We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年12月

ディヤン ムディトさんの写真
ディヤン ムディト  JOY


秘教の心理学 1


人間と共に、
自然の、自動的な進化のプロセスは、終わる。

人間は、
無意識的な進化の、最後の成果だ。


人間と共に、
意識的な進化が、始まる。


考慮すべき、多くのことがある。


第一に、
無意識的な進化は、機械的で、自然なものだ。
それは、ひとりでに起こる。

このタイプの進化を通じて、意識が現れる。

だが意識が、存在するようになるや、
無意識的な進化は、止まる。

その目的は、果たされたからだ。


無意識的な進化は、
意識が、存在するようになるところまでしか、
必要とされない。


人間は、意識するようになった。
ある意味で、彼は、自然を超越した。


もはや自然には、何も出来ない。

自然な進化によって、可能な、
最後の成果が、生まれてしまった。


今や人間は、進化するか、しないか、
自由に、決められるところまで来た。


OSHO:「秘教の心理学」(第1章 内なる変革)(めるくまーる社刊)

秘教の心理学
和尚
めるくまーる
1995-02


エクスタント DVD-BOX(6枚組)
ハル・ベリー
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2015-10-14


〝改善〟できるものはあるか?
それはもちろん、〝ある〟・・・・  イッパイある、無限にある。

より生産的、より効率的、より合理的な〝やり方〟はあらゆる分野で幾らでもあるだろう

だからそのことと、この「ワンネスの教え」とを混同したなら
私たちは決して先へは進めない

社会システムには常に「よりもっと」があり、それが常に要求され続ける
「なぜ?どうして?」という疑い、「もっと、どうすればいい?」という追求がある

しかしこの、「無限につづく〝改善〟への要求」にアイデンティティーが飲み込まれた時、
私たちは、このジブンというモーターのスイッチの切り方を忘れてしまう

私たちは社会になにがしかの価値をもたらして、その報酬で生きている
貨幣制度を仲立ちとして、これら社会システムとのエネルギー交換で生きている

だから、モーレツ(超死語!)社員の定年で、「燃え尽き症候群」に襲われると
ニッポンのパパは、すぐにぽっくり逝ってしまう・・・

      ・・・〝改善!〟〝改善!〟〝改善!〟の世界から
          リタイヤした途端、「自己の無価値観」から逃れようがないからだ

特に社会的なアイデンティティーが強力な、私たちマジメな日本人にとって、
「努力をしない努力」程、難解な命題はない・・・・

この「無限の改善」「不断の努力」の精神が日本の高度成長時代の繁栄を支えてきた・・・・
だからこれをアイデンティティーとして、ここに殉じることこそが、
私たち日本人の「あっぱれ」であったのだ・・・

「そうだ、リラックスとは実に複雑な現象なのだ!」っというOSHOの言葉に刮目すべきだ
「努力をしない努力」程、究極的にカンタンで、究極的に難しい努力はないだろうと思った方がいい


何か「より良いものになろう」、何か「より良いことをしよう」という努力を一旦脇に置いた時
その「努力への野心」を忘れて純粋にあるがままを見つめる瞳を取り戻した時、
私たちはきっと〝永遠の若さ〟に帰り着くのだろう



気づく事がすべてです。 気づいた時、あなたは完全に目覚めます。

バカヴァン

実はワンネスの教えは非常にシンプルな教えなのです。

ご理解頂きたいのは、
もし複雑に思えたらそれは教えに関して誤解があります。

そして努力しなければいけないと理解したのであれば、
それはまた教えを誤解しています。

努力をしないという意味は無関心という事ではありません。
無関心と間違えないで下さい。

私達がお話した事を見てみましょう。
基本的にワンネスの全ての教えは一言に集約されます。

それは『気づき』です。

ですが往々にして次のような質問を受けます。

『見て下さい。
 私の心は醜く、嫉妬心があり、愛がなく、
 怒りにみち、暴力的で苦しみを体験しています。
 それではいつ、それらが起こらなくなり変わるのでしょうか。
 途方にくれてしまいます。』

そのような質問に対してワンネスで最も理解して頂きたいのは、
みなさんのマインドの中身がどうであるかは、
全くもって重要ではないという事です。

なんでもありです。

それは暴力的であったり非暴力かもしれません。
それは怒りや嫌悪、嫉妬や欲求不満、
恐れでもあるかもないかもしれません。

そういった全ての考え方、感じ方、感情の流れです。

私達はただ単純にその事にこだわっていません。
なぜなら私達は全くそれを変えようとしていません。

それを変えようとしてもがいてもムダです。

変えられません。
それは人間のマインドの所有物で、
とても古くからあり、マインドはただひとつです。

それでは一体全体、私達はなにを目指しているのでしょう?。
私達がお話するこの『変化』とはなんでしょう。

一方では変化しないといい、
もう一方では何らかの変化について言及しているようです。

私達がお話しているのはただ、

  どうか熱心に起こっていることに気づいて下さい

             という事です。
               それだけです。

あなたが
それ以外にできる事はありませんし、
それ以外してはいけません。

そんな訳で、その事を

     努力をしない努力
     
       とお話しているのです。

ただ唯一できる努力は、

今起こっていることに少しずつ耳を傾けて、
こう言う事です。

『わかりました。気づかせて下さい』それだけです。

   気づくにつれて、
    ほとんどそれが不可能だと気づきます。

           最初からそんなに大変です。

その時あなたは白旗をあげてこう言います。

     『神様、不可能です』
     
     その時が、私達がお話する委ねる時です。

しかしただ、やみくもに委ねればいいというものでもありません。
自分が何もできない、何も起こらないというふうに単に気づく事です。

そうして初めてあなたは、
ブレッシング(注、ワンネス・ディクシャのこと)
を通してディバインを引き出せます。

ブレッシングがあるべきところへあなたを導きます。

    それはどこでしょう。

      実はどこでもありません。

       最初から行くべきところなどないのです。

あなたは、起こっている事にもっとより気づくだけです。

教えは言います。

    それが最初の第一歩であり、最後の一歩です  と。

   これはあなたが最初の第一歩を踏み出したら、
    あなたがどこかへ行くという意味ではありません。

       どこにも行きません。

        単純にどこにも行く所がない訳ですから。

ですから
最初の第一歩とは何でしょう。

              その第一歩は気づきです。

最後の一歩はなんでしょう。

                    気づきです。

        それはどこでしょう?

          ・・・・ただ気づきがあるだけです。

      気づきが最初のすべてで
          最後のすべてです。

                どうぞご理解下さい。

気づきはあなたをどこへも導きません。

嫉妬から解放してくれるわけでもありませんし、
怒りから解放してくれるわけでもありません。
あなたをセイントにしてくれるわけでもありません。

                まったく違います。

気づきはあなたに、
嫉妬からの自由、怒りからの自由、嫌悪からの自由を
               与えてくれるだけです。

そしてあなたは
それらに干渉することをやめ、
変えようとする努力をやめます。

最初にあるのは気づきです。
途中にあるのも気づきです。
最後にあるのも気づきです。

気づいた時、あなたは完全に目覚めます。
目覚めた時、あなたはただ存在しているのではなく、生き始めます。

あなたは今、白昼夢の状態にいます。

その間中はずっと、
思考(マインド)が作りだす
この争いに捕われています。

あなたはどこかにいて、どこかに行こうとしています。
それが思考の動きです。

あなたはそれに引き込まれていて、捕われています。
       ですから生きていると言えないのです。

ただそこに存在しているだけです。

もう一度繰り返します。

あなたはどこにも行きません。
あなたは何も変えません。
変えられるものは何もありません。

私達がただ、
あなた方に期待しているのは、
どうか起こっていることに対して
熱心に気づいて下さいという事です。

それはあなたが楽しめる美しい映画かもしれません。
それに勝る映画はありません。
それに勝る本はありません。
気づきがなければその本は読む事ができません。

         気づく事がすべてです。

気づきとはあなたの中にプレゼンスをもつ事です。
気づきは深まるにつれ、プレゼンスも深まります。

そうするとある時、
    プレゼンスが完璧にそこにいると
       強烈にきづく事があります。

そのプレゼンスとはあなたの言う神です。
その時、あなたは神になります。

あなたとプレゼンスは完璧にひとつです。
あなたと気づきとプレゼンスは完全にひとつになります。
その時にあなたは自分自身が神である事を見るでしょう。

私達はそこを目指しています。

ですからこの瞬間から、
起こっている事をただ観察して下さい。
     何もしようとしないで下さい。
それに対して何もできることはありません。
ただそこにあるだけです。それが真実です。

それがうちなる正直さです。
それが本物になる瞬間です。

その事にどうか無関心にならないで下さい。
むしろ強烈に気づいて下さい。
ただそれだけがあなたのすべき事です。

それがワンネスの教えです。
それが最も根本的な教えです。
他の教えは主にその根っこの教えのサポートです。

最初の一歩が最後の一歩という格言のようです。
ただ経験して下さい。

その教えを経験しようと努力すると
 なんにも経験しません。

あなたが気づく時、経験は勝手に起こります。

現実をありのままに経験することができます。

私達はただそれだけをお話しているのですが、
またあなた方が努力をしようとしてこう言います。

『わかった!
 私は今これから苦しみを経験するぞ!
 そうだ!
 現実をありのままに経験するぞ!
 よーし!良い人間になるぞ!』

良い人間とか、劣った人間などというものはありません。
この気づきによって行動は自然に起こります。
それが私達のいう行動です。

それ以外のことも行動と呼ぶでしょうが、
それは単に活動にしか過ぎません。

この行動のことを気づいていない人は、
よい行動とか悪い行動、正しい行動、誤った行動と言うかもしれません。

気づいている人には、ただの行動です。
その人には、それは完全な行動です。
これは完全な気づきによって起こります。

自分自身の体と恋に落ちることはナルシスト的でなく霊性への第一歩だ。

どこで調べたのか?
(顧客情報を売り飛ばすソブトバンクの)わたしの携帯に営業の電話がかかってきた

「ジュエリーに興味有りませんか?」

「ないよ」

「女の子との出逢いに興味ないですか?」

「いや、人間自体に興味無いけど?」

「ああそうですか?では・・・ガチャン」だった

家族が死に絶え、結婚への意欲もなく
趣味もなく、社会貢献する意思もなくなると、
           いよいよ人生に興味は無くなる・・・

誰に対しても「どうでもいい」
社会がどうなろうが「どっちでもいい」

   すると途端に世界はどんどん小さくなっていく

社会に不満があれば、自分自身に不満があれば
世の中にまだ見ておきたい、体験してみたいことがあれば
世界は大きい、年を取ってもむしろどんどん大きくなっていく

  なぜなら「まだやりたい、やり残している・・・・」と感じているのに
  人生の残り時間はいたずらにどんどん消耗しているからだ・・・・

だから〝為さねばならぬ事〟などないのだと気がつき、
自分に植え付けられた強迫観念から逃れると、
漫画「ワイズマン」でゴドーが言っている様に
「世界は小さくなっていく、縮んでいく・・・」

そして人生への焦りもなくなっていき、平安を感じる



いま、街角にはクリスマス・ソングがあちこちに流れている
もう何年も、人とクリスマスを共に過ごすことはなかった
それを「寂しい」と感じる時期もあった
そして「寂しい」と感じなくなる自分に気がつき、
そんな自分を「さびしい奴だな」と去年までは冷笑していた。。。

しかし今年は街角のクリスマス・ソングそのものが
いつも以上になんだか遠くに、ぼんやり感じられる

クリぼっちの人は是非「元帥」を!



ところが、街の〝リア充〟たちの空騒ぎが全くの他人事になり
「外界で起きていることがちっぽけでどうでもいい」ことになってくると
次に困ったことが起きてきた・・・・

Aloneに目覚めるのは素晴らしいことではあるが・・・・

  もしそこで
大事にすべきものがなにもないと、人は落下していく・・・・
奈落の底をどこまでも・・・・   それをさっき体験した

  そのときこの「無限の落下」を押しとどめてくれるのが
   自分の肉体への愛情だ
    「自分自身への肉体の愛情」もないと
     自分の人生そのものが小さくなっていってしまうのだ

しかし
  この世界へ参入する際のすべての基礎であった「自分自身の肉体」への愛も
  この世界に染まっていくと同時に私達は往々にして見失ってしまっているのだ!

私達は皆、この世界に生まれた時、
まずはじめに自分の肉体ありきだったはずだ
母親でさえ、「自分の肉体の面倒を見てくれる」からこそ
重大な関係であっただけの話で、子供にブツクサ文句しか言わない
ネグレクト・ババアには用など無いのだ

OSHOの
「自分の肉体への愛こそ霊性への第一歩だ」
という言葉は実に重要で、本当のことだな!、と痛感した今夜だった

自分の肉体を大事にしたことがなければ、他人の肉体も大事にできはしない。

しかも、誰ひとり大事にしないのだ! 

自分は体を大事にしている、 とあなたは言うかもしれない。

だが、私はこう断言する、

「大事にしている者はひとりもいない!」

たとえあなたが体を大事にしているようにみえても、本当にしているわけではない。

このOSHOの〝断言〟を、本当に理解出来る人は少ないだろうと思う
なぜならこの断言を痛感出来るのはALONEを達成した人だけだからだ


物理科学的な研究などでは
実験データーや観測結果の検証などがとても重要だ

世の中のいろんな過去の事実の検証も
物事の決定やら決議に不可欠だ

南京大虐殺があったとか?無かったとか?
慰安婦は任意であったとか?強制であったとか?・・・
そういうことにも歴史的経緯とかの資料や証言は重要だ

OSHOがここで言っている「真実の目撃」とはもちろんそういうことではないと思う

たとえ圧倒的に唯一の解釈しか見当たらないように思える様々な〝事実〟ですら、
過去というのはいくらでも解釈し、ひねくり回すことが出来る

  「~について考える」「~について議論する」
    ・・・まさにその瞬間から私たちは相対の世界に潜り込んでしまう

なぜ私達が過去をひねくり回しているのかと言えば
それは、
「全世界の正義がいつかは実現し、そして歴史の帳尻が全部合う日が来る」
                      という儚い夢を捨てきれないでいるからだ

   もしそんな日が来るならば、その時こそ「世界が終わる日」ではないだろうか?
   それは
    「至福千年の始まりの第一日」
   なのではなく
    「審判の日=ジャッジメント・デイ」   だろう

しかし幸か不幸か?そんな日は来はしないだろう・・・
                        すべての帳尻が合う日など来はしない!

  どんな時代、どんな社会でもがめついヤツは居る、貧困はある、不正、不公平はある

   社会は永遠に不完全だろう、私たちは永遠に未完成だろう

     「私とあなたたちとの違いは、不完全な自分に
      カンペキにOKと宣言したか?していないか?
                      その違いに過ぎない」 BY OSHO

でも、
そんな帳尻が合う日が来なくても、世界は常に瞬間瞬間バランスは取れているのだ
わたしは誰と誰との愛以上に、それこそが「無条件の愛」と思っている

     その「自明な証し」こそが、私達が目の前にしているこの世界の美しさだ
   人間が考える正義だの帳尻だのとはお構いなく
   「陽はまた昇り、花々は咲き乱れる・・・」

  それ以上に「この世界の絶妙なバランス」を証明するものが、何か必要だろうか?

私は経歴を持たない
私の生き方は哲学ではない
私は何の経歴も持たない 
経歴だと思われているものは何であれ まったく無意味だ
いつどの国に私が生まれたかは 問題ではない
問題なのは 私が今まさにここにいることだ」Osho


私は哲学者ではない
哲学者は物事について考える
それはマインドの手法だ
私の手法はノーマインドの手法だ
それは哲学的思索とはまったくの正反対にある

それは物事やアイデアについて考えるのではない
それは 明晰さをもって見ることだ
明晰さは あなたがマインドを脇に置いたとき
あなたが 沈黙を通して見たときに やってくる
論理からではない
見ることは考えることではない

太陽が昇る
もし それについて考えたなら
あなたは それを見逃す
なぜなら それについて考えている間
あなたは それから離れてしまうからだ
考えている間 あなたは何キロも離れてしまう

思考はどんなものよりも早く動く
もしあなたが 日の出を見ているなら
ひとつのことが 明らかだ
あなたはそれについて考えてはいない
そうしてはじめて あなたはそれを見ることができる


思考は 目を曇らせる
思考はそれ独特の色合い
独特のアイデアを現実に付け加える
それは 現実があなたに届くのを 許さない

思考は それ自身を現実に押し付ける
それは現実から気をそらさせる
だから未だかつて
ただ1人の哲学者も 真実を知りえなかった

すべての哲学者は
真実について考えてきた
しかし真実について考えるのは不可能だ

あなたは それを知るか
知らないかしかない
もし知れば 考える必要はない
知らなければ考えようがあろうか?

真実について考える哲学者は
光について考える盲人のようだ

あなたに目があるなら
光について考えはしない
あなたはそれを目にする

見ることは
まったく異なるプロセスだ
それは瞑想の副産物だ

だから 私は自分の生き方を
哲学と呼ばれることを まったく好まない

それは哲学(フィロソフィ)とは 何の関係もないからだ
それを「フィロシア」と呼んだらいい
「フィロ」とは 愛という意味だ
「ソフィ」とは知恵や知識を意味する
知識への愛 だ

「フィロシア」では 「フィロ」は同じく愛を意味し
「シア」とは見ることを意味する

知識ではなく実存
知恵ではなく 体験することを意味する



かつてはテレビや新聞と言った画一的なマンモス・マスメディアが
〝国民的なスター〟を人工的に画策し、演出して売り出し、流行させていった

しかし、おニャン子クラブ、AKB48以降、スターとは
「一ダース幾ら、一グロス幾ら・・・」とコンドームみたいにしか売り出せなくなった

それと同時にマンモス宗教団体も、もはや時代的な役割を終えつつある
一昔前のように、信念体系の共有によって徒党を組み、
政治的な権力まで掌握しようとしても、今はもうそんな時代ではない

さらにもっと昔は民族的なアイデンティティーの鼓舞によって
人々は殺し合い=戦争もしてきた

しかしいま、・・・
「笛吹けど踊らず・・・」  ハメルーンの笛吹き男じゃあるまいし
               もうわたしたちは集団でどこかに連れて行かれるような
               ネズミではもう無いのだ

  宗教全体が世界中から消え去っていくでしょう。


質問


  宗教を盲信するこの時代、

  この運動ではそれをどのようにとらえているのでしょうか?


  世界に何が起こるのでしょうか?

  この状況を打破するためにあなたは何かを計画しているのでしょうか?


  そして、その筋書きの中で

  今、私はどんな役割を担うべきなのでしょうか?



バガヴァン

あなたの言うとおり、

世界中で宗教に対する盲信・狂信が溢れています。

あなたの質問は、

私たちがそれに対してどうしようとしているかということと、

その中であなたの役割が何かということですね。


私は、

それに対して何もすることはないと思っています。


同時に、

あなたにも何の役割もないと思います。


今起こっていることは、

宗教の最終章を見ているに過ぎません。

宗教全体が世界中から消え去っていくでしょう。


宗教は今まで長く生き延びてきました。

しかし、時代は変わり、宗教は死んでいきます。


一つの宗教が死に絶えるときはいつも、

宗教はその原理主義を持ち出してきます。


原理主義勢力の大きさは、

宗教がどれだけ死んでいるかを意味します。


まるで人が高熱に冒され死にいくように、

宗教にもそれと同じことが起こっているのです。


宗教的熱狂がその宗教の死を早めます。

今や世界中の宗教を見てみると、


  イスラム教原理主義、

  キリスト教原理主義、

  ヒンズー教原理主義、

  仏教原理主義が    台頭しています。


別の言葉で言えば、

すべての組織化された宗教の死期は近づいているのです。

宗教が死んでいくとき、宗教はその原理主義的な特徴を提示します。


それに対してあなたは何もできません。

あなたができることは、

患者が死ぬのをじっと待つことのみです。

こうして宗教(患者)は死んでいきます。


そこから何が産み出されるかというと、

それは新しい形、新しい普遍的スピリチュアリティー(精神性)です。


あらゆる信仰から最高のものが抽出されたものです。

そういったものが産み出されるでしょう。

人々はどんな宗教にも固執しません。

人々は、自分のニーズに従って自分自身の宗教を創り出します。


仏教、キリスト教、ヒンズー教から、

それぞれ一部分ずつ抽出し、自分の宗教を創り上げるかもしれません。


多くの人々がすでにこれを始めています。

それが新しい時代であり、私が黄金時代と呼んでいる時代です。

すでにそれは始まっています。

患者は死んでいきます。


つまり、あなたが今日知っている

すべての宗教はもう存続できなくなるでしょう。

この変化は信じられないほどの猛スピードで進んでいきます。

あなたはその中に巻き込まれてしまいますが、

どうしていいか分からないでしょう。


  昨日まで有名だったグル(導師)や 宗教は

  明日になれば消え去り、別のグルや宗教が台頭します。

  何かが死んでいき、何か新しいものが生じます。

  筋書きのすべてが完全に混乱しています。


     何かが死ねば、別の新しい何かが産まれます。


     五千年近く続いて来たものが 死に始めます。

     三千年続いたものも、

     二千年続いたものも 死期を迎えます。


そして新しいものが産まれ出る様子は、とても急激です。

自ずとあなたはこの中に巻き込まれます。

どうしていか分からないでしょう。


ですから私が指摘できるのは、

あなたにできることは何もない、ということだけです。


物事が急速に起こっていくのをじっと待って下さい。

そしてある日突然、あなたは気づくでしょう。


  「私はヒンズー教徒だ」

  「私はキリスト教徒だ」

  「私はインド人だ」

  「私はパキスタン人だ」

       と話す人が誰もいなくなるのを。

       そういったものはすべて消え去ります。


ただ言えるのは、

それが急激に、そして突然に起こるということだけです。

これからあなたはその時代へと突入していきます。


私には

何の計画も何の行動指針もありません。

        私はただそれを観察します。


              一緒にどうですか?

         私と一緒に観察しませんか?


(拍手!)



このページのトップヘ