We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年01月

結婚とは、一組のカップルに「永遠の愛」を誓わせあって
浮気、不貞行為をしたものに制裁を加える社会制度だ

・・・そんな制度を「是とする」人達が、いまだに「夫婦をやってる」わけだ
  別にそれは当人同士の自由なのだけれど
 「愛すること」そして「生きること」において、一切の保証制度はあくまでも二次的な物だ

 愛であれ、人生であれ、笑い、歓びであれ、あくまでも瞬間瞬間の現象であって
 生命保険とはあくまでも「死なない保証」ではない、「死んだらお金が貰える」というだけのことだ
 結婚制度も同じだ、本当は「永遠の愛」を保証しているのではなく、愛の終わりにおいて
 先に立ち去ろうとした方を裏切り者として制裁を加えちゃうよ~という制度に過ぎない

   「わたしはこの愛が20年続くのか?20分で終わるのかさえ判らないのよ」

   アスペルガーのカップルを描いた映画「モーツァルトとクジラ」の中の台詞だ
   わたしは同じアスペ持ちとして、共感を覚える・・・

   「これが当たり前、これが自然な気持ちなのじゃないだろうか?」と私には思える
   アスペではないフツーの人達は、この台詞がどう聞こえるのだろうか?
   やはり精神障害者の戯言に聞こえるのだろうか?


先日、わたしはどこかの店内で買い物をしていたら

    「君が美しすぎて、・・・  だから君を永遠に守りたい・・・  」と
                    歌っている曲が流れていたのを聞いた

   ・・・私は脳内で思わず、その歌詞の中の主人公を問い詰めた
・・・・じゃあ、美しくなければ愛されないわけだよね?
   その女性への愛は、その女性の美しさと共に消えるわけだよね?
そして女性達は皆、「永遠の愛」を男性が誓ってくれることを願って
         ・・・美容に、アンチエイジングに、今日も大金を払う

           で、その努力の甲斐があって結婚したら・・・
                「もう、釣った魚にエサはやらない」??

       女性達はみな、アニメのようなデカ目をメイクをぬぐい
                   夫の前では醜い本性を露わにする

  あるいは、
  それだと「釣った魚を逃してしまう」かも知れないから
  美容に引き続き精進する?永遠の愛のために、永遠に努力する?

  それとも「美しいから愛する」というのはあくまでも言葉のあやで、
  結婚したあとは一緒に努力していった信頼の絆で乗り切っていく?

  では、結婚した女性が美容に勤しむのは夫の「永遠の愛の誓い」に答えるため?
  それとも夫との信頼の絆を信じていないから?  ・・・夫だけでは不安だから、
  他の〝オス〟の愛も確保し、いつでも誘惑出来る魅力を確保しておくための?

・・・愛という言葉にたったひとつの条件付け、たとえば〝美しさ〟たとえば〝若さ〟が
  加わるだけで、人々の脳裏には様々な疑惑が乱反射しはじめる・・・ 葛藤や疑惑、
  あるいは嫉妬や、その他様々な狂気が湧き上がる・・・

人はいつも不安や孤独に駆られているから、
常に〝永遠の愛〟などの保証を欲している、慰め、ヒーリングを望んでいる

その〝必要〟に対して、社会は結婚制度をその根幹としてきた
         でも、社会制度が〝愛〟を捉えることは不可能だ

それは一見〝愛〟をテーマにしている様でいて、実際には〝必要〟をテーマにしていただけだ

そしてその結果、私たちひとりひとりが
          この〝社会的必要〟を〝永遠の愛〟という言葉と混同してきた

VastStillness は、
ずっと素晴らしい動画を無料で提供し続けてきてくれているが
いままでも、これからも、きっとOSHOだけには触れられないだろう、言及出来ないだろう
OSHOだけは鬼門だろう・・・ OSHOこそが文字通りの「丑寅の艮神」だろうから・・・

エックハルトも、ムージも、決してOSHOの様なラディカルな挑戦的な発言は出来ないだろう
だからこそVastStillnessでは取り扱えたのだ・・・

さあ瞑想しましょう、癒しましょう、覚醒しましょう・・・
そう言い続けるためのヒントの参照資料動画提供サイトとしては実に頑張ってくれていると思う
実に優良なサイトだと思う・・・・  しかし、一番危険なゾーン、タブーには決して踏み込めない
あくまでもカルチャースクール、セミナーへの誘導サイトとしては、OSHOは〝有害コンテンツ〟だ

かつては・・・
人が生まれてくる為の欠くべからざる結婚制度、家制度が・・・

いまは
あらゆる利権、あらゆる慰め、あらゆる魂の破壊の根源として、・・・
「愛」というもっともみずみずしい聖なる花を、「義務観念」で踏みにじり

                    ・・・・・・・・・私たちの前に立ちはだかっている

「そんな!わたしは義務感で結婚を継続しているのではない!」と怒る人も多いだろう・・・
  ・・・事実、義務感ではなく、愛から家族と関わっている人達は、確かに多いと思う

しかし、
「制度」という庇護の内側で「そう」している以上、
「その」疑いが・・・人々から消えることはないだろう、
「その」疑いが・・・晴れる日は、もはや来ないだろう、

  つまりそれが、すでに致命的な問題なのだ   ・・・・あなたにはそう見えないだろうか?

眼光鋭い暴力団員の夫を背中に控えさせて

  「暴力では何も解決しないのよ!愛が全てなの・・・」

  そんな風にその妻が主張しても、誰も反論はしないかも知れない・・・
   そして彼女はホンキでそう主張しているのかも知れない・・・
                  ・・・しかし、誰もその主張をホンキに聞いてはくれないだろう

もしその奥さんが自分の主張を真剣に聞いて欲しいならば
 人々がひそひそと囁く声を聞き取ることだ、     「志村!、後ろ、後ろ・・・」

  「制度の庇護の中に囲われて生きる」とはそういう状態だ
  一見、安全そうだけれど、その庇護下ではホンモノもニセモノになる
   繊細で生き生きとしたものはすべて枯れて、腐敗していく
   「家族制度の義務」という塀に囲まれて、平和で安全そうだが、それは緩慢な自殺だ


以下の様なカップルの「晴れやな笑顔」とは
この「永遠に残ってしまう疑惑の曇り」に対する、ひとつの解答なんじゃないかと思う

「私たち、離婚しました!」離婚したカップルが笑顔で自撮り!?

https://scontent-nrt1-1.cdninstagram.com/hphotos-xta1/t51.2885-15/s640x640/sh0.08/e35/11910525_994357267262238_955516092_n.jpg

これは、昨日クリスと私の離婚が成立した後の写真です。
でも笑ってるじゃないって?  そう、私たちはおかしいのよ。
永遠のパートナーとして選んだ相手がそうじゃなかったから?

・・・・いえ、違うわ。

笑顔の理由は、私たちが驚くべきことを成し遂げたからよ。
私 たちは、敬意と熟考と誇りを持って結婚を終わらせたの。

これからは子供たちを育てるパートナーとして
前へ進むことができるようになるわ。


子供たちも、どち らかの親を選ぶ必要なんてないの。
クリスマスコンサートや春の学芸会で、どっちの親を
呼べば良いか迷うことはないでしょう。


私たちは一緒に座っているんだ もの。
もし皆さんが離婚という状況に直面したら、
私たちのような離婚もあるんだということを知っておいてね。

そのためにこのメッセージを残しておくわ。

出典 https://www.facebook.com


結婚ではなく、愛

結婚ではなく、愛

 新しい意識は、結婚のような制度とはなんのかかわりもない。
新しい人間は、制度としての結婚には自然な不信を抱くだろう。
新しい人間にとって男女の関係は、
互いに高め合い、成長し合い、流れる関係であって初めて深い価値を持つようになる。

儀式としての結婚や、およそ永遠ではないことを証明するような、
永遠の誓いなど少しも気にかけない。

瞬間を愛し、それを完全に生き切る。
結婚に未来はない。愛には未来がある。

過去には、愛は現実ではなく、結婚が現実だった。
未来では愛が現実になり、結婚はますます現実味を失う。

過去には、人びとは結婚し、
そのために少しずつ好きになり、愛するようになっていった。

未来では、人びとは互いに好きになり、愛し合い、
そうなって初めていっしょに暮らすようになる。

過去では、まずいっしょに暮らすことが先だった。
当然、 いっしょに暮らすと、好きという気持ちが生じ、依存が生まれる。
それは必要現象だったのだ。

夫は妻を必要とし、
妻は夫を必要とし、
そして子どもたちがいっ しょに暮らす親を必要とした。

それは、多かれ少なかれ、経済現象だった。
とにかく、愛から出たものではなかった。

未来は、純粋に愛に基づき、愛がある間だけ存続するという、
違った種類の関係を経験することになる。

そして、それが永遠につづくことを強く求めることはなくなる。
生において、永遠のものはなにひとつないからだ。
永遠なのは造花だけだ。

本物のバラは朝に生まれ、夕方にはなくなっている。
が、それが彼らの美しさだ。
生まれるときも美しく、その花びらがしおれていくときも美しい。
その生は 美しく、その誕生は美しく、その死は美しい。
なぜなら、生気があるからだ。
造花はけっして生まれず、けっして生きず、けっして死なない。

結婚は過去における造花だった。
新しい意識には結婚に敬意を払うことなどできない。
新しい種類の親しさ——友情を創造しなければならなくなる。
愛、そしてあらゆるものごと、
その永遠ではない現象と共に生きることを学ばなければならなくなる。

嘘つきの人には、全ての人間が嘘つきに見える
人間の本性とは、即ち嘘つきなのだ
・・・・そしてそれは、真実だ

彼にはいくらでもそれを立証する数々の体験、証拠がある・・・・
        彼自身が騙され続けてきたという実績がある・・・・
         そして今後も彼は嘘つきとしか出会わないのだ

どんな正直者と出会っても、
そのほんの僅かな虚偽性を彼は暴き出すだろうし、
そして叉、彼にはそれしか見えないからだ・・・・

「そういう視点」で見れば、世界は確かに「そう」なのだ・・・・

だから「真実は決して知り得ない」
私たちは自分が抱く世界観以外を目撃するチャンスは無い

「これらはすべて自分の世界観が投影された世界だ」と気が付かない限り
私たちはその世界から一歩も出ることは出来ない

私たちは自分の世界観を立証する世界に囲まれて生きている
なぜなら宇宙はあなたや私に「うんそうだね」としか言わないからだ
                いわゆる神は、「肯定」しか知らないからだ

だからこそ  ・・・私たちは体験したいことを、飽きるまで体験し続ける
        ・・・自分の思い込みの中に、好きなだけ溺れていることが出来る
       ・・・・自分の映った鏡を、いつまでも眺めていることが出来る

探せ!  そしたら見つかるだろう あなたが証明したい真実の証拠が・・・・

そしてありとあらゆる自分の「ヘン顔」を見尽くし、もうウンザリした時・・・・
もう、「次は何を映そうか?」ということに興味を失い、疲れ果てた時・・・・

       ・・・・どの「ヘン顔」も本当の自分じゃないことに気が付いてくる
      ・・・・「何が映っているのか?」ということが問題ではなくなってくる

良いか?悪いか?正義か?悪か?右か?左か?上か?下か?
暗いか?明るいか?何色か?  ・・・・それらが問題では無くなってくる

指さし、探求し、人々に証明することには、疲労する以外は大した意味は無い

どんな体験をしたから、自分はこれこれの状態である・・・・っというふうに
自分のステータスを説明することが、根本的にクレージーなのでは無いか?と
                         ・・・・・・・・自分の正気を疑いはじめる

本当の自分とは、
  ・・・目撃している対象、・・・・体験したことの偉大さ  それらの、そのどれでもない

そして、この「どれでもないこと」は他の人にも当てはまる・・・・
この世界の存在事物の全ての「本性」について・・・・  まったく同じ事が言える

ディヤン ムディトさんが写真をシェアしました。
ディヤン ムディトさんの写真
ディヤン ムディト  JOY自分自身との、直面が、
あなたのブッダフッドを、明かすだろう。

人が、自分自身を見た、その日・・ 
全存在が、悟る。

ひとりの人が、悟る・・ などということはない。
どうして、ひとりの人が、悟ることなんか出来る?

ひとりの人でいる、という、まさに、その観念自体、
悟らざるマインドの、一部に他ならない。

私が悟った、などということはない。

人が、悟る前に、その「私」は、
落とされねば、ならないのだ。

であれば、どうして、
私が悟ること、なんか出来る?

それは、馬鹿げている。

私が悟った、その日・・
全存在が、悟ったのだ。

その瞬間以来、私は、
ブッダ達、以外のものを、見たことがない。

いろいろな、形を取り、いろいろな、名前を持ち、
千と一つの問題を、抱えてはいるが、
それでも、ブッダ達だ。

OSHO:「般若心経」(めるくまーる社刊)




やはり多くの仏典の中において法華経は最も重要なようだ
私がざっと法華経の入門書を読んでまず感じたのは

    「謙虚さ(不可知論)の重要性」

それと

    「すべてのすべての物語とは〝方便(たとえ話、真実を示す指)〟なんだよ」

ということだ・・・・・

    つまり
     「全ての〝確かな〟現実、それ自体が夢なのだ」と気付くことが覚醒だ
      「夢の中で『これは夢だ』と気が付く」こと、・・・・それが即ち覚醒、 というわけだ

                    何と言う壮大な、無限のパラドックスだろうか?

「夢の世界から脱出したい!覚醒したい!」という格闘そのものこそが悪夢だった・・・
何て「苦く悲惨な気の遠くなるようなジョーク」なのだろう?

〝覚醒〟は私たちをどこにも・・・・   アナザーワールドにつれていってはくれないのだ

 そもそも夢と現実との間に引いている私たちの境界線(定義)それ自体が無根拠なのだ

    わたしたちは「色つき」の、「タンスの角に足の小指をぶっつけると痛い」夢を見ている(笑)
    ハードディスクが容量不足だと、ハードディスクを換装しなければいけない・・・
    「パソコンやインターネットがある」世界の夢を見ている

       「意識的な、夢の時間の始まりです・・・・」  by バシャール


「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>

あれ程までに覚醒の必要性を説き、
眠りから目覚めのために働き続けた
私達の愛するマスター、親愛なる友人OSHO・・・・

彼は今

   「あなたがたに私の『夢』を残していくよ」

  という最後の言葉を残して、存在の中に溶け去って行った。

覚者の夢というパラドックスに、
私はOSHOらしい最後の茶目っ気を感じるとともに・・・

    グルと弟子とのマスター・ゲーム
                 という最後の悪夢

        ・・・・から目を覚ます時が来たことを感じた。

・・・・・中略

一方、明治、大正、昭和を駆け抜けた
日本の巨大な神秘家・出口王仁三郎は・・・

  「日本は世界の雛型であり、
   大本教に現われた自分は
   いずれやってくる弥勒菩薩の雛型で、
   まことの人が美濃か尾張の国の中に現れたら大本も終りである」、

という遺書を残している。

また水墨画「弥勒神真像」も残しているが、
それは一般的に弥勒像に見られるような女性形ではなく、
長く髭をたくわえた禿頭の達磨像であり、
その人は56才と7ヵ月以から本当の仕事をするであろうと予言している。

 美濃・尾張と言えば現在の岐阜や愛知あたりになるが、
これを国魂学にしたがって世界地図に伸ばしてみると
インド大陸西北部に当たり、OSHOの出身地のグジャラートや
プーナもその一帯に入り、また美濃・尾張(みのおわり)とは
言霊(ことだま)で言えば「身の終り」であり、その肉体の終りから
新しい次元が始まる、と解釈することが出来るであろう。

OSHOは56才と7ヵ月で尾張・名古屋の展覧会に現われ、
伊勢に伝わることによって日本の神道に深く潜行し
最後の本当の姿を見せ始めた。

「弥勒神真像」を実際に見た人によれば
それはOSHOそっくりだということだ。

弥勒菩薩・マイ トレーヤーは友人を意味し、
友情のような親しみの中で、生きとし生きる
あらゆるものを救うためにやって来るという。  

1931年11月インドに転生して最後の肉体を持ったOSHOは
88年8月日本に渡り、やがて「みのおわり」に肉体を離れる
ことによって、多くの友人達の中に溶け込み、究極の旅を
完成したのである。



「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<8>

 英語でローソクを現わすキャンドルは
もともとサンスクリットで月を表わすチャンドラであり、
これがヒンドゥやインドゥに変化してインドとなり、
教典において月を象徴とする精神的民族として
月氏国を表記されている。

  「OSHO」とは
   日本語の 「和尚」であり、
    アメリカの詩人ホイットマンの造語
     Oceaning(海に溶け去る)から、

         〝海に溶け去った人〟
            の意味も込められているが、

   本命、チャンドラ・ラジニーシ・モハンが示すとおり、
   月の神秘的な精神性を象徴しているのである。

 この経緯を見て、
   「今こそ日本神話の中のツクヨミを呼び戻すことが
    日本とOSHOのスピリットを繋げることになるのだ」

という直感から、
京都の翻訳家Swモンジュは
90年夏にミニコミ「ツクヨミ」プロジェクトの活動を開始している。

・・・・・中略

 あらゆる精神世界に言及したOSHOは特に仏教に多く触れ、
般若心経をハート・ スートラ、
金剛経をダイヤモンド・スートラとして語り、
古びた教典に全く新しいエネルギーをそそぎ込んだ。

最晩年は
法華経をロータス・スートラとして語る準備をしていたが、
幸か不幸か、大いなる存在は彼にその時間を与えはしなかった。

 OSHOが残した夢はもはや言葉の次元を超え、
インスピレーションとなって私達を激しく優しく誘い続けている。

私達に溶け込んだ彼のエネルギーは、
全く新しいロータス・スートラとなり、
地球のスピリットとなって湧き出すことだろう。

 環境運動も国連もノーベル賞も近代オリンピックも、
全てユダヤの秘密結社フリー・ メイソンの陰謀である
とする人々もあるが、大和魂もユダヤ・マインドも
過去の狭い条件付けを受けない地球人としての
ニューマンの登場によって受け入れられ、
瞑想によって洗い流されて行くことだろう。

日本とOSHOの出会いが生み出すもの・・・・・
それは
人類一人一人が覚醒し、
56億7千万人のマイトレーヤー達となって作る、黄金の未来である。

OSHO
サマサティ: 最後の講話
より、
一部抜粋・・・
ドイツの有名な元女優ゲスタ・イタールは、
日本の禅寺に入って、光明を得た導師の許で修行することを
許された初めての西洋の女性でした。

 彼女は自分の歩んだ道と悟りの経験について二冊の本を書きました。
その本を読んだとき、私はそれが非常に厳しい孤独な道だという印象を受けました。
あなたの許にいることは、もっとずっと楽しい、遊びに満ちたことです。
この違いについて何か話していただけますか?

 伝統的な禅は厳しい。

それには、すべてを擲(なげう)ち全エネルギーを瞑想にだけ捧げて、
絶えざる瞑想を続けてもなお2~30年はかかる。

 その伝統はゴータマ・ブッダ本人から来ている。
彼は自分の光明を見いだすために12年の厳しい修行をしなければならなかった。

 私がそれを伝統的な禅とはまったく別物に変えているのは、
現代人が2~30年を瞑想だけに捧げることができるとは、私には思えないからだ。

そのように厳 しいままだったら、禅はこの世から消えてしまうだろう。

それは既に中国から消えてしまったし、日本からも消えようとしており、
またインドではとうの昔に消 えてしまった。

インドには、ゴータマ・ブッダの後、わずか250年しかとどまらなかった。
五世紀の後、それは中国に到達したが、そこには二、三世紀しかとどまらずに日本に移った。

そして現在、それは中国と日本の両方からほとんど絶滅しかけている。
私の本が禅の僧院で教えられていると知ったら、みんなは驚くだろう。

禅の導師たちが私に
「おそらく今や禅はインドに、元の場所に存在することになるのでしょう。
それは日本からは消えつつあります。・・・なぜなら人々の興味は
テクノロジーと科学の方に向けられているからです」
と手紙に書いてきている。

 それはインドにおける状況でもある。
内面の探求に関心を持つ人々はきわめて僅かしかいない。
あなたたちはここで、あらゆる国々からの僅かな人たちを見ることができるが、
それはこの地上の50億の人類に比べればごく僅かでしかない。
一万人はたいした数ではない。

 禅は現代人が興味を持てるようなものに変容されなければならない。
それは簡単な、またくつろいだものでなければならない。
厳しいものである必要はない。

そういう古い伝統的な型はもはや可能でもないし、またその必要もない。

一度その道が探検されたら、いったんひとりの人間が光明を得たら、
その道は容易なものになる。

電気を何度も何度も発見する必要はない。

一度発見されたら、人はそれを使うことを始める
                ――大科学者になる必要はない。

 電気を発見した人間は、そのためにほとんど20年を費やした。
三百人の弟子が彼と一緒に仕事を始めたが、あまりにも長くかかったために
最後まで残った者 はひとりもいない。
みんなくたびれ果ててしまった。

だが当の科学者自身は仕事を続けた。
彼が自分の弟子に言った説明はこうだった。

 「電気の根源が何である かを見つけることに失敗すればするほど、
  私たちはその根源そのものに近づいている。
  失敗するたびに私たちは発見に近づいているんだ」と。

 そしてついにある夜、闇の中に突然最初の電球が光を放ち始めた。
30年間研究してきた人間の喜びは想像することもできない。
その沈黙‥‥彼は畏怖の念に 打たれていた。
あれだけの時間をかけた後、ついにそれが起こったこと、
電気を制御できるようになったことが、
わが眼で見ながらも信じられなかった
             ――「ついに手に入った。これをどう使うか?、だ」

 妻が彼を呼んだ。
「もうお休みになったら?、もう真夜中よ。明かりを消して頂戴!」 

彼女はそれが当たり前の明かりではないこと、
そしてその科学者が彼女をこう呼んだことに気がつかなかった。

  「こっちへ来て、地上初めての物の最初の証人におなり。
   お前が、電気の秘密に私が招待する最初の人間だよ」

今では、電気のことを知るために30年研究する必要はない。
同じように、禅を経験するために30年間を費やす必要はないのだ。

 覚者たちの目覚めとはごく簡単なくつろいだ現象だ。
今やあまりにもたくさんの人たちが目覚めたために、
その道は明確なものになった。

それはもはやきついものでも苦しいものでもない。

あなたたちは遊びながらその内側に入り、
その意識の目覚めを喜びを持って経験することができる。

それはゴータマ・ブッダに とってそうであったようには、
かけ離れたものではなくなった。

 ゴータマ・ブッダにとっては、それはまったく未知のものだった。
彼は盲人のように、自分がどこに向かっているのかを
まったく知らずにそれを求めていた。

だが彼は途方もない勇気の人だった。

彼は12年間、当時自分の手に届いたあらゆる方法を試みた
‥‥哲学やヨガについて語る教師たちをすべて訪ね、探求し た。

彼は次々と教師を訪ね続けた。
そしてあらゆる教師はついに彼に、

  「私はあなたにこれしか教えることはできない。
   これ以上のことは私も知らない」と告げたものだった。

 ついに、彼は独りになり、ヨガの修行をすべて捨てた。
彼には、彼のことを偉大な苦行者だと思っている五人の弟子がいた。
だがその弟子たちは、彼がヨガの 修行をすべて止め断食もしなくなったのを見て、
彼を見捨てた。

その五人の弟子たちは全員、

  「あの人は堕落した。もう聖者ではない。
   あたりまえの人間になっ てしまった」と言って彼の許を離れた。

 だが何もかも捨ててしまった――ただただ疲れ消耗している――
そのあたりまえさの中で、その五人の弟子たちが彼の許を離れたその満月の夜、
彼はこの世からも完全に自由になり、あの世の探求からもまったく自由になって、
その菩提樹の下で眠った。

初めて彼は完全にくつろいでいた。
何を発見しようという欲望もなく、何かになろうという欲望もなかった。
するとその何ひとつ望まない瞬間に、彼は突然目覚め、覚者になった。
ブッダフッドは、くつろいだ状態の中で彼の所に来た。

 あなたたちは12年間働きかける必要はない。
あなたたちはそのくつろいだ状態から始めればいいのだ。
それは仏陀の旅においては最終地点だった。
それはあなたの旅の中では最初の地点にもなりうる。

 そしてゴータマ・ブッダが覚醒を得たのち、最初にしたことは、
自分に起こったことを分かち合うためにあの五人の弟子を探すことだった。
そして彼がその五人の弟子の所に着いたとき‥‥彼らはやって来る彼を見た
                               ――それは非常に素晴らしい話だ。

 彼らはこう決めた。

  「ゴータマがやって来る。しかし我われはもう彼には敬意を払うまい。
   彼はもう聖者ではなくなった。緩んだ楽な生き方をあの人は始めた」

 だが仏陀が近づいてくるにつれて、その五人の弟子は全員立ち上がった。
彼にどんな敬意も払うまいと決めていたのだが、
その自分たちの決定にもかかわらず、
彼らにはゴータマがまったく別人になってしまったことがわかった

    ――「あの人はもう我われが知っていたあの同じ人ではない。
         やってくるあの静けさ、あの自足の様子。あの方は見つけたらしい」

そして彼らは全員ゴータマ・ブッダの足に触れた。

 ゴータマ・ブッダの彼らに対する最初の言葉は、

    「私のことなど気にすまいと決めていたのに、どうしてそんなふうに敬意を払うんだね?」
                                    というものだった。

 五人はみんな許しを求めた。彼らは、

  「あなたがあのもとのままのゴータマだと思っていたのです。
   私たちは――五年間も一緒にいたのですから、あなたのことは知っていました。
                          でももう、あなたはあの同じ人ではない」と言った。

 光明を得るとは、大変な変容だ。その人はまったく別の人間になる。
古い人は死んで、いなくなり、まったく新しい意識が、新鮮な至福が、
未だかつてなかったようなある開花が、ある泉が湧き起こる。

 ゴータマ・ブッダにはそれは12年かかった。
あなたたちは12分もかける必要はない。
それは自分自身にくつろぐというひとつのアートにすぎない。

伝統的な禅の中では、仏陀がまだ無知だったときにやっていたことを
全部やっている。そして彼らは最後にそれを捨てる。

 私が言っているのは、

         今すぐそれを捨ててみてはどうか?
                                ということだ。

             あなたは今この瞬間にもくつろぐことができる。

  すると、そのくつろぎの中に
  あなたはその光を、その覚醒を、その目覚めを見出すことだろう。

 ゲスタ・イタールに起こったことが、
 必ずしも禅への入り口である必要はない。

彼女は古い伝統的な禅の導師の仲間だったのだ。
私は禅をごく単純な、無垢な、喜びに満ちた方法と理解している。

そこには何も苦行などないし、
生を否定するようなものは何もない

 ――出家する必要などない、
    僧侶になる必要などない、
    僧院に入ることなど要らないのだ。

あなたは自分のなかに入らなければならないだけだ。
そんなことはどこでもできる。

 私たちは可能なかぎり、それをもっとも単純な方法でやっている。
そして禅が私がそうしようとしているほどに簡単なものになって初めて、
現代人はそれに興味を持つことができる。
さもないと、やらなければならないことが多すぎる

  ――為すべきことが多すぎ、探求すべき道が多すぎ、
           気を散らすあまりにも多くのこ とがある。

 禅は、ごくささやかな遊び心に満ちたものにならなければならない。
眠りに入る時――その直前に――たったの五分であなたは自分の中に入ることができる。
そ れで一晩中あなたの存在の中心そのものにとどまることができるのだ。
それで夜中ずっと、あなたは平和で静かな気づきになることができる。

 身体のなかには眠 りがあるだろうが、
 その眠りの下には夜から朝まで光の底流があることになる。

 そしていったん、
  眠っている時にも自分のなかにある意識が存在しうるのだとわかったら、
  そうなれば一日中、あらゆるたぐいのことをしながら、
  油断なく注 意して意識していることができるようになる。

  ブッダであるとは、ごく普通の、あたりまえの、素朴で人間的なことだ。

この話は、このDVDの紹介からはじめよう・・・・



この講演で彼は「人生の二つのミッション」を紹介している

その一つは「いまここにいること」
つまり、瞬間瞬間、人はすでに〝達成から達成へと〟生きているというのだ

そして第二のミッションについてのほぼ終盤の説明がここだ・・・
                    ・・・・つまり「ネタバレ注意」なのだけど



簡単に言ってしまえば、
「周囲の全ての存在を、過去やレッテルや先入観や、ジャッジ無しで見てあげること」である

エックハルト氏曰く、「これは誰に対しても最高のプレゼントです」・・・
     ・・・つまりこの〝プレゼント〟こそが、「第二のミッション」というわけである


私は今朝目が醒めて、まずここに自分の今までの〝失敗〟に気が付かされた・・・・

自分自身が人から「過去としてみられること」をずっとひどく嫌ってきたクセに、
       自分も人々のことを「過去」という先入観、曇った眼で見てきたな・・・
                    っということに突如気が付かされた

この「過去の事実」でさえ冷静に、純粋に、客観的に評価されることは希で、
人々は過去の同一の事実であれ、皆銘々が自分勝手な投影で解釈するのが
関の山だ

       なるほどそれは「やむを得なかった」かもしれない
      いままでの自分の〝罪〟を釈明するための材料は山程ある・・・・

そもそも、この世界の多くは「信用→お金」で成り立っている・・・・
信用とはつまり「過去の蓄積」だ・・・
  上記リンクにあるキンコン西野さんが
  「イイ奴だな」と人から思われてキャッシュは殆ど無しでも生活できるのも叉
  たったの50円で何でもやりまっせという〝気さくで誠実な〟過去の蓄積からだ

なぜ?
ダースヴェイダーは最後の最後にルークに救われたのか?
たとえルークが身を挺してヴェイダーを信頼しても、
「ルークは自分の息子だ」という血のつながりという過去がなくて同じ結論になっただろうか?
そもそもアナキン・スカイウォーカーは、自分が母を救出できなかった罪悪感から
ダークサイドに落ちた男だ・・・その自分が、いままた自分を信じてくれている〝息子〟の
答えられずに、またしても親子の絆を裏切ってしまうのか?・・・きっと黒い兜の中で
信頼に彼はやっと自分自身が「過ちを繰り返してきた」ことにはっと気がついたのだろう

          STARWARS episode1~6とは、一つの円環が閉じたに過ぎない
          家族愛で始まり家族愛で終わった・・・そして答えはゼロだ

確かに「過去」というのはもちろん大切ないしずえだ
わたしたちは履歴書無しに仕事一つ手に入れることは出来はしない

一枚のクレジットカードとは、「信用によって全ての決済が可能」であることを物語る

 「過去を蓄積する技術」こそが、人間社会をここまで積み上げてきた
  しかし同時にこれが私たちの魂の自由を圧迫してきたものでもある・・・・


今日のあなたは、昨日までのあなたと何も変わらないかも知れない
昨日までのあなたと同じ〝イイ奴〟〝良識的な人間〟であることを〝見込まれて〟
あなたは今日も同じ職場に行き、同僚や友人と相互に信用し合い、人間関係を持続出来る・・・



・・・でもそれは微妙な〝相互の束縛〟でも同時にある

   友情も、愛情も、・・・大概はこの〝相互の微妙な束縛〟によって成立している

だからこそ、エックハルト・トールの講演は、私たちにとっては「新しさを感じる」のだ

     そこには新鮮なライフスタイルがある
              でも同時に不安もある

スピ系では「無条件の愛」とかがすっかり合い言葉みたいになっているが
それでも世間は早々カンタンには、この〝偉大な愛〟が感染爆発することはないだろう

   ・・・なぜなら、そこには全人類社会の集積を壊しかねないリスクもあるからだ

わたしたちは、
過去無し、信用無しで、新鮮な出会いの中に、信頼の無限の海に
         ・・・・果たして飛び込んでいけるのだろうか?

もちろん〝信用〟ではない〝信頼〟とは、
誰か、何か、によって強制されるべきものではない

   ・・・・・・・ただし

この一線を越えない限り、私たちは本当の友情も愛情も知っているとは言い難い・・・・
この一線を越えない限り、私たちは思考を越えた、ジャッジを越えたとは言い難い・・・・

フリーエネルギー、無限供給はいくら理論的には可能でも、技術的には可能でも
わたしたちは〝信用〟という条件付けの中で椅子取りゲームを続けざるを得なくなる・・・

ちょっと話を脱線するが、
肉食というのが血液循環における抵抗となり得る原因も、この点かも知れない

つまり、肉というのは過去の蓄積だからだ
ライオンがインパラを襲って食べるのも、「粗野な表現ではあるが」それは愛の表現だと
OSHOは言っている

(注:たまに草食動物からの逆襲に遭う場合もある様だけれど・・・)

わたしたちも、この長い生物の進化の歴史を経て、ずっと〝弱肉強食〟の側面が残り続けたが
これもまた「粗野な表現ではあるが」必要な営みだったのだと思う・・・・

・・・いま、わたしたちは、ここからおおいなる一歩を踏み出そうとして躊躇っている状態だ

(参照:もんじゅ まさきさんがはっ!と気付くいい話さんの写真をシェアしました。)

もう、〝弱肉強食〟という粗野な営み・・・
  肉体的制限によって得られる「確かな手応え」から、

    より微細で、無限の広がりを持った愛の表現へとシフトせざるを得ない

もう誰もが、自分自身を「過去の蓄積した肉の塊」として見られることを望んでは居ないはずだ

    私たちは誰もが
           「あれでも、   これでも、   それでも・・・」    無いのだ

自分自身が望まないならば、他人にもその様に接するべきだ

  いや・・・  いまだ現実生活では・・・
  まだ「過去の蓄積」を誇りたい人、そこへのアイデンティティーにしがみついている人も多い

   でもそうしている人でさえ、
   エックハルトが言う様に「新鮮な目」で見つめてあげるべきじゃないだろうか?
  なぜなら、純粋な眼で見つめられて嬉しくない人とはまず居ないだろうから・・・

だからいまだ、〝過去〟というお肉でマッチョしている人でさえ、
            実は「自覚して」いないだけなのかもしれない・・・

         ・・・自分が「過去から、条件付けから自由になりたい!」という
                魂の欲求を持っていることに・・・・


だから、「無条件の愛」という言葉がひとり歩きすることには、私はやはり反対だ
言語化とは全て人々に勝手な、バラバラのイメージを与え、「条件付け」してしまうからだ・・・・

「無条件の愛」という言語化さえ、「条件付け」なのだ(笑)

まずまっ先に〝わたし〟が気が付くべきだったのだ・・・

          「自分自身こそが人を条件付けしていた」

                    そしてその条件付けは

          「自分自身を苦しめていたのだ」    ・・・・っと

自分自身が他人を過去で見ず、先入観に囚われずに、瞬間瞬間、新鮮に見ることで
その人に対する過去の感情的なしこりから自由に関わることが出来る・・・
そして
みずからも叉、自分自身の過去に拘りすぎることなく生きることが可能なわけだ・・・・

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