We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年12月

はっきりいって「どっちでもいい」ことであれば
強く信じ込む理由なんか無い・・・

  「その答えは〝A〟だよ」と言われれば

      「ふぅ~ん、へ~、そうなんだぁ~」としか思わないハズだ

  「ごめん違った!、それは〝B〟だよ」と言わても、やっぱり

      「ふぅ~ん、へ~、そうなんだぁ~」としか思わないハズだ


しかし何か強い欲望、欲求、焦り、動機があった場合
それに関係する疑問に対しては、わたしたちは曖昧にしておくことは出来ない
シロか?クロか? 右か?左か? ハッキリさせなければ落ち着かないことだろう

本当の真相はどういうことなのか?
  のんびりと自然な成り行きでその結論が出るのを待っていられる人はいないだろう

人が何かを鵜呑みにする、例え証拠不十分でも結論をさっさと出し、断定し、信じ込んでしまう

・・・その背景には必ずなにがしかの〝動機〟がある
   しかしその〝動機〟によって人の眼は曇ってしまう、欲目でものを見てしまう

   一体何かを〝信じ込む〟必要がどこにあるのか?
   見たことも無いことを信じる、ジブンで確認したこともないのに思い込む・・・
   そんな必要がどこにあるだろか?

   それは大概結論を急いでいる時だ

   わたしたちは早く、インスタントに答えが欲しい、「時はカネなり」だからだ
   成功法則ではよく「即決即断」を礼賛する
   確かに人に先んじて、何かビジネスを展開したいならば必要な措置だろう

    「ひと山当てたい」人間にとっては「即決即断」は確かに重要だろう

たとえば「これを信じる事が全人類の存亡に関わるんだ!」という大義を
                       持ち出されることだって有るだろう

でも、そんなに大事なことならば、やっぱり焦って何かを信じ込むのは
                          むしろ無責任というものだろう

しょっちゅう誰かが「てえへんだ!てえへんだ!」と
息せき切ってあなたのところに駆け込んでくるかも知れない
「もう待てない、敵か味方か?信じるか信じないか?どっちかにしろ」っと
あなたに立場の表明を急かすかも知れない、・・・・・つまり「show the Flag」というやつだ
その人はあなたの同意をとりつけて駆けだしたいのだ・・・
       でも心配ない、
       そんなのは相手の都合で言ってるに過ぎない
       そんなのは相手が自分の価値体系にあなたを巻き込もうとしているに過ぎない
       あなたはハナクソをほじってきいていればいい

  相手の言っていることが正論なのか?真実なのか?それすら二次的なことなのだ
  あなたが自分自身を裏切らない、自分自身に素直であることが最も重要なのだ

納得出来たことは「納得出来た」、納得出来なかったことは「納得出来ない」
理解出来たことは「理解出来た」、理解出来なかったことは「理解出来ない」でいいじゃないか?

 ・・・それ以外、一体どうしようがある?
  ・・・嘘をついてでも理解したフリ、納得したフリをするべきだろうか?

 わたしたちは物事の理解を、
 亀のようにワンステップ、ワンステップ、確実に積み重ねていくことをなぜ忌諱するのだろうか?

わたしたちは死ぬまでマークシート上の選択肢に回答し続けなければいけないんだろうか?
わたしたちはいつまで他人の信条によってあちこち引きずり回されなければいけないんだろうか?

    なぜみんなそうするのかといえば
      「競争に勝ちたい」からだ、「人に遅れをとって損をしたくない」からだ
       「残り物にも福がある」かもだなんて、イマドキ誰もそんなのんびりは考えない

     あるいは 「皆さんそうしていらっしゃいますよ」と言われると
         自分だけ取り残されてしまうのが不安になり、矢も盾もたまらない

     はたまた自分自身はバカだから信用できない
        だから「誰か偉大な人に」 ・・・指導して欲しい、人生を導いてもらいたい

     そうして世界中の様々な民族が、指導者を、救世主を何千年も待ち続けてきた・・・

でももしあなたが、
 群衆がゾロゾロと殺到する方向を無視して悠然と生きている人ならば
       きっとあなたには気高さがあるだろう、高貴さが漂う人だろう

でもその生き方を選ぶためには、武士道のような死を背景に背負った勇気が必要だろう

「喰わねど高楊枝・・・」そんな事を言っていたら、きっとあなたは〝乗り遅れる〟
でもそれでもいいとなると、それは極めて危険な、絶対的な死が待っている

            しかし・・・  それでもいいじゃないか?

その気高さ、孤高さ、潔さを、誰ひとり振り返ってみることがなくても、誰にも知られなくても
それでもいい・・・  そして当の本人は、別に「勇気を振り絞って」そうしてるわけでは、・・・ない

     ・・・そんなふうにしか、生きられないからだ、そこにしか道がないからだ

      ・・・そしてその先にあるのが断崖絶壁であるならば、
                 きっとそこに辿り着くのは「死ぬのに絶好な日」なのに違いない・・・

      ・・・・「過去からの信念に追い立てられて生きていく」
                   そのこと自体がすでに「死んだ人生」ではないだろうか?

だから、何も信じない、信じる必要は無い、信念によって選択肢を左右させることもないからだ

ただ生きる、生きられるところまで生きる、
          何の信念も持つことなく・・・
           何ひとつ待つこともなく・・・  手ぶらのまま

それは「いきたまま、奈落の底にどこまでも墜ちていく」生き方・・・
  だれも、なにも支えてはくれない  ・・・でも本当は誰の人生だって、そうなのだから

誰かを信じ、何かを信じて生きていく人達が、これからも殆どだろう
でもそういう人達でさえ、その決定をしたのは結局自分の責任だ
誰も人の人生の責任を負うことなど出来はしない
誰も自分の人生の責任から逃れることは出来はしない

・・・結局のところ
   その責任を100%自覚して自分に誠心誠意生きていくか?
   あるいは
   その責任を自覚せずに、常に誰か、何か、の支えを探し求め、彷徨い続けるか?

          そのどちらかの人生しか、人間にはないのかも知れない


80%が、より精度をアップさせて90%に成ることはあるだろう
90%が、より精度をアップさせて99%に成ることもあるだろう、
99%が、99.9%になることも、99.99%もありえる

  ・・・でも人間の為し得ることに100%を保証できるものなどないだろう

遂に最新作が封切られた「STAR WARS episode7」だが
このスターウォーズという映画シリーズにおいては
宇宙的なフォースとその暗黒面との闘いが描かれてきた
このepisode1~6までにおいて貫かれているテーマは「光と闇との調和」だった

 なぜアナキン・スカイウォーカーことダース・ヴェイダーが
      「フォースにバランスをもたらす者」であったのか?

   つまりシス暗黒卿とは「正義の騎士達・・・ジェダイ」が落とした〝影〟であることを
   彼、ベイダーはもっとも体現した存在だったからだ



「正義(整数)を目的として制度(精度)を求めた時、そこに不正の落とし穴が必ず見つかる」

「絶対的な善を目的として人々が努力した時、そこには絶対的な悪の影が落ちる」

99.9%の小数点のあとにどれ程「9=求」を積み重ねても、それは決して100%には達しない
なぜなら「9=求」そのものが「0=完全なる静寂、平安」の拒絶を意味しているからだ
〝求〟とは「自らが欠けた、小数点的な存在である」ことの強調だからだ

   ・・・・相対的存在、小数や分数は決して絶対的な「個」になることはない
      相対とはあくまでも相対、絶対はどこまでも絶対
      部分はどこまでも部分、全体はどこまでも全体だ

        「9」が「10」に向かうには「シフト」がどうしても必要なのだろう

「9」とは球(スフィア)でもあり、子宮も暗示している

つまり「10」とは「テン=天」であり「点」でもある、「天からの授かり物、子宝」だ
「9」は渇望するが、渇望だけでは「天からの授かり物」は得られない
「9」の〝探求〟とはもっとも男性的な行為だが、それは「陽きわまって陰」にシフトする
「10」の一桁目のゼロとは「子宮の様な静けさ、受容性」で、
探求者「9」がその様に女性的に転換することで次の桁の「ワン=1」が天から降りてくる

何故私たちは絶対を求めるのか?完全性を渇望するのか?
   そんなもの、この天地のどこを探したって見つかるわけ無いのに・・・

・・・・否、たしかに見た目だけで言えば「この自然界に完全なるものなど無い」のだが
   逆にいえば全ての存在事物、森羅万象は「完全性を内在」させている・・・・

   だからこそ「絶対性を求め続ける」人間達以外には、
        完全主義者も、神経症も、統合失調症もないのだ

            自然であること・・・それ自体が内面的な完全性、調和なのだ

  人間以外の動物他はずっとそうだった・・・
  しかし逆に言えばそれ以外の選択肢は無かった

  ・・・人間だけが、「意識的に」自然体の中に完全性を再発見できる
       そして、「意識的に」そのTAOに従うことが出来る

     文明という生物最強の武器(ライト・サーベル)を持ちつつも、
      私たちがそれによって自滅しない為には、
        この「内面的な再発見」以外の道は無いように思える

世の中の表面的な、現象的な〝不完全性〟に直面しつつも
どうしたら完全性への外界への渇望に気を奪われずに、
内在的な完全性を再発見できるだろうか?

 それがOSHOがいうところの「瞑想」であろう・・・

   この記事でわたしが提案したいのは

「外界はどこまでも〝9の世界〟だ!、私たちの思考も体もずっぽりその世界の一部だ!」

っということ・・・これを徹底的に理解した時に「探求」は終わる、「渇望」も無意味になる
相対は永遠に相対のままなのだ・・・  それが絶対に辿り着く日は来ない
それが量子力学の言う「不確定性」だと思うし、哲学が言う「不可知論」だと思う

その時初めて「9」は止まり「10」が起きる・・・
               「外向きの肉眼」から「内向きの第三の眼」が機能しはじめる

ゾルバ・ザ・ブッダ・・・  私たちは外向きの両眼と内向きの心眼の3っつの眼をもって
               相対の世界と絶対の世界の両方を行き来する・・・それが「8=波」

9/10/8~光透波とはそんな意味なのかもしれない

今朝見た夢

わたしには妻が居て赤ん坊がいた
しかし赤ん坊の口の周りには何か砂のような物がこびりつき
呼吸困難を起こしていた

・・・息子か?娘かは?は判らなかった
  でもとにかく
  その赤ん坊は苦しんでいた・・・ 呼吸に必死だった・・・


   突如その口の周りの砂のような物(※夢見ている最中は
   ハッキリとその物質の正体は解っていたのだけれど) が消えて
   赤ん坊は楽に呼吸出来るようになった

私と一緒に赤ん坊を心配していた妻は驚喜して喜んだ

  「ああ、これでこの子は自力で呼吸出来る!」

       もちろん、夢の中でわたし自身もホッと安堵し、そして目が醒めた


この「自力で」という夢の中の架空の妻の言葉には何か特別なメッセージを感じた
私はこの夢で、ヴィパサナという極めて内照的な瞑想を「自分の赤ん坊」という
分身を通して外側から見るというヴァーチャル体験をしたのだ

それは今朝フェイスブックのタイムラインで流れていた以下のOSHOのメッセージと
シンクロしているのではないかと思う

人間のエゴは種子に他ならない。
それはあくまでも自分を守ろうとする。


人々は私に尋ねる。

「エゴが神に対して
 これほどの障壁となるなら、
 そもそもエゴは
 どうして存在するのですか?」

それはあなたを守るために存在している。
ちょうど固い殻が
種子の潜在力を守るために存在しているように。

その潜在力はひじょうに柔らかい。
まわりに固い殻がなければ
壊されてしまうかもしれない。
固い殻は敵ではない。


固い殻が敵になるのは、
春が来て、
土壌が用意されているのに、
種子が死ぬことを拒むときだけだ。
固い殻が


「さあ、春を敵にまわしても、
 おまえを守り続けるぞ。
 この土から君を守ってやるぞ」


と言えば、問題が生じてくる。

      ・・・問題が生じるのはそこだ。


エゴそのものが問題なのではない。

子供には自我が要る。
さもなければ
子供はまったく無防備のままにさらされる。


子供はこの闘争の世界を
どう生き延びてゆけばいいのかわからない。
子供はたび重なる危険から身を守る術を知らない。


子供はひじょうに柔らかく、もろい。
覚者(ブッダ)になる前に死んでしまうだろう。


自我が彼を助ける。
自我は一種の鎧であり、マインドもそうだ


   それは子供を守っている。



〝赤ん坊〟への愛情・・・  それは「自分の分身に対するエゴイスティックな愛」だ
この「赤ん坊」と「愛」とは「逆も又真なり」ということで、倒置可能かも知れない

つまり  「愛とは、他者を自分の分身(赤ん坊)と見なし、
        自分と同じ〝呼吸する存在〟と感じること」  という風に・・・

「愛とは〝開花した自己愛(=エゴ)〟のことである」 という言い方も可能かも知れない

だから前記事で書いたように
〝愛〟という言葉を、高邁な、神聖な、何か、だと考えて
              理想の神棚に飾り付けることには、わたしは反対だ

   その瞬間からわたしたちは〝愛〟を
       聖職者達の専門分野として手放し、「いつかどこか」 に追いやってしまう

  〝愛〟は私たちに永遠の安らぎを絶対的に保証しているのではなく
        日々刻々の営みの中で、呼吸と寄り添って〝在る〟ものだと思う
                    それは最も身近な〝日常必需品〟だとおもう

   その場合にのみ〝愛〟は、無条件で、無償でいられるのではないだろうか?
     だからこそエゴが有ろうが無かろうが、誰もが料金を気にせず呼吸出来る

もしエゴが、エゴのまま終わり、固い殻の種子のまま死んでしまうなら
その中の宇宙も死んでしまう、「単なる〝可能性〟であった」だけで終わる

そして呼吸こそが「エゴというブッダの種子」を片時も離れずに見守る乳母なのかも知れない

私たちは「自分は光の天使」だの「あいつ等は悪魔」だのとレッテル貼りに勤しんで
せっせとエゴ退治に従事して来たが、それゆえに私たちの中のブッダは開花することがなかった
・・・のだとしたら?


呼吸・・・ヴィパサナとは、もっとも「自分は〝在る〟」という強い自覚を促す
   ・・・呼吸が思いのままに出来ない時の地獄の苦しみは、誰でも即座に体験出来る

でもそれと同時に、呼吸ほど無自覚に出来るものも無い
私たちが日常で呼吸を意識するのは、呼吸が困難な場合のみだ

     「わたしは在る」 と 「わたしは無い」 との自覚をシームレスに往復しているのが
     〝呼吸〟という不可思議な営みだ


私たちの年収がいくらか?という前に、
 私たちが男か?女か?である前に

 私たちの人生の価値とは?意味とは?
  私たちの人生の目的は?理想は?と考える前に
   私たちの人生とは、SOMETHING=何か?である前に、・・・・

     ・・・・私たちの人生とは、ただシンプルに  (無言)  ・・・〝呼吸〟なのだ


愛は幻想、慰め、以上の何かではない
だからといって何の価値も、何の意味も無いと言ってるわけでは無い

自動車産業が本格化しはじめた頃のアメリカ・・・
組み立てラインの男達は受け取った給料を握りしめて酒と女に走った

妻達は「金曜にもらった給料が月曜にはもう無くなっている」と
ヘンリーフォードやロックフェラーに嘆いた

そして悪名高き禁酒法が施行され、アル・カポネのようなギャングが
暗躍した・・・

   酒?売春?・・・あきらかに「慰め」だ

でも、男達は組み立てラインのロボットにされていた
それが妻達にはハッキリ見えていただろうか?
妻達にとっては、「給料をまっすぐ手つかずに家族の元に持ってくる」
ことが愛だっただろう・・・  しかし、人類初の「ロボットのような」
仕事に取り組んだ男達の虚しさ、やるせなさを一体誰が責められるだろう?


もし、「愛という幻」に何の価値もないのならば
じゃあ何が「価値がある」と言いたいのか?
「お金」?「衣食住」?「エネルギー」?「情報」?・・・

イルミナティーとはそれらの全てを今だ牛耳っている

そして「自由・平等・博愛」を
政治的なスローガンにしてしまう (言語化してしまう) ことによってわたしたちを混乱させてきた

聖職者達は「性とは悪魔的な浪費、慰めに過ぎない」といって
私たちに二千年間、罪悪感を植え付け続け (叉、彼ら自身もそうして苦しめ)、
                 いままさに全人類規模の破滅、自殺に追いやろうとしている



100

これら洗脳された人類の大半が、
                   未来への欠乏の不安に駆り立てられ・・・・

聖職者達によって狂信に駆り立てられている原理主義者達が
                   人類を「浄化の炎」で焼き尽くそうとしている・・・・

   しかしそんなことなど、ニートやヒキコモリやアスペルガーで苦しむ人達には関係ない
   なぜならかれらは今この瞬間、瞬間、生きていること自体が地獄だからだ
   多くの人達が「明日を思い煩う」のだが、彼らはその心理的ゆとりさえない・・・
   そんな人達が、「人類の恒久的な平和や繁栄」を願えるというのだろうか?

 クリスマスの冬空に凍えるホームレスの人達が温かいスープの次に何を求めるだろうか?
       ・・・・それは〝慰め〟だろう  誰かを〝必要〟とし、誰かに〝必要〟とされることだ
        一体それを誰が非難できるだろうか?  彼らには確かに〝必要〟が必要なのだ

               哺乳類に必要なのは、まずは温かいスープ、次に暖かいきずななのだ

      人は心の芯まで包み込まれるならば、
        そのまま冬空の下、凍え死ぬとしても笑顔だろう

         命を繫いだのは風俗嬢!? ~うつ病と性の話~

慰め、方便というのは、あくまでも通過点に過ぎない
そして愛を頂点として、この世のすべてのものの価値は方便に過ぎない

 でも、それらの 「幻想に過ぎない」 ものには大きな価値がある
 生物には進化のプロセス 〝間(ま)〟 ・・・母性原理というものがどうしても必要なのだ

  真実は「いまここ」にあるが、では「いまここ」とは「どこ」から「どこ」までのことだろう?
  厳密に言えば、「いまここ」とは「NULL」である、「いまここ」には一切〝間(ま)〟などない
   完全な〝自我の消滅〟だ・・・  そこには一切の記号も論理も、定義も入り込む隙は無い
   もしそれらが入り込むならば、そこには論理への主観的解釈が、相対性が入り込む

   では一体、だれがこの「一切の隙間がない」真実に飛び込んでいけるというのだ?

   ・・・誰にも〝間(ま)〟が必要なのだ  ・・・だれにも〝方便〟が必要だ

超越とは、それ自体は無時間だが、
そこに至る理解のためにはどうしても段階(ステップ)が必要だ
     ・・・それが法華経が言う〝化城品(けじょうぼん)〟の
               示唆しているところじゃないだろうか?

      愛・・・  いいじゃないか?

      慰め・・・  それでいいじゃないか?

       祈り、願い、・・・・  それもいい

       結婚、「永遠の愛の誓い」・・・・  茶番だが、深刻になりすぎなければやればいい

    酒、麻薬、タバコ、売春、ギャンブル、ジャンク・フード・・・
                     人々はそれらを必要としているのだ

   多くの人達がそういったもので、自分をギリギリ保ちながら、本人なりに精一杯生きている

     いろいろ、なんだってやってみればいい、心ゆくまで・・・・
     たとえ己の肉体が、生活が、人間関係が、人格が破滅しようと・・・・やむを得ない

         いつかそれらの化城のすべては幻として消えるが
          だからといって価値が「なかった」のではない

               他人の尊厳までも犯すのでなければ
                禁止すべき事でも、非難すべき事でも無い

  あとには  「納得」が、  「満足」が、 ・・・「深い理解とくつろぎ」が残っている

      本当にその瞬間、消滅するのは風俗産業ではなく、麻薬カルテルでもなく
      それらさまざまな慰めへの依存にしがみついていた「わたしの執着」に過ぎない・・・・
      その時、消滅するのは〝世界〟ではなく、〝わたし〟という価値体系に過ぎない・・・

  タブー意識や、失敗への不安に足を取られ、罪悪感で凍り付くのは停滞に過ぎない・・・・

  この世の何かの価値観を絶対視することで、信念に凝り固まるのは頑迷に過ぎない・・・・


   焦り、不安、孤独・・・・   これらは色々なおもちゃ、様々な慰めを必要としていた
                     そしてわたしたちはサンタクロースを待ち続けた

サンタが実在しているかどうか?
           ・・・が問題なのではない

 サンタを必要としなくなることが、
           ・・・・なにも要求したくなくなることが人間の成熟なのだ



 存在する全てに感謝し、
   きつくしがみつくのをやめ、握りしめた手を緩める・・・  それが卒業だ

メリークリスマス!

サンタコスプレ

1/∞(無限分のイチ)は限りなくゼロに「近い」数字、つまり限りなく「近似値」ではあるが
分母が如何に巨大な数字であっても分子が〝1〟である以上、ゼロにはならない

〝何か〟を永遠に切り刻んでいっても「切り刻む〝何か〟」が存在する以上
完全な無には辿り着かないはずなのだ

数字のゼロは〝何かの不在〟数字の1は〝何かの存在〟を象徴している
そういう意味では、
「〝無〟と〝有〟とは完全に重なることはない!」という
文学的な表現も出来る

コンピューターの世界では、全くそこにデーターが無いことをゼロとは表現せず
NULL(ヌル)と言う

では、漢字で表現する〝無〟とは、数字の〝ゼロ〟だろうか?〝NULL〟だろうか?

たぶん「リンゴがゼロ個」と言った場合、少なくともそこではリンゴが〝テーマ〟となっている
つまり〝ゼロ個〟とはいってもそこには少なくとも「・・・リンゴの個数に関しては」という
注意書きが付加することになる

だから何か単位が存在してしまうと、それは「ゼロ個」とはいえ〝無〟とはいえない

・・・つまり、「このゼロは~~を単位としたデーターですよ」という「情報」が存在していることになる

エハン・デラヴィ氏は
「この三次元空間に存在しているのは物質でもエネルギーでもなく〝情報〟ではないか?」
っとyoutubeでいっていたが、非常に興味深い   ・・・映画「マトリックス」の世界観を
煮詰めていくとそういう仮説も成り立つ

映画「アルタード・ステイツ」では主人公のジョセッペ博士はドラッグ体験によって
宇宙の根源を辿っていくが、その結論は
     「すべての始まりは『血も凍るような〝無〟=Simply nothing』だけだった・・・」
                                       と語る

ビッグバン説では
   ・・・現在のこの三次元空間も存在しなかったところから
           大爆発が起きて現在に至った・・・という

なので私たちはそこで、「空間がまだ存在しない状態」をイメージしてみようと試みる
つまりそれは『血も凍るような〝無〟=Simply nothing』のはずだが
わたしたちの脳でイメージ可能なのは、あくまでも空間が〝有る〟前提での
「空間も何も〝無い〟」状態だけだ

どこか空間の一点を凝視して、幅も広さも奥行きもない〝点〟を指さして
「何も無い」と叫んだとしても、それはあくまでも有る空間座標上を指さしている

その「ある一点」「限りなく小さな、無限に小さな一点=1/∞」とは果たして〝無〟なのか?

確かにそこにはリンゴもミカンも長さの単位も重量の単位も介入しないかも知れないが
「限りなく小さな点」とは、「理論上の点」に過ぎない

そこには相変わらず、「空間上の〝ある〟座標上の一点」というデーターが残り続ける


  さて、だからここで、「データーとは、何かの〝実在〟なのか?」という面倒な疑問がある

  たとえば一つのUSBメモリーを指さして、「ここに明日の仕事の予定表データーが入っている」
といった場合、その予定表データーは、やはり〝ある〟と言わざるを得ない

ところが、ちょこっとフォーマットしてしまえば、もうそこにはない
・・・物理的には同一のUSBメモリーに過ぎないのに

単に一連の信号が記録されているだけだ
その信号を、何かの〝実在〟とよべるだろうか?

   ここには「有る」と「無い」とが背中合わせになった世界がある

    データーを何かの「実在」と呼べるかどうかは怪しげな要素があるが
    でもひょっとしたら、情報こそがまさしく〝実在〟の根本なのではないだろうか?

「有る=〝1〟」を前提にして、そこを出発点にすると切り刻んでもゼロには達しない
ところが、はじめっから「有る」という背中合わせに「無い」があるのだとすれば
そのコインの裏表の両方を持っていることこそが「実在している」ことなのかもしれない

そもそもなぜ人は「永遠」について考えるのか?「無限」について考えるのか?
「何も無い状態」について考えるのか?

  ・・・ここに自然界にはあり得ない「想像~創造」の萌芽がある

自然界には「リンゴがゼロ個」という状態など無い

誰もリンゴについて「話題にすら」していない場合、「そんな状態は自然界にはありません」となる

ところが、ここに人間が居てそのひとが八百屋さんであったり、リンゴが買いたいと思っている
買い物主婦だった場合、「リンゴはあるか?」ということが話題になる

   ・・・ここで「リンゴはないですよ奥さん」という〝リンゴゼロ状態〟が現出する

つぎに、一体どこからどこまでの範囲の空間に「リンゴはない」といっているのか?

その八百屋なりスーパーなりなのだろうか?
  その裏手の倉庫ならリンゴの在庫は有るかも知れない

  もし、この地域全体、この季節ではリンゴの入荷が全くないのかも知れない
  もし、この世界に「リンゴという名称の果実など存在しない」ならば
      もう〝リンゴ〟ということが話題にもならず、
        つまりたとえば本当はそこは英語圏で、
        〝リンゴ〟はないけれど〝Apple〟ならあるかもしれない・・・・

   何を言いたいのかと言えば、「名称」とか「定義」とか「パラメーターの種類」によって
   自然界では同一の物が「存在したり、存在しなかったりする」と言うことを言いたいのだ

言葉が存在しない野生動物たちの世界には「リンゴ」も「Apple」もこの世には存在しない
しかし、リンゴが好物の生き物がそこに存在すれば、クンクンと臭いを嗅いで
空気中に自分の大好きな甘酸っぱい臭いを嗅ぎつけるかも知れない

・・・しかし嗅覚の鈍い人間にとっては、その場では「リンゴはゼロ」である

そして、「リンゴがゼロ」と宣言していると言うことは、その狭い空間の範囲では
本当にリンゴの実は存在しないが、それを話題にしている人間は「いつかどこかで」
リンゴを知っていることになる・・・  食べて「美味しい」と感じたこともあるのだろう

何かの事情でもし、リンゴが地球上で絶滅してしまっていたならば
物理的にはこの宇宙では「リンゴはゼロ」であるが、もし、リンゴの遺伝子情報さえ残っていれば
環境さえ整えば、またリンゴという種は復活するかも知れない・・・

・・・ならば、地球上のすべてのリンゴの木が枯れてしまっても、「リンゴはゼロ」ではないと言える

   ただし、機械的なデーターベースにリンゴが残っていても、リンゴの美味しさを
   未来の人類がひとりも知らず、「リンゴを復活させたい」という願いが人々の間から
   途絶えてしまったなら・・・・  本当はその瞬間こそが「リンゴがゼロ」の状態かも知れない

   この瞬間、「リンゴはゼロ」というよりも「リンゴはNULL」の状態と言うべきかも知れない

つまり結論として、「ゼロ」とは厳密には「存在しない」という意味ではない

    忘れ去られた時・・・、リンゴという名称も、イメージも、味の記憶も、すべて失われ
    人間が忘れ去り、話題にすらしなくなった時、リンゴは〝NULL状態〟へと追いやられ
    完全に空間上から消失する

なぜ地球上には水があり、空気があり、美味しい食べ物が一杯あるのか?

二通りの説明が可能だ

ひとつは一般的に〝スタンダードな〟科学的説明
地球という惑星が形成され、そこに適した動植物が繁殖し、それらを食料とし、
それらを〝美味しいな〟と感じる私たち人間が適応して発展したという説明

もうひとつは〝スピリチュアルな〟説明
元々私たちは人間の肉体を持つ前から、人間という種族を欲する宇宙意識体であり
それにそって宇宙が形成され、太陽系が形成され、地球が現在のようになるまでに
私たちの無意識レベルが〝ガイドした〟という説明だ

  ・・・・であるならば、「リンゴという種の終わり」ではなく「始まり」ですら、
     もう私たちの意識が関与していることになる

    ・・・・この「母なる地球」の誕生のパラメーター決定段階で、すでに関与している

これらの〝説(考え方)〟は、科学的に考えればヨタ話であり、妄想だが
可能性としては否定出来ない  ・・・ある程度、量子力学的なサポートも得られる発想だ

リンゴという植物種は自然界が長い時間を掛けて育み、
コンピューターは人間がアイディアし、開発、実体化した

   ・・・これが現在の私たちの標準的な世界観であるが
     ではなぜ人間という生き物には、人工的な創造が可能だったのか?

それは、「設計図」をイマジネーション出来るからである
そして、「設計図」には「幾何学的な発想」が不可欠で、
「幾何学的発想」の土台が「永遠」「無限」「無」・・・への思惟能力だ

私たちが住むこの世界にあるものはすべて「はじまり」があり「おわり」がある
つまり姿かたちあるものである以上、それらすべては「永遠」でも「無限」でもない
また「無」「ゼロ」「NULL」なども自然界では存在し得ない

これらのアイディアは全部「この世界に属さない〝何か〟」であり、それこそが
わたしたちに「設計図」を・・・・  意識的に何かを創造する可能性を与えている

   ・・・なぜか?  ・・・なぜか?
   ・・・つまりそれらこそが「私たちのふる里」だからなのではないだろうか?
   ・・・あるいはそれらこそが「私たち自身の正体」だからなのではないだろうか?

↑このページのトップヘ