We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2016年01月

「名声を得た者が、
 何か、創造的なことをしたのを、
 これまで、見たことがあるだろうか?」

なるほど、ユダヤの管理するノーベル賞だのを受け取って
〝飼い慣らされて〟しまうと、もう自由な表現は不可能になる

しかし
OSHOが肉体を去ったのはインターネットが普及する前だった

確かにいまでも
大きな商業サイトはカルトが仕切ってはいるし、
中国は国家がかりでフィルタリングしてはいるが
でも、人々は、名声だの専売特許だのに拘ること無く
ある程度は好きな表現を地球全体に向かって一瞬で発信することが
可能になった

ディヤン ムディト  JOY

創造者には、必ず、
馬鹿みたいに、見えるところがある。

創造者は、いわゆる体面を、
危険に、さらさなければならない。

詩人、画家、舞踏家、音楽家が、
あまり、尊敬すべき人々に見えないのは、その為だ。

そして彼らが、尊敬されるようになった時には・・
ノーベル賞が、与えられた時には・・
もう、その人は、創造的ではない。

その瞬間から、創造性は、消える。

何が、起こるのか?

これまで、ノーベル賞の受賞者で、受賞後、
価値ある作品を、書いた者を、知っているかね?

名声を得た者が、何か、創造的なことをしたのを、
これまで、見たことがあるだろうか?

彼は、恐れるようになる。

もし何か、間違ったことをしたら・・
あるいは、何かが上手くいかなかったら・・
自分の名声は、どうなる?と。

彼には、そんなことは、出来ない。

だから、尊敬されるようになったら、
芸術家は、死ぬ。

OSHO:「ニューチャイルド」(和尚エンタープライズ・ジャパン)




ディヤン ムディトさんの写真
ディヤン ムディト  JOY
11時間前 ·

創造的な人間は、
いつも、間違ったやり方を、試し続ける。

いつも、正しいやり方に従って、やっていたのでは、
決して、創造的には、ならない。

(いわゆる)〝正しい〟やり方とは、
他人が発見した、やり方だからだ。

その、〝正しい〟やり方をすれば、無論、
それで、何かを作ることは、出来るだろう。
生産者、製造者には、なれるだろう。
技術者には、なれるだろう。

だが、決して、
創造者には、なれない。

OSHO:「ニューチャイルド」(和尚エンタープライズ・ジャパン)

「君には、
 君自身を助ける判断力が生まれながらにして備わっていて、

君が歩んでいるのは
 誰か他の人の人生ではなくて 君自身の人生だということだ。・・・」

人生と投資で成功するために ジム・ロジャーズ

Prem Sheelさんの写真
鶏が
卵をかえすことが
できるのは、
そのこころが
つねに
耳を澄ませているからだ

これは
不思議な力をもつ
重要な言葉である。
鶏は熱の力によって
その卵をかえす。
だが
熱の力は
殻を暖めるだけであり、
中まで浸透することが
できない。
そこで鶏は
こころを用いて
このエネルギーを
内部に導き入れる。
鶏は
耳を澄ますことによって
これを行なう。
そのようにして
こころを
一心に集中させる。
こころが浸透すれば、
気も浸透し、
ひなは熱の力を受けて、
生命を得る。
それゆえに鶏は、
卵から離れるときでさえ、
つねに耳をそばだてて
聴く態勢を取っている。
このようにして
精神の集中は
途切れることがない。

これは鶏だけでなく、
すべての女性、
すべての母親、
人間の母親にすら
当てはまることだ。
雷をともなう
激しい嵐がやってきても、
彼女には聞こえず、
彼女が眠りから
覚めることはない。
だが、
子供が泣きだしたり、
身動きをはじめたりすると
それだけで、
耳が絶えず
子供に焦点を
合わせていたかのように、
彼女は即座に目を覚ます。

汽車が通りすぎても
彼女は目を覚まさない。
飛行機が通りすぎても
彼女は目を覚まさない。
だが、
子供が少しでも
そわそわしだすと、
彼女はただちに
耳をそばだてる。

彼女は全身耳となって
子供に耳を傾けている。
彼女は耳を通して
子供と
ハートとハートで結ばれている。 まるで 子供の心臓(ハート)の 鼓動そのものを 聞くことができるかのように、 彼女は絶えず 耳を澄ましている。 これは すべての瞑想者が みずからの鼓動を 聞くことができるほど 深く耳と結びつく方法だ。 最初のうちは、 呼吸を聞くことができるのは 息がひどく乱れているからだ。 だが、 あなたが聴いて、 聴いて、 聴きつづけるならば、 その聴こうとする 努力そのものが 呼吸をさらに 静かにさせてゆく。 そして その傾聴が深まり、 聴くこつがわかり、 いかに 醒めているかがわかると、 すべての音色、 すべての音が消え、 呼吸が止まる瞬間がくる。 それは歓喜、洞察、 悟り、サマーディの 大いなる瞬間だ。 精神の集中が 途切れないために、 熱の力は 昼夜絶えることなく、 精神はいきいきと目覚める。 精神の目覚めは、 こころが死ぬことによって はじめて達成される。 瞑想中に突然、 心臓が止まりそうに感じても、 心臓発作だと 勘違いしてはいけないと 私が言ったのはそのためだ。 呼吸が止まると、 心臓が止まりそうな感じがする。 それは死ではない。 あなたの真のハートが 誕生しようとしているのだ。 こころを 死なせることができれば、 原初の精神は いきいきと目覚める。 こころを 死に到らしめるというのは、 それを枯渇させ、 しぼませてしまうことではなく、 こころが分断されずに ひとつにまとまるという 意味である。 これが黄金の華の秘密だ。 こころが 死ぬことができれば、 花が開く。 今あるあなたとして 死になさい。 そうすれば 再誕生することができる。 イエスは言う。 「再び生まれないかぎり、  人が神の王国に入ることはない」 Osho - The Secret Of Secrets

「人を無意識にさせる『お金の話』」エックハルト・トール





最近、わたしの目にする情報は
 「お金の本質とは信用・・・・つまり心理学的な工学だ」
                      というメッセージだ

だからこそ「お財布の色は黄色が良い」みたいなのも
意外に非科学的では無いとおもう

上に貼ってあるエックハルト・トールの動画を見ていて
なるほど!光明を得た人はさぞかし金運が良いだろうなあと思った

「金運が良い」とはイコール無限に大金が転がり込んでくることでは無く
「ああ!お金が足りない、どうしよう?」という恐怖感に取り憑かれないことだ

肉体の死に直面しても涼やかに笑っていられる覚者が
銀行の取り付け騒ぎの群衆のひとりになっている姿は想像できない

とはいえ覚者にも〝為すべき事〟はあるのだろうが
恐怖に取り憑かれて駆け出すと言うことは無いように思う

  EUがあと数ヶ月で崩壊?
・・・・本当にそうなるかどうかは分からないが、
旧約聖書的な「神罰として男は労働をさせられている」という発想の人達は
基本的に「どうしたら働かないで楽して生きられるか?」しか考えないから
略奪発想から脱却できない

人々は安全を求めて動けば「寄らば大樹」の発想になるが、
EUのような〝大樹〟になっても略奪発想のエゴで欲の皮が突っ張った者同士の
〝大連合〟がスムーズに有機的に機能すると考えるのは難しいに決まっている

銀行にしても「苦しい苦しい」で互助会的にくっついていって〝メガバンク〟になっても
ロックフェラーに一網打尽にされるため〝おまとめしちゃった〟だけだった

単純に〝デカければ生命力も強い〟ということがサバイバルの原則なのならば、
未だに地球は恐竜の王国だっただろう

つまり、ファンタジーが大好きなスピ系陰謀論が言う、
レプタリアン云々というのはこういうことだったのじゃ無いだろうか?・・・

     ・・・「レプタリアン人種というのは〝恐竜型の発想の人達〟だよっ」ということ

「経済潮流の動向を占うニュース」みたいなのは、宇野正美を知ってからは
気に留めるように心がけては来たけれど、もし、お金の流れの大原則が、
国家、国際規模でも、個人的スケールでも、
同じくメンタルな要素が大原則として作用しているのであれば、
「一喜一憂」すること自体がバカバカしい

もちろん仕事の上で大きなお金の流れを運用している人は「バカバカしい」なんて
涼しい顔をしてはいられない立場なんだろうが・・・・

いつでも破滅する覚悟がある人とは、失うものが無い人だ
他人の運命まで背負っていない人間の〝気楽さ〟は今の私にはつくづく必要だなと思った
いや、ひょっとしたら今の私にとってそれこそが何物にも替えがたい最大の財産かも知れない

でも本当は誰もが
他人の人生など背負ってはいないと思うし、背負ってはいけないと思うのだが
マジメな家庭人達はとうちゃんもかあちゃんも、そう簡単には割り切れたりしないだろう
  ・・・・常に誰かが誰かの、   ・・・・あるいは相互に〝人質〟なのだと思う

「相互の〝人質〟関係」と、「相互依存」とは叉ちょっと違うとは思う

「おたがいさま」だからといって、即、「互いが相互に人質」というわけじゃ無い
でも、家族であるとか会社の同僚であるとか、古い友人関係であるとか・・・
なかなかそうスッパリと割り切って発想できないのが〝人情〟なのだし・・・

    ・・・・そういうのが〝財産なのだ〟と感じて生きている人達も多いのだろう

いまわたしには幸せを祈る人、守って上げたい大切な人はいない・・・・
・・・だから気楽だし、その〝いない気楽さ〟が財産という、私の様な場合もあれば、
「幸せにしたい人間関係がある」ことが財産、人生の希望、生き甲斐(使命感)の人達も多い

         ・・・・その「抱えているものの大きさ」によって「必要なお金、財産」も違ってくる

あるひとは毎日を硬貨の単位でポケットに持っていれば幸福だろうし
あるひとは毎日億単位のお金を運用し、格闘しているだろう

お金というのは数字で表現されるものだから
  全く無機的な、無感情な世界にも見えるが
      実に主観的な要素で動いている!

人生におけるあまりにも多くのものがお金で買えるため、
     多くの人々の凄まじい想いが、感情が
        この「たかが数字」の中に込められている
・・・それを私たちは日々〝痛烈に〟実感しているはずなのに、
       いまだ法則としては理解出来ては居ないように思う

今のお金の世界が崩壊することを「今か?今か?」と安易に待望している人達は
               スピ系陰謀論者には多いが、そういう人達こそもっとも・・・
                         この〝理解〟が欠落してるのじゃ無いだろうか?






OSHO
サマサティ: 最後の講話
より、
一部抜粋・・・
何時もどれほど
あなたの表現の美しさに打たれているか!?、
私はことばで言い表すことができません
        ――あなたのことば、あなたの身振り、・・・

そして今は特に、あなたの絵の中のそれに打たれます。
 何も描いてない紙の前に座っているとき、
 あなたには正確には何が起きるのですか?
 人は光明を得てからも、芸術的な創造に対する衝動を
 持つものなのでしょうか?

 禅と芸術と創造性について私たちに話していただけますか?

 禅はあなたたちのどんなものも妨げない。
それはその人のなかに潜在しているあらゆるものを開く。

その人が画家になる潜在能力を持っているなら、
禅はそれを開く――その人がそれに気づいていないとしても。

詩人になるべき潜在能力があれば、禅はその能力を開く。
すると初めて、その人は散文ではなく詩で考え始めている。

 音楽や、踊り、あるいは科学的な探求についても
 同じことが言える。

どんなたぐいのオリジナルな経験でも、禅はあなたに許す。
それはどんなものも妨げない。

禅は肯定的な、生におけるもっとも肯定的な経験だ。
それは自分のなかに隠れているものすべてに、
それまで覗いてみたこともなかったような
あらゆるものに気づかせてくれる。

それはただ気づかせてくれるだけでなく、
その潜在能力を探求するようにもしてくれる。

 禅は渇いた、砂漠のような経験ではない。
 それは非常に豊潤な美しい庭だ
 ――突如として花開き始めるあなたの〈生〉のなかの泉だ。
 
 自分がそれに気づいたとき何が起きるかはけしてわかからない。
 それはこちら側の決定ではない、それは選択ではない。
 それは無選択の素朴な経験だ
 ――あなたはある方向に向かって動き始める。
 と、突然その方向がじつに命にあふれ、
 あらゆるものをそれに捧げることができるほど
 魅力のあるものになる。

 禅はじつに創造的な経験だ。
 それは他の宗教には似ていない。
 宗教はすべて非創造的だ。
 実際、いわゆる聖者は何もしない。
 彼らは大詩人でもなく、偉大なダンサーでもなく、大音楽家でもない。
 だが真の、本物の聖者、
 そういう人はいわゆる聖者のなかにあってごく稀にしかいないが‥‥。

 つい先日、今の法王がこの四年間で二千人以上の聖職者を送り出した
 という情報を受け取った。
 免許を与えたのだ。
 
 彼は寄付できる人たち全員に許可証を与え続けている。
 今ではカトリック教会は世界最大の銀行を所有している
 ――バンク・オブ・アメリカだ。
 
 カトリック教会は世界最大の土地を所有している
 ――ほかのどの国の国有地よりも多い。
 
 過去における方法は、戦争、つまり人殺しだった。
 何千何万という人びとが、
 その財産を取り上げるだけのために殺された。
 
 あるいはカトリック教徒になることを強いられた。
 カトリックの皇帝コンスタンチンひとりだけで、
 たった一日で一万人の人間を殺した。
 彼はカトリック教徒ではない者の集会を
 ローマの大オーディトリウムで行い、
 「我われはローマにキリスト教徒以外の者を望まない」
 と言って、軍隊に全員射殺するように命じた。
 
 彼はイタリア全土にキリスト教徒になるように強制した
 ‥‥まさに銃口によってだ。
 
 キリスト教の全歴史は戦争以外のものではない
 ――殺戮と暴力の歴史だ。
 
 またほかの宗教についても、劣らずに同じことが言える。
 それらは破壊的だ。
 いろいろな意味において破壊的だ。
 人びとを疚(やま)しくすることによって壊し、
 罪人にすることによって壊し、
 この世と喜びをすべて放棄させ、
 無用な苦行に入らせることで破壊する。
 だが苦行に入る者は尊敬された。
 
 ところが、その苦行は病と罪の意識以外
 何ひとつこの世に貢献するものを持っていない。
 
 あなたたちの聖者はみな、
 一致団結してあなたたちに疚しさを持たせようとする。

 かくて一方では彼らはこのように人類を破壊し、
 もう一方では自分の信徒に属さないといっては人びとを殺している。
 彼らは――剣によって、あるいはパンによって――人びとに強いる。
 過去においては、彼らは剣を持って来たものだが、
 今ではパンを持ってやってくる。
 貧しい者たちはつねに抵抗力を持たず、
 力によって、あるいは買収によって、改宗させられてきた。
 
 だがこんなものはまったく宗教性ではない。
 これは政治そのものだ。

 禅は本物の宗教的経験だ。
 それが本物であるのは、それが人間のなかに創造性を開発するからだ。
 
 禅の導師は、誰も殺したことなどない。
 彼らは誰にも自分の道を強制したりしない。
 逆に、こちらから彼らの所に行かなければならない。
 しかも受け入れてもらうのは非常にむずかしいことだった。
 導師たちは非常に人を選ぶ。
 こちらからこの上ない欲望と憧れを示さないかぎり、
 彼らが人を招くことはない。
 
 改宗させるなどということは、問題にもならない。
 
 あなたが井戸に行かなければならない。
 井戸があなたの所には来ない。
 井戸はあなたを招くことすらしない。
 それはただそこにあって待っているだけだ。

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