覚醒には二種類有る!!!
トリプタミン系(他、いわゆる麻薬、サイケデリック) と テアニン系(玉露茶)だ
一昨年前ぐらいに、ふと、リモネンを調べていたら、偶然関連的に検索に引っかかって
この商品を知り、愛用している
いわゆるラリピー・アスカ・タシロ・キヨハラ・エイベックス・グンマー系の極悪ドラッグ
〝覚醒剤〟は若い連中の間では〝S(エス)〟という隠語で呼ばれている
この〝S(エス)〟という表現はスーパーマンの頭文字から来ているそうだ
・・・つまり、超人感覚、無敵、全知全能感覚、しゃっきり、
疲労を感じない、空腹感も感じず激ヤセする、危ないダイエットやマグロ漁船御用達
そしていわゆる法的規制が最も厳しい覚醒剤程ではないにせよ
麻薬指定されていたり、あるいは「危険ドラッグ」と呼ばれる脱法系のモノには
トリプタミンが多く、シャーマンの儀式に使うアワヤスカのジメチルトリプタミン(DMT)も
この一種だ
これらは幻覚作用はいろいろ個性は有るものの、基本的には脳神経の興奮剤であり
それが俗な表現では「アッパー」とか「ダウナー」とかの方向で意識が拡張する
わたし自身も一時期はこの「危険ドラッグ」にずいぶん手を染め、まあそれなりにその時は
素晴らしいヒントも得たが、非常に取扱が微妙で、興味本位でオモチャにしていたら
「死ぬよりも怖い思いをするよ」と言うのは脅しでは無く「ソースはオレ」と忠告しておきたい
当時の私は半分以上「死にたくて」こういうものに溺れていた・・・、だからあなたが
それぐらいの覚悟でというか思い詰めていて、「手を出す」というならあえて止めないが、
であるなら安心して心置きなく「逝ける」様に遺書を書いた方がパニックにならないだろう、
「覚悟無し」でやるから光の洪水に飲み込まれる時にパニクるのだ・・・
運命とは皮肉なモノで、もう腐乱死体で発見される「覚悟が決まっていた」わたしは、
逆に生き残ってしまった・・・・
私は決して保守的な人間ではないつもりだが
上記の様な経緯と体験で言わせてもらえば・・・
・・・マジで「危険ドラッグ」という当局の表現に、今の私は全く異存は無い
「意識の拡張」というのはつまり「誇張」でもある
OSHOが、「わたしのサニヤシンたちは必要としない」という点もそこにある・・・
・・・真摯なサニヤシン、真摯な探求者達にとって
「嘘・大げさ・紛らわしい・・・」というのは、大いに〝躓(つまず)きの石〟となりえるからだ
極限までの〝興奮〟という意味での覚醒と
極限までの〝鎮静〟という意味での覚醒・・・
・・・「覚醒状態」とはひとつではなく、正反対の両極の覚醒がある
奇跡を求める、スーパーマン(救世主的な、特別な誰か)になる、特別な体験をしたい・・・
そうであるならば、あなたの求める覚醒とは〝誇張された興奮の〟覚醒だ
そしてオカルト志向、現実逃避的探求の多くが「一見温和しく、良識的に見えても」こちらだ
しかし、
「いまここ」の中心を見つける・・・ 本当の自分と出会い、本音の自分と静かに語らう・・・
というのにはどちらを選択するべきか?それは明白だろう
もしあなたが求めるのが「最高の奇跡」ならば、それは「あたりまえ」の中に見つかる
「いまここ」をほんのちょっとでいい、見つめてみる ・・・エゴを、不安を、探してみる
そうすると驚くだろう!
エゴ(関係性、過去、比較)も、不安、恐怖、焦り、そして退屈さも、けっして「いまここ」にはない
なぜならこれらはすべて「いつか・・・、どこか・・・、誰か・・・、何か・・・」に属しているからだ
だから一杯のお茶を飲み、静かに呼吸を見つめる・・・ そこに最高の奇跡があるのだ
穏やかな、静寂に包まれた「覚醒」がそこにある
OSHO_ About Drugs 投稿者 maneel-katal
トリプタミン系(他、いわゆる麻薬、サイケデリック) と テアニン系(玉露茶)だ
一昨年前ぐらいに、ふと、リモネンを調べていたら、偶然関連的に検索に引っかかって
この商品を知り、愛用している
いわゆるラリピー・アスカ・タシロ・キヨハラ・エイベックス・グンマー系の極悪ドラッグ
〝覚醒剤〟は若い連中の間では〝S(エス)〟という隠語で呼ばれている
この〝S(エス)〟という表現はスーパーマンの頭文字から来ているそうだ
・・・つまり、超人感覚、無敵、全知全能感覚、しゃっきり、
疲労を感じない、空腹感も感じず激ヤセする、危ないダイエットやマグロ漁船御用達
そしていわゆる法的規制が最も厳しい覚醒剤程ではないにせよ
麻薬指定されていたり、あるいは「危険ドラッグ」と呼ばれる脱法系のモノには
トリプタミンが多く、シャーマンの儀式に使うアワヤスカのジメチルトリプタミン(DMT)も
この一種だ
これらは幻覚作用はいろいろ個性は有るものの、基本的には脳神経の興奮剤であり
それが俗な表現では「アッパー」とか「ダウナー」とかの方向で意識が拡張する
わたし自身も一時期はこの「危険ドラッグ」にずいぶん手を染め、まあそれなりにその時は
素晴らしいヒントも得たが、非常に取扱が微妙で、興味本位でオモチャにしていたら
「死ぬよりも怖い思いをするよ」と言うのは脅しでは無く「ソースはオレ」と忠告しておきたい
当時の私は半分以上「死にたくて」こういうものに溺れていた・・・、だからあなたが
それぐらいの覚悟でというか思い詰めていて、「手を出す」というならあえて止めないが、
であるなら安心して心置きなく「逝ける」様に遺書を書いた方がパニックにならないだろう、
「覚悟無し」でやるから光の洪水に飲み込まれる時にパニクるのだ・・・
運命とは皮肉なモノで、もう腐乱死体で発見される「覚悟が決まっていた」わたしは、
逆に生き残ってしまった・・・・
私は決して保守的な人間ではないつもりだが
上記の様な経緯と体験で言わせてもらえば・・・
・・・マジで「危険ドラッグ」という当局の表現に、今の私は全く異存は無い
「意識の拡張」というのはつまり「誇張」でもある
OSHOが、「わたしのサニヤシンたちは必要としない」という点もそこにある・・・
・・・真摯なサニヤシン、真摯な探求者達にとって
「嘘・大げさ・紛らわしい・・・」というのは、大いに〝躓(つまず)きの石〟となりえるからだ
極限までの〝興奮〟という意味での覚醒と
極限までの〝鎮静〟という意味での覚醒・・・
・・・「覚醒状態」とはひとつではなく、正反対の両極の覚醒がある
奇跡を求める、スーパーマン(救世主的な、特別な誰か)になる、特別な体験をしたい・・・
そうであるならば、あなたの求める覚醒とは〝誇張された興奮の〟覚醒だ
そしてオカルト志向、現実逃避的探求の多くが「一見温和しく、良識的に見えても」こちらだ
しかし、
「いまここ」の中心を見つける・・・ 本当の自分と出会い、本音の自分と静かに語らう・・・
というのにはどちらを選択するべきか?それは明白だろう
もしあなたが求めるのが「最高の奇跡」ならば、それは「あたりまえ」の中に見つかる
「いまここ」をほんのちょっとでいい、見つめてみる ・・・エゴを、不安を、探してみる
そうすると驚くだろう!
エゴ(関係性、過去、比較)も、不安、恐怖、焦り、そして退屈さも、けっして「いまここ」にはない
なぜならこれらはすべて「いつか・・・、どこか・・・、誰か・・・、何か・・・」に属しているからだ
だから一杯のお茶を飲み、静かに呼吸を見つめる・・・ そこに最高の奇跡があるのだ
穏やかな、静寂に包まれた「覚醒」がそこにある
OSHO_ About Drugs 投稿者 maneel-katal
ただ呼吸を見つめることにより、奇跡が起こる。
質問
Oshoはヴィパッサナのような坐る瞑想を勧めていますか?
私は瞑想とは単純なものだと思っていました。
ところが、ヴィパッサナ瞑想をやっている人たちを見て、
いつか成功した瞑想家となる望みを完全に失いました。
どうか私を少し激励してください。
osho
瞑想は単純なものだ。
まさしく単純であるため、それは難しく見える。
あなたのマインドは難問を論じることに慣れていて、
人生の単純な事柄に対応する術をすっかり忘れている。
それが単純であればあるほど、マインドには難しそうに見える。
なぜならマインドは難しいことを解決することが得意だからだ。
それは難問を解決するように訓練されていて、
単純なことに取り組む術を知らない。
瞑想は単純で、あなたのマインドは複雑だ。
それは瞑想が創り出す問題ではない。
その問題はマインドから来ていて、瞑想から来ているのではない。
ヴィパッサナはこの世で一番単純な瞑想だ。
ヴィパッサナを通して、ブッダは光明を得た。
そして、他の瞑想の技法に比べ、
ヴィパッサナを通して最も多くの人々が光明を得た。
ヴィパッサナはひとつの瞑想法だ。
そのとうり、他にも瞑想法は沢山ある。
しかし、それらはほんの一握りの人々を助けたに過ぎない。
ヴィパッサナは何千もの人の助けとなった。
そして、それは本当にとても単純だ。
ヨーガとは違っている。
ヨーガは難解で険しく、複雑だ。
いろいろなやり方であなた自身を苦しめなければならない。
あなたの体をねじ曲げ、ゆがめて、
ああやったりこうやったりして座り、
肉体を苦しめ、逆立ちしたりする。
訓練に継ぐ訓練… それでもヨガは多くの人々を引きつけるようだ。
ヴィパッサナは単純過ぎて、あなたは何ひとつ注目することがない。
実際、人は初めてヴィパッサナに出会うと、
それが一体、瞑想と呼べるものかどうかすら疑う。
いったい何なんだろう?
体操でも、呼吸の訓練でもなく、
とても単純な現象…ただただ、息を吸って吐くのを見つめる。
それを忘れないようにするだけ。
呼吸を変えることもない。
プラーナヤームではない。
それは、深く息を吐き、吸う呼吸の訓練ではない。
いいや。呼吸はそのまま、普通にする。
ただ、あなたは、覚醒というひとつの新しい質をそこに持ち込む。
息を吸うのを見つめる。
息を吐くのを見つめる。
あなたは気づくだろう。
息が鼻腔に触れる瞬間に気づくだろう。
あなたはそこに注意を集中することができる。
息を吸う、息が鼻腔に触れるのを感じる。
そして息を吐く。
再びその感触を感じる。
意識は鼻の先に留まる。
鼻の先に意識を集中しなればいけないということではなく、
ただ、油断なく目覚めて、注意深くありなさい。
それは集中ではない。
忘れずに思い出し続けなさい。
初めは何度も忘れ続けるだろう。
その度に自分を連れ戻しなさい。
もし、それがあなたにとって難しかったら、
そこを見守ることはある人たちにとっては難しい。
それなら呼吸を腹で見ることもできる。
息を吸い込むと腹はせりだし、息を吐くと腹は引っ込む。
あなたは腹を見つめ続ける。
あなたが立派な腹を持っていたら、それは助けとなるだろう。
見たことがあるかね?
インドの仏像を見ると、
それらの像は本物の腹を持っていない。
実際、腹はないに等しい。
ブッダは完璧な運動選手のように見える。
胸が張り出し、腹は引っ込んでいる。
しかし、日本の仏像を見ると、あなたはびっくりするだろう。
ブッダのようにはまるで見えない。
大きな腹、
あまりにも腹が大きすぎて胸はすっかり隠れてしまっている。
まるで、ブッダは妊娠していて、
腹しかないみたいだ。
なぜこんなふうに違うかと言うと、
インドでブッダが生きていた頃、
彼自身、呼吸を鼻で見ていたからだ。
それで、彼にとって腹はまったく重要ではなかった。
しかし、ヴィパッサナがインドから
チベット、中国、韓国、ビルマを経て日本へ移る時、
人々はだんだんと鼻よりも腹を見るほうが簡単だと気づくようになった。
そして、仏像はより大きな腹を持つように変わっていった。
あなたは、鼻か腹かどちらでも、
自分に合ったほうを、
あるいはどちらかやりやすいほうを見つめることができる。
要は簡単なほうを選ぶことだ。
そして、ただ呼吸を見つめることにより、奇跡が起こる
質問
Oshoはヴィパッサナのような坐る瞑想を勧めていますか?
私は瞑想とは単純なものだと思っていました。
ところが、ヴィパッサナ瞑想をやっている人たちを見て、
いつか成功した瞑想家となる望みを完全に失いました。
どうか私を少し激励してください。
osho
瞑想は単純なものだ。
まさしく単純であるため、それは難しく見える。
あなたのマインドは難問を論じることに慣れていて、
人生の単純な事柄に対応する術をすっかり忘れている。
それが単純であればあるほど、マインドには難しそうに見える。
なぜならマインドは難しいことを解決することが得意だからだ。
それは難問を解決するように訓練されていて、
単純なことに取り組む術を知らない。
瞑想は単純で、あなたのマインドは複雑だ。
それは瞑想が創り出す問題ではない。
その問題はマインドから来ていて、瞑想から来ているのではない。
ヴィパッサナはこの世で一番単純な瞑想だ。
ヴィパッサナを通して、ブッダは光明を得た。
そして、他の瞑想の技法に比べ、
ヴィパッサナを通して最も多くの人々が光明を得た。
ヴィパッサナはひとつの瞑想法だ。
そのとうり、他にも瞑想法は沢山ある。
しかし、それらはほんの一握りの人々を助けたに過ぎない。
ヴィパッサナは何千もの人の助けとなった。
そして、それは本当にとても単純だ。
ヨーガとは違っている。
ヨーガは難解で険しく、複雑だ。
いろいろなやり方であなた自身を苦しめなければならない。
あなたの体をねじ曲げ、ゆがめて、
ああやったりこうやったりして座り、
肉体を苦しめ、逆立ちしたりする。
訓練に継ぐ訓練… それでもヨガは多くの人々を引きつけるようだ。
ヴィパッサナは単純過ぎて、あなたは何ひとつ注目することがない。
実際、人は初めてヴィパッサナに出会うと、
それが一体、瞑想と呼べるものかどうかすら疑う。
いったい何なんだろう?
体操でも、呼吸の訓練でもなく、
とても単純な現象…ただただ、息を吸って吐くのを見つめる。
それを忘れないようにするだけ。
呼吸を変えることもない。
プラーナヤームではない。
それは、深く息を吐き、吸う呼吸の訓練ではない。
いいや。呼吸はそのまま、普通にする。
ただ、あなたは、覚醒というひとつの新しい質をそこに持ち込む。
息を吸うのを見つめる。
息を吐くのを見つめる。
あなたは気づくだろう。
息が鼻腔に触れる瞬間に気づくだろう。
あなたはそこに注意を集中することができる。
息を吸う、息が鼻腔に触れるのを感じる。
そして息を吐く。
再びその感触を感じる。
意識は鼻の先に留まる。
鼻の先に意識を集中しなればいけないということではなく、
ただ、油断なく目覚めて、注意深くありなさい。
それは集中ではない。
忘れずに思い出し続けなさい。
初めは何度も忘れ続けるだろう。
その度に自分を連れ戻しなさい。
もし、それがあなたにとって難しかったら、
そこを見守ることはある人たちにとっては難しい。
それなら呼吸を腹で見ることもできる。
息を吸い込むと腹はせりだし、息を吐くと腹は引っ込む。
あなたは腹を見つめ続ける。
あなたが立派な腹を持っていたら、それは助けとなるだろう。
見たことがあるかね?
インドの仏像を見ると、
それらの像は本物の腹を持っていない。
実際、腹はないに等しい。
ブッダは完璧な運動選手のように見える。
胸が張り出し、腹は引っ込んでいる。
しかし、日本の仏像を見ると、あなたはびっくりするだろう。
ブッダのようにはまるで見えない。
大きな腹、
あまりにも腹が大きすぎて胸はすっかり隠れてしまっている。
まるで、ブッダは妊娠していて、
腹しかないみたいだ。
なぜこんなふうに違うかと言うと、
インドでブッダが生きていた頃、
彼自身、呼吸を鼻で見ていたからだ。
それで、彼にとって腹はまったく重要ではなかった。
しかし、ヴィパッサナがインドから
チベット、中国、韓国、ビルマを経て日本へ移る時、
人々はだんだんと鼻よりも腹を見るほうが簡単だと気づくようになった。
そして、仏像はより大きな腹を持つように変わっていった。
あなたは、鼻か腹かどちらでも、
自分に合ったほうを、
あるいはどちらかやりやすいほうを見つめることができる。
要は簡単なほうを選ぶことだ。
そして、ただ呼吸を見つめることにより、奇跡が起こる