We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年10月

静寂の中には音楽があり
音楽の中には静寂がある

The Book of Secretsより
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OSHO Japanese 2014年6月23日

OSHO 瞑想 : ♪ 音の中心にある沈黙を見つける

目を閉じて、宇宙全体が音で満たされていると感じなさい。
すべての音があなたに向かって動いていて、
あなたが中心であるかのように感じなさい。
あなたが中心であるというこの感覚は、
とても深い平和を与えてくれるだろう。
宇宙全体が円周になり、あなたが中心だ。
そしてすべてがあなたに向かって動き、
あなたに向かって落ちている。♬                              

中心は、無音だ。だからあなたは、音を聞くことができる。
音には、別の音を聞くことはできない。
中心は絶対的な沈黙だ。だからこそあなたは、音があなたに入り、
あなたのところに来て貫き、取り囲むのを聞くことができる。

センターがどこにあるのか、すべての音がそこにやって来る、
あなたの内なる場所がどこにあるのか、
もし見つけることができたら、突然音は消え、
あなたは無音の中に入るだろう。
すべての音が聞かれる中心を、あなたが感じることができたら、
突然の意識の移動が起こるだろう。
一瞬、あなたは全世界が音で満たされるのを聞いていて、
そして次の瞬間、あなたの意識は突然内側を向き、
あなたは無音を、生の中心を聞く。

この音は良くあの音は悪いとか、これは妨害で、
あれはとても美しく調和しているなどと、
音について考え始めてはならない。
単に中心について考えなさい。あなたが中心で、
すべての音があなたに向かって動いていることを、
ただ覚えていなさい――ひとつ残らず、あらゆる種類の音が、
あなたに向かっている......。

音は耳で聞かれるのではない。
耳はそれらを聞くことはできない。
耳は伝達の仕事だけをする。
そしてその伝達において、
あなたにとって無用な多くのものを切り捨てる。
それはえり抜き、選択し、
そしてそのあとの音があなたに入って来る。
今、どこにあなたの中心があるか、内側に見つけ出してごらん。
耳は中心ではない。あなたはどこか深いところから聞いている。
耳は選択した音を、単にあなたに送っている。
あなたはどこにいる?
あなたの中心は、どこにある?

とても神秘的に聞こえる話しだろう・・・

とても理論的=ロジカルには聞こえない話しだ

 この神秘の種明かしは、〝求めない〟ということをキーワードにすると
 誰にでも理解し、体験出来るマジックだ


  静寂を〝求めて〟はいけない

  音楽を〝求めて〟はいけない

  ハーモニー、つまり調和を、  〝求めて〟はいけないのだ

   なぜなら、  〝求めて〟  得られた静寂を、「静寂」と言えるだろうか?

            〝求めて〟  得られた音楽を、「音楽」と言えるだろうか?

            〝求めて〟  得られた調和を、「調和」と言えるだろうか?


これらは、〝ジェスチャー:gesture〟が重要なのではない

確かに耳を塞げば音は入ってこないだろう
物理的には〝無音〟の環境を無理矢理作り出すことは可能だけれど
その〝無理矢理さ〟それ自体が「静寂」とは言えないからだ・・・

IPODを操作すれば、あなたのお好みの音楽がイヤフォンから流れ出すだろう
物理的にはこの地球上に無数の種類の音楽が溢れている
しかしその〝操作〟とあなたの〝好み〟〝嗜好〟〝選択〟それ自体が
音楽やその中の美しいハーモニーを台無しにしてしまう・・・・

あなたは、その音楽に浸ることが出来る
〝あなた〟が〝好きな〟〝好みの〟・・・  〝あなた〟の個性でチョイスした〝音楽〟・・・

  好きなアーティスト、好きなジャンル、好きなアレンジ・・・

   わたしたちは街の中を歩きながらでも、耳の奥までカナル型のイヤフォンを強く突っ込んで
   大音量で、自分だけの世界に没入することが出来る・・・

    わたしたちが「音楽を楽しむ」と言う場合、通常はそういうことを意味する

         しかし多分、そういうリスニングの中に、
           OSHOが語る〝中心の静寂〟は見つからないだろう

人工的に隔離された密室の中が、無音であるのか?音楽が流れているのか?
それはどちらでも同じだ、そこにあるのはジェスチャーだけだ

〝人工的な隔離〟〝好み、嗜好〟〝選択〟 ・・・それらそのものすべてが、騒音だからだ

そういったものを何で???  私たちは
〝静寂〟や〝平和〟、〝調和〟と呼んだり、〝音楽〟として浸っているのだろうか?

  私が思うに、私たちは寂しいのだ・・・  わたしたちは〝自己確証〟に餓えているのだ・・・

  だから常に、自分自身に何かのカラーを押し付け続ける、〝人格〟〝人徳〟を希望する

    常に、「自分自身とはこれこれである」という条件付けと、ムードを言い聞かせ続けている

     わたしたちの「付き合っているお友達」「尊敬している先生」もまた同じだ・・・


 しかし、どうもこれらのジェスチャーは私たちを、

       「本当の内奥の欲求とは正反対の方」

          に押し流してしまうのではないだろうか?

           〝浸っている〟ときは、なるほど良い気分 (ムード) だ・・・
             でもそれらの夢から覚めた時、妙にソワソワしないだろうか?
               むしろ余計イライラしないだろうか?
                むしろ余計に孤独ではないだろうか?

  まるでそれはタバコのように・・・  ほんの一、二分、ニコチンの煙は私たちに
   シャーロック・ホームズになった様な素敵な時間を提供してくれる・・・

   しかし、そのあと30分もすれば、脳内の過剰に殺到したニコチンの血中濃度は
    急激に落下し、鎮静効果も急激に薄れていく・・・


    私たちは、これらの 「喫煙の自由」、「嗜好の選択の自由」を
                  「個人の自由」だと思っているのではないだろうか?


そしてそれらのシーソーゲームの乱高下に、センターを見つけると言うことは難しい

それは〝静寂〟でも、〝音楽〟でも、〝調和〟でもない・・・
多分見つかるのは、残されるのは、「自分自身を慰めたのだ」と言う後味、誤魔化し、自己憐憫・・・

自己憐憫と、自己受容は、一見似ているようで・・・  だから実は正反対なのだと思う

その両者の違いは、「探し、求め、選択して」・・・得たのか?
それとも、それらのすべてを見極めた時に
自然に 「見えてきた」 「発見した」  ・・・静寂なのか?音楽なのか?自然な調和なのか?

その違いであるのだと思うのだ

斉藤ひとり氏はこんな事を言っている
「人は自分に必要な学びが何か?みんなちゃんと知っている」

「だから私は英語はさっぱりだけれど、海外との取り引きもさっぱりだし
 全然困っていない・・・」
                       っと周囲に笑いを誘っている

  今日はこの彼の言葉が妙に沁み入ってきた・・・

  あなたは、「どうしてこんな所にこんな人が居合わせたのだろう?」っと
  不思議な運命の巡り合わせに仰天したことは無かっただろうか?
  誰でも多少はあると思う

  人間は、自分の将来、どんな知識と経験が必要とされるのか?
  まるで知っているか?のようだ

  わたしたちが、人生を〝かったるい〟〝メンドクサイ〟と感じるのは
  自分と無関係な事柄に無理矢理関与させられた時なのでは無いだろうか?

  ・・・人は皆、自覚している以上にすでに目一杯生きているのだと思う

     決して余裕が有るわけでは無い、だれもがすでに人生を100%生きている

      だからこそ、自分には無関係と感じるものに付き合わされることには
      大きな苦痛を感じるのじゃないだろうか?

  しかし、悲しいことに私たちは大学入試における共通一次テストのような発想から
       なかなか抜け出せないのだ

  自分には将来、何が?どんな知識と経験、学問、技能が必要なのか?

       基本的には〝分からない〟

       自分は自分を〝知らない〟 

       ましてや自分の将来の要望なんて、もっと〝分からない〟

    だから何でもかんでも平均的にまんべんなく習得しようとする・・・

  本当に広範囲の雑学が将来必要で、またそれを予感して広範囲に知識欲がある人は
  それでいい

   クイズダービーのはらたいら氏の様な、マンガ家になるとか、クイズ番組のスターとして
   将来大活躍する予定の〝魂〟なのかもしれない・・・



  しかし、人が何かに対して関心を持つのか?興味を持たないのか?

    これは、非常に何気ないコトのようでいて、
            実際はそこには莫大な宇宙の計らいがあるように思う

     だからそんな時に
     「〝食わず嫌い〟はイケマセンヨ」みたいな教育ママゴンの良識を押し付けるのは
      意外なぐらい〝極めて危険〟なことなのかも知れない

      わたしは〝受験戦争〟という言葉が流行しだした頃に受験生だった世代なので
               そのまっただ中で実に嫌な青春時代の思い出があまりに多い

       そして実際に社会に出てみると、あの無機的な詰め込み教育の歪みが
       如何に巨大なのか?  痛感する例も多々見てきた

       わたしたちの世代の親たちは〝我が子に良かれ〟と思ってしたことなのだろうが
       それが如何に大きな精神的な歪みを生み出したことか!?

      だから私たちの次の世代が、〝無気力さ〟に覆われていることは全く不思議では無い

     斉藤ひとり氏が言うように、ひとはみな本能的に自分が身につけるべき知識と経験を
     知っているのだと思うし、それに逆らって親や社会がコントロールしようとしたり
     無関心さを矯正しようとして、押し付け教育をしたりすると、
       〝けだるさ〟〝かったるさ〟〝無気力〟な感覚に追いやられた人達は
        ますます増える一方だろう

      そしてその正反対の、猫っかわいがりの甘やかしや放任教育も、同じコインの裏表だ

     先日の記事で、
    OSHOがいう「すべては新しいのに、決断は古い。」という言葉は
      親や教師にマインドファックされた青少年達の全ての心理状況を指摘していると思う

       もはやいままでの全ての道徳教育、人格形成主義、人間のプログラミング計画は

                          古い

         ・・・つまり〝人格〟というのは決断、決心、インプットされた人工的観念の集積だ

             自分自身の生き生きとした感覚を消去された人間ロボット君達が
             完全に自分自身の〝こころの声〟の聞き方を忘却してしまっているのは
             まったくもって不思議では無いのだ

  決心したり、決断したり、人格を磨いたり、片っ端から知識や経験を物色したり・・・

 これらはすべて、自分の直感を信じられないという宣言と同義では無いだろうか?
 しかし多くの人が自分の直感を〝信じる〟以前に〝感じる〟事が出来ないのだ・・・
 これらの人達の「声なき多くのうめき声」が、私には聞こえるような気がするのだ・・・

高尾の山の無人の寺に一週間程籠もって断食した時、
お堂の中から寺のひさしより流れ落ちる雨の滴を見つめて
自問自答した・・・

「なんでオレはこんな所で、こんなコトしてるんだ?」

答えは簡単だった・・・

「そうか、オレはただそうしたいからそうしたんだ・・・」

その時世界中の誰もオレとは関係が無かった
誰もオレに何かを強制した者はいなかった

いたとしても、それを命がけで逆らわなかったのは
オレ自身の責任だった

・・・命がけで抵抗して、抵抗しきれない「無理強い」なんて
   そう滅多には無いのだ

    もちろんたったひとつの命だ

     「命がけの抵抗」なんて早々出来るものでは無い・・・

      とはいっても、自分自身の命だからこそ
      そこまでの覚悟を決めるならば、最悪は死ぬだけだ

 本当の被害者というのは、「命がけ」で抵抗して命を奪われた人だけだ


友人の縁で会社の元社宅だった倉庫の中で、
居候させてもらった私は一時、家賃からも解放され
やはり断食を試みながら何ヶ月も考えあぐねたこともある

  何故自分には「やりたいこと」が見つからないのか?
・・・誰もがまじめに働いているというのに?

   「何故どんな仕事をしても長続きしないのか?」
    「何故正社員になりたいと思えないのか?」

     若い時の私は、まさしくニート、ヒキコモリの先駆けみたいな男だった

         「きっと原因は、自分が本当にやりたいことが
                     見つかっていないからに違いない」

         私はそう憶測して、その憶測による回答を探しあぐねた

        私は、答えを探して、焦げたような天井板の木目を睨みつけていた
        そして、小便をしたくなり、
        ろくにシーツも洗っていない薄汚れたせんべい布団からおもむろに起き上がって
        トイレに行き、そしてそのフトンに帰って来た・・・

        その万年床に再び潜り込んだ瞬間、高雄の山寺の時と同じ閃光が脳内に走った


    「そうだ、オレは今この瞬間、〝何もしたくない〟んだ・・・・」

    「そして、〝何もしたくない〟ということが、オレの一番〝したいこと〟だったんだ・・・!!」


 つまり、「何をしたいのか?」っと自問自答していたのだが
 それは、「〝自分は〟〝何かしたいことがある〟に違いない」という勝手な思い込みからだった

つまり質問の前提が間違っていたのだ・・・だからいつまでたっても問いが堂々巡りだったんだ

そうだ、思えば私は自分が「何もしたくない」ことを自覚するのを恐れていたんだ・・・
何も理想が無いこと、何も目的が無いこと、
何も動機も、希望も無いという自分自身を認めることを・・・、
       ・・・いつの間にか死ぬ程恐れ、タブー視していたんだ


だがまてよ?

でもおれは何もしたくないと自分に言っておきながら、でも俺は今トイレに行ってきたじゃないか?
「トイレに行く」というのは「おしっこがしたい」という動機や目的があったというコトじゃ無いか?

・・・しかしこの二つ目の疑問はすぐに答えが見つかった

   生理現象というのは、自然な現象なのだ・・・
    だからここには〝わたし〟を持ち込む必要が無かったのだ

     〝わたし〟が持ち込まれなかった時、
      そこには〝自分がやった〟〝自分が求めた〟という
      自覚は無いのだ、自意識という重荷は無いのだ!!


老子が言う〝無為自然〟という言葉の意味が痛感出来た気がした

〝無為〟であることと〝自然〟であることとは切っても切れないのだ

〝無為〟と〝行為〟とは同じコインの裏表だった

そこに〝自然〟という接着剤=中心があった時、
無為と行為とは切っても切れない一体になるのだ

 無為とは、単にジッとしていることではない
 その瞬間瞬間に必要なこと、自然に起きる行為を為せば良い

 一見とても不自然に見えること、一見暴力的で粗暴に見えることでさえ
 必ずなにがしかの必然、自然が息づいている

 〝無〟とは単にナッシングなのではない
  そこには宇宙の最果てまで一瞬で繋がった〝無限〟があるのだ・・・


本当は誰もが、無為自然から一歩たりとも踏み出すことなど出来はしない
誰の人生も、その始まりから終わりまで、全ての全ては無為自然なのだ・・・

・・・ただしそれを自覚出来ているか?いないか?には大きなストレスの差がある

    人は誰しも「運命の被害者」になる事によって、責任逃れをしようとする

    そして「責任逃れ」という逃避行動そのものが、まさしく新たな責任を生じさせてしまう

    それこそが雪だるま式に転がり増えていくカルマなのだ

    そして言い訳すべきことがますます増えていく

    責任逃れが、ますます大きな責任を背負う状況へと自分自身を追い込んでいく

    たしかに「ことば」というものは人間だけに許された「便利な能力」なのだが、
    この〝便利さ〟の一体どれ程が「責任逃れ」に費やされているんだろうか?

    わたしたちは沈黙出来ない、静寂を楽しめない、無為の中にくつろげない・・・

   そんなことよりも言い逃れし、目標と理想を追いかけ、野心を遂げようとする・・・

・・・ところがそれ程にも、自分の方から苦しみに頭を突っ込みながらも、本当は自分が
   何故そうしているのか?   自分を何故そんなにも責めているのか? 縛り付けているのか?

    その本当の動機すら、思い出せなくなっている・・・

     すべては、他人から始まっていることなのに、
       いつの間にかそれが自分の本性なのだと信じ込み、
       いつしか「その始まりを問い正そう」とすることに恐怖を感じるようになってしまった

      それはあたかも、私たちの中で勝手に寄生し、成長した寄生虫のようだ・・・

      ところがそれを私たちは、「家族愛」だとか「社会の常識」だとか「人としてのモラル」だと
      信じて疑わなくなってしまった・・・

    もはやその借り物の仮面、寄生生物こそが自分自身の人格、自分の良心なのだと
    信じてしまい、それを疑うことを「悪」と呼ぶ様にさえなってしまった・・・

   だれもが王様は裸にしか見えないのに、
   誰もがお互い、王様のゴージャスなニューファッションを称賛し合う

   誰もが人生で一番大事なことは、

   「深く考えすぎないこと」「他人や組織と協調していくことが成功への道」
   「ガマンするのがオトナ、常に努力し続けることが美徳・・・」
    その反面、「・・・諦めが肝心、妥協することが生き延びる唯一の方法」なのだと・・・

はたして、そんな人達の間で、「オレ、本当は何もしたくないんだけど?」だなどと
                    正直に自分自身を認めることが出来るだろうか?

スタイリッシュに、さりげなく振る舞うことが、きっと多くの人の〝無為自然〟なのだろう

しかし私とは、こんな世の中のまっただ中で、なぜか泥臭く生まれてきてしまったようだ
こんな私に一体、誰が見向きするだろうか? 
いや、見向きしてもらっても、それが何になるだろうか?

・・・そんなことを危惧してもしかたない、そうでしかありえないのだから

本当のことを言ってしまおう・・・

私には人格なんて言うお上品なものは無い
あったとしても、そんなものは〝ひとさま〟に取って付けたものに過ぎない
そんなものは本当の自分じゃ無い、嘘っぱちだ・・・

どうかだまされないで欲しい、わたしだってダマしたくは無い
もう、こころにも無く他人に調子を合わせる自分にはホトホト疲れてしまったのだ
自殺したくなるぐらい・・・  わたしは人に愛想笑いしている自分が嫌いだ

他人に愛想良くしているあなたも、まるで私を見ている様で嫌いだ

でも、私は別に人が嫌いなんじゃない・・・ 嘘が嫌いなだけなんだ
そして嘘に対して脆弱な、不寛容な自分も叉、嫌いなのだ

人間の優しさも、厳しさも、寛容さも、狭量(きょうりょう)さも、
智恵も、愚かさも、  ・・・・何もかもが信じがたく、受け入れ難い

だから、OSHOが言う
「人が悟るのでは無い」「どうして人が悟れる?」という言葉に強く同意を感じる・・・


  人間は単に人間であるだけでは
   地球を食い荒らす芋虫以上の何かでは無い

   わたしは「人間主義者(ヒューマニスト)」ではない、・・・まったくない
   わたしは「人間バンザイ」と喜んでいる人達が全く信じがたい

   人間が人間を称賛して、一体どうしようというのだ?

私たちは「人間らしさ」を発揮し、許容したことで、一体どこまで
人間の愚かさを正当化してしまっただろうか?

今日の現実をちょっと見渡すなら、
〝ヒューマンな優しさ〟に満ちあふれた、この〝人間らしい〟世界が
どれ程の「醜い欲望の自己正当化」を野放しにしたか?が分かるだろう



だからわたしは民主主義も、安保賛成も、反対も信じていない
ひとりの人間としての自分自身のあらゆる知識も、夢も、理想も、理念も、信じては居ない

人というのは、いずれ滅びるべき種族だと思う  事実、私たちは追い詰められている
問題の根底とはイルミナティーのNWOでもフリーエネルギーの解放でも無い
無尽蔵に欲望が解放されることが、真の解放だとは思えない
〝その前〟に必ず大きな試練が、しっぺ返しがあるに違いない

人間は「人のままでいる」限りにおいては・・・  まったく絶望的で破滅的存在だ

私たちが高らかに唄う「愛の歌」とは「復讐の歌」「嫉妬の歌」と、切っても切れない
それが「人間賛歌」の正体なのだ

DEVILMAN_05_133

01






以前何度かここに書いたことだけれど

   ・・・「生き延びる」ことと
      「生きる」こととは大きく違う

生き延びるとは、基本は肉体の存続、継続のことで、「いつか?どこか?」に属するが
生きるとは、基本的にこの瞬間のみに関わる、「いまここ」に属するテーマだ

志村 喬02

今までの地球上の生物のテーマとは、ずばり〝サバイバルと種の繁栄(繁殖)〟だった

いままでは国家神道を形成させた〝伊勢(弥生)〟系の神の仕組みだったが
これからは個々人が〝皆神〟へと進化する〝出雲(縄文)〟系の神仕組みが
復活するだろう

知性の開花とは結局のところ個々人の自覚、自立と開花のことなのだと思う

確かにこれからも肉体的な存続の必要性は残り続けるだろうが、それはもはや
従来のような〝個人の自由を越えた民族的至上命題〟ではない・・・・

いま、フォトンベルトにすでに包まれている光の世界となったこの地球においては
私たちは〝宇宙的な常識〟があっけなく理解出来るではないか????

     肉体の存続とは、あくまでも〝手段〟にすぎず、
      私たちの生の大目的とは〝自己探求〟の〝歓び〟なのだということを・・・・


この「あたりまえのこと」が何故今まで私たちの目の前から隠されてきていたのか?

なぜならば、私たち日本人にしてもいままでずっと〝敗戦〟を引きずり続けていたからなのだ

    ・・・それが、〝サバイバル〟への強迫観念として私たち日本人の心を蝕み続けてきた

       私の父は昭和10年生まれ、母は昭和15年生まれだった

     両親は思春期に敗戦を乗り越え、戦後の闇市の中から生き延びてきた世代だった

   かれらがサバイバルの強迫観念を根強く引きずり続けたことを、
   いったい誰が咎めることが出来るだろう・・・・?

  でもしかし、もう「戦争は終わった・・・  WAR is OVER」と宣言するべき歴史的瞬間が
  迫ってきたのだ・・・  これは、単なる「人類の歴史の一ページ」では収まりきらない

 地球上の生態系が産み出した最終結論だとさえ言えるだろう
 
「生き延びる」から「生きる」という、あまりにも当然のシフト・・・・

生存競争よりも相互尊重、自己尊重、「する〝Do〟」ことよりも「在る〝Be〟」ことが
優先するという〝あたりまえ〟に立ち返ることによって、私たちは無限の成長を
スタートできるのだ・・・・



質問
4
00:00:28,050 --> 00:00:37,800
生き生きと育つ知性に必要な細胞に 限られた寿命しかないために

5
00:00:38,772 --> 00:00:45,465
あるポイントを過ぎるとボケるか沈滞するしかないのでしょうか?

6
00:00:47,387 --> 00:00:50,573
それとも 必要な刺激が与えられるなら

7
00:00:51,434 --> 00:00:58,607
知性は 死の瞬間まで成長し続けることができるのでしょうか?


OSHO
8
00:01:23,800 --> 00:01:25,891
通常の人間は

9
00:01:31,800 --> 00:01:32,764
14歳で

10
00:01:41,520 --> 00:01:43,677
知性の成長を

11
00:01:49,443 --> 00:01:51,525
とめる

12
00:01:55,491 --> 00:01:59,792
それは生物学上の目的が完了するからだ

13
00:02:03,657 --> 00:02:05,826
14歳で

14
00:02:12,700 --> 00:02:14,304
その人は

15
00:02:18,000 --> 00:02:20,900
子どもを産むためには

16
00:02:22,800 --> 00:02:24,173
生殖のためには 充分に成熟している

17
00:02:27,000 --> 00:02:30,684
生物学的には このポイントを超えては

18
00:02:31,800 --> 00:02:33,530
もはや関心がない

19
00:02:36,900 --> 00:02:40,900
これが理由で 平均的

20
00:02:44,000 --> 00:02:45,651
人間は

21
00:02:53,000 --> 00:02:54,150
14歳で

22
00:02:58,115 --> 00:03:00,373
行きづまる

23
00:03:01,566 --> 00:03:05,853
精神年齢に関する限りはそうだ

24
00:03:08,900 --> 00:03:11,511
人びとは肉体的には

25
00:03:14,000 --> 00:03:17,021
70歳 80歳 90歳

26
00:03:19,538 --> 00:03:20,806
100歳と生きつづける

27
00:03:23,130 --> 00:03:27,635
コーカサスのような地域では150歳まで

28
00:03:29,353 --> 00:03:31,745
ときには180歳までも生きつづける

29
00:03:34,561 --> 00:03:41,402
だが彼らの精神年齢は14歳でとまったままだ

30
00:03:49,000 --> 00:03:52,130
これが現在まで繰り返されてきた

31
00:04:02,800 --> 00:04:04,622
これは変えることができる

32
00:04:08,000 --> 00:04:10,102
そしてこれは変えるべきだ

33
00:04:15,514 --> 00:04:19,599
成長に向けての 無限の

34
00:04:20,420 --> 00:04:21,410
潜在可能性があるのだから

35
00:04:26,900 --> 00:04:30,505
だがその変化が起こるのは

36
00:04:33,726 --> 00:04:35,783
あなたに何らかの

37
00:04:37,900 --> 00:04:40,799
生物学を超えた目標があるときだけだ

38
00:04:44,793 --> 00:04:46,650
もしあなたの人生が

39
00:04:49,105 --> 00:04:52,270
セックスや

40
00:04:53,549 --> 00:04:54,638
子供や

41
00:04:55,738 --> 00:04:56,635
家族や

42
00:04:58,601 --> 00:04:59,050
食べ物や

43
00:05:00,784 --> 00:05:01,350
家にのみ関わるなら

44
00:05:03,176 --> 00:05:04,530
それならその必要はない

45
00:05:05,000 --> 00:05:07,757
その程度の知性で充分だ

46
00:05:13,455 --> 00:05:14,114
だがもしあなたが

47
00:05:17,751 --> 00:05:21,898
アルバート・アインシュタインのような関心をもつなら

48
00:05:27,543 --> 00:05:29,129
そのときはあなたの知性は

49
00:05:31,351 --> 00:05:33,230
働きはじめる

50
00:05:34,748 --> 00:05:41,124
ときにはあなたの肉体さえも追い越す

51
00:05:44,129 --> 00:05:47,514
エマーソンはこう言ったと伝えられている

52
00:05:48,000 --> 00:05:49,623
しかもそれは正しい

53
00:05:51,900 --> 00:05:55,222
あなたは何歳かと聞かれたとき

54
00:05:56,428 --> 00:05:59,538
彼は「360歳」と答えた

55
00:06:06,204 --> 00:06:08,872
質問していた新聞記者は

56
00:06:11,572 --> 00:06:13,841
「360歳ですか?

57
00:06:16,660 --> 00:06:19,182
あなたは60歳以上には見えませんが」と言った

58
00:06:24,415 --> 00:06:26,566
エマーソンは言った「そのとおり

59
00:06:36,000 --> 00:06:40,544
ひとつの観点からは 私は60歳だ

60
00:06:42,900 --> 00:06:46,203
しかし私は実に多くの仕事をした

61
00:06:51,000 --> 00:06:54,174
私の知性について言えば

62
00:07:03,587 --> 00:07:10,196
それをするには6人は必要だったか

63
00:07:11,227 --> 00:07:15,606
もしくは私に360年が必要だったかだ

64
00:07:21,769 --> 00:07:23,640
私の知性は

65
00:07:27,581 --> 00:07:32,093
私の肉体をそれほど遥かに追い越している」

66
00:07:38,208 --> 00:07:39,685
知性とは

67
00:07:43,108 --> 00:07:44,364
それを使って

68
00:07:46,212 --> 00:07:48,138
あなたが何をしているかによる

69
00:08:00,655 --> 00:08:03,323
瞑想している人には

70
00:08:08,000 --> 00:08:11,357
知性の最高の

71
00:08:18,300 --> 00:08:23,687
高みに到達する最大の可能性がある

72
00:08:27,133 --> 00:08:32,046
なぜなら瞑想の中で その人は人間に成し得るかぎり

73
00:08:33,000 --> 00:08:36,110
最高の仕事をしているからだ

74
00:08:37,000 --> 00:08:41,683
それは己を悟ることだ

75
00:08:50,200 --> 00:08:51,249
「私は誰か」を

76
00:08:54,101 --> 00:08:55,375
知ることだ

77
00:09:02,683 --> 00:09:05,900
自分の主観性の

78
00:09:09,725 --> 00:09:10,893
最も深い

79
00:09:11,692 --> 00:09:13,819
内側に入っていくこと

80
00:09:18,400 --> 00:09:23,455
それこそが知性にとっての最大の仕事だ

81
00:09:28,310 --> 00:09:31,018
そのときあなたは算定すらできない

82
00:09:31,405 --> 00:09:35,305
あなたはゴータマ・ブッダの知性を算定できない

83
00:09:39,688 --> 00:09:44,864
それは計算を超えている

84
00:09:47,288 --> 00:09:49,694
測定を超えている

85
00:09:59,541 --> 00:10:01,838
もしあなたが瞑想者なら

86
00:10:05,272 --> 00:10:08,409
あなたの瞑想が進んでいくにつれて

87
00:10:12,428 --> 00:10:15,189
ますます輝いてくる

88
00:10:22,000 --> 00:10:27,960
あなたの人生の最後の息まで あなたの知性は成長することになる

89
00:10:29,107 --> 00:10:34,067
それだけではなく 息を引き取った後でさえ

90
00:10:35,000 --> 00:10:40,453
あなたの知性は成長し続けるだろう なぜなら あなた死にはしないからだ

91
00:10:42,000 --> 00:10:47,488
あなたの肉体が死んでいくだけだ そして肉体は知性とは何の関係もない

92
00:10:49,583 --> 00:10:52,922
マインドは知性とは何の関係もない

93
00:10:55,900 --> 00:10:57,218
知性とは

94
00:11:01,158 --> 00:11:05,252
あなたの気づきの質だ

95
00:11:08,488 --> 00:11:13,007
気づいていればいるほど より知性がある

96
00:11:14,572 --> 00:11:17,047
そしてもし あなたが全面的に気づいていたら

97
00:11:20,648 --> 00:11:25,460
あなたは この全存在と同じほどに知性がある



知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。

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一つ目は、異なる意見に対する態度

知的な人は異なる意見を尊重するが、
そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす

 

二つ目は、自分の知らないことに対する態度

知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。
また、それについて学ぼうする。
そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。
その結果、それを隠し学ばない

 

三つ目は、人に物を教えるときの態度

知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、
と思っている。
そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、
と思っている

 

四つ目は、知識に関する態度

知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。
そうでない人は、「何のために知識を得るのか」が
はっきりしなければ知識を得ようとしない上、
役に立たない知識を蔑視する

 

五つ目は、人を批判するときの態度

知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。
そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。


知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、
自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、
大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。




Oshoの語るサニヤスとは?

サニヤスはこれまである種の師(マスター)と繋がりがあるものであった。
師が伝授(イニシエーション)
するものだった。

サニヤスとは、他の誰かからあなたに与えることのできるものではない。
サニヤスとは自分で取得するものであって、誰かが与えるものではない。

あるいは、
こう言うほうがいいだろう。
存在そのもの以外に、他の誰がサニヤスを与えられるだろ う? 

もし誰かが私のところに来て、

『私にイニシエーションを授けてください』
 と言ったら、私は彼に言う。

『どうして私があなたにイニシエーションを授けることができるかね?
 私は証人になることしかできない。』


 イニシエーションは、あなたが神聖なものから受け取るものであり、
 イニシエーションは、あなたが 存在そのものから受け取るものである。
 私はその証人になることぐらいしかできない。
 証人というのは、私はその現象が起きたときにそこにいたということだ。
 それ以上のことは何もない。

 師に結びついたサニヤスは宗派にならざるを得ない。

 師に結びついたサニヤスは決して自由をもたらさないし、
 束縛だけをもたらすだろう。

私は彼らの師になるつもりはなく、
ただ、彼らのサニヤスへのイニシエーションの証人になるだけだ。


事実、
サニヤスは彼らと存在を繋ぐ直接的な関係であるだろう。
サニヤスへのイニシエーションのための儀式が行われることはない。
だから彼がそうしたいときにそれを辞めることは少しも難しくない

決断を通して生きる者は、決して自由ではありえない。 より抜粋
私にとっては、イニシエーション(秘儀参入)そのものが遊びだ。
私はどんな資格も求めない・・
あなたに資格があろうとなかろうと関係ない。
資格とは何か深刻なことをする時に求められるものだからだ。

存在しているというただそれだけで、
すべての人に遊ぶ資格が充分備わっている。
遊べばいい。

資格などなくてもどうということはない。
ことの全体が遊びにすぎないからだ。
私がどんな資格も求めないのはそのためだ。

また私のサニヤシンにはいかなる義務もない。
サニヤシンになった瞬間、あなたは全面的に自由になる。


それは、今やあなたが決断したということだ。
そして、これが最後の決断になる

あなたはもうこれ以上いかなる決断も下す必要はない。
あなたは最後の決断を下したのだ・・
決断をせずに生きるという、自由に生きるという決断を。

決断を通して生きる者は、決して自由ではありえない。
そういう人は、過去に決断を下したために、いつも過去に束縛されている。
未来に向けて決断を下すことは決してありえない。
なぜなら未来は未知であり、下された決断は
すべて過去に束縛されているからだ。


サニヤスへのイニシエーションを受ける瞬間、
あなたは地図のない、計画のない未来へと参入してゆく。
もはやあなたは過去に縛られてはいない。

あなたは自由に生きてゆく。
今やあなたは演じ、戯れ、
自分に何が起こってもそれを受け容れてゆく。
不確実さのなかを生きてゆく。


名前を放棄したり、財産を放棄したりすることは、真の不確実さではない。
そういうのはきわめて皮相な不確実さだ。
マインドは同じままだ。

(人はなぜ確実性を求めるのか?・・・
・・・それは安心、保証、優越、思考停止、そして欲望のリピート(反復)のためだ:風間)



財産を確かなものだと考えているマインドは少しも変わっていない。
財産ですら少しも確実なものではない。
財産をすべて手にしていたところで、あなたは死んでゆく。

家ですら少しも確実なものではない。
あなたは家のなかで死を迎える。

「私は放棄した。今や私は不確実さのなかに生きている」

と考える

マインドの中には、
財産、家、友人、家族は確かなものだという誤った見解
今もなお強く残っている。

過去に縛られずに生きるマインドだけが、
そういう人だけが、不確実さのなかに生きている。
(それゆえに社会秩序、治安、保障、家族制度が世界でもトップクラスに安定している我が国では、
OSHOの語るラディカルな宗教性はある意味で最も受け入れられがたいのでは無いだろうか?:風間)


これはひじょうに多くの含みがある。
なぜなら、あなたが知っていることはすべて過去から来ているからだ。
あなたのマインドさえもが過去の一部だ。

だから、知識を放棄する者こそが、真に何かを放棄している。
あなたそのものが過去から来ている。
あなたとは蓄積された経験にすぎない。
だから、自分自身を放棄する者はあるものを放棄している。

   あなたの欲望、
    あなたの希望、
     あなたの期待、

そういったものすべてが過去を確かなものにする。
自分の過去を放棄する者は、自らの欲望、希望、期待を放棄している。
今やあなたは、まさに虚空、無、何者でもない者のようだ。
サニヤスとは、何者かであるという一切の主張を投げ捨てることだ。


今やあなたは、身分証明書を失い、
何者でもないありかたのなかへと動いてゆく。


だから、これは、あなたのマインドが下す最後の決断であり、
それによって過去は閉ざされる。
自己同一化は壊され、連続性はそこにない。


あなたは新しい。あなたは再誕生している。
生きている者たちは不確実さのなかに生きている。
本当に生き生きとしていれば、あなたは不確実だ。
不確実であればあるほど、生は躍動する。


したがって、私にとってサニヤシンとは、
最高度に、最大限に生きようと決意した者をいう。
それは両端から燃えている炎に似ている。
私のサニヤスには義務は一切ないし、束縛も一切ない。


あなたはいかなる規律にも拘束されない。
不確実さを規律と呼びたいなら、それはまた別な話だ。
だが、当然それは内なる規律になる。


あなたは無政府主義者になりはしない。
いいやそうではない。
私は、無政府主義者になるとは言っていない。
無政府主義は秩序、組織と常に切り離せない関係にある。


秩序を放棄する場合は、あなたは決して無秩序にはなりえない。
(自由を目指す者は道を歩まないのでは無く、自由の道を歩む:風間)
それは
秩序を否定することではなく、たんに放棄する

(距離を保つ:風間)
ということだ。
放棄は、ここでは調和するという意味になる。
それは、あなたが他人のために演じるたんなる演技、ゲームにすぎない。
あなたはそのことで深刻になったりしない。


それはゲームのルールにすぎない。
左を歩いたり、右を歩いたりするのは、他者のため、交通のためであって、
それに関して何か深刻なことがあるわけではない。
そこには何も深刻なことはない。


だから、サニヤシンは無秩序にはならない。
だが、自分自身に関する限り、自らの内なる意識に関する限り、
もはや秩序はなくなる。
これは無秩序になるということではない。
無秩序は常に秩序の一部だからだ。

秩序があるときには、いつでも秩序が乱れる恐れがある。
秩序 (他動的規律) がなければ、秩序が乱れることもない。
そこには自発性(自発的規律) があるからだ。

瞬間から瞬間へとあなたは生きる。
瞬間から瞬間へとあなたは行為する。

一瞬一瞬が完結している。
あなたが決断するわけではない。
どうやって行為するかを決めるわけではない。
その瞬間がやって来たら、あなたは行為する。

前もって決断することもなく、前もって計画を立てることもない。
その瞬間があなたにやって来る。
あなたはその瞬間に遭遇し、何が起こっても、受け容れる。


あなたは、自分の内側から湧いてくる新しい規律、
刻一刻と変化する規律をいっそう感じるようになる。
それはひじょうに異なる次元だ。

あなたが前もって何をすべきかを決めておくのは、
自分がその場で臨機応変に行為できるほど
意識的ではないと思っているからだ。


あなたには自信がない。
前もって決めておくのはそのためだ。
だが、それでもあなたは決断してゆく。

その瞬間に行為できもしないのに、どうして前もって決断できるだろう?

今のあなたには経験が足りないが、
その瞬間が来るまでには、さらに新しい経験を積んでいる。
前もって決めておかねばならないとしたら、何も意味をなさなくなる。
それではものごとを台無しにするだけだ。
すべては新しいのに、決断は古い。

そして、その瞬間に応じた行動がとれなければ、やましさを覚える。
だから、「前もって決めなさい!」と
あなたに教えた者たちはみな、
罪悪感をつくりだしている。


実行しなければ、あなたはやましい気分になる。
実行しても、思いどおりにはゆかないから、欲求不満がついてまわる。

だから、私は
「いかなる決断にも縛られてはいけない。そうすれば自由になる」
と言う。

一瞬一瞬、そのつど行為が起こるにまかせ、
その瞬間、あなたの全存在に決めさせるがいい。

行為が起こるその瞬間に、決断を起こさせるがいい。
決して決断を行為に先行させてはいけない。
さもなければ、行為は決して全一なものとはなりえない。

前もって決めるときには、頭で決断していることを憶えておきなさい。
あなたの全存在はそのなかにない。
その瞬間がまだ実際には来ていないからだ。



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