静寂の中には音楽があり
音楽の中には静寂がある
とても神秘的に聞こえる話しだろう・・・
とても理論的=ロジカルには聞こえない話しだ
この神秘の種明かしは、〝求めない〟ということをキーワードにすると
誰にでも理解し、体験出来るマジックだ
静寂を〝求めて〟はいけない
音楽を〝求めて〟はいけない
ハーモニー、つまり調和を、 〝求めて〟はいけないのだ
なぜなら、 〝求めて〟 得られた静寂を、「静寂」と言えるだろうか?
〝求めて〟 得られた音楽を、「音楽」と言えるだろうか?
〝求めて〟 得られた調和を、「調和」と言えるだろうか?
これらは、〝ジェスチャー:gesture〟が重要なのではない
確かに耳を塞げば音は入ってこないだろう
物理的には〝無音〟の環境を無理矢理作り出すことは可能だけれど
その〝無理矢理さ〟それ自体が「静寂」とは言えないからだ・・・
IPODを操作すれば、あなたのお好みの音楽がイヤフォンから流れ出すだろう
物理的にはこの地球上に無数の種類の音楽が溢れている
しかしその〝操作〟とあなたの〝好み〟〝嗜好〟〝選択〟それ自体が
音楽やその中の美しいハーモニーを台無しにしてしまう・・・・
あなたは、その音楽に浸ることが出来る
〝あなた〟が〝好きな〟〝好みの〟・・・ 〝あなた〟の個性でチョイスした〝音楽〟・・・
好きなアーティスト、好きなジャンル、好きなアレンジ・・・
わたしたちは街の中を歩きながらでも、耳の奥までカナル型のイヤフォンを強く突っ込んで
大音量で、自分だけの世界に没入することが出来る・・・
わたしたちが「音楽を楽しむ」と言う場合、通常はそういうことを意味する
しかし多分、そういうリスニングの中に、
OSHOが語る〝中心の静寂〟は見つからないだろう
人工的に隔離された密室の中が、無音であるのか?音楽が流れているのか?
それはどちらでも同じだ、そこにあるのはジェスチャーだけだ
〝人工的な隔離〟〝好み、嗜好〟〝選択〟 ・・・それらそのものすべてが、騒音だからだ
そういったものを何で??? 私たちは
〝静寂〟や〝平和〟、〝調和〟と呼んだり、〝音楽〟として浸っているのだろうか?
私が思うに、私たちは寂しいのだ・・・ わたしたちは〝自己確証〟に餓えているのだ・・・
だから常に、自分自身に何かのカラーを押し付け続ける、〝人格〟〝人徳〟を希望する
常に、「自分自身とはこれこれである」という条件付けと、ムードを言い聞かせ続けている
わたしたちの「付き合っているお友達」「尊敬している先生」もまた同じだ・・・
しかし、どうもこれらのジェスチャーは私たちを、
「本当の内奥の欲求とは正反対の方」
に押し流してしまうのではないだろうか?
〝浸っている〟ときは、なるほど良い気分 (ムード) だ・・・
でもそれらの夢から覚めた時、妙にソワソワしないだろうか?
むしろ余計イライラしないだろうか?
むしろ余計に孤独ではないだろうか?
まるでそれはタバコのように・・・ ほんの一、二分、ニコチンの煙は私たちに
シャーロック・ホームズになった様な素敵な時間を提供してくれる・・・
しかし、そのあと30分もすれば、脳内の過剰に殺到したニコチンの血中濃度は
急激に落下し、鎮静効果も急激に薄れていく・・・
私たちは、これらの 「喫煙の自由」、「嗜好の選択の自由」を
「個人の自由」だと思っているのではないだろうか?
そしてそれらのシーソーゲームの乱高下に、センターを見つけると言うことは難しい
それは〝静寂〟でも、〝音楽〟でも、〝調和〟でもない・・・
多分見つかるのは、残されるのは、「自分自身を慰めたのだ」と言う後味、誤魔化し、自己憐憫・・・
自己憐憫と、自己受容は、一見似ているようで・・・ だから実は正反対なのだと思う
その両者の違いは、「探し、求め、選択して」・・・得たのか?
それとも、それらのすべてを見極めた時に
自然に 「見えてきた」 「発見した」 ・・・静寂なのか?音楽なのか?自然な調和なのか?
その違いであるのだと思うのだ
音楽の中には静寂がある
The Book of Secretsより
OSHO Japanese 2014年6月23日 OSHO 瞑想 : ♪ 音の中心にある沈黙を見つける 目を閉じて、宇宙全体が音で満たされていると感じなさい。 すべての音があなたに向かって動いていて、 あなたが中心であるかのように感じなさい。 あなたが中心であるというこの感覚は、 とても深い平和を与えてくれるだろう。 宇宙全体が円周になり、あなたが中心だ。 そしてすべてがあなたに向かって動き、 あなたに向かって落ちている。♬ 中心は、無音だ。だからあなたは、音を聞くことができる。 音には、別の音を聞くことはできない。 中心は絶対的な沈黙だ。だからこそあなたは、音があなたに入り、 あなたのところに来て貫き、取り囲むのを聞くことができる。 センターがどこにあるのか、すべての音がそこにやって来る、 あなたの内なる場所がどこにあるのか、 もし見つけることができたら、突然音は消え、 あなたは無音の中に入るだろう。 すべての音が聞かれる中心を、あなたが感じることができたら、 突然の意識の移動が起こるだろう。 一瞬、あなたは全世界が音で満たされるのを聞いていて、 そして次の瞬間、あなたの意識は突然内側を向き、 あなたは無音を、生の中心を聞く。 この音は良くあの音は悪いとか、これは妨害で、 あれはとても美しく調和しているなどと、 音について考え始めてはならない。 単に中心について考えなさい。あなたが中心で、 すべての音があなたに向かって動いていることを、 ただ覚えていなさい――ひとつ残らず、あらゆる種類の音が、 あなたに向かっている......。 音は耳で聞かれるのではない。 耳はそれらを聞くことはできない。 耳は伝達の仕事だけをする。 そしてその伝達において、 あなたにとって無用な多くのものを切り捨てる。 それはえり抜き、選択し、 そしてそのあとの音があなたに入って来る。 今、どこにあなたの中心があるか、内側に見つけ出してごらん。 耳は中心ではない。あなたはどこか深いところから聞いている。 耳は選択した音を、単にあなたに送っている。 あなたはどこにいる? あなたの中心は、どこにある?
とても神秘的に聞こえる話しだろう・・・
とても理論的=ロジカルには聞こえない話しだ
この神秘の種明かしは、〝求めない〟ということをキーワードにすると
誰にでも理解し、体験出来るマジックだ
静寂を〝求めて〟はいけない
音楽を〝求めて〟はいけない
ハーモニー、つまり調和を、 〝求めて〟はいけないのだ
なぜなら、 〝求めて〟 得られた静寂を、「静寂」と言えるだろうか?
〝求めて〟 得られた音楽を、「音楽」と言えるだろうか?
〝求めて〟 得られた調和を、「調和」と言えるだろうか?
これらは、〝ジェスチャー:gesture〟が重要なのではない
確かに耳を塞げば音は入ってこないだろう
物理的には〝無音〟の環境を無理矢理作り出すことは可能だけれど
その〝無理矢理さ〟それ自体が「静寂」とは言えないからだ・・・
IPODを操作すれば、あなたのお好みの音楽がイヤフォンから流れ出すだろう
物理的にはこの地球上に無数の種類の音楽が溢れている
しかしその〝操作〟とあなたの〝好み〟〝嗜好〟〝選択〟それ自体が
音楽やその中の美しいハーモニーを台無しにしてしまう・・・・
あなたは、その音楽に浸ることが出来る
〝あなた〟が〝好きな〟〝好みの〟・・・ 〝あなた〟の個性でチョイスした〝音楽〟・・・
好きなアーティスト、好きなジャンル、好きなアレンジ・・・
わたしたちは街の中を歩きながらでも、耳の奥までカナル型のイヤフォンを強く突っ込んで
大音量で、自分だけの世界に没入することが出来る・・・
わたしたちが「音楽を楽しむ」と言う場合、通常はそういうことを意味する
しかし多分、そういうリスニングの中に、
OSHOが語る〝中心の静寂〟は見つからないだろう
人工的に隔離された密室の中が、無音であるのか?音楽が流れているのか?
それはどちらでも同じだ、そこにあるのはジェスチャーだけだ
〝人工的な隔離〟〝好み、嗜好〟〝選択〟 ・・・それらそのものすべてが、騒音だからだ
そういったものを何で??? 私たちは
〝静寂〟や〝平和〟、〝調和〟と呼んだり、〝音楽〟として浸っているのだろうか?
私が思うに、私たちは寂しいのだ・・・ わたしたちは〝自己確証〟に餓えているのだ・・・
だから常に、自分自身に何かのカラーを押し付け続ける、〝人格〟〝人徳〟を希望する
常に、「自分自身とはこれこれである」という条件付けと、ムードを言い聞かせ続けている
わたしたちの「付き合っているお友達」「尊敬している先生」もまた同じだ・・・
しかし、どうもこれらのジェスチャーは私たちを、
「本当の内奥の欲求とは正反対の方」
に押し流してしまうのではないだろうか?
〝浸っている〟ときは、なるほど良い気分 (ムード) だ・・・
でもそれらの夢から覚めた時、妙にソワソワしないだろうか?
むしろ余計イライラしないだろうか?
むしろ余計に孤独ではないだろうか?
まるでそれはタバコのように・・・ ほんの一、二分、ニコチンの煙は私たちに
シャーロック・ホームズになった様な素敵な時間を提供してくれる・・・
しかし、そのあと30分もすれば、脳内の過剰に殺到したニコチンの血中濃度は
急激に落下し、鎮静効果も急激に薄れていく・・・
私たちは、これらの 「喫煙の自由」、「嗜好の選択の自由」を
「個人の自由」だと思っているのではないだろうか?
そしてそれらのシーソーゲームの乱高下に、センターを見つけると言うことは難しい
それは〝静寂〟でも、〝音楽〟でも、〝調和〟でもない・・・
多分見つかるのは、残されるのは、「自分自身を慰めたのだ」と言う後味、誤魔化し、自己憐憫・・・
自己憐憫と、自己受容は、一見似ているようで・・・ だから実は正反対なのだと思う
その両者の違いは、「探し、求め、選択して」・・・得たのか?
それとも、それらのすべてを見極めた時に
自然に 「見えてきた」 「発見した」 ・・・静寂なのか?音楽なのか?自然な調和なのか?
その違いであるのだと思うのだ