We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年02月

よく、「人生で見るもの、聞くこと、体験することは自分自身の内面の鏡だ」という

・・・これは、シンクロニスティーという形で時々垣間見ることも多いし
  自分自身が感情的に反応したことをよくよく洞察してみると
  「そいつが悪いんだ!」という善悪、責任の所在、正義やら道理やらが重要なのではなく、
  自分自身の投影が、様々な状況にエモーショナルに反応していることが重要なのだと気付く

それゆえに「唯ひとつの革命」とは自分が見ている三次元(ホログラム)映画の投影結果を
修正しようとすることではなく、様々な身勝手な投影をしている自分自身の正体を見抜け!
・・・っということになる

つまり、
そこから先は「識別心を脇に置いて」ひたすら自分の内外に起きていることを静かに見守り続ける
ということが唯一のワークとなる

するとあまりにも多くのことが「機械的な反応」であると見えてくる

これはパラドックスの典型だ・・・

・・・自分自身が全くの無意識(慣性、機械的反応)に埋没していると、当然、
  他人もまた過去の条件付けやら個別の体験、ストーリーで培われた人格を、
  「その人自身なのだ」だと思い込むだろう

   ・・・その集積された過去の違い、機械的個別性には分離があり、確執がおこる

     ところがだんだん、これらの「自他の違いと衝突、勝敗」には要点がないのだと分かる

  誰もが自分なりの「ド演歌」「浪花節ぶし、カツオブシ」を持っている
  これらの確執やら、相互理解やら内容そのものが重要なのではなく
  それらの内容、ストーリーに対する「思い入れ」「肩入れ」にこそ重大な錯覚がある

  「ひとりになる」「ALONEであることを受け入れる」とは
      片意地を張って何かの信念に凝り固まって他者との妥協を拒むことではない

     もちろん、
     他人を拒絶してしまった方がインスタントな孤立なら得られる・・・・
     でもそれは物理的な孤立に過ぎず、本当のALONEではない

      本当のALONEは信念に凝り固まった
      「名誉ある孤立」でも「自尊心に溢れた孤高」でもない ・・・似て全く非なるもの

     そもそも〝妥協〟という発想自体が背景に信念体系があることを暗示している
     〝妥協〟「するか?」「しないか?」という選択の時点で、もうすでにALONEではないのだ

     何の信念も、何の基準も価値観も識別もなければ、そこに〝妥協〟の問題は起きない

     全ての信念体系は過去にもたらされた〝身構え〟からくる
     あらかじめ想定された事態に対する、あらかじめ用意された回答だ

     こういった〝信念〟とか〝意見〟同士が空中戦を繰り広げるのが〝議論〟だ
     どちらが勝っても負けても、「過去に仕込まれたプログラム同士」の勝敗に過ぎない

他人が自分の鏡なら、自分も叉、他人の鏡、世界の鏡なのだ

議論とはロボット同士の、プログラムされた者同士の闘いで、
自分自身(肉体、思考、感情)の〝反応〟もまだまだ〝機械的反応〟に過ぎない
どちらか片方が〝いまここ〟に生きている存在ならば、そんなロボット・バトルには加わらないだろう

そこに距離があればあるほど・・・  つまり醒めてみていればいるほど・・・
自分の〝内側〟と思い込んでいたこととは、実は〝外側〟・・・ドラマの一部に過ぎないと分かる
何に対して〝賛成〟か?〝反対〟か? どんな世界観に〝同意〟か?〝同意出来ない〟か?

   ・・・・そんな議論に、のめり込んでいる時点で、あなたはすでに「瓶の中のガチョウ」なのだ
   自分と他人との合わせ鏡の相互投影の中で、エンドレスに続く投影合戦をやり合うことになる

  すべてが、反射の、反射の。反射・・・・・・
  すべてが、コピーの、コピーの、コピーだった・・・
   だとしたら「わたし自身(オリジナリティー)」なんて一体どこにある?

                ・・・・この「投影合戦の勝敗」には大した意味は無い

   にもかかわらず、だれもが、あなたに聖戦への参加を呼びかける、あなたに同意を求める
   ・・・それらすべてが「瓶の中のガチョウたち」のストーリーなのだ

それらに「参加してはいけない」と言ってるわけではない、
ただ誰もが自室で悪夢にうなされてクロールを泳いでいるのだと判れば良い

それらの「堂々巡りのエレクトリック・パレード」の、どのあたりに身を置いているにしても
そこで、醒めて立ち止まってみる時・・・そこに本当の「孤高=ALONE」がある、と言いたいのだ

自分の肉体がおなかが空いた、そして何かが食べたくなった・・・だったら食べればいい
でも「食欲から解放されること」は、すなわち「不食とか断食」であるように見えるかもしれない

・・・もちろん「その方が体調が良い」人ならそれで良いとは思うが
  「不食とか断食」がすなわち「食の超越」と考えるのは短絡的なことだ

それはあたかもヒキコモリになって、「自分は対人恐怖症を克服した」と思い込むようなものだ
頭だけを地面に突っ込んで隠れたつもりになったダチョウのようなものだ
「食べない」ことが「食を超越する」ことではない、むしろ囚われてしまう可能性がある

  「その方が体調が良い」のではなく、ある種の信念体系として「頑張っている人」というのは
  別に「食から自由になった」というわけではない

  「頑張っている人」というのは、かならず強迫観念に取り憑かれるだろう・・・

  そしてそういうひとは「頑張っていない人」を非難したり見下しはじめる
  ・・・そんなひとを「超越した人」と呼べるだろうか?
     つまりこんな人が「自らの投影に縛られた人」なのだ

   「超越する」ことを「超人になる」ことと、多くの人は錯覚している
   そういう錯覚に基づけば悟った人というのがスーパーヒーローだと思い込むのも当然だろう

 本当に〝超越〟した真の超人とは、みな「あたりまえ」の、「強迫観念が何も無い」天国の住民だ
 だから、世界に対して自分自身の〝物理的な超人指向〟という強迫観念に基づいた投影を
 一切しない

    「投影を一切しない」 「自分自身からの自由」 それが最も偉大な奇跡なのだ

日本語的には、一切の役に立たないことを「おシャカになる」というが、
釈迦とは、まさしく役立たずだ・・・  こと「社会の改善」「正義の闘い」に関しては・・・

しかしそのことが、実は最大の社会貢献である、個人が背負える最大の責任だ

誰もが民主主義という大義、参政権という極微な人数割りの権利の元で、
「右だ、左だ」と文字通り右往左往している

しかし「頭数割の均等な権利」とは欺瞞以外の何ものでも無い・・・
「あなたも決定者の一員ですよ」という代表者の選択の責任者であり、強制参加者であること
意味しているに過ぎない

本当の決定は常に個人だ・・・  しかし、それはあまりにも致命的だ
いつも責任を誰かになすりつけたい、分散させたい・・・
そしてしくじったらうやむやにして、そこから逃げ出したい、その邪悪な意図が現在の選挙制度だ
 
何万人分もの生命を左右する程の国家予算をちょろまかせても縛り首になる事はまずあり得ない
だから政治の世界は美味しい

「役立たずのおシャカ様」の最大の社会貢献とは、「静寂と洞察の発生器だ」という点でなのだ・・・
彼の存在全体から〝無(いまここ)〟の波動が発生している

彼は肉体は存在していても、アイデンティティーは〝無〟に属している
それがこの三次元世界に巨大な役割・・・・『吾は〝無〟なり』という覚醒の波動を発している

「見抜くこと」  ・・・これが、人間に生まれた知性が為し得る最大の社会貢献、世界貢献なのだ

ディヤン ムディトさんの写真

ディヤン ムディト  JOY
14時間前 ·

<OSHO初期書簡集より> 4     (1962年)
拝啓
愛情のこもった便りを、ありがとう。
あなたは、瞑想をしていると言う。
それは、喜ばしいことだ。
瞑想で、何かを達成しよう、という観念は、
いっさい捨てなさい。
ただ、自然に、瞑想するがいい。
起こることは、自然に起こる。
ある日、骨折らずとも、
あらゆることが、ひとりでに、起こり始める。
努力というものは、瞑想には、繋がらない。
実際には、それは邪魔物だ。
努力、訓練、勉学、というようなものは、
その中に、緊張がある。
どんな期待でも、
たとえ、安らぎへの、期待であっても、
落ち着きのない状態を、もたらす。
その緊張が、なくならなければならない。
緊張が、なくなるや否や、
聖なる安らぎが、訪れる。
「自分が、やっている」
という感覚を持つのを、やめなさい。
その代わりに、
「在る、そのものの手に、自分をゆだねる」
ということを、了解するがいい。
明け渡すのだ。
自分を完全に、明け渡し切ってごらん。
これをするが早いか、「空」(くう)が訪れる。
「呼吸も体も、リラックスして来ている」
と、あなたは言う。
これが、マインドについても、起こるだろう。
マインドが去った時、
何が起こるかは、筆舌に尽くしがたい。
私は、あなた方、両人に、
これが、起こるであろうことを、知っている。
ただ自然に、目的意識を持たずに、続けなさい。
まもなく、私も、そちらに行く。
それまで、私が今、言ったことを、
静かに、続けてごらん。
みなさんに、よろしく。
書きたくなったら、いつでも、手紙を書きなさい。
私は、完全な、至福の内にある。

OSHO:「ア・カップ・オブ・ティー」(めるくまーる社)より

あるところに一匹の鶏が座っていた・・・ブッダのように

そこに人間が来る気配がして、鶏は急いで逃げ出した
暫くして帰って来てみると、そこには彼の大好物のえさが置いてあった

次の日も全く同じ事が起きた

そして次の日も、その叉次の日も・・・・

それごとに彼は人間を警戒して、逃げ去ったが、その後には必ず彼の大好物が残されていた

こんなことが999日間続いた

そして千日目の日、彼はいい加減自分の警戒心がバカバカしくなった

  「毎日大好物を運んでくれる親切なあの人に対して、
              私はあまりにも非礼ではないか?」

そこで彼は、千日目にやってきたその人間にお礼を言いに姿を現したのだ・・・

・・・そのあとそのニワトリがどうなったかは分かるね?

           彼はその人間の夜の食卓に上がったのさ・・・

OSHO(記憶を辿って記述)

これは忘れ得ないとても単純なたとえ話だった・・・
 「確率論的な確信が、いかにアテにならないか?」という比喩だ

「ブッダのように座るニワトリ君」の運命ははじめから決定していた
その〝親切な人間〟とは、はじめからニワトリの警戒心を解こうと、せっせとエサを運んでいたのだ
それが99日目であろうが9日目であろうが、本当は状況は全く同じだった

・・・彼が警戒心を解いてノコノコ姿を現した時、彼は晩餐にされていただろう

このたとえ話の場合、相手は「はじめからニワトリを狙っていた腹を空かせた人間」だった
では相手がそういう「邪悪な意図がない自然物」ならば?

・・・それでも、本当は話は変わらない

諸行は無常なのだ・・・  この世界の森羅万象に「絶対的な保証」は一切求められない
私たちはいわゆる「科学的な統計、確率論」に基づいて生きている・・・  それはやむを得ない

千年間、崩れることがなかった山道が、今日は土砂崩れを起こしあなたの命を奪うかも知れない
・・・その確率は極めて小さいかも知れないが、それでも「起こるべき時には起こる」だろう

  戦後70年間平和だから、きっと明日も平和だろう・・・  そういう〝目論見〟で明日の予定を
決定するのは当然だ・・・  ただし、「醒めていろ!」という条件付きだ

     「いつも油断なく醒めていなさい!」

   これが覚者達の基本的なメッセージだ  ・・・「そうでないとあなたは晩飯にされるぞ!」

OSHOにせよ、クリシュナムルティーにせよ、「私は何も信じない」と宣言しているが
それは一切の信頼関係を誰とも何とも結ばないと言う意味ではない

 ・・・ただ、「信頼」とは無条件な尊重だ、誰にも、何にも、「諸法無我」の悟性が宿っている

  ・・・銀行が審査をして融資するかどうか?  そこには多くの「信用のための条件」がある

地震が多い我が国では、昔から「無常観」は常に人々の根底にはある・・・それゆえ「諦観」も強い
敗戦も、関東大震災も、阪神淡路大震災も3・11も、黙々と耐えてきた日本人のメンタルはそこだ

・・・しかしそれだけ、「すがるもの」を求める弱さ、甘さも強烈だ・・・  「死」をも恐れぬ程の絆を
  狂おしい程、必要としている  ・・・その対象、心のよりどころが「天皇陛下」であったが故に
  昔からの無常観を変わらず保ちつつも、その為の「心の支え、拠り所」が無い日本人の
  日々を生きる「漠然とした不安(芥川龍之介)」が如何に根深いものか?

「天皇陛下バンザイ」という神風特攻隊が終わった後、戦後の物資の欠乏した日本人は
最も宗教的な〝耐性〟が強い民族になったかのように見えつつ、モノが豊かになった後の
現在は、たぶん世界一「漠然とした不安」に蝕まれた精神の民族になってしまった・・・

・・・こんな状況で神風精神とやらをまた担ぎ出すカルトが政権を乗っ取っていても
  何が不思議だろうか?

2016年02月28日
カルト化した首相官邸<本澤二郎の「日本の風景」(2278)

      <神道の広告塔になった首相夫人>

      <先進国首脳夫人を伊勢神宮参拝?>

OSHOやクリシュナムルティーの「何も信じない」という不可知論が、
今もっとも分からなくなってしまった・・・  つまり何かにすがりたくて、安心の中にまどろみたい・・・
それが今の私たち日本人の 「隙だらけの・・・、空き巣天国の・・・」  メンタルじゃないだろうか?

いま、私たち日本人は、「晩飯の食材に」されようとしている

「探求」は好きなだけ、無限に、永遠に可能だ・・・
・・・・なぜならば「探求」「冒険」ということ自体が球体上の表面の旅だからだ

その代表的なのが私たちの住む地球の「地平線の旅」「水平線の航海」だが
じゃあ、「地球の重力を振り切って宇宙に飛び出せば三次元の(垂直の)旅になるじゃないか?」と
いう声も出るだろう・・・

 確かにもし「宇宙の旅」が一般的に可能に成っている頃には、もうすでに私がこれから書くことは
 「古くさい常識」になっていることだろう・・・しかし、この「もし」は今の段階では大いなる疑問なので
 やはり書き残しておきたい


私たちの意識の次元が
一段上昇したのちの(いわゆるアセンション)世界から見るならば
今の私たちが「三次元」と思っている広がりの世界も、実際は・・・・

    「事象の表面上をなぞっているだけ」   ・・・だったということになる

   つまり、「表面に光を当てて物体を観察する」ことで
   その観察対象の中身や本質を理解しようとするトンチンカンな探求だ

対象に対して観察者(オブザーバー)自身とは切り離された〝客体(オブジェクト)〟として
観察対象を見なす〝冷たい〟探求方法は、なにも量子力学の世界をわざわざ引用しなくても
私たちは日常でも痛感しているはずだ

  女性達はいつも男性の性的な好奇の目が自分の身体をなめ回すように見る視線を感じている

  男性だって、他人の視線を感じで、自分の振る舞いを変えることなど幾らでも有るはずだ

                 まったく純粋に客観的な観察など本当はこの世にはない、不可能だ

それゆえに私たちは事実として三次元世界で生活してはいるが、表面的にしか生きていない
その意味では比喩的表現ではあるが「二次元的」意識でしか生きてはいない

だから「次元上昇」というと「次元数、あげりゃいいんでしょ?」ってことで数学をもてあそび
日常感覚とはどんどん遊離して「四次元、五次元はあたりまえ~!」っとなる・・・

   ・・・ビックカメラかよ?

実際には、意識の垂直的な上昇とは、「枝葉と根」の様に「上昇と下降」との両方が含まれる・・・
「物理的な次元の表面的観察」ってのは「生命の樹」でいえば、まだまだ「マルクト」の範疇を出ない

    しかし、この「マルクト」・・・グラウンディングこそがアルファでありオメガでもある

つまり「どこかに行って何かを獲得する」という乞食根性そのものこそが、「水平的思考」であり
つまりはこれは別名「分離感による世界観」だ

        「自分は欠落者、部分的存在だ、だから何かを補い、何かになりたい」



「全ては夢である」という自覚、つまりそれは、「無自覚の自覚」と言い換えられる
「自分は如何に醒めていない(明晰さの中にいない)か・・・?」
それは、実際に「目覚めていよう」と死に物狂いで努力すればするほど分かる・・・

 ・・・この努力をテキトーに投げてしまったのでは、その「不覚醒に対する覚醒」は痛烈ではない

  ・・・そしてこの痛烈さは、まず〝嘆き〟で自らを打ちのめす、

     そしてこれは、見た感じ、折角の自己受容への内面の道に強いブレーキを掛ける
      それゆえに「自己保身」と「自己受容」とを混同している人はこの時点で逃げる

 しかし、
 「これら全てに対して自分には全面的な責任がある」という勇気を振り絞って踏みとどまると
       その「全面性」の受け入れ自体が奇跡を起こす

    ・・・・つまりそれこそが
        「いまここの自分自身こそがもっとも全面的な責任をとった状態」だ・・・・
        「中心へ放り出された状態」だ・・・

             ここに真の自己受容がある

「自分は何も分かっていなかった、わたしという意識はあまりにも散漫で部分しか見えていない」
それらの〝嘆き〟は徹底すると「自己批評」なのではなく、逆に「自由」をもたらしてくれる

「どこにいくべき、何をするべきだというのだ?誰のため?何のため?どんな風にならねば?」
それらすべての自分自身への注文、追求はナンセンスだと判り、爆笑してしまうだろう
                ・・・・〝嘆き〟は限界に達すると爆発してしまうのだ

「自己批評」している間は、まだ自分自身にそれが「可能だ」という思い上がりがあるからだ

  それこそが「牢獄だ・・・  心を縛る」



   「私は何も知らない」ということが自由であることの中心だ

      そして中心とは「点」だ、そして「点」とはゼロ次元だ

「グラウンディング 丹田」検索結果

植物の根っこは地中に生えている・・・・
そして、人間の根っこは消化器であり、
特にその中でも小腸大腸が水分、養分を吸い上げる要だ
場所的にはそこに相当するのが下腹で、その中核が丹田だ

グラウンディングとは、つまり地球のマグマと私たち一人一人の丹田とのシンクロ(きずな)を
思い出すことだ・・・  それは決して一度も切れたことはない・・・なぜならそれは重力だからだ

腸内造血論が正しければ、
ここで即、分解吸収された養分は人体に適合した
原子転換が成されて幹細胞が生成されているということになる
腸は最も原始的な細胞、分化能力も可逆性も強いと考えられます。
その腸で赤血球ができる(一次造血)とすると、分化能力・可逆性に
富んだあらゆる細胞になり得る素材ができるのは当然といえます。

有機自然農法の基礎知識(腸造血説)より
OSHOは「丹田を意識せよ」というけれど
わたしはどうもこの「意識せよ」というのが苦手だ(珍しくOSHOに異論)

これは「あらゆる事に気付き続けなさい」というバガヴァンの言葉が
実は一種の「逆効果の法則」を狙っており、パラドックス的方便なのではないか?と
先日書いた記事ともリンクしてくるだろう

ものごとは「意識すればするほど」不自然になっていく・・・、なぜなら意識すると言うこと自体が
フォーカス、つまり集中であり、〝力み〟だからだ・・・

そこで「オーゴッド!お手上げです」となった時に一気に脱力する・・・
・・・その最終結果こそが〝期待される効果〟ではないか?というのが私の憶測だ

一般的には丹田を意識した方がパフォーマンスがでると言われているのに、

逆に、何も意識しない方がパフォーマンスがでるのはなぜだろう?と考えていました。

ぼくの結論としては「丹田を意識する方法が間違っていたんじゃないか?」というもの。


丹田を意識するために脱力する | ほげほげブログより


つまり、まず意識ありき、ではなく あくまでも「結果として気が付く(意識する)」ということ・・・

まあこのあたりは堂々巡りの話に成る・・・もし、わたしの憶測が正しいのだとしても
ただストレートに「ネタをバラして・・・」してしまうことが能ではない・・・大切なのは
皆誰もが「騙されたつもりでやってみて」銘々が実感することこそが、メソッドを
「絵に描いた餅」で終わらせない大切なプロセスだからだ・・・

「不自然な努力をしてみる」こともまた、「結果として自然さに放り戻される」大切な過程で、
「嘘も方便」なのだ・・・  「急がば回れ」とも言うではないか?

何事も自分の実感を大切にして、トータル(出し惜しみ無し)でやってみること、
体当たりで実験することだとおもう・・・  そこで他人には言葉では伝わらないものを伝える
「智恵」というものを実感出来る・・・

ただそこで、絶対一言口出ししたいことは、

  「すべてのすべてを鵜呑みにして教条主義に陥らない」ことだ

瞬間瞬間のおのれの実感に、常に耳を澄ませることだ・・・

でないと、「焼き切れて」しまうだろう・・・  「焼き切れるまでトータルにやる」というのもいいが
正し人生で起きることは全て、最後の最後は〝自己責任〟だ

もはや
「羊飼いと羊」の時代は終わり、「マイトレーヤ(カルキ)というのは〝良き友〟のことだ」という
奥義がもはや開かされた後の時代を、わたしたちは今生きていることを何よりも忘れないことだ

バシャールはメッセンジャーに囚われてメッセージを理解出来なくなっている人が多いです」
警告しているが、これこそがかれら外宇宙の〝友人達〟が迂闊にディスクロージャーしてこない
最大の理由であることを、肝に銘じておくべきだ

彼ら善良で善意なメッセンジャー達は、またしても地球人が「家畜の様な羊たち(盲従者)」に
なってしまうことが、一番の害悪であることを地球の今までの歴史から学んだ・・・

彼らはむしろ自分達、「より高度な地球外文明が干渉したことでもたらされた弊害」に対する
代償行為として人類にコンタクトしているが故に、非常に慎重なのだ

  ・・・今人生で起きていることの全ては、一つの巨大なジョークに行き当たったところで終わる
    その大爆笑に辿り着いたところで、「すべての智恵、メソッド、方便の方舟」は役目が終わり
    その「彼岸」こそがOSHOがいうところの「究極の死(輪廻転生からの卒業)」だ

ここで最初のテーマに戻ろう

・・・だからこそ私たちはグラウンディングこそが、最優先課題なのだ!

         それこそがアルファーであり、たぶんオメガでもあるだろう

つまり自分たち自身の人生に根を下ろす・・・「いまここ」この大地に生きていると言うことに・・・

いったん、丹田に波長を合わせたら、
あなたは、勇気をもって生きられる。
生は丹田から始まり、丹田で終わる。

osho
丹田とは、へその真下3寸のところにある、
中枢(センター)をさす日本語だ。
このセンターを意識することは、
大きな助けとなるだろう。
だから、出来るだけ長い時間を、
丹田で過ごすといい。
何もすることのない時、
静かに坐って、内側へと入り、丹田へと・・・
正確に、へそ下3寸のところへと、落ちてゆき、
そこに留まってみなさい。
そうすることで、あなたの全生命力に、
強力な中心が、生まれるだろう。
ただそこを、見つめればいい。
それだけで、それは起動する・・・。
生全体が、
このセンターを中心にして動くのを、
感じるだろう。
生は丹田から始まり、丹田で終わる。
身体内の他のセンターは、どれも、
身体の中心から、隔たったところにあるが、
丹田は、ちょうど真ん中にある。
私達がバランスと、根付きを獲得するのは、
この中心においてだ。
だから、丹田を意識するようになったら、
多くのことが起こり出す。
たとえば、
丹田を覚えていることが、多くなればなるほど、
思考は減る。
エネルギーが、頭に向かわなくなる為、
思考は、ひとりでに減るのだ。
エネルギーが、ハラへと向かう。
ハラを思い出すことが、多くなればなるほど、
また、ハラへの集中が増せば増すほど、
あなたは、自分の中に、ある種の規律が、
生まれて来つつあるのに、気づくようになるだろう。
それは、自然に生まれるものであり、
むりやり、創り出そうとする必要はない。
丹田・センターを意識すればするほど、
あなたからは、生と死に対する恐怖が減っていくだろう。
それは生と死をつかさどる、センターだからだ。
人々は、その両方を恐れている。
死を恐れるというのは、あからさまだが、
人々は、生も恐れている。
これは、あからさまなことではないが、
それでもこれは、死への恐怖と同じくらい真実だ。
そしてそこには、自然な論理のつながりがある。
死を恐れているならば、生も恐れずにいられるだろうか?
死をもたらすのは、生なのだから。
死は、ひとりでにやってくるのではない。
生きることによって、やって来るのだ。
だから、あなたが死を恐れているならば、
当然、あなたは生も恐れている。
自分では、それを意識していないかもしれないが、
あなたは、生を恐れずにはいられない。
生はゆっくりと、死へと向かいつつあるのだから。
死は、生が最終的にもたらすものであり、
誕生は、死の始まりだ。
両者は、このように互いに結びつき合い、絡みあっている為、
その片方を恐れるならば、残りの片方も恐れることになる。
人々は、死を恐れ、生を恐れて暮らしている。
ということは、人々は全く生きていないということだ。
いったん、丹田に波長を合わせたら、
あなたは、勇気をもって生きられる。
勇気は、丹田に波長を合わせることから生まれるのだ。
思い悩むことは減り、沈黙が増し、
取り乱すことも、少なくなる。
自然な規律と勇気が生まれ、
しっかりと根を降ろし、大地と結びついて、
生きていられるようになる。



「無とはnot thingであってnothingではないよ」

             ・・・・というOSHOの言葉は、このブログで何度も紹介した

実を言うとこの記事を書くに当たって、はじめは以下の様なタイトルを考えていた
「not thing(具体的な何かではない)とnothing(具体的なものが何も無い)との違い」

  ところが具象的なものではなくても「抽象的なもの」なら・・・「どうよ???」ってことになる
  ・・・それはたとえ物理的なもの=thingでなくてもデーターとしてなら有る」と言える

苫米地氏は、もっとも抽象的な概念として、「空」をあげた
なるほど「からっぽ」というのは、なにひとつコンテンツ(内容)が無い状態なのだから
一見最も「抽象度が高い」と言える

「物質の究極とは何か?」というアプローチは量子力学等で、核心に迫りつつある様だけれど
果たしてその先に「空間」という究極の「存在の正体」が解明出来るだろうか?

果たして「在る」と「不在」との境界線は見つかるのか?っと問い詰めた時

  「それは粒子でも波動(エネルギー)でもない」「それは情報(データー)だ!」
              という仮説をエハン・デラヴィ氏は「エハン塾」動画で紹介していた

  わたし自身も「そうかも知れない」っと考えた

そうであるならば、最も抽象度が高いと苫米地氏が言う「空」の〝正体〟は
ひとつの巨大なメモリーエリアの中であり、「在る(有)」を〝1〟「不在(無)」を〝0〟とする
データーフォーマットの広がりではないか?という仮説が成り立つ

・・・そこで、映画「マトリックス」の世界観が、かなり有力視されていく

  ---私たちの住むこの世界の空間に、果てはあるのか?---

               答えは「果ては無いですよ~」とアッケラカンと回答可能な世界観だ

   すべての根底が「データー」ならば、「外側(メインフレーム)から」パラメーターを入力すれば
   世界の果ては無限に付け足すことが可能だ

 ところがこの「かなり有力とも思われる仮説」には困った問題が有る

もし、この空間が、「情報の広がり」であるならば、そこには「リローデッド」で描かれている様な
「メインフレーム」がなければいけない・・・

アーキテクト~matrix

どこまでも果てしなく広がっていると思われた宇宙空間には、実はフレームが有り、
そこで定義された「宇宙法則」に従って、無限とも言えるほどの高速な演算が
今私たちが暮らしている三次元世界の根底なのならば・・・??

・・・では、その凄まじい演算速度のメインフレームが存在する世界はどこに有り?
                          何の目的でこんな演算をしているのか?



ネット上のニュースでは
「そのメインフレームは200年後の地球であり、私たちはそのコンピューターの中で暮らしている」
というかなりコアな発表を、あるイギリスの科学者だか、科学チームだかが大まじめに発表している
のを見た記憶がある  ・・・まさしく、マトリックスの世界観、そのままだ

しかし、私たちの外にあるという、より高次元の世界にも「空間が存在する」のなら
「そのメインフレームの、より高次元の世界の空間」は果たしてどうなっているのか?
やはり情報なのか?、データーなのか?・・・
「神の究極的な目標など有るわけ無い、なぜなら、それに対して『じゃあその目的は?』と
いくらでも質問し続けられるからだ・・・」  OSHO
・・・なんじゃこりゃ?いたちごっこじゃ無いか?  結局何の解答にも成っちゃいない!

私たちは、  「仏の手の平の上の孫悟空」の様に、
           またしてもこのOSHOの言葉に立ち戻ることになってしまう・・・

つまり、上記の「説明」はやはり単なる「説明」を超えておらず、存在の根底を
有るかどうか判らない「上位世界」に原因をなすりつけたのに過ぎない(笑)
これでは「神様が作ったんだよ」「スゴイ進化した宇宙人が・・・(ry」という説明と、大してかわらない

              ・・・・まるで自分の尻尾を追いかけている子犬じゃあるまいか?

       ---「説明」とか、「解釈」とかは、すべからく---

            すべてが、本質的に「そういう堂々巡りするものなのだ」ということに、
            私たちはいい加減気が付かなければ (降参しなければ) いけない様だ・・・

話を最初に戻そう、

・・・たとえ抽象度が高くても  ・・・それはデーターとして〝存在する〟といえる

1個のリンゴが、「どこにあるのか?」それは空間上の「どこか」を指さすことが出来る

抽象的概念としての「数字の〝5〟は、どこにあるのか?」

それは、空間上のどこも指させない・・・  全く単位の定まらない数字とは抽象概念だからだ
                 では「数学はこの世に存在しないか?」・・・もちろん「否」である

  具体的概念であれ、抽象的概念であれ、実は〝無〟を説明出来ない

         ・・・つまり、言葉や記号、象徴、データーでは〝無〟は説明出来ないのだ

  じゃあデーター無し・・・コンピューター用語のNULLでは?

  一見NULLはあらゆる定義を否定しているようだが、これもまた「定義の一種」だ
   ・・・・「データーが何も無い=定義無し」では無いのだ

   物理三次元空間上のNULLは、どの様に表現出来るか?

「空間」という言葉は
〝空(くう)〟という区切られていない三次元の無限の広がりと
〝間(あいだ)〟という複数のポイントの隔たりのある区切りを意味する単語とで構成されている
 ・・・この〝間(あいだ)〟の隔たりが完全に無い状態、隙間が閉塞した部分をNULLと呼び得る

うん、確かに「何も無い!」

  ・・・ところがどっこい!「そこ」を指さして「はいこれがNULLです」と呼称した瞬間、
    その三次元空間上に隙間はなくても座標が残る! 

    「何かを定義しようとする試み」とは、「〝それ〟を指さす試み」ということなのだ

     その〝指先の先端〟が実際の、具体的三次元空間の「どこか」であろうと
                           抽象的な概念上の「どこか」であろうと・・・

              ・・・さらにはそこに指し示されているものがたとえNULLであろうと

        それは〝無〟であるとは言えないのだ!!!

〝何か〟を指さす試み、それ自体が、具象上、抽象上であれ、位置づけ、特定なのだ
そしてそうである以上、その位置情報、特定情報が発生してしまう

つまり
何かに対して論理的に定義するためには、理工学的であれ、人文学的であれ
その定義情報が発生してしまうために、もはやそれは〝無〟ではない・・・・
    定義情報そのものが空っぽ、NULLである時に、それが〝無〟だ・・・・

  もちろんそんな事になった時、〝無〟とはあらゆる議論から滑り落ちてゆく
   議論すべき対象の定義が不能な時、全ての議論は不能になる

私達の日常会話で使う“無い=ナッシング”というのは、
定義された〝何か〟が、ある場所ある時点で〝不在〟であることを意味する

  今手持ちの筆記用具が〝無い〟 
   この動物園にはパンダは〝いない〟
    この田舎にはスタバは一店舗も〝ない〟・・・・

 筆記用具が〝必要〟になった瞬間に、筆記用具の〝不在〟が問題になる
 動物園を見学中、息子が「ここにパンダはいないの?」と尋ねられた時パパはそう答える
 都会からUターンしてきた男が田植えの最中、突如スタバが恋しくなり一面の田んぼを見渡す・・・

これらの〝無い〟は主語ではなく、ある主語となった対象の〝不在〟を意味する
つまり〝不在〟を意識するとは、その手前にすでに定義された〝存在〟が暗黙の前提になっている

 ・・・筆記用具、パンダ、スタバという存在を前提にしなければ、その〝不在〟を意識しようが無い

   そうだ!、ナッシングというのは単に「何も無い」という意味では無く、
   その背景にさまざまな・・・「需要、必要性、期待、欠乏」の意図、暗示が含まれている

人は、何一つ動機も欲望もなしに、〝何かを指さす〟事は決してない・・・なにげなしであれ
そこには欲望や必要など、動機が隠れている

理数学的には、ナッシングとはただの〝ゼロ〟だが
人文学的には、ナッシングという言葉は数字の〝ゼロ〟だけでは言い表せない意味が有る

人は、「何も無いこと=ナッシング」に虚しさや退屈、不安を抱く・・・
だって「何か=サムシングがない」と最悪は生存が脅かされ、たとえ生存条件が満たされても、
次には
自分自身「存在価値」「存在することの意味、理由」が・・・
自分の存在を支えてくれる「何か」が欲しくなってくるものだ・・・

  ・・・正当な、納得出来る理由が!

殆どの人間の人生が、この「サムシング」探しをして、生涯を終える・・・
    ・・・・財力、権力、名誉、やりがい、生き甲斐、理想、目的、大義

そして、
  「これだ!」というものを見つけた人、掴んだ人を「成功者」「果報者」と人は称賛し、羨望する
   ・・・あるいは当然、本人も、そこに満足する場合はある

  ところが、先日亡くなった、ジョブスでさえ死を前にして、これらの達成感が
  つかの間であること、空虚なものであること、人生における大きな勘違いであることを痛感する

  いや、「一つの世界の頂点まで極めた男」ジョブスであるからこそ、余計気が付いたのだと思う
・・・・彼が「IT業界の帝王として、いまだ、道半ば・・・」で死を目前としても、
   果たして同じような自覚に達しただろうか?

  ・・・単に「道半ば」であったことを悔やみ、憂いただけじゃないだろうか?

     これはつまり、「達成の〝無意味さ〟」を理解した帝王だけが達成した理解だ

 ・・・そう考えれば、彼の最も偉大な業績はIphoneなのではなく、最後の言葉なのかも知れない



  彼は死の間際に「エヴリシング イズ ナッシング すべてが虚しい」と呟いたわけだ

   「・・・エニシング 何一つ残らなかった」っと

     人が幸福になるためには「アップル帝国」は必要なかった・・・

    たった一台のIphoneすら必要なかった・・・

死の淵のジョブスをもし救うものがあったとしたら、それはノット・シング〝何か〟ではなかった

   世界中のあらゆるモノを手に入れた彼が、
    いったいどんなオモチャを手に入れたら幸せになれただろうか?

 ・・・そんなオモチャなど、世界中どこにもなかっただろう、あれば彼は手に入れることが出来た
                           「無いから作った・・・」それがアップル製品だった、
                          でもそれでは死を目前にした彼を満足させなかった

 言葉で定義しうるもの・・・、指さして「欲しい」と言えるもの・・・ それらの全てが死と共に消える

  このバカバカしいほど当たり前の事が、
   禅やヨガを愛した賢いジョブスでさえ死の淵に追い詰められるまで気が付かなかったのだ!

本当は、「エヴリシング イズ ナッシング・・・」ではない

真実は、「エヴリシング イズ ナット・シング」なのだ

 存在するもの全ては、見かけ上は様々だが、その本質は「非在=定義し得ない〝無〟」なのだ

わたしたちは、ネーミングし、定義することで、あらゆるモノを「日常品」「ありふれたもの」にした
あらゆるものを既知のものとして飼い慣らし、コントロールし、大量生産し、そして商品化した・・・
実のところそれこそが、不幸の始まり、退屈の始まり、人生の新鮮さの抹殺だったのだ

  もちろん結果として、私たちの世界は言語によって、定義によって、解明によって・・・
   ・・・学問や理論によって、科学技術、科学文明によって、「便利さ」「生産性」は獲得した

   しかし、新鮮な驚き、新鮮な歓び、「人生そのものへのタッチ」からは遠のいた・・・

    無という言葉を「不在(虚しさ、侘しさ)」と解釈している以上、
     わたしたちは人生の虚しさから決して逃れることは出来ない
        子供の様なワクワクした歓びを思い出すことが出来ない

    誰もがIphoneを手にしつつ、すれ違う人の顔を見合わせることもなくぶつかっていく
     この街ゆく人々の何人が、ジョブスの最後の虚しい断末魔を理解出来るだろうか?

      ナット・シング=非在とは、アン・マニフェスト(非顕在なるもの)と言う意味だ

すべてのすべては、「見かけではない」のだ、「ありふれた既知なるもの」など何一つ無い

 目で見えるものの物理的なうわべの姿は変化がなくても、
  死んだ過去の目で見ること無く、思い込み、固定観念もなく新鮮に見た時、
        すべてのものごとが内面から発する存在の輝きはまったく変わる・・・  

 それは息を引き取る直前のジョブスにも、子供の様な純粋な目を取り戻すことは
                    ・・・・本当は可能なことだった、起こり得ることだった

なぜなら最後の一息まで、人生とは「愛する」ために与えられているからだ

        ジョブスは「ああ、もっと愛すれば良かった」と嘆き悔やむヒマがあるなら、
        その瞬間からその中に飛び込めば良かっただけなのだ
        そしたらその瞬間から人生は始まる---残り時間は問題では無い

  ---溜め込み、詰め込み、延期し、躊躇ったことが「愛せない」原因だからだ!!

  彼、ジョブスはたまたま死期をハッキリ自覚出来る状況にあったと言うだけで
  誰もが、実際には死刑宣告を受けていて、なおかつその執行の日は知らされていない
  もし、「残り時間」が愛にとって問題なのならば、誰にも愛することなど不可能だ


「無」にしても「愛」にしても、「獲得」したり「放棄」したり・・・そんな事が出来るわけない
・・・「非在」なのだから  ・・・時間の存在しないゼロ次元の現象なのだから

「デファイン=定義する」という言葉は「見い出す」とも翻訳出来る

全体から切り出され、「見い出される」ことによってのみ「定義」は可能で、
「全体と溶け合った」ものは、もう定義のしようが無い・・・  それは「不老不死」「永遠不滅」

・・・それがすべてのものの〝本性〟だ、 ・・・〝それ〟はもう、個別に識別は出来ない

  たとえば人間の肉体にせよ、一体どこまでが〝人体〟で、どこからが〝環境〟だろうか?
                どこからどこまでが〝空気〟? どこからどこまでが〝食べ物〟?

                  ・・・皮膚は絶対的な境界ではない  明確な境界線は引けない

         全ては相互依存しており、その境界線は曖昧なグラデェーション

         分割分類、成分抽出、定義や論理化、体系化という野心をすべてギブアップして
                       〝無〟であるとき、すでにすべてが相互に溶け合っている

                    なぜなら人間の「全てを支配したい野心」意外の
                           「存在するすべて」は・・・・
                           昔も、今も、これからも・・・・、
                     ずっとそうだし、それ以外はあり得ない、あり様はないからだ

                           だから、愛とは「無という本性」への帰還の衝動だ

宮井陸郎 シャンタン愛とは全体とひとつになることへの深い衝動だ。愛とは、存在の中に根を張ることだ。
質問
愛とは何ですか?
なぜ、私は愛を恐れているのでしょう?
なぜ、愛は耐えられない痛みのような感じがするのでしょう?
osho
あなたは「愛とは何ですか?」と尋ねている。
それは、全体とひとつになることへの深い衝動だ。
我と汝が、ひとつの統合の中に溶け去ることへの深い衝動だ。
私たちが自分自身の源泉から分たれている為に、
その分たれていることから、全体の中に還りたい、
全体とひとつになりたいという欲望が湧き上がってくる。
それが愛だ。
もし木を土から引き抜いたら、もしそれを根こそぎにしたら、その木は
土の中に還って根づきたいという、すさまじい欲望を感じるだろう。
なぜなら、それが木の本当の生だったからだ。
今や、それは死につつある。
分たれていては、その木は存在出来ない。
それは大地の中に、大地とともに、大地を通して存在しなければならない。
それが、愛とは何かだ。
あなたのエゴは、あなたとあなたの大地・・
全体との間の障壁になっている。
人間は窒息している。
呼吸出来ない。
自分の根を失っている。
人間は、もはや栄養をもらっていない。
愛とは、栄養を求める欲望だ。
愛とは、存在の中に根を張ることだ。
そして、もしあなたが反対の極に陥れば、その現象はより易しい。
だからこそ、男性は女性に惹きつけられ、女性は男性に惹きつけられる。
男性は女性を通して自分の大地を見つけることが出来る。
女性を通して再び大地に根づくことが出来る。
そして女性は、男性を通して大地に根づくことが出来る。
彼らはお互いに補い合っている。
全体でありたいという、死に物狂いの要求の中で、男性だけでは半分だ。
女性だけでは半分だ。
これらふたつの半分が出会い、混じり合い、溶け合う時
初めて人は根づき、地についた感じがする。
実存の中に大いなる歓びが湧き上がる。
あなたが根づくのは、女性の中だけではない。
女性を通して、あなたは神に根づく。
女性はただの扉だ。
男性はただの扉だ。
男性と女性は神への扉だ。
愛を求める欲望は、神を求める欲望だ。
あなたはそれを理解しているかもしれないし、
理解していないかもしれないが、
愛を求める欲望は、神の存在を本当に立証する。
他にはどんな証明もない。
人間は愛するがゆえに、神は存在する。
人間は愛なしでは生きられないがゆえに、神は存在する。
愛したいという衝動は、単にひとりでは
私たちは苦しみ、そして死ぬ、ということのあらわれだ。
一緒であれば、私たちは成長する。
栄養を与えられ、満たされ、満足する。
あなたは尋ねている。
「愛とは何ですか?なぜ、私は愛をとても恐れているのでしょう?」
そしてだからこそ、人は愛を恐れもする・・
なぜなら、あなたが女性の中に入り込む瞬間、
あなたは自分のエゴを失い、女性は男性の中に入り込む瞬間、
彼女のエゴを失うからだ。
さて、このことが理解されなければならない。
あなたは、あなた自身を失う時にのみ全体に根づくことが出来る。
他に方法はない。
あなたは全体に惹きつけられている。
なぜならあなたは、栄養をもらっていないと感じているからだ。
そして、全体の中に消え去る瞬間が来ると、
あなたはとても恐くなり始める。
非常な恐怖が湧き上がる。
なぜなら、あなたはあなた自身を失おうとしているからだ。
あなたは尻込みする。
これがディレンマだ。
人間はそれぞれみな、それに直面し、それと出会い、
それを通過し、それを理解し、そしてそれを超越しなければならない。
あなたは、両方のものが、同じものから
生じていることを理解しなければならない。
あなたは、消え去ることは美しいだろうと感じる・・
心配もなく、不安もなく、責任もなく。
あなたは樹々がそうであるように、
星々がそうであるように、全体の部分となるだろう。
そう考えるだけでも素敵だ!
それはいくつかの扉を開ける。
あなたの実存への神秘的な扉を。
それは詩に誕生を与える。
それはロマンティックだ。
しかし、あなたが実際にその中に入ってゆく時、
その時に恐れが湧き上がる。
「私は消え去ろうとしている。が、
次に何が起こるか、誰に分かるだろう?」
それは、砂漠に到達しようとしている川のようだ。
砂漠のささやきを聞きながら・・
ためらいがちに、川は砂漠を越えて行きたい。
大海の探究に向かいたい。
欲望がそこにあり「私の宿命は越えて行くことだ」という
微妙な感覚と確信、そして信念がそこにあるのを彼は感じる。
明白な理由は何ひとつ与えられない。
だが、そこには内なる信念がある。
「私はここで終わるべきではない。
私は、何かもっと大きなものを求める探求に進まなければならない」
奥深くで何かが言う。
「やってみろ!そして、この砂漠を超越するんだ」
すると、砂漠が言う。
「私の言うことを聴きなさい。唯一の方法は、風の中に蒸発することです。
彼らがあなたを連れて行くでしょう。
彼らがあなたを砂漠の向こうに連れて行くでしょう」
川は、砂漠を越えて行きたい。
だが、疑問が生じるのはとても自然なことだ。
「そうだとしても、私が再び川になることを
風が許してくれるという証拠や保証は?
ひとたび消え去ってしまえば、私にはどんなコントロールも出来なくなる。
そうだとしたら、私が再び同じ姿の、同じ名前の、
同じ身体の、同じ川になるだろうという保証は何か?
誰に分かるのか?
それに、ひとたび私が風に明け渡してしまった後で、
彼らが再び私に別れることを許してくれるなんて、
信頼のしようがあるだろうか?」
これが愛の恐怖だ。
あなたは分かっている。
愛なしでは、そこに何の歓びもないことを、
愛なしでは何の生もないことを、愛なしでは何か未知のものに飢え、
満たされず、虚しいことを確信している。
あなたは空虚だ。
何も持っていない。
あなたは、中味が何もない器にすぎない。
あなたはその虚ろであること、空っぽであることを感じ、
その惨めさを感じる。
そして、そこに自分を満たすことの出来る道があることを確信している。
しかし、愛に近づくと非常な恐怖が湧き上がる。
疑いが湧き上がる。
もしくつろいで、本当にその中へ入ったら、
自分は再び帰って来ることが出来るだろうか?
自分のアイディンティティ(存在証明)や
人格を守ることが出来るだろうか?
そんな危険を冒す価値があるだろうか?
そしてマインドは、そんな危険は冒すまいと決める。
なぜなら、少なくとも、あなたはいるからだ・・
栄養不足で、満たされず、飢えていて、惨めだ・・
だが、少なくとも、あなたはいる。
ある愛の中に消え去れば、誰に分かる?
あなたが消え去ることになるのだ。
そうだとしたら、そこに喜びがあり、そこに至福があり、
そこに神がいるという保証は何なのか?
それは、種子が土の中へと死んで行くときに感じるのと同じ恐怖だ。
それは死だ。
そして種子には、死から生が生じるだろうとは想像もつかない。

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