We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年02月

覚醒には二種類有る!!!

トリプタミン系(他、いわゆる麻薬、サイケデリック) と テアニン系(玉露茶)だ


一昨年前ぐらいに、ふと、リモネンを調べていたら、偶然関連的に検索に引っかかって
この商品を知り、愛用している

いわゆるラリピー・アスカ・タシロ・キヨハラ・エイベックス・グンマー系の極悪ドラッグ
〝覚醒剤〟は若い連中の間では〝S(エス)〟という隠語で呼ばれている

この〝S(エス)〟という表現はスーパーマンの頭文字から来ているそうだ

   ・・・つまり、超人感覚、無敵、全知全能感覚、しゃっきり、
      疲労を感じない、空腹感も感じず激ヤセする、危ないダイエットやマグロ漁船御用達

   そしていわゆる法的規制が最も厳しい覚醒剤程ではないにせよ
   麻薬指定されていたり、あるいは「危険ドラッグ」と呼ばれる脱法系のモノには
   トリプタミンが多く、シャーマンの儀式に使うアワヤスカのジメチルトリプタミン(DMT)も
   この一種だ

これらは幻覚作用はいろいろ個性は有るものの、基本的には脳神経の興奮剤であり
それが俗な表現では「アッパー」とか「ダウナー」とかの方向で意識が拡張する

わたし自身も一時期はこの「危険ドラッグ」にずいぶん手を染め、まあそれなりにその時は
素晴らしいヒントも得たが、非常に取扱が微妙で、興味本位でオモチャにしていたら
「死ぬよりも怖い思いをするよ」と言うのは脅しでは無く「ソースはオレ」と忠告しておきたい

当時の私は半分以上「死にたくて」こういうものに溺れていた・・・、だからあなたが
それぐらいの覚悟でというか思い詰めていて、「手を出す」というならあえて止めないが、
であるなら安心して心置きなく「逝ける」様に遺書を書いた方がパニックにならないだろう、
「覚悟無し」でやるから光の洪水に飲み込まれる時にパニクるのだ・・・

運命とは皮肉なモノで、もう腐乱死体で発見される「覚悟が決まっていた」わたしは、
逆に生き残ってしまった・・・・

      私は決して保守的な人間ではないつもりだが
       上記の様な経緯と体験で言わせてもらえば・・・

          ・・・マジで「危険ドラッグ」という当局の表現に、今の私は全く異存は無い

「意識の拡張」というのはつまり「誇張」でもある

OSHOが、「わたしのサニヤシンたちは必要としない」という点もそこにある・・・

・・・真摯なサニヤシン、真摯な探求者達にとって
   「嘘・大げさ・紛らわしい・・・」というのは、大いに〝躓(つまず)きの石〟となりえるからだ

極限までの〝興奮〟という意味での覚醒と
極限までの〝鎮静〟という意味での覚醒・・・

                  ・・・「覚醒状態」とはひとつではなく、正反対の両極の覚醒がある

  奇跡を求める、スーパーマン(救世主的な、特別な誰か)になる、特別な体験をしたい・・・
  そうであるならば、あなたの求める覚醒とは〝誇張された興奮の〟覚醒だ
   そしてオカルト志向、現実逃避的探求の多くが「一見温和しく、良識的に見えても」こちらだ

しかし、
   「いまここ」の中心を見つける・・・  本当の自分と出会い、本音の自分と静かに語らう・・・
                      というのにはどちらを選択するべきか?それは明白だろう

      もしあなたが求めるのが「最高の奇跡」ならば、それは「あたりまえ」の中に見つかる

  「いまここ」をほんのちょっとでいい、見つめてみる  ・・・エゴを、不安を、探してみる
  そうすると驚くだろう!

  エゴ(関係性、過去、比較)も、不安、恐怖、焦り、そして退屈さも、けっして「いまここ」にはない
   なぜならこれらはすべて「いつか・・・、どこか・・・、誰か・・・、何か・・・」に属しているからだ

   だから一杯のお茶を飲み、静かに呼吸を見つめる・・・  そこに最高の奇跡があるのだ

        穏やかな、静寂に包まれた「覚醒」がそこにある


OSHO_ About Drugs 投稿者 maneel-katal

ただ呼吸を見つめることにより、奇跡が起こる。
質問
Oshoはヴィパッサナのような坐る瞑想を勧めていますか?
私は瞑想とは単純なものだと思っていました。
ところが、ヴィパッサナ瞑想をやっている人たちを見て、
いつか成功した瞑想家となる望みを完全に失いました。
どうか私を少し激励してください。
osho
瞑想は単純なものだ。
まさしく単純であるため、それは難しく見える。
あなたのマインドは難問を論じることに慣れていて、
人生の単純な事柄に対応する術をすっかり忘れている。
それが単純であればあるほど、マインドには難しそうに見える。
なぜならマインドは難しいことを解決することが得意だからだ。
それは難問を解決するように訓練されていて、
単純なことに取り組む術を知らない。
瞑想は単純で、あなたのマインドは複雑だ。
それは瞑想が創り出す問題ではない。
その問題はマインドから来ていて、瞑想から来ているのではない。
ヴィパッサナはこの世で一番単純な瞑想だ。
ヴィパッサナを通して、ブッダは光明を得た。
そして、他の瞑想の技法に比べ、
ヴィパッサナを通して最も多くの人々が光明を得た。
ヴィパッサナはひとつの瞑想法だ。
そのとうり、他にも瞑想法は沢山ある。
しかし、それらはほんの一握りの人々を助けたに過ぎない。
ヴィパッサナは何千もの人の助けとなった。
そして、それは本当にとても単純だ。
ヨーガとは違っている。
ヨーガは難解で険しく、複雑だ。
いろいろなやり方であなた自身を苦しめなければならない。
あなたの体をねじ曲げ、ゆがめて、
ああやったりこうやったりして座り、
肉体を苦しめ、逆立ちしたりする。
訓練に継ぐ訓練… それでもヨガは多くの人々を引きつけるようだ。
ヴィパッサナは単純過ぎて、あなたは何ひとつ注目することがない。
実際、人は初めてヴィパッサナに出会うと、
それが一体、瞑想と呼べるものかどうかすら疑う。
いったい何なんだろう?
体操でも、呼吸の訓練でもなく、
とても単純な現象…ただただ、息を吸って吐くのを見つめる。
それを忘れないようにするだけ。
呼吸を変えることもない。
プラーナヤームではない。
それは、深く息を吐き、吸う呼吸の訓練ではない。
いいや。呼吸はそのまま、普通にする。
ただ、あなたは、覚醒というひとつの新しい質をそこに持ち込む。
息を吸うのを見つめる。
息を吐くのを見つめる。
あなたは気づくだろう。
息が鼻腔に触れる瞬間に気づくだろう。
あなたはそこに注意を集中することができる。
息を吸う、息が鼻腔に触れるのを感じる。
そして息を吐く。
再びその感触を感じる。
意識は鼻の先に留まる。
鼻の先に意識を集中しなればいけないということではなく、
ただ、油断なく目覚めて、注意深くありなさい。
それは集中ではない。
忘れずに思い出し続けなさい。
初めは何度も忘れ続けるだろう。
その度に自分を連れ戻しなさい。
もし、それがあなたにとって難しかったら、
そこを見守ることはある人たちにとっては難しい。
それなら呼吸を腹で見ることもできる。
息を吸い込むと腹はせりだし、息を吐くと腹は引っ込む。
あなたは腹を見つめ続ける。
あなたが立派な腹を持っていたら、それは助けとなるだろう。
見たことがあるかね?
インドの仏像を見ると、
それらの像は本物の腹を持っていない。
実際、腹はないに等しい。
ブッダは完璧な運動選手のように見える。
胸が張り出し、腹は引っ込んでいる。
しかし、日本の仏像を見ると、あなたはびっくりするだろう。
ブッダのようにはまるで見えない。
大きな腹、
あまりにも腹が大きすぎて胸はすっかり隠れてしまっている。
まるで、ブッダは妊娠していて、
腹しかないみたいだ。
なぜこんなふうに違うかと言うと、
インドでブッダが生きていた頃、
彼自身、呼吸を鼻で見ていたからだ。
それで、彼にとって腹はまったく重要ではなかった。
しかし、ヴィパッサナがインドから
チベット、中国、韓国、ビルマを経て日本へ移る時、
人々はだんだんと鼻よりも腹を見るほうが簡単だと気づくようになった。
そして、仏像はより大きな腹を持つように変わっていった。
あなたは、鼻か腹かどちらでも、
自分に合ったほうを、
あるいはどちらかやりやすいほうを見つめることができる。
要は簡単なほうを選ぶことだ。
そして、ただ呼吸を見つめることにより、奇跡が起こる



これを書き始めるに当たって、まずはじめに念を押しておきたいのは

  「闇、それ自体には実体はない」 ということだ

闇は捕まえることは出来ない、掴むことは出来ない、抽出することは出来ない・・・

  光があった時、闇が生じるのだ・・・・

しかし、「光」を神や天使、あるいは〝実在〟の象徴としたとき
     「闇」は悪魔や邪なるもの、または〝虚像〟の象徴としても語られる

  ここには「デュアリティー(二元性)」から「トータリティー(一元性)」に至る重大な鍵がある

  トータリティーとは、イコール、ノン・デュアリティー(非・二元性)ではない
  ・・・二元性を受け入れ、内包した(抱き参らせた)上での一元性、それが「太極」である

   それはTAOのマークを見れば判る

TAO
   二元性、そのものが一元性の影であって「側面」で有り、
   光(観点)があるところ、二元性の存在しない一元体などはない
例えばあなただってトータルな一元体だ

 あなた自身が男性であれ女性であれ、まずは人間だ

     ・・・「人間であること」というのは性別に依存しない

あなたは誰かと会っていれば、その人に応じた「オモテの部分」と「ウラの部分」が生じる

好きな人、尊敬する人にはぶりっ子するかも知れないし、
そしたら反対に、その人にだけは「見られたくない一面」もあるだろう

それは二元性だが、あなたの素顔はその二元性を拒否してあらわれたわけではなく
〝好きなその人〟と出会う前から、あなたの素顔として存在していた

あなたの素顔とは様々なデュアリティーが現れようが、現れなかろうが、ずっとそこにあった

もし、「光」が存在しなければどうなるだろうか・・・・?

   ・・・・世界は「完全な闇に覆われる?」   ぶっ、ぶうぅぅぅ~~~!!!

ちょっとだけ質問の仕方を変えよう
   「光」が存在しない世界とは、如何なる世界であろうか?
    例えばあなたが生まれた時から視力が無ければ、如何なる世界に生きているか?

     ・・・・そう!そうだ!  ・・・・じつは 「闇」という概念も存在し得ないのだ

     「ああ可哀想に!・・・光の世界を知らないなんて!」

      そう考えて勝手に同情するのは、「光」というものを知っている者達だけだ
        生まれた時から知らない全盲の当人は、同情されてもキョトンとしている

    以前、NHKの福祉関係の番組を見ていたら、生まれつきの全盲の二人が話していた

     「よくまわりから『不便で気の毒だね』って同情されるけれど、ボク等からすればさあ・・・、
      何メートルも先に有るものの形が分かるだなんて超能力なんだよね!

       っと、笑っていた  ・・・かれらは全く違った世界の概念で生きているのだ

       〝我々〟から見ると彼らは真っ暗闇の世界に生きている・・・

      ところが、 彼らは「光」を一度も見たことがないから・・・、 想像することさえ出来ない
        だから、 彼らは「闇」とは何か?見たことも・・・、 想像することさえ出来ないのだ

前記事の「無限光の発見」において、まず考えたのは

      「無:アインと、無限:アイン・ソフ〝だけ〟の世界とは、どんなだろうか?」である

       〝無〟の状態とは日常で言えば「夢を見ない睡眠」状態で、全身麻酔で
        手術を受けている時もその状態だそうだ

        そこには時空間の概念もないために、大概の人はその間の記憶も無い
         ただし、睡眠中も身体機能は活動中で非常に安らいでおり
         しかし、脳活動は意外にも通常よりも活発なのだそうだ



「意識がない」状態を、私たちは肉体が生きている間に「睡眠状態」として毎晩経験している・・・
しかし「意識がない」のに、なぜ?脳が活発に活動しているのだろう?

私たちは本当は意識が全くないのではなく、脳科学が「時空の概念を忘れている」意識状態を
「まったく意識がない状態」なのだと勘違いしているだけ ・・・なのかも知れない!? 

 OSHOは「リラックスとは実は極めて複雑な現象なのだ」と言っているが
「時空の概念さえ忘れて・・・」リラックスしている意識状態が、いわゆる「無意識状態」「昏睡状態」
で、〝それゆえに〟脳が活発に活動している  ・・・ということなのかも知れない!

・・・・つまり、「ぼーっとしている」状態や「昏睡状態」において、
実は、もっとも沢山の情報処理がなされ、もっとも高度な「チャネリング状態」なのではないか?

                        ・・・・つまり「究極的な〝無〟」との同調である

「究極的な〝無〟」とは、ゼロ次元である、
「ノーディメンション(無次元)」とは「ノーディフィニッション(無定義)」の状態・・・
              ・・・・つまり「時空の概念さえ忘れて・・・」いる状態の別表現だ

全ての因果律、全てのドラマ、ストーリーは、当然「時空間」がベースなので、
それのない意識状態が脳内で体験している事柄は極めて記憶に残りにくい

・・・そして被験者は言う「夢も・・・、何も見た記憶がありません・・・」それゆえ科学者は
       「意識自体が消失してしまっている・・・」  そう勘違いしては居ないだろうか?

     現代の科学者には、「証拠がないものは〝存在しない〟」と否定する非科学的な癖がある

---しかし、もし時空間の概念すらなくても意識が存在しえるとしたら、これは〝大事件〟だ!

つまり、それは
「意識は時空の概念を超えて在る、時空に依ることなく存在している」と言う意味であり、
そうであるならば、意識とは「時空間よりも普遍的な、巨大な存在」だという仮説が成り立つ

    (・・・・まあもっとも、〝巨大〟という概念自体が空間的発想なのだが)

しかし、私たちの三次元依存型の脳にとっては、それは「限界を超えている」それゆえに
私たちの「無次元に帰郷した」意識と、三次元思考との「つじつま合わせ~インターフェイス」、
あるいは「無次元世界からの情報の〝翻訳活動〟?」は、実に難しく・・・
私たちの意識は脳を究極のリラックス状態にしつつも、しかし脳は無次元意識の
〝制御下〟で、むしろ平常時よりも(限界値に近く)活発に活動している・・・とも憶測出来る

  ・・・そしてそれは三次元的日常からみれば、〝気絶〟〝卒倒〟している様に見える

(日常感覚においては最もベーシックな)三次元感覚と概念すらも、むしろ〝ブロック〟であり
それにすら頼らずに「ただひとりある」胎児のような状態こそがもっとも寛いだ状態・・・・?

つまり、
何かを信じ、何かにしがみついている以上は、脳は緊張し、意識はゼロ次元に帰郷出来ない

私は何も信じない――クリシュナムルティ対談集
J・クリシュナムルティ
コスモスライブラリー
2012-10-13


動画:クリシュナムルティ 「私は何も信じない」

バシャールが、
  「皆さんの脳が、ほとんど使われていないというのは間違いです」
   「ちゃんと限界まで活用されていますよ・・・」っといっているのは、
                このあたりの話ではないだろうか?



  ちょっとぶっ飛びすぎなので話を始めに戻そう

  「闇」はやはり「光」に依存した〝現象〟であり、それ自体の実体は無い・・・
                            これは私たちの日常感覚の通りである

   ところが、「光」の不在が「闇」なのだから、「光」が存在しない世界が「真っ暗」なのか?
                            これは私たちの日常感覚とは全く違う

    なぜなら私たちは「光の不在=闇、影」は体験し、目撃しているが
      生まれながらの盲目でない以上、「光」が存在しない世界を体験したことはないのだ
  だから「無限光=アイン・ソフ・アウル」がまだ生まれていない・・・・
              ・・・・「無、無限」の状態とは、「闇」すらも無いのだ

             ・・・・「おもて」という概念無しに「うら」という概念はあり得ない

ノーからイエスへ


そしてトータリティーとは「光と闇」「裏と表」といった概念があろうがなかろうが、関係なく〝そこ〟に
存在し続けるのであって、もとから二元性に依存していないがゆえに、二元性の否定ではないのだ

二元性と、とっくみあいをして苦しんでいるのは私たち五感に振り回され、五感に依存し・・・、
・・・五感の存在を当然だと思い込んでいる者達だけだ

  ・・・それゆえにその五感のどれかを失うと狼狽し、「不自由だなあ」「不幸だなあ」と感じる

   ・・・そして全ての肉体感覚を失う「死」を終局的不幸、究極的不自由の様に恐れる

   しかし、ひかりとやみ、うらとおもて、ぜんとあく、せいとし、よろこびとくるしみ・・・
    これらの概念にも、発想すらにもまだ染まっていない胎児にとっては恐怖も何も無い

2001年宇宙の旅1

      「私は無垢なる者が苦しむところを見たことが無い」
                というOSHOの言葉が肉迫して来るでは無いか?

ある、スピ系のマカバがどうとか言ってる女性が
「私の目的は子供達が苦しみの中で殺されたりしない世界の新規創造とアカシックの書き換えだ」
と息巻いていたが、それは彼女の(善意で有るとは言え)勝手な思い込み、大きなお世話だ

たぶん世界中の不幸を自分の中に投影し、これらをアカシックレベルまでリセットしたい
という意味なのだろう・・・

エヴァンゲリオンの終盤で「人類補完計画の全貌」を知ってしまった
葛城ミサトのセリフに、わたしは同意する  ・・・「そんなの余計なお世話だわ」

人々は、この 「自分自身の恐怖感の、他者への投影」ゆえに・・・

   ・・・五感が「有る」状態に依存しきっているが故に、「無い」を恐れ、
     〝光〟の前身となっている〝無〟そして〝無限〟をずっと理解出来ないでいた

     「未知」つまりは「未定義なるもの」を恐れ、条件反射的に拒絶し、敵視し、
      まずは攻撃するのが人間という生き物の、デフォ・・・ 基本的な性質になってしまった


      そう、何かワカランものをみたらまず拳銃をぶっ放す、どっかの国民が端的な例だ

      成るほど確かに・・・

        「未知」は〝危険〟かもしれない、
         でも、そうではないかも知れない
         そして、新たなる無限の可能性かも知れない

               ・・・それゆえ恐怖が基底の野蛮な惑星に宇宙時代が来るわけない
                                          それが真実だ

     そして闇を知り、未知への危険を知り、恐怖を充分知った上で
    それらを暴力で「破壊」するのではなく、「超越」したならば・・・?
  それが、「(思い込みがない)子供の様な純真さへの帰還」=信頼である

   「未知の危険への万全な身構え」・・・それが〝超越〟? 
  いやいや((-ω-。)(。-ω-))・・・、そんな〝万全〟なんて、一体いつ整う?


  「闇」とは「光」・・・イルミネーションから生まれた

そして「子供の純真さ」とは、あるときは輝く光に見えるし、あるときは残酷な闇のようにも見える

  それをある時は「ロスト・チャイルド」と人は呼ぶ

                  そして、   そのどちらでもない・・・、   どちらをも超えている・・・

                     それは定義の「無」にして、未知への「無限」のオープニングだ

          それ・・・、「子供の純真さ」とは、「光とは何か?」を知らない

            それゆえに、「ねえ、ひかりってなあに?」「ねえ?いのちってなあに?」と
                         大人達にあどけなく問い続ける「ひかりそのもの」だ

wiki「生命の樹」より

アインとアイン・ソフとアイン・ソフ・オウル [Ain Soph Aur]

  • アインは無と訳され、0で表される。
  • アイン・ソフは無限と訳され、00で表される。
  • アイン・ソフ・オウル (あるいは「アウル」) は無限光と訳され、000で表される。 
  • アインからアイン・ソフが生じ、アイン・ソフからアイン・ソフ・オウルが生じた。

「無」とは「不在」なのではなく「定義からの自由状態」だと分かると
おのずと「無限」もわかる・・・

小さな素粒子一つに至るまで「これはナニナニである」と定義で縛ることがなければ
そのものはおのれの本性に従って「無限」の可能性を爆発させる

つまり「アイン=無」とは万物の「自由な本性」のことであり
「アイン・ソフ=無限」とはその「自由な本性」があらゆる可能性を爆発させることだ

この謎解きが出来た時、わたしは驚喜した・・・
「素晴らしいじゃないか?まさしく悟りの世界じゃないか?」
ところが、もうひとつ、アイン・ソフ・オウル=無限光が残っている・・・なんじゃこれ?

「無」と「無限」があれば、それだけで充分すべてのすべてがスッポリ網羅出来るように思えた
なのに・・・  「もうひとつ段階がある?」

この謎解きにもずいぶん頭をひねっていた

・・・しかしその脇から、何気にヒントは飛び込んでいたのだ

なんでもあり、何でも可能なはずの「無限世界(霊界)」においてひとつだけ「ないもの」があった!
「何でも可能、何でも有り得る」世界で、たったひとつ「ないもの」・・・・

       さああて~何でしょう?

    じゃじゃぁ~~ん!答えは・・・・  「壁」です!

                     「不可能、あり得ない」    である

  実はこれが「アイン・ソフ・オウル=無限光」の正体を打ち抜く、ニアピン賞であった!

ただしこの謎解きにはひとつの「洗脳」からの脱出が必要だった・・・

スピリチュアル系の連中が「ひかり」と聞くと脊髄反射的に「肯定的なイメージ」しか浮かべない
わたしも知らない内に、この「アタマお花畑」な「天使だ、愛だ」のきれい事世界に〝毒されて〟いた

この突破口は二つあった

ひとつは気学の基礎知識で、
「九紫火星の〝明〟」・・・明るい世界とは、必ずしも肯定的な面だけじゃなく、
「分離、表面的知識」の象意があり、いわば顕在意識、マインドの世界、言語や記号の象徴だ

そしてもうひとつ・・・、
’70に反戦運動から端を発したフラワーチルドレン、ニューエイジ・ムーブメント・・・
アタマお花畑のスピリチュアリズム、オカルティズム、サイケデリックな狂気の世界は
フリーメイソン、イルミナティーが、NWO(ニューワールド・オーダー)世界征服計画の一環で
広めたと言うことだ

つまりここにワンネスが、この制限世界を求めた理由がある

「ひかり」とは、一見すべてを白日のもとに明らかにする、すべてを顕在化する

ところが実は、それこそが「制限」の正体、「真実」の隠匿であった
              つまり、真理の鍵とはシャンデリアのまばゆい光の中に隠されたのだ!

000

全てが明晰で、明確な中、いったい誰が隠し事があると疑うだろうか?
今現代はデジタル時代で、映像も明瞭な高解像度HDのデジタル記録がされている

ところが、そのことが逆に映像の証拠能力を失わせている

今私たちは、どんな明瞭なUFO映像を見せられても、「ほう、凄いな、作るの大変だっただろう」と
思い込んで、まず驚かない  ・・・あまりにも映像加工技術が進歩してしまったからだ

力道山のプロレスをモノクロのブラウン管テレビで国民が食い入るように見入っていた時代に
こういった映像を見せたら、明らかにパニックを起こすであろう映像が、いまは子供でも
パソコンで作れる

明瞭、明晰、明快、高解像度の進歩をすればする程、私たちは何も信じられなくなっているのだ
何とマカ不思議な、何とケッタイなことだろうか!?

これがアイン・ソフ・オウル=無限光の世界観だ

物理的な光とは、表面しか照らさない  ・・・私たちに「わかったつもり」という錯覚を与える
つまりそれが私たち自身が、「ひかり」であることを忘却させてしまうのだ  ・・・それが「無明」

            「わかったつもり」こそが「無明」なのだ

このトリックが理解出来ると、あらゆる謎が解けくる!

     魂がなぜ修行のために、この不自由だらけ、分離だらけの寂しい世界、
      わざわざこんな、「タンスに足の小指をぶっつけると痛ってえええ!」世界に来るのか?

                            ・・・その理由がここにある

「見かけに騙されるな!本質を見抜け!」というのが修行というものの根幹だ

そもそも「イルミナティー:啓明結社」とは何か?何をしようとしているのか?
何故かれらは世界を破壊し、支配しようとしているのか?

  それは・・・「ワンネスの命令により」、なのだ、
                 それゆえ彼らの闇の支配は可能だった!!!

そもそも「アン・マニフェスト」とは非顕現世界という意味だ
「無、そして無限・・・・により、「あいまい」なる未定義な万物は
自由自在に「ウルトラQ」のオープニングのようにマーブル状にうねり・・・・


「ウルトラQ」 オープニングテーマ曲 投稿者 napoleonsolo0011

  でもそれじゃ「なんのこっちゃよく判らん・・・」

    ワンネスは自分自身を映す明瞭な鏡が欲しかったのだ・・・!

000

          だからハッキリ、くっきりと、「自と他」、「あれ、と、これ」が分かれた・・・
            実に細分化された世界の詳細な
              数々の法則と定義が支配する三次元空間、制限世界を求めた・・・

これはそのまま、

アイン = 無           ・・・・「夢を見ない睡眠≒ノン・レム睡眠」
アイン・ソフ=無限       ・・・・「夢を見ている睡眠≒レム睡眠」
アイン・ソフ・アウル=無限光 ・・・・「目覚めている日常意識」

                      っと、対応していたわけだ

バシャールは私たちの「夢見ている状態」と「覚醒状態」との自覚は
エササニ人から見ると「真逆に見える」といっているが、これは実に大きなヒント
私たちが「覚醒状態」だと思っている「日常生活」こそが最も深い迷いと眠りの蒙昧世界なのだ

わたしたちは「明晰な世界」こそが「ただしい」「これこそがリアル」と思い込んでいる
でもそれはバシャールの世界観から見れば、まさしく「迷い」「眠り」なのだ

宇宙のホントウの実相というのは、そんなにクッキリ、ハッキリ、キッパリと・・・・
           「わたし」と「あなた」と「みんな」との間には境界線がないのだ

      でもわたしたちは「一目瞭然!」であることに見事にダマされてしまう(笑)

だから
「クッキリ、ハッキリ、キッパリ」という4KテレビのCMキャッチフレーズの似合う世界を疑うべきだ・・・
あたかもすべてが「明快だ、ボクチャンわかっちゃってるもん」という勘違いこそが、実は
最大の蒙昧だということ・・・ わたしたちはいま肉眼で、巨大なフェイク、明晰夢を見ている

    ・・・・・ワンネスは何と言う壮大なRPG迷宮ゲームを完成させてしまったのだろうか?

しかし、ワンネスの「意地悪の動機、理由」がわたしたちの前に開示されてしまった今
すべてが「冗談だった」と分かる・・・  そうだ!、もうすぐこの迷宮ゲームは終わろうとしているのだ

何かのトラウマティックなドラマに飲まれたらアウト
何かの美しい爽やかなムードに溺れたらアウト
何かの明晰な理論に心酔しきったらアウト
過去のストーリーや業績や体験でアイデンティティーを形成してそこにあぐらをかいたらアウト


「グルジェフはあなたの涙には興味は無い、あなたの覚醒にだけ興味がある」
OSHO 「神聖なるグルジェフ・ダンス」より

「あっち向いて、ほぃ!」

   何かを信じ込んだら、負け!・・・それがこの覚醒RPGゲームの最も基本的なルール(爆)

「 (究極的には) あなたの沈黙以外、私の同意は得られない」

OSHO

コルコヴァード(静かな夜)オリジナル和訳歌詞 from Katal Maneel on Vimeo.


「絶対死ぬのにどうしておしごと頑張るの?」自由すぎて辛い子ども達の発言14選



同じ質問をサティアンに閉じこもったオウム信者の青年達は、・・・問い返して叫んだそうだ
警察官達の横でPAをつかって「たかし~帰っておいで」と泣き叫ぶ親に向かって・・・、

こういった質問にスンナリ答えられない親とは、
たぶんこう言う問いかけをどこかに捨ててきたのだろう

   そしてそれが「生きる」ということ・・・、
   ・・・「問いかけるのを諦めるのがオトナになると言うこと」だと納得したのだろう

    もし、言わせて貰えるなら、こういう大人達が子供を産むのは犯罪だと思う
        子供に生きることの素晴らしさを教えられない人間が
        なぜ子供を産むのだ?・・・それは犯罪だ

        「牢屋にぶち込め」とまでは言わないが、
        少なくとも彼らには不妊手術をするべきだ
        少なくとも野良猫の不妊手術よりも優先して・・・!

    オウム事件の時から、マス的な状況はたぶん日本人は変わっていない

 少なくとも「問いかけることを捨ててきたオトナの方が、依然、大多数・・・」という状況は
 変わっていないのだ・・・  未だ日本人の大多数は、こんなものだ

   だから今、安倍晋三が総理大臣なのだ

「生きるとは何か?」を子供に解答出来ない様な大人達だらけの国に・・・、
「お国のために犠牲になれ、戦争が嫌だというのは利己主義だ」と言う様な議員がいて、
                             いったい何の不思議があるだろうか?

果たしてデモ行進やら野党の結束が「今やるべき事」なのか?

  「いつか死ぬこと」よりも「いまここに生きていること」のほうが重要であることを
    スンナリ答えられない大人達が、いったい何を「食い止められる」というのか?

人生の瞬間瞬間には途方もない、宇宙大の価値がある

しかしたとえ「そのものの価値」がよく判っていても、だからといって守り切れるとは限らない
  ・・・であれば、その価値が分からないものに、一体いつまで、その価値が守れるだろうか?

       「生きることの価値」が分からない人に、「生き残る価値は・・・」あるのだろうか!?

人生の瞬間瞬間に宇宙大の価値と、宇宙大の感謝を捧げ、味わうことが、
                               瞑想だとも言えるだろう

        そして実際に宇宙意思が何としても生き延びて欲しいと望むのは、
         最終的にはそういう「生命の価値を自覚している生命体」だけだと思うのだが?


60.Laughter   笑い

私たちは
「覚者とおぼしき人達は、一般の人と全く違った光景を見ている」と想像していないだろうか?

  ある意味ではたぶん確かに「そのとおり」だろうと思う
  でもそれは「我々と物理的に全く違うものを見ている」のでは無いと思う

「見ているもの」は同じでも「見る姿勢」が、たぶんまるで違うのだ

よく「覚醒した人は夢を見ない」と聞く・・・  しかし、それは何故かと言えば、
覚者にとって「全ては夢」だという認識が有るからじゃ無いだろうか?

瞑想などを試みている人なら、皆体験しているだろうが
「気付き、注意深さの中に居よう・・・」とする「努力しない努力」を試みて
誰にでもすぐに分かること・・・それは、「オーゴッド!お手上げです」ということだ


たった一分間でいいよ・・・
 60秒だけでも自己留意に連続して留まれるなら、
       わたしはあなたをブッダにしてあげられる

 OSHO

「努力しない努力」を試みると分かる・・・  私たちが如何に散漫なのか?
マインドは一瞬たりともジッとはしていない・・・

「物事を〝変えよう〟とする前に大事なのは、まず〝知る〟ことだ・・・」

OSHO
私たちのマインドは、
じっくり〝知ろう〟とする前に、何故か?ジタバタと〝変えよう〟とかけずり回っている・・・

・・・つまり覚者とは、「完全に立ち留まったひと」のことだ
わたしたちは常にフラフラと千鳥足で歩いている・・・アッチにぶつかり、こっちによろめく・・・
そして奥底に揺らめく恐怖で常にチワワのように、ぶるぶる震えている

それは「夢を見ているから」だ・・・
しかし、では「覚者」とは、「夢から覚めた」と言うことなのか?

 ・・・もしそうならば

 ・・・・「夢から覚めた」ならば、それは私たちのかつて見たことの無い別世界なのか?

ある意味では「そのとおり」なのだろうけれど、私たちはとんでもない誤解をしているのかも知れない

かつての記事にも書いたけれど・・・
十二因縁の「カルマの出発点」とは「無明」だというが、「無明とは無知」のことなのか?
それはどう考えても違うと思う・・・

逆を言えば、ブッダとは「全知全能なのか?」ということになるが、
それはキリスト教的な創造神のイメージで、五井野正も結局のところその概念に取り憑かれていた

わたしは悟っています
しかし軽々しく悟りが得られると思わないで欲しい
悟りとは、無限に長い、気の遠くなるような時間を掛けてやっと得られるものなのですから

五井野正:著
法華経三部経大系総論、冒頭より
悟りに、無限に長い、気の遠くなるような時間を掛けてやっと得られるものだというのは本当です

でも、私は言いましょう、皆さんはすぐにでも悟れるかも知れません
なぜなら皆さんはすでに、無限とも思われる長い時を修行してきたからです

シュリ・バガヴァン

「無明とは『無知の知(不可知)』に対する無自覚ではないか?」  ・・・そう私は思う

だから、「結局は何も知り得ない」という結論に達するのには、
とてつもなく、気が遠くなる程の探求の時間が必要なのも、当然だと言える・・・

「外側には本質的なことは何もない」という希な結論に達したものだけが、
真に内面の探求に向かうことが出来る・・・

OSHO

  ・・・つまりこの自覚が徹底した時、

  ・・・つまり「オーゴッド!お手上げです」という自覚が全身を刺し貫いた時、
          もう瞬時にエンライトメント出来る可能性が、有り得ると思う・・・

・・・何を言いたいのかというと
   これは我ながら結構大胆な仮説だと思いますが・・・
   「気付き続けて、何かがスゲー事が起きる???」というワクテカそのものが
   「方便なのかも知れない」っという可能性だ・・・

    つまりもっと突っ込んで言ってしまえば、
    「周囲のすべてに対してずっと気付き続けるというのは『無理ゲー』である」
という気付きだ


  ・・・このことを別の表現のしかたをすれば
    「既知と思っていたことの丸ごとすべてが、実は夢だった」という自覚だ
    ・・・そして、圧倒され、ガチガチで腐った過去から来る世界観はすべて崩壊し、
      わたしたちは「ただ立ちすくんで、押し黙る」以外、なすすべを失う  ・・・それが〝覚醒〟

                つまりそれは「別の世界がある」という意味ではない

        「お手上げ=ギブ・アップ」とは、「知りませんでした」という反省ではない
         「知り得ないのだ!」という驚きであり、「無明」の自覚であり、探求の終わりだ
          「知るべき事など何も無い」という知ったかぶり、傲慢じゃない
           「もう知り尽くした」という神様トリップでも超人的な特権でもゴールでもない

        「努力しない努力」とは
         「地球上の地平線の果てを探して直進しても切りが無い」
          と言うことに気が付くこと、・・・それが「ギブアップ」であり

         「地平線の彼方」とは、実は「たったいま立っているここの事だった・・・」という
         ジョークに気が付くことだ

                「いままでの苦闘とはいったい何だったのか?」

    気の遠くなるような魂の転生の宇宙的な歴史で、憧れの目的地は常に足元にあった
    そしてそれを見えなくさせていた原因は「地平線の果て」探しをしている自分自身だった!

          瞬間瞬間、最大限の気遣いと愛情を込めて気付いている状態・・・・
              「マルの中のチェックマーク」
no title

          ・・・その状態自体が「わたし」であり、それ以外はすべて「知り得ない」

               ・・・そこで人は「無明」から爆笑の光の中へと飛び込んでいく
マーヤ(幻想)だったのはこの世界ではなく、あなたという自意識なのだ

OSHO

    「すべてのすべてが夢」であるという意味は
    「現実など何も無い」と言うことではない
    「現実と夢とは、そもそも分離出来ない」という方がより正確な真相だろう

    そして
    「すべてのすべてが夢」であるという意味は
    「観察者という分離した自意識そのものが夢であった」という自覚と直結する

    なぜならば、アイデンティティー=自意識とは
     周囲との関係性によって〝確証されている〟過去の集積だからだ

    もしあなたが生まれながらにして、五感の全てを持っていない
    「呼吸するだけ」の芋虫のような存在だったなら、どうやって自意識を持てただろう?

    そもそも五感無しで「他者」の存在を認識出来ただろうか?

    私たちはそれをイメージすると「無間地獄」なのだが
    胎児とは実際それに近い状態で羊水の中に浮かんでいるが実際は天国の住民だ

    この肉体の五感に根ざした自意識もまた、世界の森羅万象と不可分な
   〝夢(マーヤー)の一部〟に過ぎないならば
    どうして自分から客体視して世界を指さし、「これらは夢だ」なんて言えるだろうか?
    どうしてそれらの夢の中であなたの意思や思考や感情だけを例外に出来るだろう?

      「自意識を筆頭にすべてが夢だ」「現実と呼んでいるものさえ、すべて夢だ」
                           という自覚こそが「覚醒」ではないか?

     斯くして覚者は、完全に立ち止まる、完全に押し黙る
     彼は「世界との押しくらまんじゅうごっこ」をやめる

     でもそれは「全知全能者」へと変身したからではない・・・

     ・・・ただただ、「何一つ知り得ない」し、また「知る必要が無い」と「知った」だけだ

「根源的な疑問に対する、回答など無い・・・」それが釈迦の悟りでした

シュリ・バガヴァン
「神の究極的な目的はあるか?」だって?
そんなものあるわけはない

だって、なにかそれらしき答えが出てきたら、
「じゃあその目的は何?」と質問をすぐさま付け足せるからね(笑)

OSHO

          だから、釈迦はもう歩き続けるのを止めただけなのだ
                激しく苦行して問い続けることをやめた・・・・

           それはおのれの「無知の知」に完全に寛いだから・・・

私たちはブッダと聞くと
「私たち凡人とは全く隔絶した超人」というイメージに取り憑かれていないだろうか?

しかし、
グラマーな美女をみて、ブッダが「あなたはわたしが作り上げた夢に過ぎない」と言いつつ
その美女のおっぱいを鷲掴みにしたなら、たぶんそのブッダはグーで殴られるだろう


OSHO_ I Am a Spiritual Playboy 投稿者 maneel-katal

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