We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2015年09月

一時間程前に得られたこの気づきに、わたしはいま、自分自身で度肝を抜かれている

しかし、冷静になってみればこの気づきの基本型は一年以上も前にすでに得られていた

今回の〝気づき〟はこの〝応用編〟だった・・・


この記事を読んでいただく前に警告したい

あなたは本当に自分自身の孤独と葛藤を終わらせたいと
切に望んでいるのだろうか?

なぜならば、
「覚醒する」ことには理由は不要なのだが
人が無意識の中に留まり続け
「覚醒しない」ことには、必ず理由があるからなのだ

なぜ?私たちはいつも分裂しているのか?でも、すでに書いている様に
もしあなたが、ビジネスパーソンとして、何か野心を達成したいのならば
この〝覚醒〟は、あなたの野心の邪魔になりかねない

だから、
本質的には「孤独や葛藤」を手放し、ラクになるか?
それとも「野心」とともに生きるか?
  ・・・その選択に私たちは瞬間瞬間迫られている

  つまり、
「野心」と「孤独や葛藤」とは切っても切れないなので、
両方を手放すか?両方を持ったまま生きるのか?
どちらかの選択が必要なのだ?

〝手放す〟準備が・・・あなたはもうできている?

OK・・・   だったら読み進めて欲しい・・・




私たちは、
生き続ける以上はなんらかの野心に取り憑かれ続ける、
言い方を変えるなら「自分自身の欠落感にいつまでも追いかけられる」
つまり
「いつかどこか」に命がけの期待と不安を描き、
ある状態、状況、ある特定の物品などを引き寄せようとし
またあるときは排除しよう、回避しようと躍起なのだ
つまり成功法則においては

   まず〝断捨離〟・・・
「プライオリティー(優先度、重要度、価値比較)」の明確化が重要なのだ。。。  

これができずに 「あ~~」「う~~」っとカソールが砂時計のままだと
人生はあっという間に過ぎ去り、時間を浪費してしまうだろう・・・

充分達成できる時間が与えられても、
二兎も三兎も、追っていては「一兎も得ず」なのである


あなたが「アタマのキレる奴」であり続けるためにはこうでなきゃいけない
それは、「躊躇うことない、素早い比較判断、そして切り捨て」だ

しかし、ここで言いたい

「ラクになるのと、幸せになるのは・・・  別やった・・・」

                 『地球少女アルジュナ』の一シーンより

そもそも人々は一体、みんな何処に急いで向かっているのだろうか?

みんながぞろぞろソワソワと、スマフォを覗き込んで
常に情報を眼球にくっつけながら歩いて行く・・・

「生きることの本当の最終目的」っとはなんだろうか?

歩き続ける群衆のひとりを呼び止めて聴いても、たぶん
「人生の目的?・・・  知らん! アンタ何かの宗教の勧誘かい?」
っと怪訝な顔をされ、そそくさと立ち去っていくのが関の山だろう・・・

実は誰もが一度は考えたことがあるはずだ

しかし、こんな質問はナンセンスだ!

  (いや、本当は恐ろしい)

  (そんな質問を真剣に問い詰め続けると奈落の底に墜ちていきそうだ!)

かくして、私たちは皆、「そそくさと歩いて行く群衆のひとり」に紛れていき
こんな忌々しい、アブナい質問を忘れる・・・


・・・しかし、時折思い出す、

   ふと、   孤独感に取り憑かれたとき、
          退屈に置いてきぼりにされたとき
           誰か友人や知人や肉親が死んだとき・・・

            そして、自分の人生に突然、虚無感や焦燥感が襲ってきて

       自分の今までの努力が全て虚しく見えたとき、
       自分自身が、「生きるに値しないの存在なのでは?」と問うたとき
       可能性と無力感との板挟みにあって苦悩に陥ったとき・・・

そんなとき、私たちはサルの時代からやっていた様に、誰かにハグを求める

                     誰かに優しさを求める、励ましと慰めを望む。

  そしてそれらを恒久的に〝保管〟〝供給〟するために、
   友人や同志、恋の相手や結婚、家族、肉親の絆を求める
    遂にはこれらを守るために家伝の宝刀、〝愛〟という言葉を使う・・・

          にもかかわらずこれらが思う様に得られない時、
          その孤立した状況を悲嘆したときに〝孤独感〟を抱くのだ

          これら〝連帯感〟への忠誠こそが、宗教組織や国家と成っていった

          なにかに〝帰属すること〟・・・そこにわたしたちは安らぎを求めた

〝外の世界〟と隔てられた内輪の世界・・・
これが強固な価値体系になった

しかしこの連帯感が本当に、私たちを幸福にするのか?

「外敵」が存在するときには確かに「なかまたち」とは心強い
世間の冷たい風に対し、血を分けた肉親同士の結束は、水よりも濃かった
「自分はなぜ生まれてきたのか?」
その答えが見つけるガッツもなく、ただ無意識にセックスをして子を作った親たちは
その無意識を子にも押し付け、自分たちを慰める

そしてこころの中でつぶやく・・・
  「私は子供を愛している それが人生の目的だった」、っと



でももし?世界が狭くなり、
人々の心が人種も国境も越えて
大きな平和を築きたいと真剣に願いはじめたら???

国家という巨大なチームに分かれて最新の科学兵器で互いに殺戮し合うことが
なぜ完全に終わらないのか?人々が真剣に考えはじめたなら?

   そのときは、今までの宗教、いままでの国家の枠組みはどうなるだろうか?

          「枠組み」は、その役目とともに、静かに引退するだろうか?
                           ・・・・それは到底期待出来ない

そしてこの〝葛藤〟〝相克〟は、ひとりひとりのこころの中のものとなる

「枠組みを取っ払いたい」 「いや、それはまだ早急なのじゃないだろうか?」
「世界にはまだまだ悪い奴も一杯居るし・・・」

それは国家レベルから家族の単位、そして個人の思考の中の生き様の葛藤としてもあらわれる


わたしたちはずっと、「プライオリティー」を決定し、「断捨離」し、「比較選択」し、「所属」して
社会を集積化してきた・・・確かに今まではそれで上手くいった部分もある

この方法論は確かに今後も効率的ではあるだろう

・・・でもこれらの〝集積化〟に本当に個々人の人生の着地点はあるのだろうか?

   少なくとも今までは、個人はこれらの社会の集積化のために捧げてきたし
   それを、個々人は大して疑問にも感じなかった

   「大なるもののためには小の切り捨てはやむを得ない」
    「むしろそれを個人の生き甲斐として喜べ・・・」

    しかしいまさら赤紙をもらって、喜んで神風特攻する人達が何人居るだろうか?


     〝集積化〟の究極点・・・  それは、〝個人=StandAlone〟の誕生である

        それは、〝民主主義〟という大義名分にも矛盾しない


では、なぜわたしたちがなかなかAloneに目覚められないのか?
それが今夜、気が付いた法則だった

それは、人間関係に「プライオリティー=優劣」を付けていることにある!

  ひとりひとりの存在とは、大義名分ではなく、比較を絶してユニークである様に
  その「ユニークな個人」同士の、その瞬間瞬間の関係性もまた
  「ユニークで比較を絶して」いるのだ!


現実社会としては、確かに私たちは平等ではないし、
ユニークである以上、TPOによって皆がそれぞれ
持ち場も、役割、階級、責任も、   違って当然なのだ

しかしトータルな意味での「存在価値」と言うことに関しては、
誰も、何も、言えない・・・

当の本人でさえ・・・  
自分が宇宙でどんな存在なのか?  分からない
のだ

そういう意味において、この全宇宙における、全ての存在同士は
等距離で繋がっている
あるいは
その距離は比較できない



確かにあなたには、現実生活では
敵もいれば味方もいるかもしれない
仲間も居れば、部外者も居る
イヤな奴も居れば、好きな人もいるだろう・・・

   ・・・それはそれでいい

しかし内奥での繋がりは、その距離は比較不能なのだ・・・

この時、バシャールが言う
「全てが全ての人に結婚している」

っという状況の、少なくともその深いコンセプトは見えてくるのだ

OSHOは
「愛というのは特定の対象に対して絞り込んで考えたときにおかしくなる」
っと発言していたが、愛とは、「誰かと誰かが永遠にくっついてます」という
宣言に使われるべき言葉ではないのだ

  ・・・それは保証書に押された判子ではない

OSHOは
「無になった人同士が出会った時、愛は可能だ」とも言っていたが
つまり〝無〟とは、「何も物理的に存在していない」っと言うことなのではない
完全に自然の中に溶け込み、その人工的な定義を持っていない状態のことなのだ

別の言い方をするならば、
〝無〟とはすべての存在と等距離で繋がっている状態だ・・・・っとも言える

・・・もしそうであれば、

   ・・・・私たちの内奥の実存が皆、相互に等間隔でフラットに繋がっているのなら?

          どうして私たちは孤独でいられるだろう?
                  葛藤していられるだろうか?


Sarc:o - You Are The One from Marco Bagni LostConversation on Vimeo.

.fc2.com/video


vimeo.com

満月の夜、魂の再会 from Katal Maneel on Vimeo.


月あかりを浴びて舞い
星々のきらめきと戯れる

春のかぐわしい夜風が運んでくれた
ジュピターの誘惑、マーズの情熱・・・

それは私の手を握ったあなたの手の温もり
そして私のハートを奪った、あなたの突然のキス
そのまま私の期待を充たして欲しいの
無限の彼方まで響く鼓動で
震わせて欲しい・・・・

この瞬間をどれ程待ち望んでいたことか?

これはきっと私が生まれた時から
捧げてきた、祈りの答えだったのね?

今あなたに言いたいのは
私の目を見つめて欲しいと言うこと
だって今、
わたしはあなたを見つめているんだから・・・

ほら、月明かりで見えるでしょ?
星々の間で見つめ合う恋人達が

さあ、春風の導きで
私たちだけの秘密の星影を探しましょう

ジュピターの嫉妬の目
マースのからかいから隠れるための

だから
私のことずっと離さないでね

言葉で語るより
ハートを奪って欲しいの

私の胸の高鳴りが
あなたにも感じられる?

今、時が止まっている
だって生まれた時からの
私の祈りが、いま叶ったのを感じているから

それは目の前に
あなたがいてくれるから

それは
生まれる前からの2人の誓いを思い出したから

ただただ、無心に見つめる私

私の目に映っているのは、
そう、紛れもなく あなたなのね

感じると同時に、
ハートの歌があふれ出してしまう

いま自分が、今まで聴いたことも無い
永遠の歌を歌っているのに驚いているの

生まれた時からの私の祈りと願いを
なんであなたは、全て知っているの?

ああ、これは夢ではないの?
本当にあなたなの?

生と死の狭間を超えて
この月夜にやっと

再会できたのね?

あなたこそ  夢でいつもわたしを導いてくれた
もうひとりの、 私なのね?



Billy Joel - Just The Way You Are

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今なにか言いかけたでしょ?
僕の目を見てひっこめちゃった様だけど


「厚かましいかも」だなんて
遠慮することなんかないよ?
ひとりで悩んで抱え込むなよ
いまさら水くさいじゃないか?

そりゃあ、いいときもありゃあ
しんどい時だってくるだろうさ

でもどんな時でも、
きみらしさを忘れなければ大丈夫さ!


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そんなに素敵なキミが
いったい何で流行に振り回されてるのさ?

せっかくのその綺麗な髪も染めちゃうのかい?

ボクはいつだってキミのことアツく感じてきてたんだ
ふだんはキミのことシラっと見て
はぐらかせているけどね


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理屈じみた話しはもうやめようぜ
片意地張って話すのはもうよそう

ぽつりぽつりでいいんだ
自然に出て来る言葉だけで時を過ごそう

そのまんまのキミでいい


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いままでずっとどんな風に過ごしてきたの?
ずいぶんと久しぶりだもの

昔の僕らはお互い思い込みが強かったけど
きっと今はもっとわかり合えると思うんだ


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キミがどんな風に変わっても
僕の胸の奥には最初の出会いから
ずっと変わらない気持ちが刻まれている
この想いを何と言語化すればいいのかな?
文字に変換候補が見つからない

ただただ今のそのありのままのキミが
ボクにはまぶしく見えるんだ


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気取ったセリフなんか要らないのさ
言葉と言葉の間に
伝わってくるものがあるだろう?
誰と誰とが
話しているんじゃなくって
ふたりの間に流れる何かが
ボク達を包んでいる

そんな不思議な魔法の空気に
いまはお互い素直に身を任せよう






OSHO
「探すことで幸福を見つけた人は
 これまでひとりもいないのだ・・・・」

この「お金持ちになるセミナー」全否定みたいな
OSHOの言葉
興味を持つか?持たないか?
興味があったとしても、
どこまで理解出来るか?出来ないか?

・・・これはもはや、〝人種の違い〟なんじゃないかな?っと思っている

 別に皮膚の色とか国籍の話じゃない

  私がいっている〝人種の違い〟というのは、
  実はほんの僅かの違いで、肉体的な何かのことを言っているのじゃない

   しかしその〝ほんの僅か〟というのは、実は絶望的な違いな様に
   私は最近感じている


この動画でOSHOが語っている「幸せ」とは、
誰でも知っている世界的に有名なメーテル・リンクの童話「青い鳥」の
話だと思う

「幸福とは〝いつかどこか〟を探し回ってもない
        〝いまここ〟にある」

っという、スピ系では、合い言葉みたいになっているテーマだ

  ・・・しかし、すると今度は「いまここってどこ?」っという探求が始まってしまう

   確かに無理からぬ要素はある
   「いまここ」とは、厳密に言えば、時間的な延長もなければ空間的な移動もない
   サンクチュアリー(聖域)であり、宇宙の中心だからだ

              したがって、時空間=三次元、四次元に依存する
                    思考や言葉では説明や理解が出来ないからだ

   だから神秘主義に聞こえる・・・事実これはたしかに最大の神秘でもあるのだが
   ・・・でも本当はけっしてエクストラ・オーディナリな話ではない

ここでも何度か書いた様に、いかなる活動や探求も最初の動機に土台がある

    「分からない人種」っていうのは、そもそも最初の動機が違うのだ
    そこが致命的な違いだ

  でもだからといって「致命的な欠陥だ」とは言わない
   これは実に、あまりに、シンプル = 簡単すぎて難しいのだ

  私は決してアタマが良いわけではない
 単に餓えている、渇いている、そしてせっぱ詰まっているだけだ
            (わたしにとっては「アタマが良いですね!」っというホメ言葉は
                称賛ではなくわたしからの逃亡であり、差別を意味する)

成功哲学と、スピリチュアリズムをごっちゃに考えている人達・・・

こう言う人達というのは、ある意味羨ましい
なぜならまだ「いつかどこか」に期待していられるからだ

この〝期待〟とは
、〝不満な現在の人生への〟プラスアルファを探している、っということだ
〝不満〟というのは、世間的な意味での
    〝正気、常識・・・「フツー」〟でノーマルな欲求のことだ

こう言う〝いわゆるポジティブ〟で〝実に健全〟な善男善女達は、
フェイスブックやビジネスセミナーで〝お友達〟でもお得なだけで、
損や迷惑はあまり掛けられない・・ぜひ、仲良くしておくべきだ

私の様な、
口から泡を吹いて、いつも目を白黒させている狂人だけはやめた方が良い

たぶんわたしは、あなたとお友達になっても迷惑しか掛けないだろう

わたしは、「いつかどこか」まで待てない
わたしが持っているのは「不満」ではなく「絶望」だ、
だから人生にプラスアルファを望んだとしても・・・
        ・・・そんなものは贅沢にすぎないという自覚で生きている

お友達と談笑していても、自分には相手を利用したりされたりと言った
下卑た動機しか感じない
美しい女性とおしゃべりを楽しんでいても自分のスケベな男心と
男とは種類が違う欲望とをひしひしと感じてしまう・・・

友情も恋愛も、
人間関係はすべて「いつかどこか」に向かう欲望のゲーム・・・
そんな斜に構えたシラケしか社会生活に感じない程に
せっぱ詰まっている、追い詰められてしまっている
ただそれだけだ

今すぐ、今この瞬間に幸せを見つけられなければ破滅しかないのだ

今すぐ消滅するか?しかし、自殺しても手足を失うだけだから
万が一意識が不滅だったら、消滅するための〝手段〟や〝努力〟が必要なら
やはりもう暫く生きるしかないのか?  ・・・っといつも悩んでいるのだ

その試行錯誤がこのブログだ・・・  狂気の嘆きとあがきがこのブログだ

私には単純に「明日」が信じられない、明日に何の期待も出来ない
しかし、〝自殺〟という恣意的なエゴによる決断もまた、私にとっては
「不確かな明日」のカテゴリー(範疇)なのだ・・・したがって〝自殺〟さえ
わたしには救済になるとは信じていない・・・だから自殺を選択していないだけなのだ

だからお題目の様に「いまここ」を口にしながら成功セミナーに通っている人間と、
わたしとは〝人種が違う〟のだ・・・

(喩えではあるが)
今度の日曜の成功哲学セミナーの参加予定を
カレンダーにスケジュールとして書き込んでいる人が、
「いまここ」を見いだせるとは到底思えない

やはり
「いまここ」と「いつかどこか」っとは、決して同じ時空連続の軸線上にはないのだ
わたしだって、スケジュールを全く立てないわけではないが、
「明日がない」絶望感でいつも
胸をかきむしられて生きている

「いつか所有できるもの」「いつか熟練し、身に付けられる技能や、習慣・・・」
・・・それらは便利ではあったり、ある種の豊かさに繋がることは確かだ
しかし、〝便利さ〟〝豊かさ〟は明日には死ぬものだ
そこには絶対的な安らぎでも幸福でもない


努力して〝得た〟ものはいつかかならず〝失う〟
少なくとも肉体の死と共にリセットを喰らう・・・・

ネイティブな言語も、知識も、経験も・・・
この人生で
一瞬息継ぎすることが出来るだけ・・・  それだけに過ぎない
誰にも等しくいつかは必ず、遅かれ早かれ死に神が刈り取りに来るのだ・・・

ノウハウの教室が教えてくれるのは、この「息継ぎの上手なやり方」以上ではない

わたしは、OSHOが好きだとか、信じているとか、そういうことではないのだ・・・

全ての希望、全ての絶望、全ての失望、全ての期待と虚しさの向こう側に
「結局は〝彼〟の言葉しか見えない」と言うだけの話なのだ

その〝向こう側〟が〝ここ〟なのだ

フェイスブックで知り合ったあんちゃんは、いつもあちこち行っては
「あっちはすごかった」「こっちも凄かった」といって私も時々誘う

タマに付き合いで気になったものに行ってみたりもするが、
それは本当に私が感じている「いまここ」から連れ出せる様な〝出会い〟が
有り得るのだろうか?っという試金石に過ぎない
本質的に何かを探しているわけではない

実際、セミナーだの講演会だので人が人に伝えられるのは
「気だ」の、「波動だ」の、何だのと言ったところで結局はノウハウに過ぎない

受講者、生徒はどこまで行っても、お金を払うお客様であることをまず期待される
話はそれからだ

〝セミナー〟だ、〝講演会〟だ、〝ワークグループ〟だ・・・・

まず参加者は大前提として、当然〝何かの〟探求者、求道者である
共通するベクトルがあるからこそ、貴重な休みの日をお金を払って
遠路はるばるやってくる・・・だれもが〝いつかどこか〟の探索者、ハンターだ
エクスプローラーだ、プレデターなのだ・・・だから同志のお友達も見つかりやすい

確かに生きている以上、いろいろな出会いはこれからもあるだろう
誰かと会っている以上、それはその時が「いまここ」だ

しかし、いつも、どこへ行ってもそれが〝いまここ=終焉の地〟だとしたら、
果たしてわたしは〝どこかに行った〟といえるだろうか?

〝いまここ〟は〝いつかどこか〟の踏み台ではない・・・・
〝いまここ〟を踏み台と考え、〝通過点〟と考え、〝単なる手段〟だと定義している以上
わたしたちは
足下に目を落とすことはない・・・・
愛の為に立ち止まることはない・・・

喩え宇宙の果て、世界の果て、生死の境界を超えた彼岸、に行ったとしても
わたしがいつも〝いまここ〟にいるのだとしたら、「行った(逝った)」といえるだろうか?

それは、ハタから見た・・・、
   他人、世間、外野の野次馬・・・から表面を見下ろした視界に過ぎない

自分の目に映っているもの、感じているもの、体験している者は、
それは誰でもなく、絶対的に私 (・・・セルフ?エゴ?) だけだ

  それが「客観的に正しいかどうか?」は副次的な問題に過ぎない・・・
 私にとって「生の手応え」「確かな保証」はそれ以外にどこにもない・・・

誰にどんな風に評価されようが、理解されようが、誤解されようが
それはあくまでも二次的なことだ
その他人からの評価次第で、私が社会的に得しようが、損しようが、
その〝評判〟の享受者もまた、やっぱり絶対的に私だけなのだ・・・

だから、We are all alone なのだ


〝いまここ〟とは〝素〟であり、セルフのホームグラウンドだ
〝素〟を字割りするなら〝主(あるじ)〟が〝糸(意図)〟の上にいるということだ
そして意図とは作為のこと、       ・・・欲望が産みだした世界
      ・・・では、その上に乗っかる〝主(あるじ)〟とはなにか?

それがセルフなのか?聖書の神なのか?   ・・・正反対の二つの解釈!

そして実際は、この〝聖書〟が・・・
 〝聖書の神〟が、二千年間、この地球を支配してきた

セルフとは内なる神であり、内面の子供だ
彼こそが
ゴリアテを石つぶて一つで倒すダビデ王で、
裸の王様を笑う〝愚かな〟少年で、
弁慶の主となる牛若丸だ (日本のダビデ王は〝倒す〟のではなく〝上に乗った〟)

ほんのちょっとした〝シフト〟の問題・・・
しかしここには
絶対的な壁、天と地ほどの隔たりがある・・・、致命的な差がある・・・

幸福追求のロンド(無限の堂々巡り)が大団円を迎えるポイント・・・分岐点は
ここにしか無い様に思うのだ

La Belle Dame Sans Regrets /悔いなき美女
アップし終えた直後、守城佐恵子女史からチャットで
福島菊次郎氏の訃報を聞いた
1

福島菊次郎さん94歳=反骨の報道写真家


悔いなき美女の歌詞の内容を和訳してみて、わたしの中では
守城佐恵子さんを連想したので実は驚いていた・・・  彼女を
「嘘つき」っと指摘したいのではなく、「悔いなき美女」っと言う
曲はすべての女性が隠し持つ魔性というか、すべての男と女と
の間には、恋愛関係に限らず、
「言ってはならず、言わねばならず・・・」という大きな壁が
あるとおもう・・・  この曲はそのあたりを描写しているように
思えたからだ・・・

守城女史には特にそれを感じたので、だから逆に彼女には
アップしたばかりの
悔いなき美女のリンクは送らないつもりでいたのだ

ところが彼女はわたしの思いを翻そうとするが如く
菊次郎さんの訃報を不思議なタイミングで送信してきた・・・

(・・・っといか菊次郎さんの死、それ自体がそういうタイミングだったのだけど)

彼女とふたりで歌舞伎座近くの映画館で
『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎』
を観てきた経緯があったので、彼女が菊次郎さんの訃報を
知らせてくれたこと自体は不思議なことではなかったのだけれど・・・

福島菊次郎さんは宮井陸朗:シャンタン氏とも古い友人だったそう
なので最近シャンタン氏が頻繁に守城佐恵子女史の記事を取り
上げているのを見て、シャンタン氏の正体をわたしなりに感じ、彼との
一年間のFB「お友達」をつい最近切断する決心をしたことも因縁
めいていた・・・・そういえば守城女史とシャンタン氏の
「根拠がないスピ的アセンション情報空騒ぎ」の体質はよく似ていた・・・

28日の11:51がどうたらという騒ぎが終わるまで、実は彼女とも
連絡を取るまいと思っていたが、思えば彼女との連絡が再開する
その前のキッカケはやはり彼女と共通の思い出があったジャズマンの
江藤氏の死を彼女が電話で知らせてくれたのががキッカケだった
・・・これもなんともまた実に因縁めいているじゃないか?

しかし、この二つの訃報にはわたしの中で大きな違いがあった

江藤氏には「お悔やみ申し上げます」だったが
福島氏には「黙祷」っと一言知らせてくれた

わたしは他人との「お誕生日おめでとう」というやり取りが嫌いなので
フェイスブックではお友達機能をなるべく使わないのだけれど、それと
同じ理由で「お悔やみ申し上げます」というやり取りも好きではない

人の死に対して〝申し上げる〟ことなど何もないのだ

こんな人の生涯の尊厳に関わることで何か〝申し上げる〟ことなんか
全部が薄っぺらい・・・

だから「お悔やみ申し上げます」なんていう〝便利な〟言葉は
なるべく使いたくはない・・・  それぐらいならばそんなやり取りを
せざるを得ない人間関係自体をあらかじめ切っておきたい

でも今夜、即座に「黙祷」っと言う言葉を自分自身で使ってみて、改めて
この言葉の意味を考えてみる機会になった・・・

この言葉が似合うのは「戦士の弔い」に対してだ・・・  っと私は思う

特に福島氏の「公共的な義憤の闘い」に対しては、特に黙祷と言うことは
よく似合っていると思う  

    ・・・なぜだろう?

福島氏は天皇陛下に対する戦争責任に義憤を抱いている人だったが
その「義憤」が本当に義として正しいのか?間違っているのか?実はわたしは
疑問視している  当時の大日本国憲法からすれば昭和天皇は戦争責任は
無いと私は思っている



しかし、それでも福島氏には〝誇り高き戦士の尊厳〟を感じる

人間はどんな視点に立つかによって義が違って見えるものだ・・・
だから、その義を互いに通そうと思った時、個人的な憎しみの感情とは別に
戦場で戦士同士が相まみえると言うこともあるのだ

必ずしも〝武力〟による闘いだけが人の闘いではなく、特に
報道写真家の彼の様な〝闘い〟もあるのであって、それは
〝真実を追究する〟というかたちの孤独な戦いだ

〝真実の追究〟というのは、やはり戦いだ

その真実というのがエンライトメントへの求道であったとしても
成仏に至るまでは、やはり
〝すべての追求の終わり〟に達するまでの〝追求の奮闘〟が残る・・・

その求道の旅のどの時点で、わたしたちは果てるのか?  それは判らない

しかし、どの道程であったにせよ、
死とは〝沈黙への帰還〟であると言えるかも知れない

だから、戦士に対しては〝お悔やみ〟という言葉はふさわしくないのだ
〝黙祷〟こそがふさわしい・・・  そう今朝、思いをはせた

〝黙祷〟っとは、いわば時空を越えた戦士たちとのコミュニオンの場であり、
サットサングであるという言い方が出来ると思う

戦士の死へ捧げられる〝黙祷〟という短い瞑想の瞬間においては、
生前のひとと、ひととの〝立場の違い〟〝義の違い〟を超えた沈黙が、
すべてを包み、すべてを赦しの中に融かしてゆくのだ


共感の場、交流の場とは、必ずしも〝お悔やみ〟とは違う・・・

   ・・・〝お悔やみ〟とはむしろ「切り離し」だと思うし「別れの挨拶」だ

    ・・・〝黙祷〟とは、むしろ再会だ

わたしは江藤氏には強い「寂しさ」を感じていた・・・  発狂しそうなほどの・・・

わたしだって、幾度となく今まで、気が狂いそうなほどの孤独感は感じてきたから
ある意味での「共感」は感じる・・・

しかし、映画「ニッポンの嘘」を見終わるととても爽やかなものを感じた
映像の中でもうすでに90代の老写真家の愛犬との淡々とした生活の風景は
たしかにわび・さび(侘・寂)は感じるが、義憤のもとで戦う写真家としての
彼の姿は、とても90歳とは思えないほど矍鑠としておられ、惨めったらしさも
寂寥感も、まったく感じなかった

守城女史と映画館を出た時、わたしの心に残ったのは
「信念の正誤は生き様のまっすぐさとは無関係だ」っというメッセージだった

同じ映像を見終えた守城女史も、確かにいつも福島氏のような「世間の無理解に
敢然と戦う女革命家」ぜんとしてはいるのだが、あにはからずやその時横にいた
彼女は〝我が意を得たり〟という顔をわたしに向けていた・・・
が、しかしわたしは内心「おいおい・・・」っと思って彼女を見ていた・・・

「悔いなき美女」という曲の光景のように
わたしと彼女は福島氏のドキュメンタリー映画の上映を仲立ちとして
ダンスを踊ったわけだが、
そのステップには微妙なズレがあった・・・、食い違いがあった・・・・
互いの心境は違っていたのだ・・・

「本当に後悔はないのかい?」っとわたしが尋ねるならば、当然彼女は
「無いわよ!」っとキッパリと答えるだろう

いや、
そんな宣言をさせるなら、彼女はますます〝女革命家〟になってしまうだろう
わたしはそんな野暮な問い詰めはしてはいけないのだ

黙って彼女の横顔を見ていればいい
すべての女性たちの横顔には「物憂げな何か」が隠れている
すべての男達には彼女たちの「その何か」を暴く野暮は赦されていない

・・・だからわたしは
「ああ、そうかい?」っと言ってもう適当な言葉を探すのを止める

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