We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年11月

「いや、悪魔なんかいないよ」

「この世界にいるのは
キリスト教徒、イスラム教徒、共産主義者みたいな
幼稚な信念に凝り固まった君達だけさ・・・・」

「その幼稚な信念体系を一瞬脇に置きさえすれば
もう永遠にそこに戻ることは出来ないだろう・・・」

   あ~~~あ~~~~、いっちゃたぁ~~~(爆)

   なんとまあ、挑戦的な・・・(爆)




OSHOインターナショナルファウンデーションが贈る
「悪魔などいない」

インタビュワー

うろちょろしている悪魔は
私たちのハートに巣食っているやつらだけだと聞きました 

これは真実だと思いますか?

悪魔などいない

神とに同時に すべての悪魔は消えうせた
彼らは あなたの神の影だ

神なしでは 悪魔は存在できない
あなたは知って驚くだろう
デビル 悪魔という言葉と
デバイン 神聖という言葉は
同じ語源をもつ

それらは同じ語源から由来していて
それはサンスクリットから来ている
サンスクリットでは
デバイン 神聖は〝ディバ〟という

ディバから
   英語のデバイン 神聖という言葉と
        デビル  悪魔という言葉ができた

実際 悪魔と神は ひとつの硬貨の両面だ

神もいなければ
悪魔もいない

あなたはそこいる 眠っているか目覚めているかどちらかだ

あなたが眠っていれば
 生は惨めで
    苦しみで
    不安で
    無意味だ

あなたが目覚めていれば
すべての不快は消えうせる

はじめて あなたは、自分が 途方もない美と
至福と 静寂と 平穏に包まれているのを感じる

そしてこれを体験するのに必要なことは 
とても単純だ・・・・

   ・・・・人は 己の先入観を脇に置かなくてはならない

人は キリスト教徒であってはならない
さもないと 彼はこの輝ける瞬間には至れない

人は 己の共産主義を脇に置かなくてはならない
ほんのしばらくの間だ

私はそれを
永遠に脇に置けと言っているのではない

ほんのしばらくの間
それを脇に置いてごらんと言っているのだ

なぜなら
ほんの一瞬 それを脇に置いたなら
あなたはそれを永遠に脇に置くことになるからだ

インタビュアー

なぜそうなると思うのですか?

それは
その体験があなたを完全に変容するので
教会に行く必要がなくなるからだ
存在すべてがあなたの教会になる

あなたは 聖書を読む必要はない

鳥たちの歌

花々の香り

流れる水の音が

あなたに必要なすべてのゴスペルを与えてくれるだろう

そしてそれらは 生きているだろう
それらは 本に書かれた死んだ言葉ではない

それらは生き生きとしているだろう あなたと同じくらいにだ
もしあなたのハートが
あなたを取り囲む生命と踊り始めたなら
キリスト教徒でいる必要がどこにある?
イスラム教徒でいる必要がどこにある?

そういったものは 眠っている人びとのため
生をまったく味わったことのない人びとのためにある
そういったものは子供に与えられた
玩具のようなもので

それと戯れて
それに取っ掛かりになって忙しくしておくためのものだ

あなたの宗教は 成熟した人びとのためのものではない

それらは幼稚だ


著作権c OSHO International Foundation, Switzerland

ディヤン ムディトさんの写真
ディヤン ムディト  JOY

その人の生で、一番美しい瞬間は、

混乱も、確かさも、ない時だ。

その人は、単に在る・・

そこに在るものを、映す、ただの鏡として。

何処に行こう、という方向もなく、

何をしよう、という考えもなく、

また、未来もない・・

ただ、全く、この瞬間に在り、

途方もなく、この瞬間に在る。

OSHO

宮井陸郎 シャンタン

他人がそこにいると、あなたは緊張する。恋人といても、安心できない。

osho

私たちのマインド、私たちの文化は、

ことごとく攻撃、競争、闘争を基盤としている。

私たちはまだ協調の秘訣を身につけるほどには成熟していない。

世界は闘争状態あるのではなく、協調して存在している・・

他人、隣人はたんなる競争相手ではなく、

私をいっそう豊かにしてくれる相補的な存在だ。

他人がいなければ、私はそれだけ貧しくなる。

この世界から一人でも消えれば、私はそれだけ貧しくなる。

彼によって生み出された豊かさ、

彼によって周囲に持ち込まれた豊かさは、もはや存在しない。

どこかで何かが空虚になっている。

私たちは争いながら生きているのではなく、共存している。

だが、マインド、集合的無意識は、いつも闘争という観点でものを考える。

誰かがそこにいるということは、常に敵がそこにいるということだ。

敵が基本的な前提だ。

友情を育むことはできるが、それはあくまで

育まれるものであり、他者は敵だという基本的な前提がある。

友情を元からある感情につけ足すことはできるが、

その根底に敵意が、他人は敵だという大前提があるために、

あなたは決してくつろぐことができない。

自分の友情をどうしても当てにできないのはそのためだ。

友情の根底には敵意があるからだ。

あなたは偽りの友情を育ててきただけだ。

あなたはあるものを作為的につけ加えた。

だが、どこか心の底では敵がそこにいることを、

他人は敵だということを片時も忘れない。

だから、友達といても、安心できない。

恋人といても、安心できない。

他人がそこにいると、あなたは緊張する。

敵がそこにいるからだ。

もちろん、見せかけの友情をつくり上げれば、緊張は減る。

減りはするが、それはそこにある。

こういう姿勢が発達したのには理由がある。

進化上の理由がある。

人間はジャングルから現れた。

人間の進化は多くの段階、様々な動物の段階を経てきた。

肉体は知っている。

というのも、肉体は人間の所有物ではないからだ。

「私」の肉体と言うとき、

私は自分の持ち物とは言えないものを自分のものだと主張している。

肉体は、長い時代にわたる発達を通して私のものになった。

私の基本的な細胞は受け継がれてきたものだ。

基本的な細胞のなかに、私はかつて存在した一切のものを受け継いでいる。

あらゆる動物、あらゆる樹々・・

かつて存在した一切のものが私の基本的な細胞に寄与している。

私の基本的な細胞のなかには、

かつての闘争、苦闘、暴力、攻撃の体験がそっくり蓄積されている。

細胞のひとつひとつがかつての進化の苦闘を余さず伝えている。

これは肉体面だけでなく、精神面でもそうだ。

あなたのマインドは今世で進化しただけではない。

それは長い旅を経てあなたのものとなった。

おそらくその旅は肉体自体の旅よりもまだ長い。

なぜなら、肉体はこの地球で進化してきたものであり、

40億年以上を経ていることはありえないからだ。

それが地球そのものよりも歳を経ていることはありえない。

だが、最初のマインドは別の惑星からきた。

それゆえに、マインドは肉体よりもずっと進化の経験を積んでいる。

そして、こういった経験のすべてがあなたを暴力的に、攻撃的にさせる。

あなたはこの現象全体に醒めていなければならない。

醒めていない限り、人は自らの過去から自由になることができない。

そもそも問題は、自らの過去から自由にならねばならないのに、

この過去が絶大で、とらえどころがないという点にある。

かつて生を受けた一切のものが今もあなたの内にある。

かつて存在したすべてのものが今もあなたの内に種子の形で胚胎している。

あなたは過去からやってきた。

あなたは過去だ。

そして、この過去に方向づけられたマインドが

攻撃性を引き起こしつづけ、攻撃という観点でものを考えつづける。

だから、宗教が受容的であれと語っても、その助言は聞き入れられない。

マインドはどうすれば受容的になれるのか考えることができない。

マインドは自らが受容的になった体験をひとつしか知らない。

それは死だ。

マインドは死のなかでは為すすべがなく、手も足も出なかった。

マインドが知っている受容的にならざるをえなかった唯一の体験は死だ。

だから、誰かが受容的になりなさいと言うと、

あなたはどこかで死の影を感じる。

私が受容的になりなさいと言うと、

マインドは「おまえは死んでしまうぞ。

生存したければ、生き残りたければ、攻撃的になれ!

適者生存だ。

もっとも攻撃的な者が生き残る。

ただ受容的でいたら、死んでしまうぞ」と言う。

このために、受容性は決して理解されることがない・・

聞き入れられず、理解されない。

受容性は様々な形で語られてきた。

誰かが「明け渡しなさい!」と言ったら、

それは受容的であれということだ。

明け渡しとは、攻撃的になってはいけないという意味だ。

誰かが「忠実でありなさい!」と言ったら、

それは受容的でありなさいという意味だ。

論理を使って攻撃的になってはいけない。

存在をあるがままに受け容れ、それを招き入れなさい。

昔、結婚していた時に、意外な孤独感に悩んでいた時があった

  「確かに結婚して〝ひとりぼっち〟ではなくなった
   しかしそのかわり〝ふたりぼっち〟になってしまった・・・」

 それはきっと妻も感じていたのだろう
  無性に子供を欲しがり、そのあたりの事情が離婚の引き金にもなった

風の便りで、その後別れた妻は再婚して子供もいるそうだ
ただし、離婚が縁の切れ目となってしまったために
彼女がその新しい生活で満たされているかどうかは私には判らない

 いずれにせよその〝ふたりぼっち〟の孤独感は、
 多分妻には責任がなかった
 あの時のわたし自身こそが孤独感の源泉である様に思う

 結局のところ、
 どの様な状況におかれても自分自身を持ち運び続けている以上
 その〝自分自身〟に孤独の影がつきまとっているならば
 如何に素晴らしい伴侶に出会えても似たり寄ったりの結果になったのではないか?
 「あの離婚当時の自分もそうだったのではないか?」と今は思っている

外側に何か埋めてくれるものを期待している以上、人間は虚しさから逃れ得ない

     孤独の根本原因とは?

つまり  孤独感の裏側、には必ず・・・・

  「あれこれこうなったら、ああいう状況になったら、寂しくなくなるのではないか?」
   っという〝孤独ではない状況〟の想定、理想、期待、願望が隠れている

   それらと現状とを比較した時、そのギャップにこころの闇が生じるのだろう


こんなことはあまりに自明のことで
いちいちブログに書き留めるほどでもない当たり前の事かも知れない
しかしあまりに強烈な強迫観念があると、こういったすぐ裏庭に隠れている

  ---   想定、理想、期待、願望 etc,etc,etc  ---

                こいつらが、犯人であることに案外気が付かない

  かれらは「〝当然の主張〟をしているに過ぎない」様にふんぞり返って
  わたしたちをコントロールしているからだ

  ・・・しかしこいつらは本当のあなたではない

  〝外〟から入り込んだのに過ぎないのだけれど、いまここの本当のあなたを
   中心の玉座から蹴落として、昔から住み着いてすっかりあなた自身であるかのような
   顔をしてふんぞり返っている・・・

   この不自然な状況にあなた自身も慣れきってしまって気が付かず、
   あなた自身まですっかり〝彼ら〟に主導権を渡し、〝彼ら〟に従属いている

   「恋愛や結婚をするのが当たり前、しているのが当たり前、
    もういい歳なのだから、
   〝本来〟ならもう子供も成人して居るぐらいじゃないか?
    同世代の人達でも、早い人ならもう孫も大きかったりするじゃないか・・・?」

   「それに引き替えお前はどうだ?
    恋愛は愚か、人付き合いまですっかり無くなってしまったではないか?」

   こういう自己批判の声に一言反論しようものなら
   「それは人生の敗北者、負け犬の言い訳さ!」っと〝彼ら〟は決めつける・・・

  しかし、確かに子供がいれば一種の励みには成るだろうが
  では、子供がいれば人生の孤独から逃れられるのかと言えば必ずしもそうではない

  そもそも、親の心の闇を埋めるために、産まれてきた子供はどうなる?

  どこまでも状況に原因を求めている以上、心の闇は埋まるわけがないのだ

  「寂しかった過去」「不安な未来」という時間軸上を歩き続けている以上
  心の闇は広がり続ける・・・・

あなたを裁き、貶(けな)し、あざ笑っている〝彼ら〟はあなたの玉座に居すわっている

なぜこの目の前の真犯人に気が付かなかったのか?
それはあなた自身が〝彼ら〟に自己同一化してしまっているほど
強い強迫観念から脱していなかったからだ

あなたの鼻面に、うしろの真正面に・・・・犯人は居た

しかし、わたしたちは犯人を外に捜していたから・・・

〝彼ら〟の言いなりになって
理想の恋人、理想の伴侶、理想の友人関係、理想の職場を探し求めていたために
(それを求めているのは〝自分自身だ〟と思い込んでいたために)

・・・わたしたちはずっと〝真うしろの真犯人〟に

  (幼なじみの〝乗っ取り犯〟であったが故に)   ・・・気が、  付かなかったのだ!

確か以前にも書いたテーマだけれどもう一度新たに書きたい

  集積された過去=エゴからの自己同一化を脱し
  純粋ないまここという意識に達した時
  人は全てを映し出す鏡のようになる

鏡には「何かを映し出したい」という自分自身の要望、欲求、理想、目的などはない
ただただ去来してきたものを素直に映し出すだけだ

本当は私たちは「そうなる」のではなく「すでにそうである」のだ

それゆえに「ロンギヌスの槍」の秘儀がある

わたしたちはイエスを刺し貫いたローマ兵の死刑執行人、ロンギヌスのように
ただただ命令されるがままに毎日をロボットのように生きている

しかし、
〝ロボットのようにただ命令に従う〟ことが
〝鏡のように生きる〟ということではない

ただ、
〝命令されて仕方なくやっている〟という引きずり続けている罪悪感こそが
実はエゴであり、
「無意識の中でやっていることは、罪ではないよ」というメッセージが、
イエスの脇腹から飛び出した血がロンギヌスの眼を癒したという伝説の意図なのだと思う



しかし、「良心の呵責」には重要な意味がある

そこから人は真実を求めてさまよいはじめるのだ
そこから人はロボットのままではいられなくなる

「イエスを殺したのは私だ」という心の痛みは覚醒へと人を導く

   「イエスから許された、イエスの血によって癒された」

それはまた別のことだ・・・
それは宗教上の解釈に過ぎず、投影に過ぎない

この投影の中に逃げ込むことが、信仰なのだとキリスト教徒は考えているのではないか?
大切なことは、そんな解釈、そんな癒やし、そんな赦しにすがって、埋没して生きることではない
そこから何かの信念体系を作り出すことでも、どこかの教団に入ることでも無く
流離いの旅に出ることではないだろうか?

行為そのものが罪なのではなく
そこに至るまで、そんな立場に追い込まれるまでの
〝無意識の所属〟こそが
真に自問自答すべき事のように思う

・・・であるならば、そのロボットのような〝無意識の所属〟から
  命がけで旅立つべきではないだろうか?

           ・・・慰めの集団、なかよしの群れの中に逃げ込むのではなく


たしかに、どこかに所属すれば類友の法則で、似たような、自分の鏡となるような人達と
沢山出会えるだろう・・・

  まあたしかにそれは、ある種の助けには成る
  なぜなら、他人を通して自分自身を見つめられるからだ

しかし、〝助け〟を多くの場合は〝相互依存関係〟の中に人は見いだす

自分と似たような人達を見て安堵できるからだ  ・・・そこには友情もあるだろう

しかし、自分と似た無意識の集団を見て、なぜ「吐き気」を催さないのだろう?
あなたと同じ無意識の人達を見て、なぜ安堵するのだろう?

   ・・・それは〝逆〟であるべきではないか?





何故私たちはそこで不毛の荒野をもとめて旅に出ないのだろうか?

なぜ、他人に、所属に、救いを求める?類友を求める?安堵を求める?慰めを求めるのか?

なんで鏡を求めるのだろうか?


なぜ、自己確証を求める?  自分の是認を求める?

孫悟空はお釈迦様に自分を誇るために世界の果てまで飛んでいき、
お釈迦様の指に自分の〝しるし〟として小便を引っかけて得意然として帰ってきた・・・・  

釈迦は笑ってその小便の付いた指を孫悟空自身に見せる
イエスは自らの血で自分の脇腹を刺した男の目を癒す

・・・だったらそれでいいのか?

わたしたちは小便を引っかけ続けるので良いのだろうか?
ロボットのように命令されるがままイエスを刺し貫き続けていて良いのだろうか?

多くの探求者の日々していることとは、こういった、犬やら猿やらと同じ〝マーキング〟だ

ナルホド確かに動物には罪はない・・・・

いつも自分の居心地の良い温々したところを探し回っている

いつも自分を認めてくれるところを探し回っている

いつも自分の鏡となる人達を探し回っている

そしてそういう人達が、いわゆる〝スピリチュアルな人達〟だというのだ・・・



しかしすべての人々の期待を裏切って言っておきたい

この広い世界のどこを探し回っても、

 わたしの、あなたの・・・・
  期待通りの友も、恋人も、そいうった人々との出逢いなどないだろう

この広い世界のどこに逃げ回っても

 わたしの、あなたの・・・・
  待ち焦がれた時代も社会も決して来ないだろう、
  ・・・・・安住の地も、約束の地も、
       マイホームにも、理想郷にも、辿り着けはしないだろう

あなたを地獄に突き落とすようで申し訳ないが・・・・

              でも、

それを完全に理解しきってその場に力尽きて倒れ伏した時

             その時こそあなたは自分が持ち歩いてきた
                       すべての重荷を下ろす時だ

                  そこがあなたの約束の地となるだろう

あなたがビルゲイツにならなければ、スティーブ・ジョブスにならなければ
納得出来ないというのなら、この言葉は届かないだろう

しかし、本物のスティーブ・ジョブスには理解してもらえるハズだ

そして
人はどこかで突然洞察の稲妻に打たれる可能性がある
それは私にも本人にも解らないことだ
・・・しかしありえる

そしたら、ジョブズ氏とまでいかなくても
どんな道の途中でも突然立ち止まって、
「この理想、この夢、この目的、この希望の先は果てが無いのだ、どこにも辿り着かないのだ」
と気が付くはずだ・・・それが洞察が起きた瞬間だ

このページのトップヘ