一時間程前に得られたこの気づきに、わたしはいま、自分自身で度肝を抜かれている
しかし、冷静になってみればこの気づきの基本型は一年以上も前にすでに得られていた
今回の〝気づき〟はこの〝応用編〟だった・・・
この記事を読んでいただく前に警告したい
あなたは本当に自分自身の孤独と葛藤を終わらせたいと
切に望んでいるのだろうか?
なぜならば、
「覚醒する」ことには理由は不要なのだが
人が無意識の中に留まり続け
「覚醒しない」ことには、必ず理由があるからなのだ
なぜ?私たちはいつも分裂しているのか?でも、すでに書いている様に
もしあなたが、ビジネスパーソンとして、何か野心を達成したいのならば
この〝覚醒〟は、あなたの野心の邪魔になりかねない
だから、
本質的には「孤独や葛藤」を手放し、ラクになるか?
それとも「野心」とともに生きるか?
・・・その選択に私たちは瞬間瞬間迫られている
つまり、
「野心」と「孤独や葛藤」とは切っても切れないなので、
両方を手放すか?両方を持ったまま生きるのか?
どちらかの選択が必要なのだ?
〝手放す〟準備が・・・あなたはもうできている?
OK・・・ だったら読み進めて欲しい・・・
私たちは、
生き続ける以上はなんらかの野心に取り憑かれ続ける、
言い方を変えるなら「自分自身の欠落感にいつまでも追いかけられる」
つまり
「いつかどこか」に命がけの期待と不安を描き、
ある状態、状況、ある特定の物品などを引き寄せようとし
またあるときは排除しよう、回避しようと躍起なのだ
つまり成功法則においては
まず〝断捨離〟・・・
「プライオリティー(優先度、重要度、価値比較)」の明確化が重要なのだ。。。
これができずに 「あ~~」「う~~」っとカソールが砂時計のままだと
人生はあっという間に過ぎ去り、時間を浪費してしまうだろう・・・
充分達成できる時間が与えられても、
二兎も三兎も、追っていては「一兎も得ず」なのである
あなたが「アタマのキレる奴」であり続けるためにはこうでなきゃいけない
それは、「躊躇うことない、素早い比較判断、そして切り捨て」だ
しかし、ここで言いたい
そもそも人々は一体、みんな何処に急いで向かっているのだろうか?
みんながぞろぞろソワソワと、スマフォを覗き込んで
常に情報を眼球にくっつけながら歩いて行く・・・
「生きることの本当の最終目的」っとはなんだろうか?
歩き続ける群衆のひとりを呼び止めて聴いても、たぶん
「人生の目的?・・・ 知らん! アンタ何かの宗教の勧誘かい?」
っと怪訝な顔をされ、そそくさと立ち去っていくのが関の山だろう・・・
実は誰もが一度は考えたことがあるはずだ
しかし、こんな質問はナンセンスだ!
(いや、本当は恐ろしい)
(そんな質問を真剣に問い詰め続けると奈落の底に墜ちていきそうだ!)
かくして、私たちは皆、「そそくさと歩いて行く群衆のひとり」に紛れていき
こんな忌々しい、アブナい質問を忘れる・・・
・・・しかし、時折思い出す、
ふと、 孤独感に取り憑かれたとき、
退屈に置いてきぼりにされたとき
誰か友人や知人や肉親が死んだとき・・・
そして、自分の人生に突然、虚無感や焦燥感が襲ってきて
自分の今までの努力が全て虚しく見えたとき、
自分自身が、「生きるに値しないの存在なのでは?」と問うたとき
可能性と無力感との板挟みにあって苦悩に陥ったとき・・・
そんなとき、私たちはサルの時代からやっていた様に、誰かにハグを求める
誰かに優しさを求める、励ましと慰めを望む。
そしてそれらを恒久的に〝保管〟〝供給〟するために、
友人や同志、恋の相手や結婚、家族、肉親の絆を求める
遂にはこれらを守るために家伝の宝刀、〝愛〟という言葉を使う・・・
にもかかわらずこれらが思う様に得られない時、
その孤立した状況を悲嘆したときに〝孤独感〟を抱くのだ
これら〝連帯感〟への忠誠こそが、宗教組織や国家と成っていった
なにかに〝帰属すること〟・・・そこにわたしたちは安らぎを求めた
〝外の世界〟と隔てられた内輪の世界・・・
これが強固な価値体系になった
しかしこの連帯感が本当に、私たちを幸福にするのか?
「外敵」が存在するときには確かに「なかまたち」とは心強い
世間の冷たい風に対し、血を分けた肉親同士の結束は、水よりも濃かった
でももし?世界が狭くなり、
人々の心が人種も国境も越えて
大きな平和を築きたいと真剣に願いはじめたら???
国家という巨大なチームに分かれて最新の科学兵器で互いに殺戮し合うことが
なぜ完全に終わらないのか?人々が真剣に考えはじめたなら?
そのときは、今までの宗教、いままでの国家の枠組みはどうなるだろうか?
「枠組み」は、その役目とともに、静かに引退するだろうか?
・・・・それは到底期待出来ない
そしてこの〝葛藤〟〝相克〟は、ひとりひとりのこころの中のものとなる
「枠組みを取っ払いたい」 「いや、それはまだ早急なのじゃないだろうか?」
「世界にはまだまだ悪い奴も一杯居るし・・・」
それは国家レベルから家族の単位、そして個人の思考の中の生き様の葛藤としてもあらわれる
わたしたちはずっと、「プライオリティー」を決定し、「断捨離」し、「比較選択」し、「所属」して
社会を集積化してきた・・・確かに今まではそれで上手くいった部分もある
この方法論は確かに今後も効率的ではあるだろう
・・・でもこれらの〝集積化〟に本当に個々人の人生の着地点はあるのだろうか?
少なくとも今までは、個人はこれらの社会の集積化のために捧げてきたし
それを、個々人は大して疑問にも感じなかった
「大なるもののためには小の切り捨てはやむを得ない」
「むしろそれを個人の生き甲斐として喜べ・・・」
しかしいまさら赤紙をもらって、喜んで神風特攻する人達が何人居るだろうか?
〝集積化〟の究極点・・・ それは、〝個人=StandAlone〟の誕生である
それは、〝民主主義〟という大義名分にも矛盾しない
では、なぜわたしたちがなかなかAloneに目覚められないのか?
それが今夜、気が付いた法則だった
それは、人間関係に「プライオリティー=優劣」を付けていることにある!
ひとりひとりの存在とは、大義名分ではなく、比較を絶してユニークである様に
その「ユニークな個人」同士の、その瞬間瞬間の関係性もまた
「ユニークで比較を絶して」いるのだ!
現実社会としては、確かに私たちは平等ではないし、
ユニークである以上、TPOによって皆がそれぞれ
持ち場も、役割、階級、責任も、 違って当然なのだ
しかしトータルな意味での「存在価値」と言うことに関しては、
誰も、何も、言えない・・・
当の本人でさえ・・・
自分が宇宙でどんな存在なのか? 分からないのだ
そういう意味において、この全宇宙における、全ての存在同士は
等距離で繋がっている
あるいは
その距離は比較できない
確かにあなたには、現実生活では
敵もいれば味方もいるかもしれない
仲間も居れば、部外者も居る
イヤな奴も居れば、好きな人もいるだろう・・・
・・・それはそれでいい
しかし内奥での繋がりは、その距離は比較不能なのだ・・・
この時、バシャールが言う
「全てが全ての人に結婚している」
っという状況の、少なくともその深いコンセプトは見えてくるのだ
OSHOは
「愛というのは特定の対象に対して絞り込んで考えたときにおかしくなる」
っと発言していたが、愛とは、「誰かと誰かが永遠にくっついてます」という
宣言に使われるべき言葉ではないのだ
・・・それは保証書に押された判子ではない
OSHOは
「無になった人同士が出会った時、愛は可能だ」とも言っていたが
つまり〝無〟とは、「何も物理的に存在していない」っと言うことなのではない
完全に自然の中に溶け込み、その人工的な定義を持っていない状態のことなのだ
別の言い方をするならば、
〝無〟とはすべての存在と等距離で繋がっている状態だ・・・・っとも言える
・・・もしそうであれば、
・・・・私たちの内奥の実存が皆、相互に等間隔でフラットに繋がっているのなら?
どうして私たちは孤独でいられるだろう?
葛藤していられるだろうか?
しかし、冷静になってみればこの気づきの基本型は一年以上も前にすでに得られていた
今回の〝気づき〟はこの〝応用編〟だった・・・
この記事を読んでいただく前に警告したい
あなたは本当に自分自身の孤独と葛藤を終わらせたいと
切に望んでいるのだろうか?
なぜならば、
「覚醒する」ことには理由は不要なのだが
人が無意識の中に留まり続け
「覚醒しない」ことには、必ず理由があるからなのだ
なぜ?私たちはいつも分裂しているのか?でも、すでに書いている様に
もしあなたが、ビジネスパーソンとして、何か野心を達成したいのならば
この〝覚醒〟は、あなたの野心の邪魔になりかねない
だから、
本質的には「孤独や葛藤」を手放し、ラクになるか?
それとも「野心」とともに生きるか?
・・・その選択に私たちは瞬間瞬間迫られている
つまり、
「野心」と「孤独や葛藤」とは切っても切れないなので、
両方を手放すか?両方を持ったまま生きるのか?
どちらかの選択が必要なのだ?
〝手放す〟準備が・・・あなたはもうできている?
OK・・・ だったら読み進めて欲しい・・・
私たちは、
生き続ける以上はなんらかの野心に取り憑かれ続ける、
言い方を変えるなら「自分自身の欠落感にいつまでも追いかけられる」
つまり
「いつかどこか」に命がけの期待と不安を描き、
ある状態、状況、ある特定の物品などを引き寄せようとし
またあるときは排除しよう、回避しようと躍起なのだ
つまり成功法則においては
まず〝断捨離〟・・・
「プライオリティー(優先度、重要度、価値比較)」の明確化が重要なのだ。。。
これができずに 「あ~~」「う~~」っとカソールが砂時計のままだと
人生はあっという間に過ぎ去り、時間を浪費してしまうだろう・・・
充分達成できる時間が与えられても、
二兎も三兎も、追っていては「一兎も得ず」なのである
あなたが「アタマのキレる奴」であり続けるためにはこうでなきゃいけない
それは、「躊躇うことない、素早い比較判断、そして切り捨て」だ
しかし、ここで言いたい
「ラクになるのと、幸せになるのは・・・ 別やった・・・」
『地球少女アルジュナ』の一シーンより
『地球少女アルジュナ』の一シーンより
そもそも人々は一体、みんな何処に急いで向かっているのだろうか?
みんながぞろぞろソワソワと、スマフォを覗き込んで
常に情報を眼球にくっつけながら歩いて行く・・・
「生きることの本当の最終目的」っとはなんだろうか?
歩き続ける群衆のひとりを呼び止めて聴いても、たぶん
「人生の目的?・・・ 知らん! アンタ何かの宗教の勧誘かい?」
っと怪訝な顔をされ、そそくさと立ち去っていくのが関の山だろう・・・
実は誰もが一度は考えたことがあるはずだ
しかし、こんな質問はナンセンスだ!
(いや、本当は恐ろしい)
(そんな質問を真剣に問い詰め続けると奈落の底に墜ちていきそうだ!)
かくして、私たちは皆、「そそくさと歩いて行く群衆のひとり」に紛れていき
こんな忌々しい、アブナい質問を忘れる・・・
・・・しかし、時折思い出す、
ふと、 孤独感に取り憑かれたとき、
退屈に置いてきぼりにされたとき
誰か友人や知人や肉親が死んだとき・・・
そして、自分の人生に突然、虚無感や焦燥感が襲ってきて
自分の今までの努力が全て虚しく見えたとき、
自分自身が、「生きるに値しないの存在なのでは?」と問うたとき
可能性と無力感との板挟みにあって苦悩に陥ったとき・・・
そんなとき、私たちはサルの時代からやっていた様に、誰かにハグを求める
誰かに優しさを求める、励ましと慰めを望む。
そしてそれらを恒久的に〝保管〟〝供給〟するために、
友人や同志、恋の相手や結婚、家族、肉親の絆を求める
遂にはこれらを守るために家伝の宝刀、〝愛〟という言葉を使う・・・
にもかかわらずこれらが思う様に得られない時、
その孤立した状況を悲嘆したときに〝孤独感〟を抱くのだ
これら〝連帯感〟への忠誠こそが、宗教組織や国家と成っていった
なにかに〝帰属すること〟・・・そこにわたしたちは安らぎを求めた
〝外の世界〟と隔てられた内輪の世界・・・
これが強固な価値体系になった
しかしこの連帯感が本当に、私たちを幸福にするのか?
「外敵」が存在するときには確かに「なかまたち」とは心強い
世間の冷たい風に対し、血を分けた肉親同士の結束は、水よりも濃かった
「自分はなぜ生まれてきたのか?」
その答えが見つけるガッツもなく、ただ無意識にセックスをして子を作った親たちは
その無意識を子にも押し付け、自分たちを慰める
そしてこころの中でつぶやく・・・
「私は子供を愛している それが人生の目的だった」、っと
その答えが見つけるガッツもなく、ただ無意識にセックスをして子を作った親たちは
その無意識を子にも押し付け、自分たちを慰める
そしてこころの中でつぶやく・・・
「私は子供を愛している それが人生の目的だった」、っと
でももし?世界が狭くなり、
人々の心が人種も国境も越えて
大きな平和を築きたいと真剣に願いはじめたら???
国家という巨大なチームに分かれて最新の科学兵器で互いに殺戮し合うことが
なぜ完全に終わらないのか?人々が真剣に考えはじめたなら?
そのときは、今までの宗教、いままでの国家の枠組みはどうなるだろうか?
「枠組み」は、その役目とともに、静かに引退するだろうか?
・・・・それは到底期待出来ない
そしてこの〝葛藤〟〝相克〟は、ひとりひとりのこころの中のものとなる
「枠組みを取っ払いたい」 「いや、それはまだ早急なのじゃないだろうか?」
「世界にはまだまだ悪い奴も一杯居るし・・・」
それは国家レベルから家族の単位、そして個人の思考の中の生き様の葛藤としてもあらわれる
わたしたちはずっと、「プライオリティー」を決定し、「断捨離」し、「比較選択」し、「所属」して
社会を集積化してきた・・・確かに今まではそれで上手くいった部分もある
この方法論は確かに今後も効率的ではあるだろう
・・・でもこれらの〝集積化〟に本当に個々人の人生の着地点はあるのだろうか?
少なくとも今までは、個人はこれらの社会の集積化のために捧げてきたし
それを、個々人は大して疑問にも感じなかった
「大なるもののためには小の切り捨てはやむを得ない」
「むしろそれを個人の生き甲斐として喜べ・・・」
しかしいまさら赤紙をもらって、喜んで神風特攻する人達が何人居るだろうか?
〝集積化〟の究極点・・・ それは、〝個人=StandAlone〟の誕生である
それは、〝民主主義〟という大義名分にも矛盾しない
では、なぜわたしたちがなかなかAloneに目覚められないのか?
それが今夜、気が付いた法則だった
それは、人間関係に「プライオリティー=優劣」を付けていることにある!
ひとりひとりの存在とは、大義名分ではなく、比較を絶してユニークである様に
その「ユニークな個人」同士の、その瞬間瞬間の関係性もまた
「ユニークで比較を絶して」いるのだ!
現実社会としては、確かに私たちは平等ではないし、
ユニークである以上、TPOによって皆がそれぞれ
持ち場も、役割、階級、責任も、 違って当然なのだ
しかしトータルな意味での「存在価値」と言うことに関しては、
誰も、何も、言えない・・・
当の本人でさえ・・・
自分が宇宙でどんな存在なのか? 分からないのだ
そういう意味において、この全宇宙における、全ての存在同士は
等距離で繋がっている
あるいは
その距離は比較できない
確かにあなたには、現実生活では
敵もいれば味方もいるかもしれない
仲間も居れば、部外者も居る
イヤな奴も居れば、好きな人もいるだろう・・・
・・・それはそれでいい
しかし内奥での繋がりは、その距離は比較不能なのだ・・・
この時、バシャールが言う
「全てが全ての人に結婚している」
っという状況の、少なくともその深いコンセプトは見えてくるのだ
OSHOは
「愛というのは特定の対象に対して絞り込んで考えたときにおかしくなる」
っと発言していたが、愛とは、「誰かと誰かが永遠にくっついてます」という
宣言に使われるべき言葉ではないのだ
・・・それは保証書に押された判子ではない
OSHOは
「無になった人同士が出会った時、愛は可能だ」とも言っていたが
つまり〝無〟とは、「何も物理的に存在していない」っと言うことなのではない
完全に自然の中に溶け込み、その人工的な定義を持っていない状態のことなのだ
別の言い方をするならば、
〝無〟とはすべての存在と等距離で繋がっている状態だ・・・・っとも言える
・・・もしそうであれば、
・・・・私たちの内奥の実存が皆、相互に等間隔でフラットに繋がっているのなら?
どうして私たちは孤独でいられるだろう?
葛藤していられるだろうか?
Sarc:o - You Are The One from Marco Bagni LostConversation on Vimeo.