We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年10月

あなたは、愛について、
何を、知っているだろう?

ディヤン ムディトさんの写真
ディヤン ムディト  JOY

嫉妬は、
愛とは、全く無関係だ。

実のところ、あなた方の、いわゆる愛も、
愛とは、何の関係もない。

それは、
その意味を、知ることもなく、
その意味を、体験することもなく、
あなた方が、知っている、
美しい言葉に、過ぎない。

あまりにも、その言葉を使うので、
自分がまだ、それを、体験していない、
という事実を、忘れてしまっている。

それは、このように、
美しい言葉を使う時の、危険のひとつだ。

「神」「愛」「ニルヴァーナ」「祈り」・・

それらは、美しい言葉だ。

だが、それらを、使い続けている内に、
まさに、そのくり返しによって、

あなたは、徐々に、
自分が、それを、知っているかのように、
思い始める。

あなたは、愛について、
何を、知っているだろう?
 
愛について、何かを知っているなら、
こんな質問を、尋ねはしなかっただろう。

なぜなら、愛の中に、
嫉妬は、あり得ないからだ。

そして、嫉妬がある時はいつも、
愛は、そこにない。

OSHO:the Tantra Vision

https://www.facebook.com/OSHOjapanese?fref=nf


全てが愛だ。

愛が全てだ・・もっとも粗野なものから、もっとも超えたものまで。

岩から神に至るまで・・愛だ。

宮井陸郎 シャンタン

ライオンは鹿に飛びかかって、鹿を食べてしまうが・・それは愛だ。

osho

愛はふたつの魂の統合だ。

ふたつのエネルギーが出会って、ひとつの全体となる。

これが起こる時、そのとき初めて「祈り」が可能になる。

「ひとつ」となったふたりは、あまりにも満ちたりて欠けたものがないので・・感謝が湧き上がる。

ふたりは祈りと共に、ハミングを歌い始める。

愛はこの存在全体の中で、もっとも偉大なものだ。

実際あらゆるものが、他のあらゆるものと共に、愛の中に在る。

あなたが何か内側の頂点に達する時はいつでも、
全てのものが他の全てのものを愛している、ということに気づくだろう。

あなたが愛のようなものを見つけられない時でも、
あなたは憎しみは感じられる。

憎しみは、愛が誤った方向へ向かったものに他ならない。

あなたは無関心を感じる。

無関心は、愛がまだ溢れ出すまでの、勇気に欠けている状態に過ぎない。

閉ざされた人を感じる時があるだろう。

彼は、あまりにもたくさんの恐怖と不安を感じているに過ぎない。

だから彼は、最初のステップを踏めずにいる。

けれども、すべてが「愛」だ。

動物が、別の動物へと飛びかかって食い尽す時でも・・

ライオンは鹿に飛びかかって、鹿を食べてしまうが・・それは愛だ。

これは暴力のように見えるだろう。

あなたは知らないから。

しかし、これは愛だ。

その動物、ライオンは、鹿を自分の中へ吸収してしまう。

もちろんとても荒々しい。

とても粗野で原始的だ。

動物的だ。

それでも、それは愛だ。

愛し合うものは、お互いを食い尽くしてしまう。

お互いを吸収してしまう。

動物は、とても粗野な方法でこれを行っている。

それだけのことだ。

存在全体が、愛の中に在る。

木々は大地を愛している。

大地は木々を愛している。

そうでなかったら、どうやって彼らが一緒に存在出来るだろう?

何によって、彼らは一緒にいられるのだろう? 

そこには共通の環があるはずだ。

この環は、根が大地にあるということだけではない。

もし大地が木を深く愛していなければ、

根もその木を助けることは出来ない。

目には見えない、深い愛が存在している。

全存在が、全宇宙が、愛の周りを回っている。

真実だけではあまりにも乾いてしまっている。

もしこのことが理解出来れば・・今はただ、頭で理解出来るだけだろう。

が、記憶の中に留めておきなさい。

いつの日か、これがあなたの実存での経験となるだろう。

敵対している者たちは、お互いを愛している。

そうでなかったら、どうしてそんなに厄介をかけ合うのかね? 

「神はいない」と言っている者さえも、神を愛している。

彼は絶えず「神はいない」と言っている。

彼は取り憑かれている。

神に魅せられてしまっている。

さもなければ、どうしてそんなに神の邪魔をするのかね。

無神論者は生涯ずっと、神がいないことを証かそうとしている。

彼はそれほどまでにも神の愛の中にある。

それほどまでも神を恐れている。

時が来れば、彼の実存には途方もない変容が起こるだろう。

それで恐れている。

彼は証かし続ける。

「神はいない」・・こうやって努力している時、無神論者は、

神が自分を呼んでいるという深い怖れを表してしまっている。

そしてもし神がいれば、彼は今のままではいられなくなる。

これはちょうど、目を閉じたり半分閉じたりして、

通りを歩いている僧侶のようなものだ。

僧侶は女性を見ないようにしている。

彼は自分にこう言い聞かせ続ける。

「女性なんて存在しない。すべてがマーヤ、幻想だ。ただ夢のようなものだ・・」

それなら何故、ただ夢のようだと言い続けるのだろう?

何故、この愛すべきものが存在しないなどと証そうとするのだろうか?

何故なら、そうしなければ僧院は消えてしまうだろう。


全てが愛だ。

愛が全てだ・・もっとも粗野なものから、もっとも超えたものまで。

岩から神に至るまで・・愛だ。

たくさんの層、たくさんの段階、程度がある。

しかし、愛だ。

あなたがひとりの女性を愛することが出来れば、

あなたは、マスターを愛することも出来るだろう。

マスターを愛することが出来れば、神を愛することも可能となる。

女性を愛すると、その肉体を愛することになる。

肉体は美しい。

肉体には何も問題はない。

それはまさに、ひとつの奇跡だ。

ともかく、あなたが愛することが出来れば、愛は成長する。


『あなた自身が愛だ』ということを発見しさえすれば、

あなたは、もう愛を乞うことはなくなります。

宮井陸郎 シャンタン

あなたが悟るとあなたはそこにいません。あるのはただ愛だけです。

バガバァン

自己(self)は錯覚を生じさせます。

自己は本当には存在しません。

単に感覚器官の協調により発生したものです。

いろいろな心理的要素がそれを創り出しています。

それ自身の存在はありません。

常に、あなたはあなたがいると推測しているでしょう。

あなたはあなたがいると強く感じています。

それは、誰かがあなたを愛するときに起こります。

あたかも、あなたはあなたが居るように感じています。

そうすると、あなたは必要とされているように思います。

それは、大きな安心感と心地良さをあなたに与えます。

だから、あなたは愛を渇望するのです。

『あなた自身が愛だ』ということを発見しさえすれば、

あなたは、もう愛を乞うことはなくなります。

あなたがこれまで話してきた愛は、ただ愛を乞うているだけです。

ただ、愛を乞い続けていただけです。

もう、愛を乞うことはなくなります。

でも、この本当の愛を発見すると、あなたはただ愛を与えるようになります。

本当の愛を持つと言うことは、ほとんど悟ることと同じです。

あなたが悟るとあなたはそこにいません。

あなたがそこに居なく、あるのはただ愛だけです。

こうなると、あなたは愛を乞いません。


これらの三つの話しは、一見矛盾して見える

1)「あなたは愛とは何か全く知らない」

2)「しかしすべてが愛だ」

3)「そしてあなた自身も愛だ」

  周り中のすべてが愛で、自分自身も愛なのならば、
    どうして私たちが「愛に対して全く無知」でいられるのか?


それを考える上で私は二つの原因を思いついた
とはいっても究極的には同じ事なのだが・・・


まず第一に私たちは「知っている」という自覚によって
自分の無知が見えなくなっているからだ

  ---わたしたちはアローンネス「唯一性」とロンリネス「孤独感」を混同している


アローンネス「唯一性」とは
自分自身の尊厳(プライベートな真実)への理解と尊重だ
あなたと全く同じ人間同じ状況というのは、世界中でふたりと居ない
だとすればあなた自身の最高の理解者というのはあなただけだ

参考にすべき他人の意見、他人の視点は沢山有るかも知れない
実際いろんな人があなたにいろんなコトを言ってくるだろうし、きただろう

しかし
あなたの人生に完全に責任を取ってくれる人がその中に居るだろうか?

究極的には他者の意見の取捨選択でさえ、受け入れるかどうかは
あなたが判断すること。

・・・この時、あなたに裸の王様が見えるなら、あなたは
   少なくとも自分自身にたいして裸の(素直な)少年でなければいけない

この「アローンネス」の自覚からの逃避行心理が「ロンリネス」だ

人は今までの哺乳類の母系社会から、
分業化と専門化による秩序と文明を形成する男系社会の生物として
進化してきた過程で、すっかり責任転嫁という便利な生き方に慣れきってしまった~

常に個人は小さい存在で、限界だらけの存在だ
社会的な協調性がないものは生き残れない

人間の大半、特に文明人を自負している人達にはそれと比例して、
その強迫観念が染みこんでいる

私たちは教育やら宗教やらによって揉みくちゃにされ、魂までもファックされ
そしてこれら被害者は親に成長するにつれ、いつしか「ファックする側」加害者になろうとする
こうして、文明的なトラウマ、強迫観念は延々と引き継がれてきた。

私たちは皆、不安だ、心もとない、そして寂しい、・・・それが当たり前になってしまっている

そういう私たちが、愛を求める

求める前には、それがどういうものなのか?定義しなければいけない
正確な定義も明瞭化も出来ないのなら、せめてイメージしなければいけない

事実私たちは愛を明瞭に定義は出来てはいない
これだけ無数のラブソングやドラマや著作があるのにも関わらず、定義出来ては居ない

それゆえに、個々人が愛についてのイメージを持ち、人間同士、男と女同士が
その互いのイメージを持ち寄り、ぶつけ合わせ、すり合わせて「愛の関係」を作り出そうとしている

実は自分が持ち歩いている「愛のイメージ」こそが、自分を愛から遠ざけているのではないか?と
疑う人はどれぐらい居るだろうか?

不安で寂しい私たちは、自分を守ってくれる城壁が必要だ、国が必要なのだ



  なぜ?「すべてが愛、自分自身も愛」であるならば、そうであるにも関わらず
    わたしたちは「愛を渇望し続け、にもかかわらず得られない」のか?

    ・・・その疑問への回答は
                「すべてが愛、自分自身も愛」だからだ

    ・・・その疑問への回答は、
                  「自分たちの、孤独感に圧倒されているが故に
       〝優しくしてもらった〟〝理解してもらった〟
       〝大天使ミカエルだから〟
       〝銀河連邦から来たと名乗っているから〟等々
        愛について
自分たちのちっぽけな身勝手な
               
  思い込みや印象に取り憑かれているからなのだ




タロットの「皇帝」とは、自分自身を「肯定」してくれる帝国の主である私たちの姿で
   「h2_heiヘイ=窓」

     というヘブライ文字で表記する

なぜ? 皇帝が「窓」なのか?
   ・・・つまり、「四角く切り取られたのぞき穴から私たちは世界を見ている」からではないか?


わたしたちが「愛を知らないと言うことを理解していない」第二の原因はここにある・・・・


わたしたちは「限定されたもの」「切り取られたもの」なら理解出来る、定義出来る、概念化出来る
ところが、「限界ないもの」「四隅がない、無限なもの」を思考し、理解することは出来ない

だから百万遍「無条件の愛」について語り合っても、私たちは理解出来ないのだ
「言葉で語り合う」「ロジックで理解しようとする」行為それ自体が定義化、条件付けなのだ

1

むしろ言語化することによって、
ますます「愛に関する個々人の願望的なイメージ」
           は肥大化し、強固化されてしまうのだ・・・

すべての絶対的なるものを対象とした議論は、このディレンマを免れない

「その他」の事ならすべてそれで良い、「有限なこと」「部分的なこと」ならば・・・
それは「皇帝」の領域だから・・・

しかし、「無限なる物事」について、議論することに何か価値がある?としたら
それは、「議論では無理だ」「すべての議論は通用しない、不毛だ」っという
パラドックスの結論に達する事だけだ。


「それ」は知り得ないと言うことを〝知る〟

・・・・それこそが「無知の知」だと思う
    ・・・私が書いているこのブログ記事も又然り

この〝論理と言語の黄昏(たそがれ)の最大領域〟にまで達した時
そこより外側はすべて私たちの思考を圧倒する無限に広がる大洋が見渡せるだけだ

  なぜ?「すべてが愛、自分自身も愛」であるならば、そうであるにも関わらず
    わたしたちは「愛を渇望し続け、にもかかわらず得られない」のか?

    ・・・その疑問への回答は
                「すべてが愛、自分自身も愛」だからだ

    ・・・その疑問への回答は、
                     「巨大すぎて、目の前過ぎて
        部分しか捉えられない私たちの
                 
肉眼と分析的頭脳では 理解出来ない」のだ



もし私たちが、「四隅が切り取られていない大いなる愛」を理解したいのならば

タロットで言う「女帝」、
ヘブライ文字h2_daretoでいう
「ダレット:扉」にならなければいけない

つまり、  「それについて眺める」「それについて語り合う」というのは時間の無駄で
               「その世界に全身で飛び込んでみなければわからない」のだ

喰う側のライオンであれ、喰われる側のインパラであれ・・・

またそれは「生み育てる」ことでもあり、「殺す」ことでもある

OSHO Japaneseさんの写真
OSHO Japanese

OSHO : スピリチュアルな錯覚

ひとつ、覚えておきなさい。


——沈黙以外のすべてが、あなたの空想だ——


・・・・・たとえそれがどれほど美しくても。


私に言えるのは、

あなたの沈黙しか私の支持を得られないということだ。

なぜなら、あなたは自分の沈黙の中でのみ、

存在の中心そのものに近いからだ。

完全な沈黙の中で、あなた自身が中心そのものになる。

だが、どのような種類であろうとも、

空想を避けることを覚えておきなさい

——あらゆる空想——

明らかに 神のように見える、美しい空想であってもだ。


「沈黙は金、雄弁は銀」という・・・

わたしはこの「金と銀」との価値の違いの大きさを十分に吟味するべきだと
自分自身に強く思う

これはこんなブログを書いていて、自己矛盾ではある
しかし、「忘れっぽい」のだからやむを得ない

たぶんこれ以上重要な事項は人生にはない・・・

もちろん強制された沈黙は沈黙ではない
強制された沈黙には、抑圧と不満、怒り、憎しみが伴う
それはマインドやエモーションが残り続ける

強迫観念として発生したマインドはもちろん自由にはどこまで行っても行き着かない

強迫観念に追い立てられたエモーションは決して解放には向かわない
それは破滅のガケップチに駆けていくだろう・・・

強迫観念とは、過去の亡霊のリフレインに追いかけられている状態だ
それはけっして、未知に向かってオープンであることは出来ない

    「私は知っているんだ!」

っと過去の辛い経験を指さして、そこでたたき込まれたことを叫び続ける

(一切の強制なき、自然で豊かな・・・) 沈黙の中にある人の姿は

    「私は知らない」っという

彼は〝無知〟ではあるが、にもかかわらず深い〝理解〟の中にある・・・

         ・・・・彼は「知らないということを知っている」のだ

彼は自分が
「ストレンジャー・イン・パラダイス:未知に囲まれた世界のまっただ中の旅人」
なのだと知っている

常に未知に向かって思考のおしゃべりに囚われることもなく目を見開いている・・・
                             ・・・・そしてそれが瞑想なのだろう


もし、自分自身の死を目撃出来たとしたら
あなたは死とは分離した存在だ



この二つのOSHOの話は、彼がよく口にする〝内側〟とは、実際はどこのことなのか?
それらしき有力な代名詞を私に想起させてくれた

彼が言う〝内側〟とは、
〝プライバシー〟なり〝個人の尊厳〟となり言い換えが可能かも知れない

仕事中であっても、就寝前であっても、セックスの最中でも・・・
如何なる時でも私たちは呼吸はしている

しかし、「呼吸を見守る」だなんていうヴィパサナ瞑想は日常の中で忘れている
       ・・・私たちの人生を毎瞬毎瞬支えている営みなのにも関わらず、っだ

私たちはついついプライベートな感覚を疎かにしている
そして周囲の人間に愛想笑いを振りまいている


プライベートな感覚に浸っているなんて、実に贅沢な時間的余裕がある時だけだ
わたしたちはそんなプライベートな感触に気を取られるよりも、もっと生産的な
人間関係とか、仕事上の作業に注意を払っていた方が良いと考えているからだろう

しかし
死は、外に向かって泣いたり笑ったりしている間に突然襲いかかってくる
そして初めてハッとするのだ

  ・・・確かに社会的な繋がりも疎かには出来ないが
    常に自分自身に対して感覚を開いていなければ、
    人生は〝薄っぺらく〟なってしまう

    誰かに迎合しているばかりの人生、気を取られてしまっている人生には
    「耐えがたい存在の軽さ」がつきまとうだろう

瞑想とは義務でもエクササイズでも無い、とてもゴージャスな瞬間だ・・・・

    さっきコンビニの雑誌売り場に-「好きなことだけ」して生きていく-という
     心屋仁之助氏の書籍が売っていたが、



さぞかし売れている本だろう・・・・

   でも〝好きなこと〟とは本当に〝好きなこと〟なのだろうか?

   私たちは本当に自分が〝やりたいこと〟を自覚しているのだろうか?
「わたしは〝呼吸をしたい〟です」っという当たり前なことを
本当に〝好きなこと〟として自覚できるだろうか?

私たちが一般的に言う〝好きなこと〟の多くは、
「気休め」「慰め」「憂さ晴らし」ではないだろうか?
その多くがエゴの選択(逃避)なのではないだろうか?


私たちは本当の贅沢が分かっているんだろうか?

たぶん本当の贅沢とは、エゴの自覚で「好きなこと」「やりたいこと」とは
別では無いか?っとも私は疑っている

私たちはひとり部屋にいて「寛いでいる・・・はず」の時でさえ、
本当にプライベートの中に寛げているのだろうか?

疑問だ・・・

であるならば、そんなプライベートな感覚をおざなりにしている私たちが
本当の自分の欲求に気付けているのだろうか??  極めて疑問だ

本棚の隣には斉藤ひとりの「引き寄せの法則」本があった



でも私たちはそもそも一体何を引き寄せたいのだろう?
自分の本当に欲するべきものを、本当に私たちは〝自覚〟出来ているのだろうか?

私たちはまさに出発点の時点で、怪しげなのだ、あやふやなのだ・・・

・・・それで一体どこに〝到着〟できるというのだろう?

 私たちはシッカリがんばって毎日まじめにオールを漕いでいるつもりだろうが
                       実際は〝漂流〟しているだけじゃないのか?


何であれ、誰であれ、最後に誰もが辿り着くのは〝死〟だ

そして、これこそは最高潮にプライベートな瞬間、個人の尊厳が問われる瞬間だ

私たちの本望とは、ひょっとしたらこの「最高潮にプライベートな瞬間=〝死〟」の中に
織り込まれているのでは無いだろうか?


私は時々人から「自分に厳しすぎる」と言われているが決してそんな事は無いつもりだ
単に「気休めに逃避する」ことに耐えられないだけなのだ

私は時々人から「ストイックすぎる」と言われているがとんでもない
単に禁欲主義=ストイックなのじゃなく、強烈な快楽主義者=エピキュリストなだけだ

99.9%の快楽主義とは何かの現実逃避やそのための耽溺(たんでき)の為に破滅していく
煙草や酒やドラッグ、ギャンブルやワーカーホリックに耽って自分の肉体をすりつぶしていく
しかし100%の快楽主義者なら現実から逃避するのではなく、味方に取り入れようと画策するだろう

・・・・なぜならそこに永遠があるからだ


常識的には球体、周辺、パブリックの中に 球体の中心、ひとりひとりのプライベートが
内包されていると考えられている

しかし長さ、太さ、大きさのない純粋な「点」とはNOW+HERE→NO WHERE(どこでもない)

・・・それは「天」と同格で、つまり
究極のプライバシーの中にパブリックもスッポリ内包されている
のだ

「アレが実現した、コレが実現した・・・」っと喜んでいるのは
〝点〟が〝球面の内側 (閉じ込められた世界)〟に自己の欲望を投影させることに成功したと言うだけだ
そんなことを喜ぶ前に究極の自己実現とは何か?を考えた方が良いだろう



「塵のように積もった死んだ過去が、鏡のようなあなたの意識に降り積もる」

「そうすると鏡のようなあなたの意識は失われ、あたり一面見えるのは塵だけだ」

「あなたは塵と同一化する・・・」

「あなたはこの死んだ過去に過ぎないのだろうか?」


「火の鳥」~全ての過去が焼け落ちたとき 投稿者 maneel-katal

わたしたちはあがき続ける・・・

孤独を忘れようとあの手この手で自分を慰めようとする、憂さを晴らそうとする

目には判らなくても、何の強迫観念もなしで
本当に心優しい人もいるだろう

しかし、孤独でかきむしられている人間には
その区別はつかない

自由とは自分自身から解き放たれること・・・?

そうでなければ、自我に自縛されている人には
その区別はつかない

自分とは本当に過去に過ぎないのだろうか?
過去とは本当に自分なんだろうか?
過去の堆積こそが〝わたし〟なんだろうか?

〝セルフ〟と〝エゴ〟には何か違いがあるのだろうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・

過去とは反応経験の蓄積記録(レコード)だ
作用と反作用との物理的な連鎖だ
こだまの乱反射だ

だからこの
〝機械的〟〝無機的〟な過去が
〝機械的〟〝無機的〟な未来を形作る

ここに自由はない

本当にはわたしたちにも過去に自由を感じた瞬間は幾つもあるはずだ
ところが自由によって解き放たれている瞬間というのは記憶には残りにくいのだ
なぜならそれは生き生きとした瞬間で、実際に人生を充分に満喫したものだから
「覚えておく必要性」がないのだ・・・

  ・・・・「存分に生かされた人生の瞬間」は、
     〝過去〟として記憶にリザーブする必然性がないから
           ・・・手放されてしまう、  ・・・忘れ去られてしまう

つまり上記のOSHOが言うところの〝過去〟とは、物理的な事実の羅列のことではなく
アイデンティティーとして私達が心理的に囚われている、縛られている主観的過去のことだ

それらは私達が幼児期からたたき込まれ、刷り込まれ、プログラミングされた観念のことだ

それらの機械的な脊髄反応、条件反射、作用と反作用・・・・これらが
あっちにぶつかり、こっちによろめいてきた酔っ払いのような記憶・・・・これらが〝過去〟だ

  ・・・・これらの〝機械的な〟過去によって打ちひしがれ、うずくまった自分こそ
       不自由のカタマリなのだ

だから「自己肯定」と、「自己否定」と、どちらの方がエゴイスティックなのかと言えば
一見前者だが、実は後者なのだ!

保坂展人/世田谷区長。ジャーナリスト
「子どもの幸せ」と「自己肯定感」をつなぐもの


この誤謬というか、錯覚というか、取り違いというか、意図的すり替えが
キリスト教的な「罪悪感の刷り込み宗教」を世界中に蔓延させたといっても過言じゃないはずだ

かれら=聖職者が〝エゴ狩り〟をはじめた犯人だ・・・

私達の日本語では〝自分〟とは「〝然〟から離したもの」「裂した者」と書く

これは結局は同じ意味で、
本来のセルフ=(みずか)ら・・・っとは、ナチュラル=(おのず)から・・・でもあるのだ

 ・・・セルフとナチュラル、・・・わたしと自然とは、どこにも境界線はないし、不可分なのだ

  だから、「自己肯定」「自己受容」とは〝統合~インテグレ-ト〟へと向かう
       「自己否定」「自己拒絶」とは〝孤立化~エゴイズム〟へと向かう

宗教組織がみずがらの権力の肥大化の為、システムの頭数獲得の為に
エゴのセルフからの分離と、セルフの自然さへの攻撃を増長させたのだ

そのために人工的に人々に罪悪感を植え付けていった

「悪と戦う聖なるイメージ、邪悪と戦う善なる天使のイメージ」を広めていった

「大天使ミカエルが・・・銀河連邦のナンとかが・・・闇の勢力を・・・」っと息巻いている
スピ系の輩はほとんどがこの末裔だ   ・・・自覚はないだろうけど・・・

 ・・・・たぶん大天使ミカエル本人が、この地上の状況に一番困り果てていることだろう

わたしたちの個々人においては、イスラム教徒でもないのに、この〝聖戦=ジハード〟を
私達にけしかけているのは、多くの場合両親だろう

わたしたちは両親から「良いこと、正しいこと、悪いこと、間違ったこと」を学んでいる
かれらから「ねば・べき・ため」を学んでいる

・・・それらに反論したり、疑ったり、逆らったりしたらおやつは抜き、お小遣いは没収だったのだ

かくして私達は「善悪や正邪、そして社会の良識を知る正義の戦士、立派な大人」へと成長した


この「正義の戦士、立派な大人」こそが、OSHOが言う〝過去〟なのだ

しいては、自分自身が道を踏み外さない為の〝ルール〟であり〝ピースキーパー〟なのだ


      わたしたちはそれを教えた両親が死んでも、もうそのオリからは出られない
                なぜなら、もはやその監獄それ自体が〝わたし〟だからなのだ

唯一の出口、それは徹底的に〝見抜く〟ことだ・・・・

本当の「自然な自分自身」とは「正義の戦士」ではないことを・・・
「革命家」でも「シールズ」でもない・・・
この目の前の鉄格子でもない・・・

この「鉄格子の過去」と、「あらゆる未知に向かって開放された〝いまここ〟」との間には
明らかに〝空間〟がある・・・

・・・その空間の中に、突然の爆発が起こるのだ

釈迦は
「〝賛成〟でも〝反対〟でも〝無関心〟であっても
 この社会の悪に加担することになる・・・」

っと言い残している

この言葉は、安保法案賛成、反対・・・っで社会が割れている現在に
是非思い出さなければいけない言葉だ

ナルホド確かにそのとおりだ

賛成はもちろん、それに対する〝反対(アンチ)〟にしても
結局は社会のある種の勢いを止めるどころか、むしろその勢いを
力づけてしまう・・・

  ・・・かといって〝無関心〟は一見どっちにも加担していないようで
     実は最悪のステータスであると言える

しかし、この情報過多でありながら、同時に情報不足な現在において
多くが〝無関心〟と言う名の諦めに陥ってしまうのはわたしもよく判る

・・・ではブッダよ?  ど~したらええねん?っと思わず大阪弁で
               胸ぐらを掴みたくなってしまうではないか?


この彼の「黙して示し申している」ことに耳を傾けるべきだ

つまりこれら「賛成」「反対」「無関心」とはいずれも
「世界に対して自分はどういう態度を取るべきか?」っという選択的発想なのだ

これこそが仏教用語で言うところの「外道(げどう):外界への働きかけ」の発想なのだ

ではこれらかまびすしい社会の喧噪に対して私達は如何にあるべきか?

釈迦の言う「内道(ないどう)」とは何か? なかなか難しいテーマだ

つまりわたしが思うに、発想を逆転させるならば
   「社会に起きているさまざまな喧噪を、
    切り捨てるのでもシャットアウトするのでもなく
      自分自身の内面的な問題の投影として受け止めよ」っと言うことなのだと思う

つまり具体的には
「社会(外界)で起きているありとあらゆる事をメッセージとして捉えよ
 すべてのことに対して、切り捨てることなく温かい関心を常に寄せよ
  ただし、それをどうこう〝しよう〟とするな、ただ観照して見守り、
   その瞬間瞬間の中で自然に起きる判断に任せよ・・・」っというあたりではないだろうか?

これは安易に〝比較、判断〟しない〝選択〟してはいけない
  事前に煩ったり、決めつけてはいけない・・・・っと言うことに通じる

さまざまな社会システムやら、法律やら、プロトコルというものは便利なものであるし
それがなければ社会の秩序は保てない・・・  必要不可欠なものである

だから習慣としてわたしたちは
  「賛成や反対」で握り拳(こぶし)を固めたり、
     「無関心」で突っぱねたり逃避したりする

わたしたちが社会に対して取る態度、振る舞いは大概、この三種類のいずれかだろう・・・

・・・しかしこれら三種類のいずれかを、
    半ば無意識に選択してしまう理由は何かと言えば
            それらはいずれも恐怖感からなのだ・・・

「ああなったらいいな、こうなったらいいな・・・」
 「ああなったらまずいな、こうなって欲しくはないな・・・」
        「ああもうメンドクサイ、どうでもいいや・・・」

    ・・・如何だろうか?  これらは欲望やら憶測やら不安やらが醸し出す
                   恐怖感から発生した判断ではないだろうか?

「あたチ、怖いもの無いの・・・」



これらのすべては、社会という船の船首をアッチやらコッチやらに右往左往させつつ
さまざまなドタバタ劇を社会にもたらせている最大の原因ではないだろうか?

釈迦はこれらの人達のドタバタ劇全体とそれを生じさせている個々人のことを
「無明の状態」っと看破したのではないだろうか?

この状態に巻き込まれている時、
      わたしたちひとりひとりが、
          問題の発生原因であり
           混乱の加害者であると同時に、
            混乱の被害者意識に取り憑かれている

DEVILMAN_05_129

・・・・どうあがいても私達は滅亡に向かっている

   それゆえに「絶対に自分たちは滅亡したくない!」っとあがいても無駄なのだ

    なぜならばその〝絶対に〟という思いそれ自体が、
    わたしたちを絶対的な破滅の運命に導いているからだ

     この〝絶対に〟と叫ぶそれ自体が人間の恐怖の源なのだ

      恐怖の源とは、絶対的な何かを未来に求める〝希望〟(賛成と反対)と
       その希望に疲れ果て、諦めてしまう〝絶望〟(無関心)・・・・

       その両方に人間の凍り付いたマインドがある、加害者と被害者が同時存在している

これは、外道から内道へと転じた時に初めてストップ出来る弾丸(カルマ)なのだ

マトリックス 弾丸2

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