We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年11月

宮井陸郎 シャンタン
29分前 ·

私は、全世界が女性的資質でいっぱいになって欲しいと思う。

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osho

宗教体験に関する限り、男性は女性ほど恵まれた位置にはいない。

だが、男性にはひとつの資質がある。
それは戦士の資質だ。

いったん挑戦を受けて立つと、
彼はどんな資質でも成長させることが出来る。

女性的な資質でさえ、彼はどんな女性よりもよりよく育てることが出来る。
男性の闘いの精神がバランスを取る。

女性は生まれながらにして、様々な資質を持っている。
男性は、それを呼び起こす必要がある、課題を与える必要がある。

それらの資質は、男性には元から与えられてはいない・・
男性は、それを稼ぎ取らなければならない。

そして、もし男性と女性が共にそれらの資質を生きることが出来たら、
私達がこの世を天国に変容出来る日は遠くない。

またフリードリッヒ・ニーチェを思い出した。

彼は、イエス・キリストやゴータマ・ブッダ・・
こういう人達は真の男性ではない、なぜなら、
彼らの資質は女性的なものだからだ、と言った。

他に誰もこんなことを言った者はいない。
信奉者達の中にも、敵対者達の中にもいなかった。
だがニーチェは、確かに全く新しい洞察を発見するコツを掴んでいる。
彼はイエスに反対し、ゴータマ・ブッダに反対している。
なぜなら、人々が彼らに従うなら、誰もが女性的になるからだ、と。
ニーチェは男性の資質を愛している・・特に戦士の資質をだ。

私は女性の資質を支持する。
男性的資質を支持するニーチェの強調ゆえに、
アドルフ・ヒトラーは生まれた。

アドルフ・ヒトラー、ゲッベルス、そして彼を取り巻く犯罪者達の群れは
全て、知性に関する限りフリードリッヒ・ニーチェと比べれば小人だ。
彼らはニーチェを完全に誤解した。
彼らはファシズムを、殺人を、無実の人々を侵略すること、
罪のない人々を殺害することを支持している部分だけを取り出した。
この点で、私はニーチェに反対する。

私は男性を愛している。
私は男性の洞察を愛する。
だが、だからと言ってニーチェに賛成するということではない。
私はニーチェには同意しない。

私は、全世界が女性的資質でいっぱいになって欲しいと思う。

 そうなって初めて、戦争は消え去ることが出来る。
 そうなって初めて、結婚は消え去ることが出来る。
 そうなって初めて、国家は消え去ることが出来る。
 そうなって初めて、私達はひとつの世界を、愛に満ち、
            平和に満ち、静かな美しい世界を持つことが出来る。

だから、
男性があなたに与えた全ての条件づけを捨てなさい。
あなた自身の資質を発見して、それを開発しなさい。
あなた方は、男性を模倣する為にいるのではない。

私が、
男性は女性的資質を育てなければならないと言う時、
男性が女性を模倣しなければならないという意味ではない。

あらゆる人は、男性であろうと女性であろうと、
父親と母親から生まれる。
彼の実存の
半分は男性から与えられており、
半分は女性から捧げられている。
だから誰もが両方だ。

もしあなたが男性なら、
男性が最上部にあり、その下に隠れているのが
全ての女性的資質、あなたの母親から受け継いだ資質だ。

もしあなたが女性なら、
あなたの女性的資質が最上部にあり、
あなたの男性的資質はその下になっている。
それが、あなたが父親から受け継いでいるものだ。

そして、自分の中でどんな葛藤も起こす必要はない。
なぜなら、あなたは
同時に男性でもあり、女性でもあるからだ。


私の仕事の全ては、
葛藤を生み出すことではなく、
あなたにその道を示すこと、

   どうすれば、
あなたの資質全てのオーケストラを創れるかを指し示すことだ。


2015年11月25日


つまり、命無き鉱物界に対し、生物とは男性的だ、

鉱物とは
「生き延びたい」と欲する生命体の〝体〟・・・ボディーを構成しながらも、
                      自らはそういった意思は持たない・・・・

    ・・・少なくとも私たち生物には「鉱物が自らの意思を持っている」様には見えない

しかしその鉱物界でさえ、空間という存在母体からみれば、
             強い〝有る〟というスタンスを維持している

マハムドラー(存在)の詩は、こうはじまる
Mahamudra is beyond all words and symbols,

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを 越えている」

but for you, Naropa, earnest and loyal
must this be said;

しかし真剣で忠実な ナロパ
あなたのためにこれを言わなければならない

The void needs no reliance,
Mahamudra rests on nought.

空は頼るものを必要としない
マハムドラーは支えも要らない

Without making an effort,
but remaining loose and natural,
one can break the yoke . thus gaining liberation.

努力することなく
しかしゆったりと自然に留まり
人は束縛を打ち破り それゆえ解放される


            つまり、空間こそが、全ての、すべての、すべての・・・
                   ・・・根本的な存在基底であり、存在母体だ

すべての存在事物の「ふるさと」とは?、「母、子宮」とは?
・・・それは〝真空〟であり、
   真空とは、物理的なものが空気すら〝なにもない存在しない〟ということだ



「まずはじめに言葉ありき・・・・」
・・・そんな馬鹿なことはあり得ない 「始めも終わりも無い」

「いまここ」を分離意識で見れば「原因と結果」「過去と未来」という時間軸が見えるだけだ
〝設計者(アーキテクト)〟の意識でこの世界を見れば
時間とは未来から過去へと逆流して見える

たとえば、「この土地にビルを建てる」という意図があるからこそ
そこで設計図が引かれ、土地が買収され、土木工事がはじまる

もし、歴史そのものに巨大な〝意図〟があるならば?
もし、人類という種族そのものに巨大な〝集合意識〟があるならば?

そういったものがあり、そういったものがアジェンダ=予定を孕んでいたなら?

過去の様々な〝流れ〟は未来から〝やってきた〟のかもしれない
    何が原因で、何が結果なのか?
    何をもって〝過去〟と呼び、何をもってして〝未来〟と呼ぶべきなのだろう?

しかしあえて〝はじめ(始原)〟を問うならば、それは
間違いなく〝静寂と静止〟である

・・・そこから、あらゆる〝動き=エネルギー〟が起こり、存在〝する〟が始まる

あらゆる男性原理は、女性原理から生まれた・・・・

   〝空間〟から〝エネルギー〟が・・・
    〝無〟から〝有〟が、
     〝鉱物〟から〝生物〟が
       〝単細胞〟から〝複細胞〟が・・・(単純から複雑へ)
         〝植物〟から〝動物〟へ
           静かな〝海〟から生存競争の厳しい〝陸〟へ
            〝冷血動物〟から〝温血動物〟〝哺乳類〟へ

          そして〝猿〟から〝人間〟へ
               〝人間(LONLYの群れ)〟から〝人(ALONE)〟へ
                 そして〝ひと〟は〝無の人=ブッダ〟へ

そしてこの宇宙は
人間の動物的アイデンティティーが消滅した
〝涅槃=ニルヴァーナ〟というかたちで終わる

つまりそれがOSHOが上記で語っている人間の植物的(母性的)進化のことだと思う

でも、女性原理というのも正確には男性原理よりも〝前〟からあるわけではない
親は子を産むことによって初めて〝親〟になる、・・・そういう意味では
たとえ見た目には、「親が先で子はあとから現れた」様に見えても真実はそうではない
親と子、母と息子、女と男、過去と未来、観測対象と観測者とは同時に生まれたのだ

    ・・・・・・・・・・・ではその前に在るのは何か?

            すべてのすべての、すべての〝始原〟とは何か?

            それはすでに述べたように、姿としては〝空間〟であるが
             その本質とは〝中立性(ニュートラリティー)〟だ

    しかし、あらゆる中立性とは、〝視点〟(観測者の存在)によって
         女性原理と男性原理とに分離して見えるようになる

    〝観念〟〝観点〟〝概念(コンセプト)〟を体系的に知的に理解しようとする生物
   つまり私たち人類こそ、空間の発見者、宇宙の観測者なのだ

   地球上での生物の進化過程、私たちはずっと、当然この空間で暮らしてきた、
   にもかかわらず、「空間とは何か?」問いかけるのに、今日まで掛かってしまったのだ
   ・・・それまではあまりにも身近過ぎてしまって、〝発見〟出来なかった、〝疑問〟に思えなかった

   「これはなんだ?」

   と空間を指さした時、私たちは初めて「空間をディスカバーした」のだ

   しかし、ディスカバーしただけでは、まだその発見の本質を理解したとは言えない
   そこからはじめて
    〝分離意識〟が芽生えただけで、
        〝分離意識〟がなければ〝発見〟は不可能だった・・・・

     〝空間〟と〝人間〟は、そこではじめて出会った
       互いに〝はじめまして〟として挨拶した・・・・

           この時から私たちと〝空間〟とのハネムーンが始まったのだ


そしてやがて量子力学者は叫んだ・・・「観測者と観測対象とには分離が無い!」
物理学者達は存在事物の究極的な姿を探索して、物質を素粒子レベルまで切り刻み
遂には空間と私たちの意識とは分離不能だったと気が付き始めたのだ

「空間という〝母〟」と「人間の意識という〝息子〟」との再会が起きつつある
「母を訪ねて三千里」の長い長いドラマが完結しつつある・・・・・

「ふるさとは、とおきにありておもうもの」・・・・・
「分離意識」があってはじめて「帰郷へのドラマ」は成立する

   遠い遠い  「絶対的な静寂と静止」  を、
     人々は       「沈黙と無為」  によっていまここに体現しようとしている

そして、〝点〟は〝天〟へと、・・・・
・・・・〝自覚性〟というビッグな手土産を持って里帰りするのだろう・・・

私たちは本来、究極的には
「母と子」でも、「男と女」ですらもなく、はじめからずっと〝一心同体〟なのだから・・・・

「この菓子は実にうまい!」

この瞬間、この菓子はうまいのだ!


質問

妻とか夫、恋人といった私達の生活上のパートナーについて

話して頂けませんか?


どういう時に私達はパートナーを辛抱し、

どういう時に関係を絶望的と見て、

いや破壊的ですらあるとみて放棄すべきなのでしょうか?


また、私達が持つ人間関係は過去生からの影響があるのですか?



osho

関係とは神秘のひとつ・・

そしてまた、関係は2人の人間の間に存在することから、

その双方に依存するものだ。


2人の人間が出会うたびに1つの新しい世界が創り出される。

ただ2人が出会うことで新しい現象が「実在」の中に現れる。


それは今までなかったもの、今まで存在したことのなかったものだ。

その新しい現象を通じて、2人の人間が変化し変容する。

関わることがなかったら、あなたはただある1つの存在、

関わることでたちどころにあなたは別の存在になる。

何か新しいことが起こるのだ。


   女性は恋人となる時には、もう同じ女性ではない。

   男性は父親となる時には、もう同じ男性ではない。


子供が生まれる・・だが私達は1つの肝心なことを完全に見落としている。

それは、子供が生まれる時には、その母親もまた誕生するということだ。

それは今までなかった存在、女性は存在していたが、母親は?

いやいなかった。


そして、この母親というのは全く新しい存在だ。

関係は、あなた方によって創られる。

が、その代わりまた、関係の方もあなた方を創る。


2人の人間が出会う・・

ということは、2つの世界が出会うということだ。

これは簡単なことではない。

非常に複雑な、もっとも込み入ったこと。

1人1人の人間が自分自身に対して1つの世界を持っている。

そして、それは長い過去と永遠なる未来を伴った、複雑な神秘なのだ。


最初のうちはただ外面だけが出会う。

しかし関係が親密なものに成長していくと、もっと近づき、

もっと深まるにつれ、少しずつ中心が出会い始める。

中心が出会う時、それは愛と呼ばれる・・


外面だけが出会っている時は面識に過ぎない。

あなたは相手に外側から、境界線あたりから触れるだけ。

そうだったらそれは面識、ただの知り合いの間柄だ。

何度となくあなた方は、面識の間柄を愛と呼び始める。

そうなったら、あなた方は誤謬に陥ることになる。

面識は、愛ではない。

愛とは稀なもの。


人にその中心のところで出会うということは、

あなた自身、1つの革命を通過するということだ。

なぜなら、もしあなたが他者にその中心のところで出会いたいと思ったら、

あなた自身、相手が自分の中心に到ることを許さなければならないからだ。


あなたは防御を解いて、壊れ易くならなければならない。

完全に自分を開かなければならない。

それには危険がある。

他者をして、自分の中心にまで到らせるということは冒険だし、危険だ。

その人があなたに何をするか、あなたには知りようがないからだ。

それにひとたびあなたの秘密が知られたら、

ひとたびあなたの隠れ家が隠れ家でなくなったら、ひとたび

あなたが完全にむき出しになったら、相手が何をするかあなたには全く分からない。

その怖れがあって、私達は決して自分を開かない。


ただの面識・・ところが、私達は愛が起こったのだと思う。

外面が出会う・・それを私達は出会いがあったのだと考える。

が、あなたはあなたの外面ではない。

本当に、外面とはあなたが終わりになる境界線のこと、あなたの周りを囲っているだけ。

それはあなたではない!


外面とは、あなたが終わりになるところであり、そこから全体が始まるところ・・

たとえ何年も一緒に暮らして来た夫と妻でさえ、

ほんの面識の間柄でしかないかもしれない。

互いのことを知ってはいないかもしれないのだ。

誰かと長く暮らせば暮らすほど、

人は互いの中心はまだ未知のままであることを忘れていく。


従って理解すべき第1のことは、

ただの知り合いの間柄を、愛と勘違いするなということ。


あなたはその相手と、一緒に寝るかもしれない、

その相手と性的に繋がっているかもしれない。

が、セックスもまた外面のものだ。

中心が出会わない限り、セックスは2つの肉体の出会いに過ぎない。

そして2つの肉体の出会いは、あなたが出会うこととは違う。

セックスもまた面識の程度に留まる。

物理的、肉体的・・だが表面的に知ることに過ぎない。

自分の中心に到るほどに他者が内部に入ることを

許せるのは、あなたが怖れていない時だ。

あなたが恐怖を覚えていない時だ。


だから私はあなた方に言う。

生き方には2つのタイプがあると・・

1つは恐怖指向のタイプ、もう1つは愛指向タイプ。


   恐怖指向の生き方は、あなたを決して深い関係に導いてはいかない。

   あなたは怖れ続け、相手があなたの核心にまで浸透することを許さない。

   ある程度までは許しはするが、その向こうには壁が現れて、全ては止まる。


  愛指向の人は宗教的な人だ。

  愛指向の人とは、未来を怖れない人、成り行きや結果を怖れることのない人、

   今、ここに生きる人・・


これこそクリシュナがギータの中で、アルジュナに語っていることだ。

結果の為に心乱されるな。

それは恐怖指向の捉え方だ。

そこから何が起こって来るかなど、考えてはならない。

ただ、ここに在って、トータル(十全)に行うがいい。

計算してはならないよ。

恐怖指向の人はいつも計算している。

計画して、いろいろ取り決めて安全を計る・・生全体が、こうして失われて行く。


ある年老いた禅僧の話を聞いたことがあるのだが・・

最後の日がやって来て、彼は死の床に就いていた。

彼はその夜、他界することを宣言した為に、彼の信奉者、弟子、友人達が集まって来た。

彼を愛する人達はたくさんいた・・

そういう人達が皆集まって来たのだった。

遠方から国中から、人々が彼の許にやって来た。

が、ある古い弟子の1人は、師が死の床にあると聞いて市場に駆けつけた。


「師匠は、ご自分の家で死のうとしていらっしゃるのに、

なぜお前は市場になんぞ行くのかね?」


   ある者が尋ねると、その古い弟子は言った。


「師には大好きなお菓子があるのを私は知っているんだ。

だからそのお菓子を買いに行くのさ」


   その菓子を見つけるのは大変なことだった。

この種の菓子は、もう流行っていなかったからだ。

だが、夜までには何とか彼は間に合わせることが出来た。

彼は菓子を持って馳せつけた・・


その頃、人々はいささか心配になっていた。

というのも、師に誰かを待っているような気配があるからだ。

眼を開けて見回すと、また眼を閉じる・・と、例の弟子が到着した。

師は言う。


「そうか、お前が来たか。あの菓子はどこだ?」

そこで弟子は菓子を差し出した。


師が菓子のことを訊いたことで、彼は非常に喜んでいた。

死にかかっていながら、師はその菓子を手に取った。

しかし、その手は震えてはいなかった。

非常な高齢にもかかわらず、その手は震えはしなかった。

誰かが尋ねた。


「あなたは大変年を取られているし、

しかも今や死の縁に立たれている。

すぐにも最後の息が引き取られようというのに、

あなたの手は震えていませんね?」


すると師は言った。


「私は震えはしない。

怖れがないからだ・・私の肉体は年老いたが、私はまだ若い。

そして私は、たとえ肉体が消え去ろうと、若くあり続けるだろう」


それから彼は、菓子を1つ口の中に入れると、もぐもぐ味わった。


誰かが尋ねる。


「師よ、遺言は?

最後のメッセージは何ですか?

もうすぐ私達を離れて行こうという今、

私達に覚えていて欲しいことがありましょう?」


と、師は微笑して言った・・


   「ああ、この菓子は実にうまい!」


これこそ、今ここに生きる人だ。


   「この菓子は実にうまい!」


死でさえ、この時には場違いだ。

次の瞬間というのは無意味なこと。

この瞬間、この菓子はうまいのだ!


もしあなたが、この瞬間の内に在れたら、

この現在の瞬間に、この現在性、この充実・・、

この時に初めて、あなた方にも愛することが出来る。

ディヤン ムディトさんの写真
ディヤン ムディト  JOY

木の下に、ただ座ってごらん。

風が吹き、木の葉がサラサラと、音を立てている。
風が、あなたに触れ、あなたの周りで動き、通り過ぎる。

でも、それをただ、通り過ぎさせてはいけない。
風が、あなたの内側に入り、あなたを通るのを許しなさい。

ただ目を閉じ、風が、木を通り抜けて、
サラサラと、木の葉の音を立てるように、
あなたもまた、木のように開き、
風が、あなたを通って、吹くのを感じなさい。

風が、傍らを、通り過ぎるのではなく、
まさに、あなたを通り抜けて、吹いているかのように。

木の葉の、サラサラという音が、あなたの中にも入り、
身体のあらゆる毛穴を、空気が、通るのを感じるだろう。

実際、それは、あなたを通っている。
単なる想像ではなく、事実だ。
あなたが、忘れてしまっただけだ。

あなたは、単に鼻だけで、呼吸しているのではない。
全身で、毛穴すべてで、何百万という毛穴で、呼吸している。

もし、あなたが、鼻で呼吸することを許されていても、
身体の、全ての毛穴が塞がれ、閉じられているとしたら、
あなたは、3時間以内に死んでしまう。

あなたは、鼻だけの呼吸では、生きられない。
あなたの身体の、ひとつひとつの細胞は、生きている有機体であり、
それぞれの細胞が、呼吸している。

空気は、実際に、あなたを通り抜けている。
でも、あなたは、その事実との接触を、失くしてしまった。

だから、木の下に座って、それを感じてごらん。
 
最初、それは、想像のように感じられるだろう。
しかし、すぐに、それは事実になる。
そして、実際、それは事実だ。

空気は、あなたを通り抜けている。

それから、朝日のもとに、座ってごらん。
そして、太陽の光線が、あなたに触れるのを、感じるだけでなく、
それが、あなたの中に入り、あなたを通り抜けている、と感じなさい。

すると、あなたは、傷つきやすく、開いている、と感じ始める。

エゴは、障害だ。
自分が在る、と感じている時、
あまりにも、あなたが、存在し過ぎて、
何も、あなたの中に、入ることが出来ない。
あなたは、自分自身でいっぱいだ。

あなたが、いない時、
全てが、あなたを、通り抜けることが出来る。

あなたは、とても広大なので、
神性なものでさえ、あなたを、通り抜けることが出来る。
今や、全存在が、あなたを、通り抜ける準備が出来ている。
なぜなら、あなたに、準備が出来ているからだ。

だから、宗教のアートの全ては、
どのようにしていなくなるか、どのようにして溶け去るか、
どのようにして明け渡すか、どのようにして開いた空間になるか、
ということだ。

OSHO:The Book of Secrets
    (「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」市民出版社)

https://www.facebook.com/OSHOjapanese?fref=nf

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