考え方を選んでいけばいいだけです。

・・・ただ単に
あなたにとって有利と思われる考え方を選んでいけばいいのです。

実は今も
あなたはあなたの選択の結果として今の現実をみています。
あなたに今見えている環境は全てあなたの選び取った考え方の結果なのです。
あなたの受け入れた考え方が状況を産み出します。

     「この世にはあなたに災いをもたらす敵がいる」

という考え方をあなたが抱いている証拠として、
あなたに災いをもたらす人物や環境が現れてきます。

テレビニュースで流される殺人事件を見るのも
この世には自分の利益のために人をあやめる人がいるのだ
       という考え方をあなたが受け入れてしまった

    結果として、あなたのその信念を見せられているにすぎません。

    「人は互いに理解し合うことは不可能」

という信念の鏡として、
あなたの前にあなたを理解してくれない人が現れます。

あなたを判ってくれないその人は、
あなたの信念が創り出した映像です。

その人に
「あなたは私を誤解しているのよ」と
弁明を100回試みたとしても、その努力は徒労に終わるでしょう。

人の認識を変えようとせず、
あなたは自分の考え方を新たなものと取り替える事によって、
簡単に現実である他人があなたへの認識を変え始めます。

あなたが「あなたを批判する~その人」を理解して上げて下さい。

この世に「他人はいない」という考え方を選び取ってみて下さい。

そんな世界に誤解は存在のしようもありません。
今、時代が大きく変わろうとしています。

どうして社会が変化するかというと、
あなたの抱く信念を変える事によって社会が変わります。
革命や、活動によって社会が変わるわけではありません。

時代の変化とは意識の変化の事ですが、
それは単にあなたがこれまで抱いてきた信念を手放し、
新たな信念を抱く事によって起きてきます。

であるならばあなたにとって都合のいい考え方を
選び取ってみてはいかがでしょう?
そうすればあなたにとって都合のいい社会が
必ず現れてくる事でしょう。

    「都合のいいように考えればいいのですよ」
          と言うと、

     「じゃあ嫌いな上司がいなくなる
       と決めてしまえばいいのですね」
          と問うてきますが、
その人はまだ自分には嫌いな人がいるという信念は
握ったままですから、上司が目の前から消えたとしても、
又新たな嫌いな人を引き寄せてくることになります。
目の前の敵を払いのけようとするのではなくて、
自分が人を嫌う原因の考え方を変える方がずっと効果的です。
自分が上司を嫌っているわけを捜して下さい。

私がまず初めに皆様方に選択して欲しいのは

     「幸せになるために必要なものなど何もない」
              という考え方です。

幸せになるのにお金はいりません。
幸せになるのに恋人は必要ありません。
幸せになるのにどんな環境も必要ではありません。
こんな考え方を(信念を手放す信頼を)信じていると、
今この瞬間が、そしてどんな瞬間も、とても幸せに思えてきます。
生きている毎瞬毎瞬が至福の時へと変わります

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